藤堂高虎はなぜ主君を何度も変えた?石高の推移と生涯を年表で解説

戦国武将・藤堂高虎と聞くと、「何度も主君を変えた武将」という印象を持つ方も多いのではないでしょうか。

浅井長政などに仕えた後、豊臣秀吉の弟・秀長に300石で召し抱えられた高虎は、そこで大きく才能を開花させます。
その後は秀吉、さらに徳川家康に仕え、最終的には32万3,950石を領する大大名へと出世しました。

では、藤堂高虎はなぜこれほど主君を変えたのでしょうか。

この記事では、仕えた主君と豊臣秀長との関係、石高の推移、築城の実績や関ヶ原での活躍、家族・子孫まで、年表を交えながら藤堂高虎の生涯を紹介します。

藤堂高虎はなぜ主君を何度も変えた?

藤堂高虎といえば、戦国武将の中でも
**「何度も主君を変えた武将」**
として知られています。

若い頃の高虎は、浅井長政をはじめ、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄(信重)などに仕え、その後に豊臣秀長の家臣となりました。
特に1572年から1575年頃にかけては、短期間に複数の主君のもとを渡り歩いています。

これだけを見ると、
「主君を次々と裏切った武将だったのでは?」
と思うかもしれません。

しかし、戦国時代の主従関係は、江戸時代のように固定されたものではありませんでした。
主家が滅亡したり、自分の働きに見合う待遇を得られなかったりすれば、武士が別の主君を求めることも珍しくありません。

高虎の場合も、単純に主君を裏切り続けたというより、自分の力を発揮できる場所を求めながら戦国の世を生き抜いたと見る方が実像に近いでしょう。
転機となったのが、1576年頃に仕えた豊臣秀長です。

高虎は秀長から
「300石」
で召し抱えられ、その後は戦功を重ねて加増されていきます。
秀長のもとで高虎は武将としてだけでなく、築城や領国経営などの能力も発揮するようになりました。

そして、ここからの高虎は若い頃のように短期間で主君を転々としたわけではありません。
秀長が亡くなった後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の死後には徳川家康との関係を深めていきます。

つまり藤堂高虎の「主君替え」は、大きく二つに分けて考えると分かりやすいです。

①:若い頃
→ 自分を評価してくれる主君を求めて仕官先を変えた時期

②:豊臣秀長以降
→ 主君の死や天下の情勢変化によって仕える相手が変わった時期

最終的に高虎は、わずか300石から出発して32万石を超える大大名へと出世しました。

「主君を何度も変えた」
という部分だけを見ると不忠義な武将にも見えますが、別の角度から見れば、自分の能力を
「評価してくれる主君」
を見極め、激動する時代に適応した武将だったともいえます。

藤堂高虎が仕えた主君を一覧で紹介

主君の変遷を大まかに整理すると、次のようになります。

順番主君高虎との関係・経緯
1浅井長政若き藤堂高虎が仕え、姉川の戦いにも参加しました。
2阿閉貞征浅井氏滅亡後に仕えたとされます。
3磯野員昌近江の武将で、高虎は短期間そのもとに仕えました。
4織田信澄(信重)織田信長の甥にあたり、高虎はここでも短期間仕えています。
5豊臣秀長高虎にとって最大の転機。300石で召し抱えられ、その後の出世につながりました。
6豊臣秀吉秀長の死後、豊臣秀吉直属の大名として仕えました。
7徳川家康関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その後は徳川政権を支える大名となりました。

こうして一覧にすると、7人もの主君に仕えたことになります。

ただし、高虎の人生を大きく変えたのは間違いなく豊臣秀長でした。
それまで仕官先を転々としていた高虎が、秀長に仕えてから急速に出世していくからです。

藤堂高虎と豊臣秀長の関係|300石から始まった出世

藤堂高虎の人生を大きく変えた人物が、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長です。

それまで高虎は浅井長政をはじめ、複数の主君に仕えながら自分の居場所を探していました。
そんな高虎を見いだしたのが秀長で、津市の資料では
「300石」
で召し抱えられたとされています。
ここから高虎の本格的な出世が始まりました。

豊臣秀長はなぜ藤堂高虎を重用した?

