三浦義村の家系図と鎌倉殿や北条義時との関係と最後!子や嫁その後!

三浦義村の鎌倉殿の時代の功績やしたことを年表形式で解説。

  • ・三浦義村と北条義時の関係。
    ・三浦義村のしたこと年表で。
    ・家系図と正室と子供の人数とその後。
    ・最後と墓の場所紹介。
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「北条義時」とは盟友の間柄?

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三浦義村の家系図と三浦家の系図!子は十男四女!

鎌倉の風景写真

此の章では

  • 1:三浦家の家系図
    2:三浦義村の子と正室の名前とその後

について解説します。
*わかる範囲です。

三浦義村と依然と以後の三浦氏歴代の家系図!

三浦義村は「三浦家」の
「第六代当主」
です。
家系図は以下。(もう二人上にいるのですが・・不明でした)

三浦義村と三浦家の家系図

  • 父:三浦義澄
    母:伊藤祐親の娘

とあります。
伊藤祐親は、平家方についていたのですが、義澄の助命嘆願かない、預かりの身になったのですが、祐親の娘と頼朝の間の子を、手にかけたことを悔いて自害。
この辺は時代を感じます。

父、「三浦義澄」は、源平合戦で大きな武功を上げて、鎌倉殿(頼朝)より、御家人十人に与えられた
「成功推挙」
にも入ります。
しかし、これは子の「義村」に譲っています。

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三浦義村の子は十男四女!正室の名とこのその後!

「三浦義村」
の子は
「十男四女」
です。
子だくさんなので、正室のみでは当然なかったと思いますが、正室以外の情報は、なかなか見当たらないので、割愛します。
詳しくは上の家系図なのですが、以下記載します。

正室:土肥遠平の娘

この「土肥遠平」という方の、正室はなんと~
「伊藤祐親の娘」
とあります。
三浦義村の母は
「伊藤祐親の娘」(義澄正室)
です。
いとこ同士なのですね。

子供は十男四女!

この名前と、その後を簡単に以下に紹介します。

まずが男子から。

  • 長男:朝村:不明
    次男:泰村:家督相続:宝治合戦で敗れ自害:三浦家断絶
    三男:重澄:不明
    四男:光村:宝治合戦に参戦し最後
    五男:重村:不明
    六男:家村:不明
    七男:資村:不明
    八男:胤村(九男とも):宝治合戦時奥州にいて嫌疑なしで放免:その後出家
    九男:重時:不明
    十男:良賢:僧侶

不明の方が多いです。
それだけ、吾妻鏡にも出てこないというのは、活躍が当主の
「義村」
や、嫡男(相続)の「泰村」に権限が集中していたのかな~~と。
文献では、多くの一族郎党が
「宝治合戦」
で亡くなったと。

次は女子

  • 矢部禅尼:3代執権北条泰時、4代執権経時、5代執権時頼の母。
    土岐光定室:美濃の源氏。明智氏は土岐氏の傍流ですね‥確か。
    毛利季光室:宝治合戦で三浦氏方で敗れ自刃。4男は生き延び安芸毛利氏の祖。
    千葉秀胤室:上総千葉氏、宝治合戦に敗れ自害

嫁いだ先で、こうも人生が変わるのは、その時代の常だったのかと。
憐れさも感じます。
片や、権力の頂点に君臨し、片や逆賊の汚名で。
何とも。

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三浦義村が誕生からしたことを年表で!

此の章では「三浦義村」の

  • ・生誕からしたことの年表
    ・事件ごとの原因と結果を簡潔に

紹介していきます。

三浦義村の誕生から没年の人生!

