片桐且元はなぜ豊臣家を去った?家康との関係とその後を年表で解説

片桐且元(かたぎりかつもと)は、豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは
「賤ヶ岳七本槍」
の一人として知られた戦国武将です。
秀吉の死後も豊臣家を離れず、豊臣秀頼を支える重臣として、徳川家康との交渉など重要な役割を担いました。
ところが、最後には長年仕えてきた豊臣家を去り、大坂城を退去することになります。
そして、その直後に起きたのが大坂の陣でした。
なぜ片桐且元は豊臣家を去ったのでしょうか?
この記事では、豊臣秀吉・秀頼との関係、徳川家康との関係、方広寺鐘銘事件から大坂城退去に至った経緯、石高の推移や家族・子孫、その後まで、年表を交えながら片桐且元の生涯を紹介します。
片桐且元はなぜ豊臣家を去った?
片桐且元の生涯で最も大きな謎といえるのが、長年仕えてきた豊臣家をなぜ最後に去ったのかという点です。
且元は豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは
「賤ヶ岳七本槍」
の一人として知られるようになりました。
秀吉の死後も豊臣家に残り、幼い豊臣秀頼を支える重臣として働きます。
関ヶ原の戦い後には、立場の弱くなった豊臣家と徳川家康との間を取り持つパイプ役も務めていました。
茨木市立文化財資料館も、関ヶ原後の且元について、豊臣家と徳川家の間を取り持つ役割を果たした人物として紹介しています。
ところが1614年、豊臣家の運命を大きく変える事件が起こります。
「方広寺鐘銘事件」
です。
方広寺鐘銘事件が大きな転機に
豊臣秀頼は、秀吉が進めていた京都・方広寺の大仏殿再建を引き継ぎました。
その梵鐘に刻まれた銘文の中に、
- ・「国家安康」
・「君臣豊楽」
という文字がありました。
徳川方は「国家安康」は家康の名を「家」と「康」に分断し、
「君臣豊楽」
は豊臣家の繁栄を願ったものだとして問題視しました。
この方広寺鐘銘事件は、大坂の陣につながる一因となった事件として知られています。
そして、この難しい問題の交渉役を任されたのが片桐且元でした。
豊臣家を守るため家康との交渉へ
且元は徳川家康のいる駿府へ向かい、豊臣家と徳川家の対立を避けるための交渉を行います。
ここが片桐且元という人物を見るうえで非常に重要です。
且元は、この時点で豊臣家を捨てて家康側へ走ったわけではありません。
むしろ豊臣家の重臣として、徳川との全面対決を避け、豊臣家を存続させる方法を探していたと見ることができます。
しかし、この交渉が皮肉な結果を招きました。
且元は徳川側との交渉を踏まえ、豊臣家が生き残るための対応策を大坂へ持ち帰ります。
ところが、その内容が豊臣家内部で問題となりました。
「且元は家康と通じているのでは?」と疑われる
徳川家との交渉を続けてきた且元に対して、大坂城内では次第に不信感が強まっていきました。
- ・「且元は家康寄りなのではないか」
・「豊臣家を裏切ろうとしているのではないか」
という疑いです。
且元にしてみれば、豊臣家を存続させるために家康との交渉を行っていたはずが、その行動そのものによって豊臣方から疑われることになったわけです。
やがて且元の身にも危険が及ぶ状況となり、豊臣家を離れることになります。
1614年10月1日、片桐且元は弟の片桐貞隆とともに大坂城を退去し、自らの居城である茨木城へ入りました。
この大坂城退去については、茨木市の史料整理でも確認できます。
片桐且元は豊臣家を裏切ったのか?