高虎は体格に恵まれた勇猛な武将でしたが、秀長のもとでは単に戦場で活躍するだけではありませんでした。

合戦で戦功を重ねる一方、築城や領国経営などでも力を発揮し、秀長から信頼を得ていきます。
1583年の賤ヶ岳の戦いでは戦功を挙げ、秀吉から1,000石、秀長から300石を加増され、
「4,600石」
となりました。
さらに1585年には紀州平定や四国攻めでの功績によって5,400石を加増され、
「1万石」
に達し、大名への道を大きく開きました。

つまり高虎は、秀長に仕えてから約10年ほどの間に、

300石の家臣 → 1万石の大名格

へと急速に出世したことになります。

秀長のもとで築城の才能も開花

1585年、高虎は豊臣秀長の和歌山城築城で築城奉行を務めました。

後に高虎は
「築城の名手」
として知られるようになりますが、その才能が大きく発揮され始めた時期も、秀長に仕えていた頃でした。
戦場で武功を挙げるだけでなく、

  • ・城を築く
    ・領地を治める
    ・家臣をまとめる
    ・主君の命を確実に実行する

といった実務能力を持っていたことが、高虎が重用された理由の一つと考えられます。

2万石の大名へ出世

1587年の九州平定では、秀長軍の先鋒として島津氏と戦いました。

その戦功によって従五位下・佐渡守に叙任され、さらに1万石を加増されて
「紀州粉河2万石」
の領主となり、初めて大名となりました。
300石から始まった秀長との主従関係は、わずか十数年で2万石まで成長したことになります。

高虎にとって豊臣秀長との出会いは、まさに人生の転機でした。

秀長の死後も豊臣家に仕え続けた

1591年に豊臣秀長が亡くなると、高虎はその後継者である秀保を支え、後見役を務めています。

若い頃には主君を何度も変えた高虎でしたが、秀長に仕えてからは簡単に主家を離れたわけではありません。
滋賀県も、高虎が秀長の死後も豊臣家に仕え続けた背景には、秀長への強い信頼があったと考えられると紹介しています。

この点を見ると、藤堂高虎を単純に
「主君を次々と替えた武将」
と見るだけでは、その人物像を十分に説明できません。

自分を評価してくれた秀長には長く仕え、その死後も豊臣家を支え続けた。
ここに、高虎と豊臣秀長の関係の深さが表れているように思います。

そして高虎の出世は、まだここで終わりません。

秀長に300石で召し抱えられた高虎は、その後、豊臣秀吉、さらに徳川家康のもとで出世を続け、最終的には
「32万3,950石」
を領する大大名へと上り詰めました。

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藤堂高虎の石高の推移|300石から32万石へ

藤堂高虎の生涯で特に目を引くのが、石高の増え方です。

1576年に豊臣秀長へ仕えたときはわずか300石でしたが、戦功を重ねながら加増され、最終的には
「32万3,950石」
を領する大大名まで上り詰めました。津市の資料でも、この石高の推移を高虎の生涯とともに確認できます。

まず、その出世の過程を見てみましょう。

藤堂高虎の石高の推移一覧

年代石高主君・立場主な出来事
1576年300石豊臣秀長秀長に召し抱えられる
1580年3,300石豊臣秀長三木城攻めなどの戦功で加増
1583年頃4,600石豊臣秀長賤ヶ岳の戦いなどで加増
1585年頃1万石豊臣秀長紀州平定などの功績で大名格へ
1587年2万石豊臣秀長九州平定後、紀伊粉河2万石
1595年7万石豊臣秀吉伊予三郡を与えられる
1600年以降約20万石徳川家康関ヶ原の戦功などにより大幅加増
1608年22万3,950石徳川家康伊賀・伊勢へ転封され、初代津藩主となる
1616年頃27万3,950石徳川政権大坂の陣後などに加増
1617年32万3,950石徳川政権津藩の石高が確定

