関ヶ原の戦いの裏切り者は誰?小早川秀秋が寝返った理由と武将一覧

関ヶ原の戦いで寝返りを決断する武将の陣幕をイメージした戦国時代の風景

関ヶ原の戦いで裏切り者といえば、小早川秀秋の名前がよく知られています。
しかし、実際に西軍から東軍へ寝返った武将は、小早川秀秋だけではありません。
一方、吉川広家や毛利秀元、長宗我部盛親、島津義弘など、戦いに積極的に加わらなかった武将もいました。
では、誰が本当に裏切ったのでしょうか。
小早川秀秋が寝返った理由や、家老の稲葉正成の役割、ほかの武将たちの行動を整理し、裏切りが関ヶ原の勝敗に与えた影響と戦後の運命まで、わかりやすく解説します。

関ヶ原の戦いの裏切り者は誰?武将一覧で確認

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで、最も有名な裏切り者は小早川秀秋(こばやかわひであき)です。
しかし、西軍から東軍に味方したとされる武将は、小早川秀秋だけではありません。
一方で、西軍に属しながら積極的に戦わなかった武将もおり、全員を裏切り者と呼ぶのは正確ではありません。

まずは、武将ごとの行動を一覧表で確認してみましょう。

小早川秀秋をはじめとする寝返った武将一覧

関ヶ原の戦いで、東軍への寝返りに関わったとされる代表的な武将は、次の5人です。

武将名関ヶ原での行動分類
小早川秀秋松尾山から西軍の大谷吉継勢を攻撃寝返り
脇坂安治東軍側に転じて西軍を攻撃寝返り
小川祐忠東軍側に転じて西軍を攻撃寝返り
朽木元綱西軍への攻撃に加わったと伝わる寝返りとする通説あり
赤座直保西軍への攻撃に加わったと伝わる寝返りとする通説あり

このうち、小早川秀秋の寝返りは、関ヶ原の勝敗を左右した重要な出来事として知られています。
また、脇坂安治や小川祐忠が徳川家康側についたことも、合戦直後の記録から確認できます。

ただし、朽木元綱と赤座直保については、後世の軍記物などによる説明が多く、実際の行動には不明な点も残されています。
有名な「5人が寝返った」という説明にも、史料によって確実性の違いがあることを押さえておきましょう。

西軍から東軍へ寝返った武将は何人?

関ヶ原の戦いでは、一般に小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保の5人が寝返った武将として紹介されます。
ただし、これは代表的な武将を数えたもので、裏切り者の人数が厳密に5人と確定しているわけではありません。

そもそも、開戦前から徳川家康と連絡を取っていた武将と、戦いの最中に東軍側へ動いた武将では事情が異なります。
また、実際には戦闘に加わらず、西軍の行動を妨げた武将もいました。

そのため、関ヶ原の裏切りを理解するには、人数だけではなく、それぞれがどのような行動を取ったのかを見る必要があります。

寝返りと不参戦はどう違う?

関ヶ原の戦いでは、西軍に属しながら本戦で積極的に戦わなかった武将もいました。
代表的なのが吉川広家・毛利秀元・長宗我部盛親などです。

武将名主な行動扱い
吉川広家東軍側と事前に交渉し、本戦で積極的に戦わなかった内通・不参戦
毛利秀元南宮山方面に布陣したが、本戦に加わらなかった不参戦
長宗我部盛親西軍として布陣したが、本戦に加わらず撤退した不参戦
島津義弘積極的な攻勢を控え、西軍敗走時に敵中突破した西軍として撤退

特に吉川広家は、徳川家康側との交渉を進めていたことで知られています。
その一方、毛利秀元や長宗我部盛親まで、同じ意味で裏切り者とすることはできません。

また、島津義弘は西軍に属したまま、敗戦時に東軍の中を突破して撤退しました。
これは有名な「島津の退き口」であり、東軍への寝返りとは異なります。

つまり、「寝返った武将」と「戦わなかった武将」は分けて考える必要があるのです。
では、なぜ小早川秀秋は西軍から東軍側へ動いたのでしょうか。
次の章では、その背景を詳しく見ていきましょう。