結果だけを見ると、
豊臣家の重臣だった且元が大坂城を去り、徳川方についた
という形になります。
そのため
「片桐且元は豊臣家を裏切った」
と見ることもできます。
しかし、それまでの経緯を追っていくと、それほど単純ではありません。
且元は秀吉の死後も秀頼に仕え、関ヶ原後も豊臣家に残りました。
そして徳川家康との関係が強くなった時代にも、豊臣家と徳川家の間を取り持つ役割を続けています。
つまり、
・豊臣家を守るために徳川家康と交渉した
↓
・家康と交渉するほど豊臣方から疑われる
↓
・大坂城内で居場所を失う
↓
・大坂城を退去
という、何とも皮肉な流れだったわけです。
そして且元が大坂城を退去して間もなく、大坂冬の陣が始まります。
片桐且元が豊臣家を去ったことは、単なる
「主君への裏切り」
というより、豊臣家と徳川家の対立がもはや交渉では収まらないところまで進んでいたことを象徴する出来事だったとも考えられます。
片桐且元と豊臣秀吉の関係|賤ヶ岳七本槍から重臣へ
片桐且元と豊臣秀吉との関係を語るうえで、まず外せないのが1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦いです。
且元はもともと近江の武将で、浅井氏滅亡後に羽柴秀吉へ仕えました。
本能寺の変で織田信長が亡くなると、秀吉と柴田勝家の対立が激しくなり、1583年に賤ヶ岳の戦いが起こります。
この戦いで武功を挙げた若い武将たちが、後に
**「賤ヶ岳七本槍」**
と呼ばれるようになりました。
片桐且元も、その一人です。
滋賀県立図書館の資料では、
「加藤清正・福島正則・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・片桐且元・糟屋武則」
の7人が紹介されています。
賤ヶ岳七本槍として3,000石を与えられる
賤ヶ岳の戦いで功績を認められた且元は、3,000石を与えられました。
宝塚市史にも、1583年6月5日に賤ヶ岳七本槍の軍功によって
「3,000石」
を与えられたことが記されています。
後に加藤清正や福島正則は何十万石という大大名へ出世するため、七本槍というと彼らの印象が強いかもしれません。
しかし片桐且元のその後を見ると、二人とは違った方向で秀吉から必要とされる武将になっていったことが分かります。
賤ヶ岳七本槍には、後に熊本城主となる加藤清正も名を連ねています。また、福島正則も七本槍の一人で、関ヶ原では東軍に加わり大大名へ出世しました。
「槍働き」から実務を担う武将へ

文書と筆を手に田畑を見渡す片桐且元。豊臣家を支えた実務官僚としての姿をイメージしています。※画像はイメージです。
且元は賤ヶ岳だけで活躍した武将ではありません。
その後も九州平定や小田原攻めなど秀吉の天下統一戦に従軍し、朝鮮出兵にも関わりました。
しかし、且元という人物を理解するうえで重要なのは、戦場での武功よりも次第に
「行政や実務の能力」
を発揮するようになったことです。
且元は各地で検地奉行などを務めました。
尼崎市の地域史資料でも、1594年の太閤検地で検地奉行を務めたことが確認できます。
つまり、
賤ヶ岳で槍を持って戦った武将
から、
「豊臣政権を実務で動かす武将」
へと役割が変わっていったわけです。
これは片桐且元の後半生を理解するうえで、とても重要だと思います。
1万石の大名へ出世
且元はその後も秀吉から評価され、1595年(文禄4年)には
「5,800石」
を加増され、茨木城主1万石の大名となりました。
賤ヶ岳で3,000石を与えられた若武者が、約12年後には一国一城を預かる大名となったことになります。
ただ、且元の本当の重要性は石高だけでは測れません。
秀吉晩年になると、且元にはさらに重要な仕事が待っていました。
それが、秀吉の跡継ぎである豊臣秀頼を支えることです。
国立国会図書館が紹介する片桐且元の研究書でも、且元の生涯は賤ヶ岳の戦いから各地への転戦、太閤検地を経て、秀頼の後見や豊臣領の支配へと役割が変化していったことが示されています。
秀吉が且元に残した役割
片桐且元は、加藤清正や福島正則のように巨大な領国を与えられた武将ではありませんでした。
しかし、豊臣政権にとって重要な、
検地・領地支配・普請・寺社関係などの実務を担える人物へ成長していきます。
後には豊臣秀頼のもとで、狭山池の大改修では総奉行を務め、豊臣領の検地にも関わっています。