※石高や加増の時期には資料によって表記の違いがあります。上表は高虎の出世の流れが分かるよう、おおよその推移として整理しています。

300石から1万石|豊臣秀長のもとで大名へ

高虎の出世が本格的に始まったのは、やはり豊臣秀長に仕えてからです。

1576年に300石で召し抱えられた高虎は、1580年には戦功によって3,000石を加増され、3,300石となりました。
さらに賤ヶ岳の戦いなどで功績を挙げて加増され、1585年頃には1万石に到達します。

戦国時代では一般に1万石以上の領地を持つ武将を大名とみなすことが多いため、

300石の家臣 → 1万石の大名

という大きな壁を、高虎は秀長のもとで越えたことになります。
1587年にはさらに加増され、
「紀伊粉河2万石」
の大名となりました。

豊臣秀吉のもとで7万石へ

1591年に秀長が亡くなった後、高虎は後継者の秀保を支えました。

しかし1595年に秀保が亡くなって秀長家が断絶すると、高虎はいったん高野山へ隠遁します。
その高虎を再び呼び戻したのが豊臣秀吉でした。

秀吉の家臣となった高虎は伊予三郡を与えられ、7万石の大名となります。
300石から考えれば、この時点ですでに約230倍です。

関ヶ原後には約20万石の大大名へ

秀吉の死後、高虎は徳川家康との関係を深め、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍として戦いました。

その功績などによって伊予今治を中心に約20万石を領する大名へと成長します。
そして1608年、家康の命によって伊予から伊賀・伊勢へ移り、初代津藩主となりました。

この時点で伊予の領地などと合わせて22万3,950石となります。

*豊臣恩顧の大名では、藤堂高虎だけでなく福島正則らも徳川家康率いる東軍に加わりました。

最終的には32万3,950石へ

高虎は大坂冬の陣・夏の陣でも徳川方として戦いました。
その後も加増を受け、1617年にはついに、

32万3,950石

に達します。
津市は、この時点で津藩の石高が確定したとしています。
最初に秀長から与えられたのは300石です。

それが最終的には32万3,950石ですから、単純に比較すると1,000倍以上になったことになります。
藤堂高虎が「戦国一の出世頭」の一人として語られるのも、この数字を見ると納得できます。

ただ、高虎の出世は単に主君を上手に乗り換えた結果ではありません。
戦場での武功に加えて、築城、領国経営、外交、主君との信頼関係など、時代が求める能力を持っていたことが、300石から32万石へ上り詰めた大きな理由だったのでしょう。

*家康には本多忠勝ら譜代の重臣がいましたが、高虎は外様でありながら厚い信頼を得た点が特徴的です。
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関連記事
戦国大名の石高と動員できる兵力の関係については、こちらで大名別に比較しています。

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藤堂高虎の生涯を年表で紹介

藤堂高虎は1556年(弘治2年)、近江国犬上郡藤堂村付近に生まれたとされています。

若い頃は浅井長政に仕え、姉川の戦いにも参加。その後は複数の主君を渡り歩きましたが、豊臣秀長との出会いをきっかけに人生が大きく変わります。
秀長のもとで武将として頭角を現し、築城や領国経営でも能力を発揮。
秀長・秀吉の死後は徳川家康との関係を深め、関ヶ原の戦いや大坂の陣を経て、伊勢・伊賀を領する大大名となりました。

高虎の75年の生涯を年表で見てみましょう。

藤堂高虎の生涯年表

年齢主な出来事
1556年1歳近江国犬上郡藤堂村付近に生まれる
1570年15歳浅井長政に仕え、姉川の戦いに参加
1573年18歳浅井氏滅亡後、仕える主君を転々とする
1576年21歳豊臣秀長に300石で仕える
1583年28歳賤ヶ岳の戦いなどで戦功を挙げる
1585年30歳紀州平定・四国攻めで活躍し、和歌山城築城にも関わる
1587年32歳九州平定で活躍し、紀伊粉河2万石の大名となる
1591年36歳豊臣秀長が死去。秀長の後継者・秀保を支える
1595年40歳秀保死去後に一時隠遁。その後、豊臣秀吉に召し出され伊予7万石
1597年42歳朝鮮出兵に参加
1598年43歳豊臣秀吉が死去。徳川家康との関係を深める
1600年45歳関ヶ原の戦いで東軍として戦う
1608年53歳伊賀・伊勢へ転封され、津藩主となる
1614年59歳大坂冬の陣に徳川方として参戦
1615年60歳大坂夏の陣に参戦
1617年62歳32万3,950石となり、藤堂家の領国基盤を築く
1630年75歳江戸の藤堂藩邸で死去