関ヶ原の戦いでは、東軍と西軍に多くの武将が参加しました。
それぞれの所属や兵力、総大将の違いについては、関ヶ原の戦いの東軍・西軍メンバー一覧で比較しています。

小早川秀秋はなぜ裏切った?寝返りの理由

関ヶ原の戦いで、小早川秀秋はなぜ西軍を裏切ったのでしょうか。
豊臣秀吉の親族でありながら、徳川家康側についたことを不思議に思う方も多いでしょう。

実は、小早川秀秋が寝返った理由については、現在もさまざまな見方があります。
豊臣政権内での複雑な立場や領地をめぐる事情、徳川家康側との交渉などが関係したと考えられています。

まずは、その背景から見ていきましょう。

豊臣秀吉との関係と領地をめぐる事情

小早川秀秋は、豊臣秀吉の妻・北政所(ねね)の甥にあたる人物です。
幼いころに秀吉の養子となり、豊臣家の一員として育てられました。

しかし、秀吉に実子の秀頼が生まれると、秀秋を取り巻く状況は変化します。
秀秋は後に小早川隆景の養子となり、小早川家を継ぐことになりました。

さらに、朝鮮出兵の時期には、秀秋の領地や処遇をめぐって変動がありました。
筑前などの領地から越前への転封が命じられた後、秀吉の死後に旧領へ戻るという経緯が知られています。

こうした経験から、豊臣政権に対して不満を抱いていた可能性が指摘されています。
ただし、領地への不満が直接の裏切りの理由だったと断定できるわけではありません。

秀秋にとって、豊臣家との血縁だけでは、自分の立場や領地が安泰になるとは限らなかったのでしょう。

徳川家康との事前交渉はあった?

小早川秀秋の寝返りを考えるうえで重要なのが、徳川家康側との関係です。

関ヶ原の戦いの前から、家康側は西軍に属する武将たちへ働きかけを行っていました。
小早川秀秋の陣営にも東軍側との接触があったと考えられており、家臣の平岡頼勝や稲葉正成の名前が伝えられています。

つまり、秀秋の寝返りは、戦場で突然思いついた行動というより、合戦前から進められていた交渉と関係していた可能性が高いのです。

もっとも、誰がいつ、どのような条件を提示したのかについては、史料によって説明が異なります。
秀秋本人の意思と家臣たちの働きかけが、どの程度影響したのかも慎重に考える必要があります。

稲葉正成と平岡頼勝については、後の章で詳しく紹介します。

関ヶ原の戦い前に東軍と西軍の間で行われた密かな交渉をイメージした場面

関ヶ原の戦いの前には、武将たちの間でさまざまな交渉が行われていた。

小早川秀秋は最初から裏切るつもりだった?

では、小早川秀秋は関ヶ原の戦いが始まる前から、東軍につくことを決めていたのでしょうか。

秀秋は合戦当日、戦場を見渡せる松尾山に大軍を配置していました。
この位置から動けば、西軍の側面に大きな打撃を与えることができます。

一方、従来の物語では、秀秋は東軍と西軍のどちらにつくか迷い続け、徳川家康が鉄砲を撃たせたことで寝返りを決断したと語られてきました。

しかし、この有名な「問鉄砲(といでっぽう)」の逸話は、後世に広まった説明であり、そのまま史実とすることはできません。

事前交渉があったことを踏まえると、秀秋が合戦当日まで何も決めていなかったという見方にも疑問が残ります。
ただし、いつ最終的に東軍への加担を決断したのかは、明確には分かっていません。

小早川秀秋の寝返りには、豊臣政権内での立場、領地をめぐる事情、家康側との交渉など、複数の要因が関わっていたと考えるのが自然でしょう。

次の章では、松尾山に陣取った小早川秀秋が、実際にどのような動きを見せたのかを確認していきます。

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小早川秀秋の寝返りはどう起きた?松尾山からの動き

関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の寝返りは西軍に大きな打撃を与えました。
しかし、秀秋がいつ東軍側に動いたのか、徳川家康からどのような働きかけがあったのかについては、現在も議論があります。

まずは、秀秋が陣取った松尾山の位置と、戦場での動きを見ていきましょう。

松尾山に陣取った小早川秀秋

小早川秀秋は、関ヶ原の南西に位置する松尾山に布陣していました。
松尾山は周辺を見渡せる高所で、関ヶ原の戦場に大きな影響を与える場所でした。

秀秋の軍勢は約1万5,000人と伝えられていますが、兵数は史料や研究によって異なります。
いずれにしても、東軍と西軍の勝敗を左右し得る有力な軍勢だったことは確かです。

