石田三成はどんな人?石高の推移と正室と子供のその後!逸話と家紋!
石田三成はどんな人? 関ケ原一大決戦で敗れはしても、義に生きた精神は誉れ高き事。 ・石田三成の父母兄弟と子供・子孫。 |
関ケ原の勝者の徳川家康公は石田三成の子全員おとがめなしの沙汰でやはり名君でした!
Contents
石田三成の家系図!父と母と出身は京極家の家臣?兄弟と家系!
「石田三成」
の誕生は
永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)で誕生した。
(wikipediaより)
とあります。
この地は、京極氏の支配地だったために、その配下であったという説も。
実際、京極氏の「家譜」に、石田氏の名前があるそうな。(石田三成の家系かどうかは不明:推測です)
以下に自作ですが、家系図を作成してみました。
*自作なので見ずらい所は容赦ください。
父 | 石田正継:近江坂田郡の地侍 |
母 | 瑞岳院:浅井氏の家臣・土田外記成元の娘 |
兄 | 正澄:関ケ原の時、佐和山城を守備するも自身長男「朝成」と自害 |
三成(本人) | 関ケ原後六城川原で最期を迎える |
女子(妹) | 福原長堯の正室となった三成の妹。 |
女子(妹) | 熊谷直盛の正室となった三成の妹。 |
上の表のように、兄弟は兄が一人。妹が二人です。
豊臣秀吉が、天下人の時代は、この家族で円満だったのかと。
しかし、そうはいかないんだな。
石田三成のお茶(三献茶)の逸話!
「三献茶」のお話。
時代は、天正二年(1574年)豊臣秀吉(当時39歳)が「長浜城主」だった時の鷹狩りの場面。
鷹狩で汗をかいた「豊臣秀吉」が、休憩に「観音寺」を訪れ、茶を所望。
後頭部が突き出た、当時の三成は御年
「15歳」
の少年。
- 最初:大きな茶碗にぬるめの茶を八分ほど
2杯目:前より小さめで湯は少し熱めで約半分
3杯目:高価な小茶碗で舌が焼けるほど熱い茶
このお茶を出す気配りに、豊臣秀吉が感心し、長浜に連れ帰り「小姓」として取り立てる。
今のサラリーマン社会でも、通用する?
かもしれません。
石田三成の出世と石高の推移を年表で!
「小姓」
として勤務しながら、どんどん三段跳びに、出世していきます。
驚くべきスピードながら、この「石田三成」という方は、ほとんど物欲や色恋も感心ない方ですね。
以下の表に、大きなところだけ拾ってまとめてみました。
天正二年(1574年) | 父、兄共々豊臣秀吉に仕える。 |
中国大返しの場面 | 秀吉に中国に従軍(対毛利) |
天正11年 | 賤ケ岳の戦いで一番槍の功名 |
天正12年 | 小牧長久手の戦で従軍・近江国蒲生郡の検地奉行 |
天正13年7月11日 | 従五位下・治部少輔に叙任・同年近江国水口4万石の城主 |
天正14年 | 島清興(左近)を2万石(石高の半分)で採用・堺奉行就任 |
天正17年 | 美濃の国検地・ |
天正18年 | 小田原征伐に参陣・この頃より奥州仕置きや検地で官僚の実績が。 |
天正19年4月 | 佐和山に入城。 |
文禄元年(1592年) | 文禄の役始まる。(朝鮮出兵) |
文禄4年 | 佐和山19万4千石秀吉より拝領。城持ち大名になる。 |
慶長2年 | 慶長の役が始まる。後方支援に徹する。 |
慶長3年 | 豊臣秀吉没 |
ここまでが、豊臣政権下での出来事。
慶長3年に、小早川秀秋の領地「筑後」と「筑前」を当たると言われたのですが、これを「固辞」。
これをもらっておけば、関ケ原への兵の数も、断然多くなっていたことかと。
この辺が「らしい」方に、私は思います。
豊臣秀吉が没した後の石田三成の行動!