この経歴を見ると、秀吉が且元に期待していたものは、単なる「賤ヶ岳七本槍の猛将」という役割だけではなかったのでしょう。
戦場で功名を挙げた若武者が、豊臣家を実務面で支える重臣へ変わっていった。
これが片桐且元と豊臣秀吉の関係を見るうえで大きなポイントです。
そして秀吉が亡くなると、且元は豊臣家を離れるのではなく、今度は
「豊臣秀頼」
を支える側へ回ります。
秀吉死後の片桐且元|豊臣秀頼を支えた重臣
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が亡くなると、豊臣家の後継者となったのはまだ幼い豊臣秀頼でした。
片桐且元は秀吉の死を機に豊臣家を離れたわけではありません。
むしろここから、且元は秀頼を支える豊臣家の重臣として重要な役割を担うようになります。
宝塚市史でも、且元は
「秀吉の死後も秀頼を補佐し、豊臣氏を代表して徳川家康と折衝した重要人物」
と位置づけられています。
関ヶ原後も豊臣秀頼に仕え続けた
1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると、豊臣家を取り巻く状況は大きく変わりました。
かつて天下人だった豊臣家は、秀頼を当主として大坂城を本拠とする一大名という立場へと変化していきます。
富田林市史でも、関ヶ原後の秀頼について、摂津・河内・和泉を中心とした領地を持つ大名となったことが説明されています。
それでも且元は秀頼のもとに残りました。
そして単に秀頼のそばに仕えていただけではなく、豊臣家の
・領地経営
・寺社造営
・検地
などの実務を担う中心人物となっていきます。
若い頃に「賤ヶ岳七本槍」として名を挙げた武将が、ここではまったく違う役割を果たしていたわけです。
狭山池の大改修では総奉行を務める

片桐且元は武将としてだけでなく、豊臣政権下で普請や領国経営などの実務を担った人物でもありました。※画像はイメージです。
且元の実務能力がよく分かるのが、1608年(慶長13年)の狭山池大改修です。
豊臣秀頼の命によって行われた大規模な工事で、片桐且元が総奉行を務めました。
大阪狭山市によると、この改修では東樋・中樋・西樋などが整備され、狭山池は当時最大規模となりました。
現在の大阪市方面まで広い地域の農地を潤したとされています。
さらに同じ1608年、且元は富田林などで行われた検地も統括しています。
つまり且元は、武将として戦うだけではなく、
- ・領地を調べる
・農業基盤を整える
・寺社を造営する
・豊臣家の財政や領国を管理する
という、政権運営に近い仕事を担っていました。
寺社造営でも秀頼を支えた
豊臣秀頼は父・秀吉の死後、多くの寺社の再建・修復を行っています。
中山寺、西宮神社、四天王寺、東寺、北野社など、その事業は各地に及びました。
且元もこうした事業に深く関わり、史料には寺社奉行・片桐且元の名が確認できます。
そして後に大坂の陣へつながる京都・方広寺の再建にも関わっていきます。
ここが且元の人生を考えるうえで何とも皮肉なところです。
豊臣家のために寺社造営などの実務を担ってきた人物が、その
「方広寺の鐘」
をめぐる問題によって、最終的には豊臣家を去ることになるからです。
豊臣家と徳川家康をつなぐ役割も
関ヶ原後、政治の実権は徳川家康へ移っていきます。
一方、且元が仕えているのは豊臣秀頼です。
そこで且元には、もう一つ非常に難しい仕事が求められるようになりました。
「豊臣家と徳川家との交渉役」
です。
宝塚市史が且元を
「豊臣氏を代表して徳川家康と折衝した重要人物」
としているのは、この立場をよく表しています。
且元にとっては、
・主君は豊臣秀頼
しかし、
天下の実権を握っているのは徳川家康
という難しい状況です。
豊臣家を存続させようとすれば、家康との交渉は避けられません。
そのため且元は家康との接点を増やしていきます。
ところが後になると、その関係の深さが逆に、
「且元は家康側の人間なのではないか?」
という豊臣家内部からの疑念につながっていきました。
片桐且元の後半生を見ると、秀吉の死後に豊臣家を見限った人物というより、秀頼を支えながら、勢力を拡大する徳川家との間で豊臣家を存続させようとした人物だったことが見えてきます。
*「1600年には石田三成ら西軍と徳川家康率いる東軍が関ヶ原で激突します。」
片桐且元と徳川家康の関係|本当に家康の味方だった?