一方、松尾山の麓に近い地域には、西軍の大谷吉継が布陣していました。
大谷吉継は秀秋の動きを警戒していたとされ、寝返りが起きた際には、その軍勢と戦うことになります。

つまり、小早川秀秋が松尾山からどちらに動くかは、関ヶ原の戦況に大きく関わる問題だったのです。

松尾山にいた小早川秀秋と、大谷吉継らの軍勢はどのような位置関係だったのでしょうか。
戦場の配置を図で確認したい方は、関ヶ原の戦いの布陣図と東軍・西軍の配置・新説も参考にしてみてください。

家康の問鉄砲は本当にあった?

小早川秀秋の寝返りには、有名な「問鉄砲(といでっぽう)」という逸話があります。

この話では、東軍につくかどうか迷っていた秀秋に対し、徳川家康が松尾山へ鉄砲を撃たせたとされています。
その銃声に驚いた秀秋が、ようやく西軍への攻撃を命じたというものです。

歴史ドラマなどでも取り上げられる印象的な場面ですが、問鉄砲が実際に行われたと確実に証明できる同時代史料は確認されていません。

また、小早川秀秋の陣営と徳川家康側には、合戦前から接触があったと考えられています。
そのため、秀秋が銃声を聞いて初めて寝返りを決断したという説明には、慎重な見方が必要です。

問鉄砲は関ヶ原の戦いを象徴する有名な逸話ですが、史実として断定するのではなく、後世に伝わった話として理解するのが適切でしょう。

大谷吉継への攻撃と西軍の崩壊

関ヶ原の戦いで、小早川秀秋の軍勢は松尾山から動き、西軍の大谷吉継勢を攻撃しました。

大谷吉継は秀秋の動きを警戒していたと伝えられ、攻撃に対して抵抗しました。
しかし、周辺の軍勢も東軍側に転じたことで、大谷勢は厳しい状況に追い込まれます。

脇坂安治や小川祐忠らの行動も、西軍側の戦線が崩れる要因となりました。
朽木元綱や赤座直保についても寝返りに加わったとする通説がありますが、その具体的な動きには史料上の不明点が残ります。

やがて大谷勢は敗れ、大谷吉継も戦場で命を落としました。
小早川秀秋らの攻撃は、西軍にとって大きな打撃となったのです。

ただし、西軍の敗北を小早川秀秋の寝返りだけで説明することはできません。
南宮山方面の毛利勢が本戦に加わらなかったことや、各地の軍勢の動きなど、複数の事情が重なっていました。

小早川秀秋の寝返りは、その中でも勝敗に大きな影響を与えた出来事として知られています。

では、秀秋の決断には、家臣たちがどのように関わっていたのでしょうか。
次の章では、家老の稲葉正成と平岡頼勝に注目します。

小早川秀秋の家老・稲葉正成と平岡頼勝の役割

関ヶ原の戦いで小早川秀秋が東軍側に動いた背景には、家臣たちの存在もありました。
その中で注目されるのが、稲葉正成(いなばまさなり)と平岡頼勝(ひらおかよりかつ)です。

二人は小早川秀秋を支えた重臣として知られ、徳川家康側との関係や寝返りを考えるうえで重要な人物です。
それぞれがどのような役割を果たしたとされるのか、見ていきましょう。

稲葉正成は寝返りに関わった家老

稲葉正成は、小早川秀秋に仕えた家老・重臣の一人です。
関ヶ原の戦いでは、秀秋が徳川家康側につく過程に関わった人物として知られています。

正成については、関ヶ原の戦いの後、徳川家康がその働きを評価したとされる書状の写しが伝わっています。
そこには、小早川秀秋の忠節が正成の働きによるものだという趣旨が記されています。