「三浦義村」
が、初めて歴史の表舞台と登場するのは「吾妻鏡」
「寿永元年(1182年)8月11日条」
とあります。
内容は

源頼朝室(のちの政子)の安産祈願の祈祷のため、伊豆・箱根の両権現と近国の寺社に奉幣使を立てた記事の中に「安房東條庤」へ遣わされた使者として「三浦平六」という名前が見える。
(wikipediaより)

元暦元年(1184年)8月には源範頼を総大将とする平家追討軍に父・義澄とともに従軍、これが史料で確認できる初めての従軍となる
(wikipediaより)

この時、参戦できるのは、源平盛衰記より「17歳以上」と規定されていたそうですから、その時には17歳以上だったと。
という事を勘案し、年表にしてみました。

生誕 仁安3年(1168年)
元暦元年(1184年)8月 平家追討軍に従軍
建久元年(1190年) 頼朝上洛に供奉し、右兵衛尉に任官
建久10年(1199年) 梶原景時の変
元久2年(1205年) 畠山重忠の乱
元久2年(1205年) 牧氏の変
建暦3年(1213年)2月 和田合戦
建保7年(1219年)1月27日 実朝暗殺
承久3年(1221年) 承久の乱
元仁元年(1224年) 伊賀の方の乱
嘉禄元年(1225年) 評定衆宿老
貞永元年(1232) 御成敗式目制定に署名
延応元年12月5日(1239年12月31日) 没年・「頓死、大中風」:死因の箇所で説明。

人生を端的に書くと、上記の人生でした。
「71歳」
という人生なので、この時代とすれば長生きな方でした。
以下、年表の内容を少し詳しく。

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三浦義村は梶原景時の変の対応!

「梶原景時」
は頼朝亡き後は将軍「源頼家」の信頼が厚い。
当時の役職は

侍所所司:御家人たちのいわばお目付け役

発端:結城朝光の御所での発言を問題視。
そのことを謀反の兆しありと、将軍「頼家」に讒言。
窮地の「朝光」は「義村」に相談し、「梶原景時」排除の66人の連判状(「景時糾弾訴状」)を作成し、頼家側近の
「大江広元」
に提出。
大江広元は、景時を惜しむも、無視もできずに将軍「頼家」に進言。
かくて「景時」は失脚。
所領の相模の国に引いたのですが、そこで終わらないのが、当時の武士の習いなんだべな~~

翌年「景時」は一族を率い上洛の途に。
しかし、駿河の国清見関で当所の武士と戦闘に。
多くが討ち取られ、景時も付近の山の山上で自害とあります。

鎌倉の風景写真

畠山重忠の乱の義村の差配は?

「畠山重忠」の乱は元久2年(1205年)
ことの発端は、「北条時政」の正室の「牧の方」の娘婿の
「平賀朝雅」
の讒訴で畠山重忠と嫡子・重保に謀叛の疑いがあると。
執権「時政」
はこれを信じて、討つことを決断。
「義村」
もこの行動には深く関与していました。

➀:6月22日早朝、稲毛重成(重忠の従兄)に招かれて鎌倉にいた重保を由比ヶ浜で取り囲み殺害
➁:義村と重忠軍は、二俣川で合戦に及び、4時間余りの激戦が繰り広げられたのち、重忠は愛甲季隆の放った矢に討たれて討死

が‥ことが終わってから、この謀反の企ては、でっち上げであることが判明。
その首謀者は

  • ➂:稲毛重成父子
    ➃:榛谷重朝父子

であることが判明。
この二人は、秩父一族と言って、「義村」の祖父の義明のいわば仇。
とうぜん「義村」によって、排除されることに。

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牧氏の変の三浦義村の対応!

時は、元久2年(1205年)閏7月。
ことの発端はこんな内容です。

  • ➀:主役は北条時政と正室の牧氏
    ➁:将軍実朝を排して、頼朝の猶子である朝雅を新将軍として擁立しようと画策。

19日に、時政邸にいた将軍「実朝」を「北条義時」邸に迎え入れることで、早々に決着。
孤立無援の「時政」と牧の方は、20日に出家。
鎌倉より追放され伊豆に隠居。

しかし、この内容も「義村」の画策勝かと。
陰謀を聞いた「政子」が義村に相談し、将軍の移動を進言し、さらにことも起きていないのに、陣を張ったと。
時政と牧の方にすれば、まだ何もことを起こしていないのに、いつの間にやら知らないところで事が進み、そして

「負けた」

という事ですね。

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和田合戦での義村の立ち位置と北条義時との盟友関係!