片桐且元について調べていると、どうしても気になるのが徳川家康との関係です。
豊臣秀頼の重臣でありながら家康との交渉を重ね、最後には大坂城を退去しています。
そのため、
「且元は途中から家康の味方になったのでは?」
という見方もできます。
しかし、且元の行動を時系列で追っていくと、そう単純ではありません。
天下の実権を握った徳川家康と豊臣家との交渉役を務めたのが片桐且元でした。
関ヶ原後も且元の主君は豊臣秀頼だった
1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利すると、天下の実権は急速に徳川家へ移っていきました。
それでも片桐且元は豊臣家を離れず、豊臣秀頼に仕え続けています。
茨木市立文化財資料館も、関ヶ原後の且元を
「豊臣家と徳川家のパイプ役」
を果たした人物として紹介しています。
ここが重要です。
徳川家が天下の実権を握った以上、豊臣家を存続させようとすれば家康との交渉は避けられません。
且元は、
豊臣秀頼の家臣でありながら、
「徳川家康とも話のできる人物」
という非常に難しい立場になったわけです。
家康から加増された?実際には少し複雑
且元と家康の関係を考えるうえで興味深い話があります。
関ヶ原後の1601年、且元は大和国龍田へ移り、所領は合計約2万8,000石となりました。
さらに1612年には1万石の加増があります。
ところが、この1万石は単純に
「家康が且元を取り込むために与えた」
という話ではありません。
『宝塚市史』
によれば、これは豊臣秀頼から与えられた1万石でした。
且元は家康に遠慮して受領を控えており、駿府の家康の許しを得たうえで正式に受け取っています。
これは、当時の且元の立場をよく表していると思います。
主君は秀頼。しかし、家康の意向も無視できない。
豊臣家と徳川家の間に立たされた且元の難しさが、この1万石の話からも見えてきます。
なぜ家康は片桐且元を信用した?
家康にとっても、且元は利用価値の高い人物だったと考えられます。
且元は豊臣家の内部事情をよく知り、秀頼からも重要な仕事を任されていました。
しかも若い頃のような「槍働き」だけの武将ではありません。
- ・検地
・領国経営
・寺社造営
・治水事業
などを経験した実務型の武将です。
さらに豊臣家との交渉が必要になれば、且元を通じて話を進めることができます。
家康にとって且元は、
「豊臣家との重要な交渉窓口」
だったのでしょう。
両方から信頼されることが、逆に弱点になった
ところが、且元にとって皮肉だったのはここです。
徳川家康と交渉できることは、豊臣家にとって本来なら大きな強みでした。
しかし徳川と豊臣の対立が深まるにつれて、
「家康と親しすぎるのではないか?」
という疑いにつながっていきます。
1614年の
「方広寺鐘銘事件」
では、且元は両者の仲介に奔走しました。
しかし対立を収めることはできず、最終的には大坂城内で孤立していきます。
富田林市史でも、且元が仲介に努めたものの解決には至らず、大坂城を退去した経緯が記されています。
そして1614年10月1日、且元は弟・貞隆とともに大坂城を退去しました。
片桐且元は家康の味方だったのか?