このことから、正成が秀秋と東軍側との関係を取り持つうえで、重要な役割を担った可能性が考えられます。

ただし、書状は写しとして伝わるものであり、原本によって確認できるわけではありません。
また、正成がいつ、どのような交渉を行ったのかも明確ではありません。

そのため、稲葉正成が小早川秀秋を説得して寝返らせたとまでは断定できないのです。

平岡頼勝と東軍側との交渉

平岡頼勝も、小早川秀秋に仕えた重臣の一人です。
秀秋の養父である小早川隆景の時代から小早川家に関わり、秀秋を支えた人物として知られています。

関ヶ原の戦いをめぐっては、平岡頼勝も徳川家康側との連絡や交渉に関わったとされています。

小早川秀秋は豊臣秀吉の養子となった経歴を持ち、豊臣家との結び付きが深い武将でした。
その秀秋が東軍側に動くことは、家中にとっても大きな決断だったはずです。

重臣たちが秀秋の進む道について意見を述べ、東軍側との関係を調整していた可能性は十分に考えられます。

しかし、平岡頼勝が具体的にどのような条件を交渉したのか、秀秋の決断にどれほど影響したのかについては、不明な点が残ります。

関ヶ原の寝返りは、小早川秀秋一人の迷いや判断だけではなく、家臣たちの動きも含めて考える必要があるでしょう。

稲葉正成の妻・お福は後の春日局

稲葉正成には、もう一つ興味深い歴史上のつながりがあります。
その妻のお福は、後に徳川家光の乳母となる春日局(かすがのつぼね)です。

お福の父は、明智光秀の重臣として知られる斎藤利三でした。
本能寺の変の後、斎藤利三は処刑され、お福も幼いころから波乱の人生を歩むことになります。

その後、お福は稲葉正成と結婚し、子供をもうけました。
そして、江戸幕府の二代将軍・徳川秀忠の子である竹千代、後の三代将軍・徳川家光の乳母となります。

お福は後に春日局と呼ばれ、江戸城大奥の制度や運営に大きな影響を与えた人物として知られるようになりました。

つまり、関ヶ原の戦いで小早川秀秋に仕えた稲葉正成は、後の徳川幕府で重要な役割を果たす春日局の夫でもあったのです。

ただし、春日局が乳母に選ばれた理由を、正成の関ヶ原での働きだけに結び付けることはできません。
この二人の関係は、戦国時代から江戸時代へと続く歴史のつながりとして理解すると面白いでしょう。

*稲葉正成と平岡頼勝は、小早川秀秋の重臣として、東軍側との交渉に関わったと伝えられています。
ただし、二人が具体的にどのような働きかけを行い、秀秋の決断にどこまで影響したのかは、史料から明確に判断できません。

次の章では、小早川秀秋以外にも東軍側へ動いた、脇坂安治らの武将を紹介します。

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脇坂安治らも寝返った?西軍から東軍へ動いた武将

関ヶ原の戦いで西軍を攻撃したのは、小早川秀秋だけではありません。
脇坂安治(わきざかやすはる)や小川祐忠(おがわすけただ)なども、東軍側に転じた武将として知られています。

また、朽木元綱(くつきもとつな)や赤座直保(あかざなおやす)も、寝返った武将として名前が挙げられます。
ただし、4人の行動や寝返りに至った事情には違いがあり、史料上の確実性も同じではありません。

それぞれの武将について見ていきましょう。

脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保

小早川秀秋以外に、関ヶ原で寝返ったとされる代表的な武将は次の4人です。

武将名関ヶ原での動き特徴
脇坂安治西軍側から東軍側に転じた合戦前から東軍側との連絡があった
小川祐忠西軍側から東軍側に転じた大谷吉継勢への攻撃に関わった
朽木元綱寝返りに加わったと伝えられる具体的な行動には不明な点がある
赤座直保寝返りに加わったと伝えられる具体的な行動には不明な点がある

このうち、脇坂安治は豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の七本槍の一人としても知られる武将です。
関ヶ原では西軍側に布陣していましたが、合戦前から徳川家康側と連絡を取っていたことが知られています。

小川祐忠も、関ヶ原で東軍側についた武将として知られています。
一方、朽木元綱と赤座直保については、後世の軍記物などに見られる寝返りの説明を、そのまま確定した史実として扱うことには注意が必要です。

