藤原秀衡の系図と家系図と子孫その後!源義経との関係と平泉金色堂!

弁慶堂の写真
藤原秀衡公の、藤原氏系図と家系図から見る子孫と、その後を解説。

・藤原秀衡の家系図と子孫のその後。
・源義経と鎌倉殿と平家との関係。
・墓所・安置は金色堂の須弥壇。
・世界遺産奥州平泉の写真紀行!

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今や世界遺産の奥州平泉。大河ドラマで紹介で、金色堂人気は高まりそうな予感。御朱印や写真を紹介しながら写真紀行で!

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藤原秀衡の系図から見る奥州藤原氏!

「藤原秀衡」
公は、奥州藤原氏の三代目当主。
奥州藤原氏の系図は以下。

奥州藤原氏系図

初代「藤原清衡」公の家系図で説明しましたが、なんとも複雑です。

藤原清衡と奥州藤原氏の家系図!平泉中尊寺金色堂のミイラと年表!

出羽の国「清原氏」と、奥州の安倍氏のどちらの血も次ぐ、まさしく
「奥州の覇者」
にふさわしい血筋と感じます。

「秀衡公」
はその三代目。
歴史は、源平合戦で、大きく動いているまさしく、大きく変わろうとしている場面。
子孫や、したことなど見ていこうと思います。

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藤原秀衡公の家系図!子孫とその後!

「藤原秀衡公」
の子供は、わかってるのでは
「六男一女」
です。
ところが、母親がわかっているのが、二人だけ。
しかし・なんともこの一族の最後は悲劇です。

藤原秀衡公の家系図!

以下です。

藤原秀衡公の家系図

「六男一女」
です。

*wikipediaその他の情報をもとに、私が作成しました。
ほぼこのようかと。
疑問の点あれば容赦ください。

嫡男泰衡は二男でもなぜ跡を継いだ?

理由は正室の子だから。
長男の「国衡」を押す家臣が多かったようですね。
どうしても母が

藤原基成娘:公家で弱々しい
信夫佐藤氏の娘:武将で勇ましい

という事があったようです。

が~~~秀衡公は、それを大いに危惧。
生きているうちに、その目を紡いでおきたい。
そう思うはこれ人情。
まして、鎌倉殿とのもしかしたら、義経が原因で一戦があるかも。
そこで編み出したウルトラC!!

なんと~~この「泰衡」の母の、自分の正室
「藤原基成娘」
を「国衡」の嫁にした。
こうすると、二人の子の親は???
三様に入り乱れました。

そこに義経も加わり、三人で力併せて・・「起請文」をかかせたとあります。
義経を、大将(大将軍)として事に当たれと。

「泰衡」
は、面白くなかったようですね。
反面「国衡」は約束を守ろうと、奮戦したようです。

藤原秀衡公の子孫(子供)のその後!

「藤原秀衡公」
の子供の一覧です。
その後の処遇も、記載しました。

側室:信夫佐藤氏の娘
  国衡 :長男奥州合戦(鎌倉殿との戦)の阿津賀志山の戦いで敗死。
正室(母):藤原基成の娘
 泰衡 :次男(嫡男)比内郡贄柵(現秋田県大館市)近辺で裏切りで無念の最後。
以下母不明
 忠衡 :三男義経保護主張し、泰衡と対立し非業の最後
 高衡 :四男奥州合戦後も生き残るが建仁の乱の首謀者の一人として敗死
 通衡 :五男忠衡と同母弟とあるが母は不明。忠衡に同じ運命。
 頼衡 :六男上に同じ:但し時期が違うような記述あり
 娘不明

上の表のような、子供の一覧とその後の運命です。
ただ一人、「娘」と記載があるのですが、詳細は調べたのですが不明。

奥州合戦時は、「源義経」の扱いをめぐって

「泰衡」 対 「その他兄弟」

で、対立して、どうしても嫡男(跡取り)の方に、部下は付いたイメージ。
母が違えば、感情も冷たかったのかもしれません。

皮肉にも、その「泰衡」の子供が、生き延びて延々と・・
歴史ですな~~などと。

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藤原秀衡公のしたことを年表で!