私はここは、
「最初から家康の味方だった」
と考えない方が自然だと思います。
且元は関ヶ原後も秀頼に仕え、秀頼領の支配にも関わり、秀頼から加増まで受けています。
一方で、現実に天下を動かしているのは徳川家康でした。
豊臣家を存続させるためには、家康との関係を壊すわけにもいきません。
つまり且元は、
「豊臣家への忠誠」
と
「徳川家康との現実的な関係」
の両方を維持しようとした人物だったのでしょう。
ところが徳川と豊臣の対立が決定的になると、
「両者の橋渡し役」
であること自体が成り立たなくなった。
ここに片桐且元の悲劇があったように思います。
そして、その関係を完全に壊したのが方広寺鐘銘事件です。
方広寺鐘銘事件とは?片桐且元が大坂城を去るまで

方広寺鐘銘事件は豊臣家と徳川家の対立を決定的にした出来事のひとつ。片桐且元は徳川家康との交渉に奔走しました。※画像はイメージです。
片桐且元の人生を大きく変え、やがて大坂の陣へとつながっていくのが、1614年(慶長19年)の
「方広寺鐘銘事件」
です。
方広寺は、もともと豊臣秀吉が京都に建立した大仏殿を中心とする寺院でした。
秀吉の死後は豊臣秀頼が再建事業を進めています。
現在の京都国立博物館の敷地も、かつての方広寺境内の一部にあたり、秀頼が整備した回廊や南門の遺構が残されています。
そして1614年、再建された方広寺の梵鐘に刻まれた銘文が大きな問題となりました。
「国家安康」「君臣豊楽」の何が問題だった?
問題となったのが、梵鐘の銘文にあった、
- ・「国家安康」
・「君臣豊楽」
という言葉です。
徳川側では、「国家安康」が徳川家康の「家」と「康」を分断していることなどが問題視されました。
また「君臣豊楽」についても、「豊臣」を連想させ、豊臣家の繁栄を願ったものではないかと受け取られました。
ただし、ここは注意が必要です。
現在では、最初から家康を呪う目的でこの銘文が作られた、と単純に断定できる話ではありません。
重要なのは、豊臣家と徳川家の緊張が高まっていた時期に、徳川側がこの鐘銘を問題として取り上げたことです。
方広寺そのものは秀吉が創建し、秀頼が再建を進めた豊臣家にとって非常に重要な事業でした。
交渉役として駿府へ向かった片桐且元
鐘銘が問題になると、豊臣家は徳川家康との交渉を迫られます。
そこで重要な役割を担ったのが片桐且元でした。
前章で見たように、且元は関ヶ原後、豊臣家と徳川家の間を取り持つパイプ役となっていました。
茨木市立文化財資料館も、且元を両家の橋渡し役として紹介しています。
且元は駿府へ赴き、徳川側との交渉にあたります。
ここでも且元は、徳川家へ寝返るために交渉していたのではなく、豊臣家と徳川家の全面衝突を避けるための交渉役だったと考えるのが自然でしょう。
且元が持ち帰った「三つの案」
交渉の中で且元は、豊臣家が徳川家との対立を避けるための方策を検討します。
一般に知られているのが、次の三つの案です。
- ① 秀頼が大坂城を出て別の国へ移る
② 淀殿が人質として江戸へ行く
③ 秀頼が江戸へ参勤する
いずれも豊臣家にとっては非常に受け入れにくい内容でした。
特に大坂城は豊臣家の本拠です。
秀頼が大坂城を離れることは、豊臣家の力そのものを大きく弱めることにつながります。
また、秀吉の正室・高台院とは異なり、秀頼の母である淀殿は大坂城の豊臣家にとって重要な存在でした。
こうした条件を持ち帰った且元に対して、豊臣家内部では次第に疑いの目が向けられるようになります。
「且元は家康と通じているのではないか」
且元にとっては、豊臣家を存続させるための現実的な妥協案だったのでしょう。
しかし大坂城内から見れば、
「なぜ豊臣家の重臣である且元が、徳川側に有利な条件を持ち帰ってくるのか?」
ということになります。
ここから且元の立場は急速に悪化していきます。
家康との交渉役だったことが、逆に
**「徳川と内通しているのではないか」**
という疑念を招くことになったわけです。