つまり、一般に「小早川秀秋とともに寝返った4人」と紹介される武将たちにも、それぞれ異なる事情があったのです。

小早川秀秋の寝返りと各武将の動き

従来の関ヶ原の戦いの説明では、小早川秀秋が松尾山から大谷吉継勢を攻撃し、それに続いて脇坂安治ら4人も寝返ったと語られてきました。

この説明は広く知られていますが、実際の戦場で各武将がいつ、どのように動いたのかを正確に再現することは容易ではありません。

特に脇坂安治は、合戦前から東軍側と接触していたため、秀秋の動きを見て初めて寝返りを決断したとは限りません。

また、各武将が同時に行動したのか、それぞれ異なるタイミングで動いたのかについても、史料によって説明が異なります。

そのため、小早川秀秋の寝返りをきっかけに4人が一斉に裏切った、と単純に断定することはできません。

関ヶ原の戦いでは、合戦前から進められていた東軍側の働きかけと、戦場での軍勢の動きが重なっていたと考えられます。

関ヶ原の戦いで軍勢が進路を変え戦況が混乱する様子をイメージした戦国時代の風景

武将たちの動きが変わったことで、関ヶ原の戦況は大きく揺れ動いた。

寝返った武将の行動は勝敗にどう影響した?

小早川秀秋や脇坂安治らの行動は、西軍の大谷吉継勢に大きな打撃を与えました。

大谷吉継は、秀秋の動きを警戒していたと伝えられています。
しかし、複数の軍勢から攻撃を受けたことで、戦況は厳しくなりました。

やがて大谷勢は崩れ、大谷吉継も戦場で命を落とします。
この戦線の崩壊は、西軍全体にとって大きな痛手となりました。

ただし、関ヶ原の戦いでは、南宮山方面に布陣した毛利勢が本戦に加わらなかったことなど、ほかにも勝敗に関わる重要な事情がありました。

したがって、西軍の敗北は小早川秀秋らの寝返りだけで決まったわけではありません。
それでも、西軍の一部が東軍側に転じて味方を攻撃したことは、戦況を大きく変えた要因の一つでした。

では、西軍に属しながら戦わなかった吉川広家や毛利秀元、長宗我部盛親、島津義弘は、裏切り者と呼べるのでしょうか。
次の章では、それぞれの行動の違いを整理します。

吉川広家・毛利秀元・長宗我部盛親・島津義弘は裏切った?

関ヶ原の戦いでは、西軍に属しながら積極的に戦わなかった武将もいました。
その代表が吉川広家・毛利秀元・長宗我部盛親・島津義弘です。

しかし、この4人をすべて裏切り者と呼ぶのは正確ではありません。
東軍側と内通していた武将もいれば、味方の動きに影響されて戦えなかった武将もいたからです。

それぞれの事情を見ていきましょう。

吉川広家の内通と毛利秀元の不参戦

吉川広家(きっかわひろいえ)は、毛利元就の孫にあたり、毛利家を支えた有力武将です。
関ヶ原の戦いでは西軍に属していましたが、合戦前から徳川家康側と交渉していました。

当時、毛利輝元は西軍の総大将という立場にありました。
しかし広家は、毛利家が東軍と全面的に戦えば、敗北した際に領地を失う危険があると考えたとされています。

そこで広家は、毛利家の存続を図るため、東軍側との交渉を進めました。

関ヶ原の本戦では、広家の軍勢が南宮山方面の進路を押さえ、後方にいた毛利秀元らの軍勢も積極的に戦うことができませんでした。

毛利秀元は毛利一門の武将で、南宮山に布陣していました。
後世には、出陣を促されても「兵に弁当を食べさせている」と答えたという、いわゆる「宰相殿の空弁当」の逸話も伝わっています。

ただし、この逸話を当日の会話としてそのまま史実と断定することはできません。

重要なのは、吉川広家には東軍側との事前交渉があった一方、毛利秀元自身が東軍へ寝返ったわけではないという点です。

しかも広家の思惑に反して、戦後の毛利家は大幅な減封を受けました。
毛利家の領地は中国地方の広大な地域から、周防・長門の二国へと縮小されることになります。

吉川広家は、なぜ西軍に属しながら徳川方と交渉していたのでしょうか。
毛利秀元の「宰相殿の空弁当」という逸話や、戦後の毛利家の運命については、吉川広家が関ヶ原で裏切ったといわれる理由と毛利軍の不戦で詳しくたどっています。

長宗我部盛親はなぜ戦わなかった?