以下の表にまとめてみました。
慶長3年(1598年)以降 | 石田三成ら文治派と加藤清正らの武闘派が対立。5奉行在任。 |
慶長4年 | 徳川家康大名縁戚に違反で詰問・一気に険悪に。 |
同年 | 前田利家没・3月3日石田三成襲撃事件勃発。家康公が仲裁・佐和山に帰る |
慶長5年(1600年) | 徳川家康公、上杉征伐に大阪を出陣。 |
同年 | 7月17日、徳川家康弾劾13箇条(内府ちがいの条々)が作成され、諸国に配布 |
7月18日 | 西軍が決起。伏見城攻略。 |
慶長5年9月15日 | 西暦1600年10月21日(現在の月で)関ケ原の戦い。 |
同年10月1日 | 京都六城川原で非業の最後。 |
辞世の句 | 「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」 |
とてもこんな、簡単ではないですが、まとめてみました。
大雑把な歴史なら、こんなところで。
関ケ原の敗戦・・これこそ無念。
しかし、その後の日本は、戦のない平和な時代が(大坂の陣がありますが・それ以後)300年も続きます。
これは、世界でも例を見ないんだそうな。
裏を返せば、世界の国って、それだけ争っているという事かと。
石田三成の正室と子供たちの名前!子孫は現代にも!
「石田三成」
の正室は、宇多頼忠の娘で
「皎月院(こうげついん)」
という方。
関ケ原敗戦で、佐和山城で非業の最後を。
又は脱出説など、諸説あるようです。
関ケ原の戦いで、敗れたのですが、やはり
「徳川家康公」
は、大物。
子供が6人いるのですが、全員おとがめなしの沙汰で、温情采配。
またまた、以下の表にまとめてみました。
石田三成の子供の名前と子孫の関ケ原以後!
再度家系図の出番。
これをもとに説明します。
以下のようです。
長男:重家 | 京都妙心寺で仏門に出家:103歳の人生を全う。 |
次男:重成 | 津軽為信の庇護で津軽藩に。杉山源吾と改名し津軽藩家老職。家名は存在。 |
三男:佐吉 | 高野山で出家し僧として生きる。 |
長女(1579~1647) | 家臣山田勝重に嫁ぐ。津軽藩士になり、のち弘前藩士に。 |
二女 | 蒲生家家臣の岡半兵衛重政に嫁ぐ。孫娘が徳川3代将軍家光の最初の側室・お振(ふり)の方。
その子が千代姫で、御三家尾張の徳川家2代藩主光友(みつとも)の正室 |
三女 | 北政所の養女になる。津軽に赴き2代藩主信枚の正室になる。 |
二女の方が、すごいですね。
尾張徳川の正室ですか~~
石田三成の血が、延々と継承されていたんですね。
驚きました。
ところが~~~~これには、まだ続きがあるんです。
石田三成の直系子孫が現存している!
今現在の、ご子孫の方は東京にお住いのようです。
どうして現存?
- 長男:重家:仏門
次男:重成:津軽で改名
三男:佐吉:高野山で出家
???
なのですが、実は長男の「石田重家」さんは、関ケ原当時は、すでに結婚されていたそうなんだな。
その時はすでに、家督を相続していたと。
関ケ原合戦時に、その正室の方は、子を宿していた。
関ケ原で、敗れて後は「越前北の庄」へのがれ、その翌年に男児
「石田直重」
を産んだと。
その本人、「石田直重」氏は、越前松平家に勤務も、その後越後高田藩に移って、妙高で
「庄屋」
になったそうです。
父の「重家」とは一度も会わなかったと。
会えば会えたでしょうね~~、歴史で、時代を感じます。
その末裔が、現在では「15代目」に当たる方。
「石田秀雄」
さんという方のようですね。
ご子孫がおられるというのは、これは日本の歴史にとって、誇れることに思います。
石田三成の旗印大一大万大吉と家紋のお話!