※年齢は数え年を基本とした目安です。出来事の年代や表記には史料によって違いがあります。

高虎の人生を変えた3つの転機

年表を見ると、高虎の人生には大きく3つの転機があったことが分かります。

第一は、豊臣秀長との出会いです。
若い頃は仕官先を転々としていましたが、秀長に300石で召し抱えられてから状況が一変します。
戦功を重ねるだけでなく築城や領国経営でも能力を発揮し、大名へと出世しました。

第二は、豊臣秀長・秀吉の死です。

秀長の死後も豊臣家に仕えましたが、秀吉が亡くなると天下の情勢は大きく変化します。
高虎は徳川家康との関係を深め、1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に加わりました。

そして第三が、徳川家康との関係です。

関ヶ原後も家康から重用され、1608年には伊賀・伊勢へ転封。津藩主となり、最終的には32万3,950石を領する大大名となりました。
こうして生涯を通して見ると、藤堂高虎は単に「主君を何度も変えた武将」だったのではなく、戦国から江戸へと時代そのものが大きく変わる中で、その変化に対応し続けた武将だったことが分かります。

藤堂高虎はなぜ徳川家康に仕えた?二人の関係とは

藤堂高虎の生涯を見ると、大きな疑問が一つあります。

豊臣秀長に見いだされ、300石から大名へと出世した高虎が、なぜ最後には徳川家康の重臣ともいえる立場になったのでしょうか。
高虎は秀長の死後もすぐに豊臣家を離れたわけではありません。
秀長の後継者・秀保を支え、秀保が亡くなった後には豊臣秀吉の直属となりました。

大きな転機となったのは、1598年の豊臣秀吉の死です。

津市の資料では、秀吉の死後に高虎は家康に仕えたとされ、関ヶ原の戦い、大坂の陣で戦功を挙げ、家康から厚い信頼を得たことが紹介されています。

豊臣秀長への恩義と徳川家康への接近は別に考える

ここで重要なのは、高虎が豊臣秀長を見限って徳川家康へ走ったわけではないことです。

秀長は1591年に死去し、その後を継いだ秀保も1595年に亡くなりました。
高虎は一時、高野山へ隠遁しますが、秀吉に求められて再び豊臣家に仕えています。
つまり、秀長の死後も豊臣家との関係を続けていたのです。

滋賀県も、高虎が秀長の死後も豊臣家に仕え続けた背景には、秀長への強い信頼があったと考えられると紹介しています。
その秀吉まで亡くなると、豊臣政権を取り巻く状況は大きく変化しました。
そこで高虎が接近したのが徳川家康でした。

ですから、

「豊臣秀長を裏切って家康についた」

と考えるより、

「秀長、秀保、秀吉と主君を失い、次の時代を徳川家康に託した」

と考えた方が、高虎の生涯の流れには合っています。

関ヶ原の戦いで家康側についた藤堂高虎

1600年の関ヶ原の戦いでは、高虎は徳川家康率いる東軍に加わり石田三成を中心とする西軍と戦いました。

高虎は戦場で戦っただけではなく、西軍側の武将への働きかけなど、戦いが始まる以前から家康側で行動していたことでも知られています。
そして東軍が勝利すると、高虎は戦功によって加増され、伊予国今治を中心とする20万石の大名へと大きく出世します。

300石から始まった高虎が、ついに20万石の大大名となったわけです。

家康はなぜ藤堂高虎を重用した?