建暦3年(1213年)2月。
北条義時排除の謀反が「泉親衡」によって発覚。
「泉親衡」
は信濃の豪族。

義村にとっては、重大事。
というのも義村の従兄弟の侍所別当であった和田義盛の息子の義直、義重と甥の胤長が関係者として捕縛されたので、ことは複雑。
息子の両人は赦免されたが、甥の
「胤長」
は首謀各として、流罪で屋敷は没収。
それに、不満は「和田義盛」。

一気に、北条氏との仲は険悪に。
和田氏は、多くの三浦一族を味方につけて、北条打倒の旗を上げる。
しかし、「三浦義村」は、多くの三浦系が和田氏につくも、直前に北条氏につき、しかも内容を告げて、御所の護衛に。

戦いは、当然将軍「実朝」を擁する、錦の御旗がある以上は、北条氏が当然有利。
多くの御家人が付き、この戦いにより、和田氏は滅亡しました。

鎌倉の風景写真

実朝暗殺は謎が多い事件!

建保7年(1219年)1月27日。
将軍「実朝」が「公暁」に暗殺されました。
「公暁」
は、二代将軍「頼家」の子供。
とても複雑です。

「我こそは東国の大将軍である。その準備をせよ」

という手紙を「義村」に送り、しかし義村が送ったのは
「討手」
でした。
公暁の乳母は義村の妻であり、義村の子の「駒若丸」は公暁の門弟。
こんな親しい間柄で、こんなことが起こる物か?

時代の考証は、いろんな説があるようですが、真相はどうなんでしょうかね~~

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承久の乱での義村の差配で後堀川天皇が誕生!

承久3年(1221年):承久の乱。
承久の乱では、多くの武士が親兄弟分かれて、闘いました。
義村の弟「胤義」は京側。
その弟からは、兄に「京側」につくように手紙が。
然し動ぜず「北条義時」につき、出陣の方針で、大将軍の一人として、東海道を一路京都に。
6月15日に「東寺」で、弟と会うも

「シレ者ニカケ合テ無益ナリ」

と取あわなかったと。
乱は「北条」氏の圧勝で幕を閉じ、残るは戦後処理。
幕府は後鳥羽・土御門・順徳の3上皇を配流。
新しく「行助入道親王」を治天の君として院政を敷かせるとともに、その三の宮である茂仁王を
「後堀河天皇」
として擁立。

『賀茂旧記』
によるとその承久3年7月7日条には

「するがの守北白河殿にまいりて、宮せめいだしまいらせて、おがみまいらせて、同九日御くらゐにつかせ給ときこゆ」

意味は、駿河の守(義村)が、強引に宮を連れ出して、皇位につかせたとも取れると。
いずれ、この時点で活躍したことは間違いないです。

伊賀氏の変はホントにあった?

元仁元年(1224年)
北条義時が病死。
「伊賀の方」
が、義時の後家さん。

その方が、自分の実子の「政村」を執権に、また一条実雅を将軍職にと画策。
「一条実雅」
は自分の娘婿。
義村は「政村」の烏帽子親という関係。

当初、義村もこの陰謀に加担と言われ、しかし「政子」が義村邸に出向き、問いただしたことで翻意し、二心なきことを誓い、この陰謀はついえたと。
事件は、伊賀の方の一派の追放で決着。

しかし、事の真相はそう単純ではなさそうです。
諸説あり、やはりこれも闇の中。
が・・政子に、伊賀氏が処分されたことは事実なので、何かはあったんだと。

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三浦義村の晩年は幕府宿老!御成敗式目にも署名!