長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、土佐を治めていた戦国大名です。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、南宮山方面に布陣していました。

しかし、盛親の軍勢は本戦で目立った戦闘を行わず、最終的に撤退しています。

その背景には、前方に布陣していた吉川広家らの軍勢が動かなかったことが関係したと考えられています。
南宮山方面の西軍は、各部隊が自由に進軍できる状態ではなかったのです。

もっとも、長宗我部勢が戦闘に加わらなかった事情のすべてが明らかになっているわけではありません。

少なくとも、盛親が徳川家康と内通し、西軍を裏切ったと断定できる根拠はありません。

その後、盛親は関ヶ原の敗戦によって土佐の領地を失いました。
もし東軍側への寝返りを成功させた武将だったなら、このような結果にはならなかった可能性もありますが、戦後処分だけで当日の意図を判断することはできません。

長宗我部盛親は、裏切り者というよりも、西軍に属しながら十分に戦えなかった武将として理解するのが適切でしょう。

島津義弘はなぜ動かなかった?島津の退き口とは

島津義弘(しまづよしひろ)は、薩摩の島津家を代表する武将です。
関ヶ原の戦いでは西軍に属していましたが、合戦中は積極的な攻勢に出なかったと伝えられています。

その理由については、石田三成との関係や軍勢の規模、戦場での判断など、さまざまな説明があります。
ただし、特定の理由だけで義弘の行動を説明することはできません。

西軍の敗北が決定的になると、島津義弘は戦場からの脱出を図りました。

ここで有名なのが「島津の退き口(しまづののきぐち)」です。

義弘の軍勢は、敵の包囲を避けて後方へ引き返すのではなく、東軍の中を突破して戦場を離脱したと伝えられています。
この撤退戦では、島津豊久や長寿院盛淳らが義弘を逃がすために犠牲になりました。

島津勢の撤退は激しい戦闘を伴うものであり、単に戦わず逃げたという話ではありません。

そして、最も重要なのは、島津義弘が西軍から東軍へ寝返ったわけではないということです。

関ヶ原の戦いでは、同じ西軍に属していても、武将によって行動も事情も異なっていました。
小早川秀秋の寝返り、吉川広家の内通、毛利秀元や長宗我部盛親の不参戦、島津義弘の撤退は、それぞれ分けて考える必要があります。

では、こうした寝返りや不参戦がなければ、西軍は関ヶ原の戦いに勝てたのでしょうか。
次の章では、その可能性を考えてみましょう。

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関ヶ原の戦いで裏切りがなければ西軍は勝った?

関ヶ原の戦いで、小早川秀秋らが裏切らなければ、西軍は勝っていたのでしょうか。
歴史好きなら、一度は考えたことがある疑問かもしれません。

実際、西軍には小早川秀秋の軍勢だけでなく、毛利秀元や長宗我部盛親など、十分に戦闘へ参加しなかった軍勢もありました。
これらの武将が違う行動を取っていれば、戦況が変わった可能性はあります。

ただし、裏切りがなければ西軍が必ず勝った、と断定することはできません。
いくつかの状況に分けて考えてみましょう。

小早川秀秋が寝返らなかった場合

まず、小早川秀秋が西軍を攻撃しなかった場合です。

秀秋は松尾山に大軍を配置しており、その動きは戦場に大きな影響を与えるものでした。
実際には秀秋の軍勢が大谷吉継勢を攻撃し、西軍の戦線が崩れる重要な要因となりました。

もし秀秋が寝返らず、松尾山にとどまっていたなら、大谷吉継勢が受ける圧力は小さくなった可能性があります。

さらに、秀秋が西軍として東軍を攻撃していたなら、東軍は松尾山方面への対応を迫られたかもしれません。

しかし、秀秋が寝返らなかったとしても、必ず西軍のために戦ったとは限りません。
中立的な態度を続けることも考えられます。

つまり、「寝返らなかった場合」と「西軍として積極的に戦った場合」では、戦況への影響が異なるのです。

毛利勢や長宗我部勢が参戦していたら?