豊臣家を守るために家康との交渉を続けてきたことが、最後には自分自身への疑いとなって返ってきました。
1614年10月1日、片桐且元は大坂城を退去
そして1614年(慶長19年)10月1日。
片桐且元は弟の片桐貞隆とともに大坂城を退去し、自らの居城である茨木城へ入りました。
この日付は茨木市の史料整理でも確認でき、10月7日には且元・貞隆が茨木城へ退去したことが報告されています。
つまり、長年豊臣家に仕え、秀吉の死後には秀頼を支えてきた且元が、ついに豊臣家を離れることになったのです。
しかも事態はそれだけでは終わりません。
10月12日には大坂方が堺を攻撃し、且元は茨木城から援軍を出しています。
さらに大坂方が茨木城を攻撃するという噂まで流れました。
且元と豊臣家の関係は、もはや修復できないところまで悪化していたことが分かります。
且元の退去から大坂冬の陣へ
且元が大坂城を去ったことで、豊臣家と徳川家をつないできた重要なパイプが失われました。
そして間もなく、徳川家康は諸大名に出陣を命じ、大坂冬の陣が始まります。
ここまでの流れを見ると、方広寺鐘銘事件そのものだけが大坂の陣を引き起こしたというより、すでに悪化していた徳川家と豊臣家の関係が、
「鐘銘問題」
をきっかけとして一気に表面化したと見る方が分かりやすいでしょう。
そして、その両者の間に立っていた片桐且元は、最も難しい立場に置かれました。
豊臣家を守ろうとして徳川家康と交渉する。
しかし家康と交渉するほど、豊臣家から疑われる。
最終的には豊臣家を去り、その直後に両家は戦争へ突入する――。
片桐且元の生涯の中でも、この1614年の出来事ほど彼の立場の難しさを象徴するものはないように思います。
片桐且元の石高の推移|最終的に何万石だった?
片桐且元は、賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた後、豊臣秀吉・秀頼のもとで徐々に石高を増やしていきました。
賤ヶ岳七本槍として知られる且元ですが、加藤清正や福島正則のように数十万石を領する大大名になったわけではありません。
それでも1583年の3,000石から始まり、最終的には
「約3万8,000石」
を領する大名へと出世しています。
宝塚市史では、且元の加増の経緯を詳しく確認できます。
片桐且元の石高の推移
概ね以下の推移です。
| 年代 | 石高 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1583年 | 3,000石 | 賤ヶ岳の戦いの軍功により3,000石を与えられる |
| 1595年 | 約1万石 | 5,800石を加増され、茨木城主となる |
| 1601年 | 約2万8,000石 | 大和国龍田へ移り、1万8,000石余を加増される |
| 1612年 | 約3万8,000石 | 豊臣秀頼から与えられていた1万石を、家康の許可を得て正式に受領 |
宝塚市史によると、1583年に3,000石、1595年に5,800石の加増を受けて約1万石、1601年には大和国平群郡で1万8,000石余を加増され、合計約2万8,000石となっています。
さらに1612年には、秀頼から与えられていた1万石を正式に受領しています。
最終的には約3万8,000石
したがって、片桐且元の石高は最終的に約3万8,000石と考えることができます。
賤ヶ岳で3,000石を与えられたところから比較すると、約13倍です。
藤堂高虎の300石から32万石という出世と比べれば地味に見えますが、且元の場合、面白いのは石高以上に豊臣家の中で大きな役割を担っていたことです。
秀頼の領国経営や寺社造営に関わり、さらに徳川家康との交渉まで任されています。
つまり且元は、
「石高の大きさで存在感を示した大名」
ではなく、
「豊臣家の実務を担うことで重要な地位にいた大名」
だったと見る方が、その人物像に合っているでしょう。
最後の1万石は誰からもらった?