「石田三成」
の旗差しと言えばこれ。
この意味は?
石田三成の旗印「大一大吉大万」は一人と皆!
「大一大吉大万」
(だいいち・だいまん・だいきち)
の意味は
「一人は皆のために、皆は一人のために」
そんな意味です。
もう少し詳しく言うと
「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる」
こんな意味。
う~~ん、戦場でこの旗印は、やる気が出るかな?
とも思うのですが、いかにも「石田三成」氏であるな~~とも思います。
が・・この旗は、江戸時代初期の資料には、ないんだそうです。
作られた可能性があるというお話も、ここに付け加えておきます。
が・・そうでも無さそうな事実が。
石田三成の旗印「大一大吉大万」を使った武将がいた!
以下の方が、この同じ
「大一大吉大万」
(だいいち・だいまん・だいきち)
を使っていました。
- ➀:石田為久
➁:備後山内氏(山内首藤氏)
この二名も、使っていたと。
特に「石田為久」は、もしかしたら、同じ石田で関係が?
わかった内容ですが、同じ苗字なのでちょっと感じてしまいますね。
石田為久は、寿永3年(1184年)、治承・寿永の乱で、木曽義仲を討ち取ったと平家物語では語られています。
(伊勢義盛という説も)
そんな昔の方なので、石田三成がこれいいな‥で共感した可能性も。(勝手な推測)
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明智光秀の本能寺の変時点での石高を年表で紹介。
明智光秀の本能寺の変時点での石高を年表の推移で!兵力の動員数は!
関ケ原では泣いた方も笑った方も。
関ケ原の戦いで加増と減封のランキングは?泣いて笑った大名の悲喜!
加増と減封のランキングを作ってみました。
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石田三成の家紋は九曜紋と下がり藤!
「石田三成」
の家紋は、どうもはっきりしていないようです。
有力は「九曜紋」と「下がり藤」と言われています。
九曜紋はこちら。
下がり藤はこちら。
九曜紋は、多くの大名が使用していました。
使用権を与えるのが、天下人のお勤めのようだったように感じます。
由緒ある紋なので。
自分も石田三成のような堅物か?感想とまとめ!
「石田三成」
の、本記事の内容を、概要的に以下の表にまとめてみました。
誕生年と生きた年間 | 永禄3年(1560年)~1600年(40年):幼名佐吉 |
豊臣秀吉に採用 | 天正二年(1574年)「三献茶」がきっかけ。 |
最大石高 | 佐和山19万4千石 |
最高官位 | 従五位下・治部少輔 |
子供 | 三男三女:関ケ原以後全員延命 |
没年 | 1600年京都六条河原で無念の最後 |
辞世の句 | 「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」 |
概要ですが、こんな方。
「石田三成」公は、歴史好きな方の間では、とても人気の武将です。
勇猛さというよりは
- 1:真面目
2:頑固
3:初志貫徹
4:融通が利かない
しかしながら、それ故に、部下につけたら裏切らない方。
そんなイメージでしょうか。
自分も石田三成のような堅物か?
家庭的に言うと、家の中では私は、箸にも棒にもかからないほどの
「堅物」
で、真面目腐った、融通の利かない爺さんなんだそうな。
しかし、何でもええわええわでは、秩序も決まりも、あったもんではないですから
「駄目なものはダメ」
なんだな。・
それを、堅物とは??
「片腹痛いわ!!」
なのでした。
世の中に生きていれば、多少はいい加減なところがないと
「あいつは面白くもなんとも・・」
そんな評価になりそうです。
なので、この辺は「硬軟」使い分けが、うまく泳いでいくコツかと。
でもね~~信念は曲げてはいけません。
そこは「石田三成公」を見習わないと。(今の時代は殺生までの戦はこの日本ではないですから)
皆さんの信念は如何ですか?
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*ヘッダーの写真は、私が撮影した塩釜神社の2月の風景写真です。