鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!

2月の塩釜神社の写真
鎌倉殿の13人は、人気の大河ドラマ。
主役は鎌倉殿の「源頼朝」。・頼朝と相関の源氏と平家の武将。
・源氏と平氏の系図から時代を考証。
・有力武将の家系図と子孫のその後。

 

https://kotobaimi.jp/wp-content/themes/be_tcd076/img/no-avatar.png

鎌倉幕府成立に向けた武将の上の内容を解説します。

スポンサーリンク

Contents

鎌倉幕府成立時源氏方有力武将!歴史を作った面々!

鎌倉幕府成立に向けて、平家との戦いを勝ち抜いた、そんな武将の源氏や平氏の出自から、個別武将を解説。
その子孫のその後まで、わかる範囲で解説しました。

源平合戦のそもそも源氏とは?

まずはそもそも論から。
源氏は「清和天皇」からの分かれが「清和源氏」で有名ですが、実はそれだけだはなかった。
内容を解説しました。

清和源氏とは?家系図から見る祖と嫡流や河内源氏と鎌倉幕府の改革!

この系図から、源頼朝がどの位置にいるのか一目瞭然です。
有名な八幡太郎義家の位置も。

源頼朝は源氏の嫡流!主役で鎌倉将軍!

鎌倉幕府は、この方が成し遂げた最初の武家社会を確立させた、功績はまことにもって大。
しかし、人生は運と不運の繰り返し。
いかに紹介しました。

源頼朝の源氏宗家の家系図!妻と側室と子供の名前やしたこと年表で!

源頼朝の源氏の系図からの位置関係や、その後の子孫についても解説。

不運の英雄と言えば源義経!鎌倉将軍の弟!

この時代の、英雄です。
悲劇だからこそ、今に語り継がれ、各地で伝説があるのだと。

源義経の家系図と頼朝との関係!正室と静御前と子供と活躍の年表!

胴塚に行って、お参りしてきました。
場所や写真も紹介しましたが、なんとも悲しいものです。

木曽義仲は当初破竹の勢いも大成しなかった理由!

一時は破竹の勢いで、「頼朝」をしのぐかという、そんな勢いがあったのですが、一気に失速!
なんで?

木曽義仲の源氏と子孫の家系図!最後と源頼朝の関係と鎌倉への貢献!

理由はあるんだな。
いつの時代でも、根回しと作戦は、完璧でないと物事は成功しないのかもしれません。
鎌倉殿の成功は、やはりその辺が交美優だったのかと。

スポンサーリンク

武田信義は甲斐武田氏の祖!武田信玄の祖先!

甲斐源氏と言われる、八幡太郎義家と兄弟の
「新羅三郎義光」
を祖としています。(ちょっと?もあるのですが)
後に名将「武田信玄」を輩出します。

武田信義は甲斐源氏の祖!家系図と鎌倉幕府成立への貢献を年表で!

この時代に登場するのですが、ここから武田氏の歴史が始まります。

足利義兼は鎌倉殿のお気に入り!のちの室町幕府の祖!

足利氏は、のちに足利将軍家として「室町幕府」を成立させます。
足利氏の祖も、この時代の方。
同じ源氏でも、傍流ですが後に大業を成します。

足利義兼の源氏の系図と妻と子供!鎌倉殿に貢献した内容を年表で!

足利氏の源氏の流れと、北条氏との姻戚関係を、まとめてみました。

足利氏の源氏の系図と北条氏との縁戚関係!金閣寺と銀閣寺は誰の作!

これは驚くべき、北条氏とのつながり。
北条執権政治でも、足利氏をよほど警戒していた感が、これから読み取れます。

大江広元は鎌倉幕府の重要官僚!安芸毛利氏もここから!

「大江広元」
はもともとは朝廷役人。
曾祖父には、すごい方がいたのですが、兄の誘いで「源頼朝」に転職!
めきめきと頭角を現します。

大江広元の家系図と子孫には誰が?鎌倉幕府成立でしたこと年表で!