もう一つの大きな問題が、南宮山方面に布陣していた西軍の動きです。

関ヶ原の戦いでは、吉川広家の軍勢が積極的に動かず、毛利秀元や長宗我部盛親らの軍勢も本戦に加わりませんでした。

もし、これらの軍勢が東軍に向けて進軍していたなら、東軍は別の方面からも攻撃を受けることになった可能性があります。

特に毛利家は、西軍の総大将である毛利輝元を中心とする有力大名でした。
その一門の軍勢が本戦で十分に力を発揮できなかったことは、西軍にとって大きな問題だったと考えられます。

ただし、南宮山方面の軍勢が動けば、そのまま東軍を挟み撃ちにできたと断定することはできません。

進軍する道筋や地形、東軍側の対応などによって、実際の戦況は変わっていたはずです。

それでも、毛利勢や長宗我部勢が参戦していれば、西軍の戦い方に新たな選択肢が生まれた可能性はあるでしょう。

裏切りがなくても勝敗は断定できない

では、小早川秀秋が寝返らず、毛利勢や長宗我部勢も戦っていたら、西軍は勝てたのでしょうか。

その可能性を考えることはできますが、実際の勝敗を予測することは困難です。

関ヶ原の戦いでは、徳川家康が西軍の諸将に対して事前に働きかけを行っていました。
また、東軍と西軍の戦力や指揮系統、各武将の思惑も複雑に絡み合っていました。

仮に小早川秀秋が寝返らなかったとしても、東軍が別の作戦を取った可能性があります。
反対に、西軍の軍勢がより積極的に行動していれば、東軍が苦戦した可能性も否定できません。

そもそも、関ヶ原の戦いは一つの裏切りだけで結果が決まったわけではありません。
合戦前の外交交渉や各地での軍事行動、武将同士の関係なども、勝敗に関わっていました。

そのため、「裏切りがなければ西軍は必ず勝っていた」という説明は、歴史的な事実ではなく仮定の話になります。

ただし、小早川秀秋の寝返りや南宮山方面の不参戦が、西軍に不利な状況を生み出したことは重要です。

関ヶ原の戦いを考えるときは、裏切り者が誰だったのかだけでなく、なぜ西軍の軍勢が一体となって戦えなかったのかにも注目すると、勝敗の背景が見えてきます。

西軍の敗因を考えるうえでは、徳川家康が合戦前から進めていた交渉や戦略も見逃せません。
家康がどのように勝利につなげたのかについては、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝った理由と戦略で詳しく見ています。

次の章では、寝返った武将たちが戦後にどのような運命をたどったのかを紹介します。

裏切った武将たちのその後は?小早川秀秋の最期

関ヶ原の戦いで東軍の勝利に貢献した武将たちは、戦後どのような運命をたどったのでしょうか。
小早川秀秋は大きな領地を与えられましたが、わずか2年後に亡くなっています。

一方、脇坂安治のように領地を維持し、江戸時代まで大名として生き残った武将もいました。
寝返った武将たちの戦後の運命は、決して同じではなかったのです。

小早川秀秋は岡山を領した後に早世

小早川秀秋は関ヶ原の戦いの後、備前・美作約50万石を与えられ、岡山城主となりました。
これは、東軍の勝利に貢献したことへの恩賞と考えられています。

現在の岡山県にあたる地域を中心に、大きな領地を与えられたのです。

これは、東軍の勝利に貢献したことへの恩賞と考えられています。

しかし、秀秋がその領地を治めた期間は長くありませんでした。

小早川秀秋は1602年(慶長7年)、数え年21歳で亡くなりました。
死因については病死説があるものの、詳しい事情は明らかになっていません。

生前の飲酒や病気との関係を指摘する説もありますが、死因を確定することはできません。
また、大谷吉継の祟りで亡くなったという話も伝わっていますが、これは後世の伝承として扱う必要があります。

ただし、大谷吉継の祟りで亡くなったという話は伝説であり、史実として確認できるものではありません。

秀秋には家督を継ぐ男子がおらず、死後、小早川家は改易となりました。

関ヶ原の戦いで大きな恩賞を得たものの、その栄華はわずか2年ほどで終わってしまったのです。

関ヶ原の戦い後に小早川秀秋が領した岡山の城と城下町をイメージした風景

関ヶ原の戦い後、小早川秀秋は岡山城主となったが、わずか2年後に亡くなった。

脇坂安治ら寝返った武将の戦後

小早川秀秋のほかにも、脇坂安治や小川祐忠が東軍側についたことが知られています。
また、朽木元綱や赤座直保も寝返った武将として伝えられていますが、その具体的な行動には不明な点があります。

武将名関ヶ原の戦い後の主な動向
脇坂安治所領を維持し、後に伊予大洲へ移封された
小川祐忠戦後に改易された
朽木元綱所領の一部を維持し、江戸時代にも領主として存続した
赤座直保戦後に所領を失い、前田家に仕えたとされる