ここは今回の記事ではぜひ残したいポイントです。
1612年に加わった1万石は、徳川家康から与えられたものではなく、豊臣秀頼から与えられたものでした。
しかも且元は家康に遠慮して受領を控え、駿府へ赴いて家康の許可を得てから正式に受け取っています。
これは前章で書いた、
「主君は秀頼。しかし家康の意向も無視できない」
という且元の立場を、石高の面からもよく表しているエピソードだと思います。
片桐且元の生涯を年表で紹介
片桐且元は1556年(弘治2年)、近江国に生まれました。
豊臣秀吉に仕えて賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ、
「賤ヶ岳七本槍」
の一人として知られるようになります。
しかし且元の人生で特徴的なのは、その後です。
武功だけでなく検地や寺社造営などの実務を担い、秀吉の死後は豊臣秀頼を支える重臣となりました。
そして関ヶ原後には、豊臣家と徳川家康との橋渡し役という非常に難しい立場に置かれます。
茨木市立文化財資料館も、且元が関ヶ原後に豊臣家と徳川家のパイプ役を果たしたと紹介しています。
その生涯を年表で見てみましょう。
片桐且元の生涯年表
| 年 | 年齢 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 1556年 | 1歳 | 近江国に生まれる |
| 1583年 | 28歳 | 賤ヶ岳の戦いで活躍。「賤ヶ岳七本槍」の一人として3,000石を与えられる |
| 1595年 | 40歳 | 5,800石を加増され、茨木城主となる |
| 1598年 | 43歳 | 豊臣秀吉が死去。その後も豊臣家に残り、秀頼を支える |
| 1600年 | 45歳 | 関ヶ原の戦い後、豊臣家と徳川家との橋渡し役を担う |
| 1601年 | 46歳 | 大和国龍田へ移り、加増によって約2万8,000石となる |
| 1608年 | 53歳 | 豊臣秀頼による狭山池改修など、領国経営や普請に関わる |
| 1612年 | 57歳 | 秀頼から与えられていた1万石を正式に受領し、約3万8,000石となる |
| 1614年 | 59歳 | 方広寺鐘銘事件で徳川家康との交渉役を務める |
| 1614年 | 59歳 | 10月1日、弟・片桐貞隆とともに大坂城を退去し、茨木城へ入る |
| 1614年 | 59歳 | 大坂冬の陣が始まり、徳川方として行動する |
| 1615年 | 60歳 | 大坂夏の陣で豊臣家が滅亡。同年、且元も死去する |
※年齢は数え年を基本とした目安です。
1583年に賤ヶ岳の軍功で3,000石を与えられ、1595年に約1万石、1601年には約2万8,000石へ加増された流れは宝塚市史でも確認できます。
また1614年10月1日に且元と弟・貞隆が大坂城を退去して茨木城へ入ったことも、茨木市の史料に記録されています。
年表で見ると「1614年」が大きな分岐点
こうして年表にすると、片桐且元の人生は大きく三つに分けられます。
前半は
・「秀吉の武将」
中盤は
「秀頼を支える実務型の重臣」
そして後半は
「豊臣家と徳川家の仲介役」
です。
そのすべてが崩れたのが1614年でした。
方広寺鐘銘事件をめぐって家康との交渉に奔走したものの、豊臣家内部から疑われ、ついには大坂城を退去。その直後に大坂冬の陣が始まります。
富田林市史でも、且元が両者の仲介に努めながら解決できず、大坂城を退いた後、家康が大坂城攻撃を決意した流れが記されています。
そして翌1615年、大坂夏の陣によって豊臣家が滅亡します。
皮肉なのは、片桐且元自身も豊臣家が滅亡した同じ月に亡くなっていることです。
茨木市立文化財資料館でもこの点が紹介されています。
秀吉のもとで武将として出世し、秀吉亡き後は秀頼を支え、最後には豊臣家を去る――。
年表で見ると、片桐且元の生涯はまさに豊臣家の繁栄から滅亡までと重なる人生だったことがよく分かります。
片桐且元の家系図|妻・子供・子孫とその後
片桐且元は、近江国の国人領主であった片桐直貞の長男として生まれました。
弟には、のちに大和小泉藩の初代藩主となる片桐貞隆がいます。
つまり片桐家は、且元の家系だけでなく、弟・貞隆の家系も大名として続いていくことになります。
且元の子供では、長男の片桐孝利と、のちに孝利の養子となった片桐為元が重要です。
『寛政重修諸家譜』
には且元の家譜と長男・孝利についての記載があり、国立国会図書館が紹介する且元の研究書にも