家康が高虎を高く評価した理由は、戦場での強さだけではなかったと考えられます。

高虎には、

  • ・合戦での指揮能力
    ・築城の技術
    ・領国経営
    ・情勢を判断する能力
    ・命じられた仕事を実行する実務能力

がありました。

特に高虎の築城能力は徳川政権でも重宝されます。
家康の命によって膳所城、丹波亀山城、江戸城、丹波篠山城など、多くの城の築城・修築に携わりました。
滋賀県も、関ヶ原後に家康が高虎に最初に築かせた城として膳所城を紹介しています。

単なる武将ではなく、新しい徳川の時代を実際に形にできる人物だったことが、高虎の大きな強みだったのでしょう。
外様大名なのに家康から厚く信頼された
藤堂高虎は、徳川家に代々仕えてきた譜代大名ではありません。

分類上は外様大名です。

それにもかかわらず、1608年には伊予今治から伊賀・伊勢へ転封され、津藩主となりました。
この配置も重要です。
津市は、高虎が
**「外様大名ながら大坂方をにらむ要衝の地」**
に置かれたと説明しています。

つまり家康は、大坂城に豊臣秀頼がいる状況で、その周辺の重要地域を高虎に任せたことになります。
これは家康からの信頼が相当に厚かったことを示しているでしょう。

大坂の陣では豊臣家と戦うことに

そして高虎の人生で象徴的なのが、1614年の大坂冬の陣と1615年の大坂夏の陣です。

かつて豊臣秀長に仕え、秀吉にも仕えた高虎が、今度は徳川方として豊臣家と戦うことになりました。
大坂の陣でも高虎は徳川方の先鋒として戦い、その後さらに加増されます。最終的には
「32万3,950石」
の大名へと上り詰めました。

若い頃には主君を何度も変え、豊臣秀長との出会いによって才能を開花させ、最後には徳川家康から絶大な信頼を得る――。
藤堂高虎の生涯は、戦国から豊臣政権、そして徳川の時代へと移り変わる日本そのものを映しているようにも感じます。

そして家康が高虎を重用した大きな理由の一つが、先ほど触れた**「築城」**です。

築城の名手・藤堂高虎が手掛けた城

藤堂高虎は、戦国武将としてだけでなく、**「築城の名手」**としても知られています。

滋賀県は、高虎が日本各地に多くの城を築き、その堅牢な設計が「高虎流築城術」として後世に伝えられたと紹介しています。
また津市も、徳川家康の命によって膳所城・丹波亀山城・江戸城・丹波篠山城など、数多くの築城や修築に携わったとしています。

では、藤堂高虎はどのような城を手掛けたのでしょうか。

藤堂高虎が築いた今治城のイメージ

藤堂高虎が築城した今治城。海水を引き入れた堀を持つ海城として知られ、高虎の築城技術を象徴する城のひとつです。

今治城|海水を堀に引き入れた海城

藤堂高虎を代表する城の一つが、愛媛県今治市の今治城です。

関ヶ原の戦いの戦功によって伊予半国20万石を領した高虎は、1602年に築城を開始しました。
今治市によると、建物まで含めた完成は1608年頃と推測されています。
今治城の大きな特徴は、瀬戸内海に面した立地を生かして海水を堀へ引き入れたことです。
さらに城内には船が直接出入りできる大規模な船入も設けられており、今治市は「日本屈指の海城」と紹介しています。

戦うための城というだけでなく、海上交通や物流まで考えられた城だったことが分かります。

藤堂高虎が改修した伊賀上野城のイメージ

藤堂高虎が大規模な改修を進めた伊賀上野城。特に高い石垣で知られ、高虎の築城術を今に伝えています。

伊賀上野城|約30メートルの高石垣

三重県伊賀市の伊賀上野城も、高虎を象徴する城の一つです。

現在の上野城は、1611年に高虎がそれまでの城地を大きく拡張したものです。
特に有名なのが内堀の高石垣。
伊賀市によると、高虎が築いた石垣は高さ約30メートルに達し、日本有数の高さを誇ります。

高虎が伊賀・伊勢へ転封されたのは、大坂城の豊臣方を警戒する徳川政権にとって重要な意味を持っていました。
そのため伊賀上野城は、西からの攻撃を想定した堅固な城として整備されたと考えると、高虎に求められていた役割も見えてきます。

津城|城と城下町を一体で整備

1608年、高虎は伊予今治から伊賀・伊勢へ移り、津城を本拠としました。

高虎は城そのものを整備するだけでなく、城下町の再編にも取り組みます。
津市によると、それまで城下の東側を通っていた伊勢街道を城下へ取り込み、津の町を城下町であると同時に宿場町としても発展させました。
つまり高虎の築城は、