藤原秀衡公のしたことを、以下の表に年表にしてまとめてみました。

保安3年(1122年)生誕
保元2年(1157年)父基衡より家督相続。出羽国・陸奥国の押領使で軍は17万。
この時代都では平家全盛の時代。しかし源氏、平家には中立。
嘉応2年(1170年)5月25日従五位下・鎮守府将軍に叙任
安元年間【1577年頃)源義経を匿う
治承4年(1180年)義経は兄頼朝に加勢に参加。引き止めもあきらめる。
養和元年(1181年)頼朝を追討する院宣。従五位上・陸奥守に叙任
元暦元年(1184年)6月東大寺の再建に奉じる鍍金料金、頼朝の5倍の5千両奉納
文治3年(1187年)鎌倉殿は秀衡を強くけん制。義経を含み外交が活発化
文治3年(1187年)院庁下文が出され、反逆の意図ありと認定される。
文治3年(1187年)10月29日死去

鎌倉殿(源頼朝)は、平家を滅ぼした後、この奥州の覇者
「藤原氏」
の存在が、相当目障り。
「源義経」
に追討令が出ており、それを匿った時点で、反乱の逆賊認定だったんだと思います。

家臣、息子も一丸となって、遺言通り「義経」を総大将にして戦えば、いい戦になったかもしれません。

人間の欲とは、後先考えずに、その場の私利私欲で判断すると、こうなるのかもしれません。
現代では、まさか命がけの事はないですが、当時の時代なら、判断の誤りはまさしく、滅びゆくのみだったのかと。

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藤原秀衡公が眠る場所!安置されてる金色堂!

「藤原秀衡公」
の遺体は、現在の中尊寺の
「金色堂」
の伽藍の下に、藤原4代一緒に安置されています。

金色堂の写真
(管理人撮影)

「ミイラ化」
していたのですが、これについてお国の調査によって、現代の技術を使って、復元されました。
以前は、この調査の様子や、安置の状況などを
「讃衡蔵(さんこうぞう)」
という、金色堂の横にある施設で、有料ですが公開していました。
今は?
ちょっと行ってないので、定かではないですが、おそらくですが‥公開してるかと・・

平泉の当時の街並みなども、CGで再現されたものも、公開していました。(これはすごかった)
(この辺はどうでしょうか・・)

世界遺産中尊寺では、絶対にここは目玉。
ぜひ行ってみてください。

*中尊寺については、こちらで写真付きで、詳しく紹介しました。

中尊寺金色堂と世界遺産奥州平泉を写真で紹介!

*金色堂の覆い堂の写真です。
以前は金色堂はこの中にはいっていました。

金色堂の覆い堂

金色堂の御朱印の写真
(管理人がいただいた御朱印)

ついでに、御朱印も。
私がいただいたものです。

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藤原秀衡公と源義経と鎌倉殿と平家との関係!

「藤原秀衡公」
は、いずれ鎌倉方「源頼朝」との仲は、決定的になり、一戦も辞さず。
そう判断していたようです。

後、5年ほど長生きしていたら、世の中はもう少し違った、景色になっていたかもしれません。
が・・最終的に、あまりにも秀衡公の、この子供たちがいわゆる
「平和ボケ」
で、自分の事しか考えない、凡人だったようですから、いずれ結果は同じようなものだったようにも思います。

期待の星は「源義経」ですが、彼らからしたら

「なんでよそ者に・・」

そんなおもいかと。

鎌倉殿との、衝突の決定打は

文治2年(1186年)の、鎌倉殿の以下の文。

「陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介しよう」
(wikipediaより)

これまでは朝廷に直接納付。
それを鎌倉殿が仲介という事は、鎌倉殿より下位に。
が、鎌倉殿からしたら、自分は征夷大将軍・・という自負が。
しかし、これが最初のジャブ。

この一文で、最終対決は避けられないと、判断したと。
そう書かれています。

次に出てきたのが、東大寺再建に金3万両納付の件。

それが決定打。
断ると朝廷より院庁下文が陸奥国に出され、反逆者として認定。

どんどんエスカレートしていきます。
拒否って、いざ軍の派遣!
「奥州合戦」
とはいっても、まともな戦は行われず。
自滅したようなもの。

鎌倉殿の作戦勝ちでしょうが、なんとももったいない文化でした。
もしかしたら、小京都程度は維持されたかもしれません。

*タラレバでした。
・・・・・・・・・・
鎌倉殿の背景の、重要な役割を果たした武将を、思いつくままにまとめてみました。

鎌倉殿の源氏と平家の相関から見る武将の系図と家系図!子孫その後!