刀ではなく、筆で戦った方ですね。

源頼朝の女性遍歴!政子の逆鱗もなんのその!

「源頼朝」
の正室は「北条政子」
しかし、その逆鱗に触れることを、みな恐れていたようです。
しかし、頼朝は女性にはとても執着が!

島津家の祖は鎌倉殿!源頼朝の女性問題!政子が怒る女癖と御落胤説!

多くの歴史的な祖も輩出している、その側室の存在は、とても重要だと思います。
「島津」氏の祖も、「源頼朝」から出ていますから。

スポンサーリンク

三浦義村は鎌倉幕府要人で頂点を極めるも続かなかった!

三浦義村は大河ドラマでは、ほぼ北条義時の盟友。
鎌倉幕府成立には大きく貢献。
地位を確立させていきます。
お家はなぜか断絶!

三浦義村の家系図と鎌倉殿や北条義時との関係と最後!子や嫁その後!

権力が渦巻くと人間はどこかがくるってくるような・・そんな気がします。
名門も、長く続かないもんだな~~と。

安達景盛は幕府要人!前代未聞の鎌倉殿の横恋慕には驚いた!

「安達景盛」
は目立たない存在でしたが、三浦氏との確執は最後は深刻。
勝者は「安達氏」でした。
しかし、女性問題でのこの時代の奔放さには、驚かされますね~~

安達景盛の家系図と正室と子供のその後!鎌倉幕府でしたこと年表で!

禍根を残さず鬱憤を晴らし本望だったかもしれません。
時代を感じます。

結城朝光は徳川氏の結城家の祖!この時代から結城家はあった!

「結城家」
と聞けばすぐに浮かぶのは、徳川家康公の子孫。
本来であれば、継承する立場も時代にほんろうされて、将軍になれなかった方。
しかし、結城家の祖はここに始まります。

結城朝光の家系図と正室・側室と子供(子孫)その後!鎌倉殿との関係!

梶原景時の滅亡には、大きなきっかけになった正直な結城氏!
ここが、鎌倉幕府の大きな分岐点にも感じます。

スポンサーリンク

鎌倉幕府成立の平氏方武将を解説!

此方は平氏方。
しかし、同じ平氏でも北条氏は平氏の流れ。
実は、この時代は入り乱れていたのですが、目指すは打倒

「平家」

なんだな。
「平氏」と「平家」の違いも、解説しました。

平家とは「平清盛」一門!ラスボスの一生!

「平家」
とは、「平清盛」一門のこと。
その他の平氏とは、一線を画します。

平清盛の家系図と正室と側室と子供のその後!したことの年表と最後!

子供や側室や正室など、わかる範囲で家系図にまとめてみました。

平重盛は平家の悲劇の忠臣!

「平重盛」
は、日本三大忠臣とも言われます。
院と父の間での葛藤は、すさまじいものが。

平重盛の家系図を平氏の系図で!妻と子孫のその後!生きていたら?

鹿ヶ谷の陰謀が決定的でした。
タラレバのお話も。

北条義時は「平氏」の流れ!武家時代のキーパーソン!

驚いたのですが、北条氏は平氏の流れ!
しかし、この時代は珍しくないのかもしれません。

北条義時の正室と側室と子供の名前と何人いる?その後の処遇を解説!

時代を作った方なので、も言う少し詳しく。

北条義時と鎌倉北条氏家系図は?北条政子との関係や執権職を考える!

どっちに就くのが、お家のためになるか?
もしくは、時代を変えてみたい!
そんな衝動が「義時」にはあったのかもしれませんね。

北条泰時は執権三代目!名君と言われ御成敗式目を制定!

「北条泰時」
執権三代目。
北条執権政治を確立した功績は非常に大きい。

北条泰時の家系図!母や妻や子の名前とその後!したこと年表で解説!

正室や子供のその後を解説しました。
政治的には、御成敗式目を制定し、武家社会の法の基盤を作った功績は大です。
能登に、徳川家康公の定めた
「武家諸法度」
の参考になった法律。

この時代に画期的かと思います。

スポンサーリンク

奥州藤原氏の系図!源義経とともに散った名門!