・「且元の子供と妻妾」
・「片桐家略系図」
が収録されています。
片桐且元の簡単な家系図
片桐直貞
│
├── 片桐且元
│ ├── 片桐孝利 → 大和竜田藩2代藩主
│ └── 片桐為元
│ ↓(孝利の養子)
│ 大和竜田藩3代藩主
│ │
│ 片桐為次 → 大和竜田藩4代藩主
│
└── 片桐貞隆 → 大和小泉藩初代藩主
※且元にはほかにも子女がいましたが、ここでは大名家の継承に関係する人物を中心に簡略化しています。
為元は且元の子で、兄・孝利の養子となって竜田藩を継ぎました。
長男・片桐孝利が且元の跡を継ぐ
1615年に且元が亡くなると、長男の片桐孝利が家督を継ぎました。
孝利の死後は、且元の子で孝利の養子となっていた片桐為元が跡を継ぎ、竜田藩3代藩主となります。
ところが、その次の片桐為次が1655年に若くして亡くなり、跡継ぎがいなかったため、且元から続いた
「大和竜田藩の片桐家は改易」
となりました。
弟・貞隆の家系は小泉藩として続いた
一方で興味深いのが、且元の弟片桐貞隆の家系です。
貞隆は大和小泉藩の初代藩主となり、その家系は江戸時代を通して存続しました。
つまり、
・且元の竜田藩片桐家 → 4代で改易
となった一方、
・弟・貞隆の小泉藩片桐家 → 江戸時代を通して存続
という違いが生まれたわけです。
片桐且元は豊臣家を裏切ったのか?生涯を振り返った感想とまとめ
片桐且元の生涯を振り返ると、単純に
**「豊臣家を裏切って徳川家康についた武将」**
と評価するのは少し違うように感じます。
且元は豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでは
「賤ヶ岳七本槍」
の一人として武功を挙げました。
しかし、その後の且元は加藤清正や福島正則とは少し違った道を歩みます。
検地や普請、寺社造営などの実務を任され、秀吉の死後も豊臣家を離れることなく、豊臣秀頼を支える重臣として働き続けました。
そして関ヶ原の戦いによって徳川家康が実権を握ると、且元は豊臣家と徳川家との間を取り持つ役割を担うようになります。
ここが、且元にとって最も難しい立場だったのでしょう。
主君は豊臣秀頼。しかし天下の実権を握っているのは徳川家康
豊臣家を存続させるためには家康と交渉しなければならない。
しかし家康との関係が深くなればなるほど、今度は豊臣家内部から疑われる。
そして方広寺鐘銘事件によって、その矛盾が一気に表面化しました。
且元は徳川との戦争を避けるために奔走しますが、結果として大坂城内で孤立し、1614年には長年仕えた豊臣家を去ることになります。
その直後に大坂冬の陣が始まり、翌1615年の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡しました。
しかも、且元自身も豊臣家が滅亡した同じ1615年に亡くなっています。
何とも皮肉な結末です。
もし且元が本当に豊臣家を捨てて自分の出世だけを考えていたのであれば、もっと早い段階で徳川家康側へ移る選択肢もあったのではないでしょうか。
それでも秀吉の死後も秀頼に仕え、豊臣家の実務を担い続けた事実を見ると、少なくとも最初から豊臣家を裏切るつもりだったとは考えにくいように思います。
むしろ片桐且元という武将は、
「豊臣家を守るため徳川家康との橋渡し役になり、その役割ゆえに最後は豊臣家から疑われた人物」
だったのではないでしょうか。
藤堂高虎が時代の変化を読みながら、新しい主君のもとで自分の能力を発揮して生き残った武将だとすれば、片桐且元は少し違います。
且元は最後まで豊臣と徳川という二つの巨大な勢力の間に立ち続けた武将でした。
戦国武将というと、合戦での強さや石高ばかりに目が向きます。
しかし片桐且元の人生を見ると、天下が大きく動く時代には、戦場で槍を振るう以上に、交渉すること、妥協点を探すこと、そして主家を存続させることの方が難しかったのかもしれません。
「裏切り者だったのか?」
そう考えながら且元の生涯を追ってみると、むしろ豊臣家への忠誠と現実との間で最後まで苦しんだ武将という姿が見えてくるように思います。
① 藤堂高虎
「藤堂高虎はなぜ主君を何度も変えた?300石から32万石へ出世した生涯」
② 加藤清正
「同じ賤ヶ岳七本槍・加藤清正はどんな武将だった?」
③ 福島正則
「賤ヶ岳七本槍から大大名へ・福島正則の生涯」





