大江広元の家系図で見る子孫の祖語など解説しました。

大江広元の家系図と子孫には誰が?鎌倉幕府成立でしたこと年表で!

藤原清衡と奥州藤原氏の系図。

藤原清衡と奥州藤原氏の家系図!平泉中尊寺金色堂のミイラと年表!

初代清衡公のしたことなどを年表形式で解説しました。
・・・・・・・・・・・

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世界遺産奥州平泉の写真紀行!

「奥州平泉」
は世界遺産です。
行ったことがない方に、私が撮影した写真で、少しだけ紹介しようかと。
カメラは「フジーX」の一眼。(一部アイフォン13PRO)

写真で見る世界遺産奥州平泉の一部!

以下です。

此方は、中尊寺の入り口、月見坂の下にある
「弁慶の墓」
です。

平泉の弁慶の墓の写真

中尊寺の境内の写真

中尊寺の写真

歌人、松尾芭蕉の記念碑が立っています。
此方は、金色堂の中の方にあります。

平泉松尾芭蕉の写真

中尊寺の一番奥にある、白山神社「野外能楽堂」です。

野外能楽堂の写真

観自在王院跡の写真。
ここは、毛越寺のわきに当たります。
ここは広くて景色がよくて、大好きな場所(桜がきれい)です。

観自在王院跡の写真

以下の二枚は、毛越寺の写真です。
下の写真の池は
「大泉が池」
と言います。
とてもきれいで大好きな景色。

毛越寺の写真

毛越寺庭園の写真

義経の正室「郷御前」と子供の女児が祭られてる場所。

千手院の源義経の郷御前と女子の墓。

此方で紹介しました。

中尊寺と金色堂の季節と御朱印の写真!駐車場や観光とアクセス情報!

他にも、たくさんあります。
ぜひ、世界遺産「奥州平泉」の旅を、楽しんでください。

藤原秀衡公と奥州平泉の感想とまとめ!

「藤原秀衡」公
の人生と、奥州藤原三代の系図や、秀衡公の子供の名前や、その後の人生に触れてみました。
ほとんどは
「奥州合戦」
で、潰えてしまいました。

なんとも皮肉なことに、秀衡公の遺言を聞かなかった
「泰衡」
の、末子の「秀安」が、叔父の「俊衡」に匿われて、その後何代も続いていきます。
しかも「安倍氏」を名乗り。

世界遺産欧州平泉を思う!

奥州平泉は、世界遺産に登録されています。
私個人としては、ここは絶好の被写体なので、年に数回カメラをぶら下げて、写真を撮りに出かけます。

個人的に大好きなのは

  • ①:月見坂
    ②:野外能楽堂
    ③:金色堂
    ④:中尊寺でお参り
    ⑤:毛越寺と庭園
    ⑥:観自在王院

などなど。
他にもたくさんの見どころがあります。

この周辺は、「前九年の役」の遺跡もたくさん残っています。
特に、八幡太郎義家と、阿倍貞任が対峙した、場所はとても有名です。
平泉からすぐの場所です。

そこには、八幡神社が建てられています。
たくさんの歴史的に縁のある場所が、めじろ押しの場所です。

ぜひいちど奥州平泉をめぐってみてくださいね。

・・・・・・・・
平清盛の系図と家系図で、子孫やその後などを考察。

平清盛の家系図と正室と側室と子供のその後!したことの年表と最後!

平重盛は嫡男。

平重盛の家系図を平氏の系図で!妻と子孫のその後!生きていたら?

しかし、心が繊細だったような・・
・・・・・・・・・・

*ヘッダーの写真は、中尊寺の月見坂の弁慶堂の写真です。(私の撮影です)

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