「城だけを造る」のではなく、「町そのものを設計する」

ところまで含んでいたわけです。

藤堂高虎が改修した津城のイメージ

伊予から伊勢・伊賀へ移った藤堂高虎が改修した津城。津藩の本拠として、その後の藤堂家の中心となりました。

膳所城・丹波亀山城・篠山城・江戸城にも関与

高虎は自分の居城だけを造ったわけではありません。

徳川家康から築城能力を高く評価され、各地の重要な城の築城・修築にも関わりました。
津市が高虎の関与を紹介している代表例には、

・膳所城
・丹波亀山城
・丹波篠山城
・江戸城

などがあります。

さらに津市の資料では、二条城の築城でも高虎が縄張りを担当したことが紹介されています。
高虎は単なる一大名でありながら、徳川政権の重要拠点となる城づくりを任されていたことになります。

なぜ藤堂高虎は「築城の名手」と呼ばれた?

藤堂高虎の城づくりには、いくつか特徴があります。

まず、高い石垣を生かした強固な防御。
伊賀上野城の高石垣はその代表例です。
次に、今治城のように海や水を巧みに利用した縄張り。

そして津城のように、城だけでなく道路や城下町まで含めて整備する都市計画的な視点です。
さらに重要なのは、築城する土地の目的に応じて城を造り分けていたことです。

・海上交通の拠点なら今治城。
・大坂方面への備えなら伊賀上野城。
・幕府の政治的中心なら江戸城。

高虎は同じ形の城を各地に造ったのではなく、その土地に何が必要なのかを考えて城を設計できる実務家だったのでしょう。
戦場で槍を振るうだけでなく、城を築き、町を造り、領国を治める。

藤堂高虎が300石の武将から32万石を超える大大名へ出世できた理由の一つは、こうした
「戦争が終わった後にも必要とされる能力」
を持っていたことにあったのではないでしょうか。

*戦国武将には、藤堂高虎のほかにも加藤清正など築城で高く評価された人物がいます。

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藤堂高虎の家系図|妻・子供・子孫は?

藤堂高虎は戦国の世を生き抜き、最終的には津藩32万石を超える大大名となりました。

では、その藤堂家は高虎の死後どうなったのでしょうか。
高虎の父は藤堂虎高。
津市によると、高虎は1556年に近江国犬上郡藤堂村で虎高の次男として生まれました。

高虎には正室・久芳院と、のちに妻となった松寿院がおり、跡継ぎとなった藤堂高次のほか、養子の藤堂高吉などがいました。
家系を追っていくと、津藩だけでなく久居藩や名張藤堂家へとつながっていきます。

藤堂高虎の簡単な家系図

家系を分かりやすくすると、次のようになります。

藤堂虎高

藤堂高虎
├── 正室:久芳院
│   └── 養子:藤堂高吉
│       └── 名張藤堂家へ

└── 松寿院
├── 藤堂高次
│   ├── 藤堂高久 → 津藩3代藩主
│   └── 藤堂高通 → 久居藩初代藩主

├── 藤堂高重
└── 女子

※家系については史料によって子女の扱いや人数に違いがあります。
ここでは主要人物を中心に簡略化しています。
『鳥取城調査研究年報』掲載の「藤堂高虎関係略系図」
では、高虎と久芳院・松寿院、高次・高重・高吉、さらに高次から高久・高通へ続く関係が確認できます。

正室・久芳院との間に実子はいなかった

藤堂高虎の正室は、一色義直の娘・久芳院です。

高虎がまだ豊臣秀長に仕えていた時代に妻となりましたが、二人の間には実子が生まれませんでした。
そこで高虎は、丹羽長秀の三男であった藤堂高吉を養子に迎えています。

高吉はもともと豊臣秀長の養子となっていた人物で、のちに高虎の養子となり、一時は高虎の後継者とされました。
ここにも高虎と豊臣秀長との深い関係が見えてきます。

松寿院との間に跡継ぎ・藤堂高次が誕生

高虎の家系に大きな変化が起きたのが、松寿院との間に藤堂高次が生まれたことです。

研究資料では、松寿院は長連久の娘で、宮部継潤と死別した後の1599年に高虎へ再嫁。1601年に板島城で高次を産んだとされています。
高次が誕生すると、それまで後継者だった養子・高吉に代わって、高次が藤堂宗家の後継者となりました。

高虎が1630年に亡くなると、藤堂高次が津藩2代藩主となり、父が築いた藤堂家を引き継ぎます。

養子・藤堂高吉はどうなった?