脇坂安治は、関ヶ原の戦いの後も大名としての地位を維持しました。
後に伊予大洲へ移り、脇坂家は江戸時代にも大名家として続いていきます。

一方、小川祐忠は東軍側に転じたにもかかわらず、戦後に領地を失いました。
赤座直保も所領を失い、前田家に仕えたと伝えられています。

朽木元綱は領地の一部を維持しましたが、大きな加増を受けたわけではありません。

このように、東軍側についたからといって、必ずしも領地が増えたり、大名としての地位が保証されたりしたわけではありません。

戦後の処遇には、合戦前からの徳川家康との関係や、各武将の立場なども影響したと考えられます。

吉川広家と毛利家の戦後

吉川広家は、関ヶ原の戦いの前から徳川家康側と交渉し、毛利家を守ろうとした武将でした。

しかし、戦後の毛利家は厳しい処分を受けます。

毛利輝元は西軍の総大将という立場にあったため、徳川家康は毛利家の領地を大幅に削減しました。
その結果、毛利家は中国地方の広大な領地を失い、周防・長門の二国を領する大名となります。

吉川広家自身は、毛利家の存続に尽力した人物として知られています。
しかし、その行動によって毛利家の領地を以前のまま守ることはできませんでした。

広家はその後も毛利家に仕え、岩国を拠点とする吉川家の基礎を築いていきます。

関ヶ原の戦いでは、裏切りや内通によって東軍の勝利に貢献したとしても、その後の運命は武将によって大きく異なりました。

一方、西軍の中心人物だった石田三成は、敗戦後にどのような最期を迎えたのでしょうか。
西軍が敗れた理由と三成の処刑までの経緯については、関ヶ原の戦いで石田三成が負けた理由とその最期でたどっています。

小早川秀秋の早世、脇坂安治の大名としての存続、小川祐忠らの改易、そして毛利家の大幅な減封。
関ヶ原の戦いは、勝敗だけでなく、その後の武将たちの人生も大きく変えた戦いだったのです。

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まとめ|関ヶ原の戦いの裏切りと勝敗への影響

関ヶ原の戦いで最も有名な裏切り者は、小早川秀秋です。
しかし、東軍側へ転じた武将は秀秋だけではなく、脇坂安治や小川祐忠らも寝返りに関わりました。

今回の内容を整理すると、次のようになります。

  • 小早川秀秋は松尾山から大谷吉継勢を攻撃し、西軍に大きな打撃を与えた。
  • 脇坂安治や小川祐忠も東軍側に転じ、朽木元綱や赤座直保にも寝返りの伝承がある。
  • 稲葉正成や平岡頼勝は、小早川秀秋の寝返りに関わった重臣として知られる。
  • 吉川広家は東軍側と交渉したが、毛利秀元や長宗我部盛親まで同じ意味で裏切り者とはいえない。
  • 島津義弘は東軍へ寝返ったのではなく、西軍の敗北後に敵中を突破して撤退した。
  • 裏切りがなければ戦況が変わった可能性はあるものの、西軍が勝ったとは断定できない。

小早川秀秋が寝返った理由については、豊臣政権内での立場や領地をめぐる事情、徳川家康側との事前交渉などが関係したと考えられています。
ただし、本人がいつ、何を決め手に東軍側へ動くことを決断したのかは、明確になっていません。

また、関ヶ原の戦いで西軍が敗れた原因は、裏切りだけではありません。
各武将の思惑が異なり、西軍の軍勢が一体となって戦えなかったことも重要な要因でした。

関ヶ原の戦いは、単なる東軍と西軍の戦力争いではなく、武将たちの判断や交渉が勝敗を大きく左右した戦いだったといえるでしょう。

参考資料・出典

  • 笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』新潮社、2022年。
  • 笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』吉川弘文館、2007年。
  • 笠谷和比古『関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』講談社学術文庫、2008年。
  • 歴史街道編集部編『新視点で読み解く! 関ケ原合戦と大坂の陣』PHP研究所、2025年。

※関ヶ原の戦いについては、軍記物などで広まった逸話と、同時代の史料から確認できる事実が必ずしも一致しません。
本記事では、小早川秀秋の寝返りや家康の問鉄砲、各武将の行動について、諸説がある場合は断定を避けています。

※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。

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