源平合戦の締めは「奥州合戦」ですね。
どうしても弟の
「源義経」
が許せなかったんですね。
勿論「奥州藤原氏」も目の上の瘤。
「源頼朝」
にしてみれば、「一挙両得」だったのかもしれません。

藤原清衡公は奥州藤原氏の祖!

自分の父を滅ぼした出羽の「清原氏」と、「安倍貞任」の血を引く名門。
父「藤原経清」を再興した、奥州の覇者・

藤原清衡と奥州藤原氏の家系図!平泉中尊寺金色堂のミイラと年表!

偉大な先祖には、末代はやはりその血は受け継がれないんですね~~

藤原秀衡公は藤原氏3代当主!義経と関係深まる!

「藤原秀衡」
公は、「源義経」を匿います。
また、援助もするのですが、なかなか亡くなってからは、その遺言通りにはなりませんでしたね。

藤原秀衡の系図と家系図と子孫その後!源義経との関係と平泉金色堂!

時代です。
歴史って、思いもかけない方向に動く時があるんですね。

鹿児島島津氏の祖は鎌倉殿!御落胤説から見る女性関係!

「鹿児島」の
「島津藩」
の祖は「源頼朝」の御落胤説があります。
数々の物的証拠から、その挙動も含めて確実化と思いますが・・・さて!

島津家の祖は鎌倉殿!源頼朝の女性問題!政子が怒る女癖と御落胤説!

夢があるお話で、驚きます。
しかし・・さもありなんだな~~と。

・・・・・・・・・・・・
徳川家康の、正室と側室や子供の名前など。
その後の子供の処遇や御三家など解説。

徳川家康の子供の数は何人?母親(側室)の名前と明治維新まで続いた?

伊達政宗の正室と側室の名前や子供など。

伊達政宗の正妻と側室と子供は何人?名前とその後の処遇はどうだ?

その後の処遇などを解説しました。

・・・・・・・・・

スポンサーリンク

鎌倉殿に纏わりつく武将の感想とまとめ!

「平治の乱」
の時に、父「義朝」の敗戦で、「頼朝」は父に従って従軍したため、本来であればそこで最後だったのですが、思いもかけぬ助っ人の助言で
「伊豆に配流」
のお沙汰。

九死に一生を得たんだな。
やはり、人生絶望感を味わったとしても、生きていればその後、どんな人生が待っているかわからない!
その見本のようなものと、そんな思いを持ちました。

今の時代でも、絶望感から、自分で退路を断つ方が、多いですが、この例を見て、生きてさえいれば、きっと日の目を見ることもあるわけです。

しかし、敗戦の将の妾だった、「常盤御前」は悲劇のヒロイン。
さらには、「静御前」も悲しいですね~~

その辺も「義経」の篇で書きました。
義経の墓(胴塚)は、宮城県の栗原市です。
同じ宮城県住まいですが、これは知りませんでした。

早速行って、お参りしてきましたが、その入り口など、写真で案内しておきました。

源氏と平氏の嫡流の系図と、傍流の系図も・・考えてみれば、当時の武士の中で、親分筋はこれ

「源氏」か「平氏」しかなかったんだね。

天皇の嫡孫が、武士になって、それが平氏か源氏なのですから。
どちらかの区分け、になったのだと思います。
「織田信長」
は自らを「平氏」だと。(諸説ありますが)

徳川家康公は「源氏」だと。
時の名門は、やはり自分に箔をつけるために「腐心」したのかもしれません。

・・・・・・・・・・・・・・
戦国武将はこちらで、まとめておきました。
宜しければ!

戦国武将で最強人気は誰だ?石高ランキングや増え方の評価資料まとめ!

石田三成はどんな武将だった?

石田三成はどんな人?石高の推移と正室と子供のその後!逸話と家紋!

正室や子供の名前とその後。
実は子孫は、延々と続いていました。
これは驚きです。

・・・・・・・・・・・・
*ヘッダーの写真は、私が撮影した2月の塩釜神社の写真です。

関連記事