高吉は丹羽長秀の三男として生まれ、豊臣秀長の養子を経て、高虎の養子となりました。

高虎に実子がいなかった時期には後継者とされていましたが、高次が誕生したことで宗家を継ぐことはありませんでした。
その後、高吉の家系は名張藤堂家として続いていきます。
つまり藤堂家は、

高次 → 津藩藤堂家

高吉 → 名張藤堂家

という二つの大きな流れへ分かれていったことになります。

藤堂高次の子から津藩と久居藩へ

さらに興味深いのが高虎の孫の世代です。
2代藩主・藤堂高次の子には、

・藤堂高久
・藤堂高通

がいました。
高久は父・高次の跡を継いで津藩3代藩主となります。
一方の高通は、津藩から分かれて久居藩の初代藩主となりました。

つまり高虎から始まった藤堂家は、

  • ・津藩藤堂家
    ・久居藩藤堂家
    ・名張藤堂家

へと広がっていったわけです。

藤堂家はその後どうなった?

藤堂高虎が築いた津藩は、高虎の死後も藤堂家によって治められ、江戸時代を通して存続しました。

これは高虎の人生を考えるうえで重要だと思います。
戦国武将の中には一代で巨大な領地を築きながら、子供や孫の時代に改易・減封されて消えていった家も少なくありません。
それに対して藤堂高虎は、自分自身が300石から32万石を超える大名へ出世しただけでなく、次の世代が統治できる大名家まで残したことになります。

戦で勝つだけでなく、城を築き、領国を整備し、家を存続させる。
この点も、藤堂高虎が単なる「世渡り上手な戦国武将」ではなかったことを示しているように思います。

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藤堂高虎の生涯を振り返った感想とまとめ

藤堂高虎の生涯を振り返ると、「何度も主君を変えた武将」という一言だけでは、とても説明できない人物だったことが分かります。

若い頃は浅井長政など複数の主君に仕えましたが、大きな転機となったのは豊臣秀長との出会いでした。
300石で召し抱えられた高虎は、戦場での武功だけでなく築城や領国経営でも才能を発揮し、やがて大名へと出世します。

秀長の死後も豊臣家に仕え続け、秀吉の死後には徳川家康との関係を深めました。関ヶ原の戦いや大坂の陣では徳川方として戦い、最終的な石高は32万3,950石。300石から考えれば、実に1,000倍を超える大出世です。

高虎がここまで出世できた理由は、単に戦が強かったからではないと思います。
時代の流れを読む力、主君から信頼される実務能力、城を築く技術、領国を治める能力。そして何より、自分を必要としてくれる場所で結果を残し続けたことが大きかったのでしょう。

個人的に興味深く感じるのは、豊臣秀長と徳川家康という、立場も時代も異なる二人から高く評価されたことです。
高虎自身が主君を選んだ面もあったでしょうが、逆に考えれば、優れた主君から「この男は使える」と選ばれ続けた武将でもあったのではないでしょうか。

また、高虎が築いたものは自分一代の石高だけではありません。

今治城や伊賀上野城などに代表される城を残し、津の城下町を整え、藤堂家も高次へ受け継がれて江戸時代を通して存続しました。
戦国時代には華々しい合戦で名を残した武将が数多くいます。しかし藤堂高虎の場合は、戦国時代を生き残っただけでなく、次の江戸時代に必要とされる武将へ自らを変えていったところに、本当のすごさがあるように思います。

・「主君を何度も変えた武将」ではなく、
・「時代が変わっても必要とされ続けた武将」

そう考えると、藤堂高虎という人物の見え方も少し変わってくるのではないでしょうか。

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