嘉禄元年(1225年)執権北条泰時のもとに
「評定衆」
が設置
「宿老」
として参加。
幕府内では、椀飯の沙汰では北条氏に次ぐ地位と。

貞永元年(1232年)の御成敗式目の制定にも署名。
4代将軍・藤原頼経は、将軍宣下ののち、三浦一族と接近するようになり、これが義村存命時は良かったのですが、なくなったと災いするように。

『吾妻鏡』安貞元年(1227年)・翌2年(1228年)・嘉禎2年(1236年)の条などでは、頼経が現在の神奈川県平塚市田村7丁目付近にあったと伝わる義村の田村館(田村山荘・田村城とも)を度々訪れた記録が見える
(wikipediaより)

かなりの近しさですね。
これは、敵は生まれるは必定かと。

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三浦義村の最後(死因)と墓の場所!菩提寺は福寿寺!

三浦義村の

  • ➀:死因
    ➁:墓の場所

を紹介します。

三浦義村の死因は脳卒中による突然死!

「三浦義村」
の死因の説明では「吾妻鏡」での記載は

「頓死、大中風」

とあります。
最初なんだろ?
でしたがこういう事のようです。

  • ➀:頓死:急死(突然死)
    ➁:大中風:脳卒中(脳梗塞、くも膜下出血、脳出血)

のことを言います。
年齢が、逆算すると「71歳」ですから、この時代の方にしてみれば、長生きだったですね。

三浦義村の墓の場所は福寿寺!

「三浦義村」
の墓は、福寿寺の塔頭南向院の跡地にあり、金田湾に面した崖の上。

此方の場所。
写真は、いろいろ公開されています。
上のマップの中の写真で、結構内容見れます。

参考までに。
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「宝治合戦」その後の三浦氏は子の泰村で滅亡!

鎌倉の風景写真

三浦氏は、泰村で七代目。
上記に書きましたが4代将軍の
「藤原頼経」
に接近。
この流れが

  • ➀:将軍家贔屓
    ➁:執権北条氏贔屓

の二派に分裂。
「三浦氏」
は「将軍家」派。
然し「泰村」の優柔不断さで、戦に至らずに決起のみで終わった感があります。

「宝治合戦」

で三浦氏嫡流は滅亡しましたが、「北条泰時」の前妻の
「矢部禅尼」(義村の娘)
の再婚先は三浦氏佐原流の「佐原盛連」。
子は

  • ➂:蘆名光盛
    ➃:加納(三浦)盛時
    ➄:新宮時連)

この子供たち・・
「宝治合戦」
では北条方。
「三浦氏」(佐原流)
は生き残って、「盛時」が三浦氏を再興しています。

北条義時とは盟友だったのか?機を見るに敏な性格!

「三浦義村」
と「北条義時」は盟友?
さて?

「藤原定家」の「明月記」の記述。

「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟」

との記述。
その行動と考え方は、理解不能であると。
確かに、和田合戦の場面では、最後のに手のひら返しで、義時方に・・いえいえ、これも画策のうちで、最初から北条方だった?
多分そうなのだろうと。

小説家の永井路子氏の論調が、的を得ているような気がします。

「不可解な人物」としつつ、「権謀――といって悪ければ緻密な計画性に富み、冷静かつ大胆、およそ乱世の雄たる資格をあますところなく備えたこの男は、武力に訴えることなく、終始北条一族を、振廻しつづけた。政治家的資質とスケールにおいて僅かに上回ると思われる北条義時すら足を掬われかけたこともしばしばだった」
(wikipediaより)

しかし、どちらに大義があるか?
「上杉謙信公」
のようにも思いますが、裏切りはある意味しない方だったのでは?
確かに、一族分かれてはあるのですが、その大義はやはり将軍家であり、それを補佐する
「執権北条氏」
にあるのだと、その辺をわきまえていたのだと、そんな印象を受けます。

思えば、そこは外していないな~~と思うのですが、皆さんはどう思いますか?

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*ヘッダーの写真は、私が撮影した松島円通院の風景写真です。

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