関ヶ原の戦いの布陣図を簡単に!東軍・西軍の配置と勢力図・新説も紹介

関ヶ原の戦いの舞台となった山々に囲まれた盆地と東軍・西軍の陣地をイメージした歴史風景

関ヶ原の戦いでは、東軍と西軍の武将たちは、どこに陣を構えていたのでしょうか。

石田三成の笹尾山、小早川秀秋の松尾山、徳川家康の桃配山など、布陣図を見ると、それぞれの位置関係が見えてきます。

しかし、家康は戦いの途中で本陣を移しており、武将の配置についても従来の説と新しい研究では違いがあります。

この記事では、関ヶ原の戦いの布陣図をもとに、東軍・西軍の配置や勢力図、主な武将の陣地をたどってみます。

田中吉政など、あまり知られていない武将にも目を向けながら、戦場の様子を確認してみましょう。

関ヶ原の戦いの布陣図!東軍・西軍の配置を簡単に確認

1600年(慶長5年)9月15日、現在の岐阜県関ケ原町周辺で、徳川家康率いる東軍と石田三成らの西軍が激突しました。
関ヶ原の戦いは、全国の大名を巻き込んだ天下分け目の戦いとして知られています。

では、東軍と西軍の武将たちは、実際にどのような位置関係で陣を構えていたのでしょうか。
まずは、主な武将の配置を示した布陣図を見てみましょう。

関ヶ原の戦いの東軍・西軍の主要武将と笹尾山・松尾山・桃配山・南宮山を示した布陣概略図

関ヶ原の戦いの東軍・西軍の布陣概略図。武将の位置や地形は模式的に表現しています。

※この布陣図は、関ヶ原の戦いにおける東軍・西軍の主な武将の配置を、従来の布陣説や関係史跡を参考に模式的に示したものです。
実際の地形・距離・縮尺を正確に再現した地図ではありません。
武将の布陣位置には諸説があり、田中吉政など正確な陣地が確定していない武将も含まれます。

布陣図で見る東軍・西軍の位置関係

布陣図を見ると、東軍と西軍が関ヶ原の盆地を中心に向かい合っていた様子が分かります。
西軍の石田三成は北西側の笹尾山に陣を構え、宇喜多秀家や小西行長らも、その周辺に布陣したとされています。

一方、東軍の徳川家康は、戦いの初めには東側の桃配山に本陣を置いていました。
その前方には福島正則や黒田長政、細川忠興などの軍勢が展開していたと伝えられています。

さらに南側の松尾山には小早川秀秋、東南側の南宮山周辺には毛利秀元や吉川広家らの軍勢がいました。
このように、関ヶ原の戦場は、盆地の中央だけでなく周囲の山々も含めて考える必要があります。

布陣図の色分けと見方

今回の布陣図では、武将の所属や動きを分かりやすくするため、色分けしています。

  • 青色:東軍……徳川家康、福島正則、黒田長政、田中吉政など
  • 赤色:西軍……石田三成、宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継など
  • 黄色・橙色:小早川秀秋……当初は西軍側に属し、戦いの途中で東軍側に転じた武将

また、徳川家康については、桃配山の最初の陣地と、戦いの途中で移動したとされる陣場野の位置を分けて示しています。
これは、合戦開始時と戦闘途中の配置を区別するためです。

色分けと山の位置を合わせて見ると、各軍勢がどの方向に展開していたのか、イメージしやすくなると思います。

布陣図に登場する武将の名前や所属を一覧で確認したい方は、関ヶ原の戦いの東軍・西軍メンバー一覧と総大将・兵力の比較も参考にしてみてください。

布陣図は実際の配置と完全に一致するのか?

関ヶ原の戦いの布陣図には、いくつか異なるものがあります。
その理由の一つは、当時の武将の位置を、すべて正確に特定できるわけではないためです。

現在は各地に武将の陣跡碑が残されていますが、必ずしも当時の陣地の中心を示しているとは限りません。
また、江戸時代以降に伝えられた合戦の記録と、近年の史料研究による見方が異なる場合もあります。

そのため、今回の布陣図も、東軍・西軍の大まかな位置関係を確認するための概略図としてご覧ください。

では、実際にどの武将が東軍に加わり、どこに陣を構えたとされているのでしょうか。
次の章では、徳川家康をはじめとする東軍の主な武将を見ていきましょう。

関ヶ原の戦いの東軍の布陣と主な武将

関ヶ原の戦いで東軍を率いたのは、徳川家康でした。
東軍には、福島正則や黒田長政、細川忠興、井伊直政など、多くの武将が参加しています。

ただし、東軍の武将たちが全員同じ場所に集まっていたわけではありません。
関ヶ原の東側から中央部にかけて軍勢を展開し、それぞれが西軍と向き合っていました。

ここでは、東軍の主な武将と布陣したとされる場所を、順番に見ていきましょう。

徳川家康|桃配山から陣場野へ

徳川家康は、関ヶ原の東側にある桃配山(ももくばりやま)に最初の本陣を置いたと伝えられています。
桃配山は戦場全体から見ると東寄りに位置し、家康が軍勢の動きを見守る場所だったと考えられています。

ところが、家康は合戦の途中で本陣を前方へ移したとされています。
移動先として知られるのが、現在の関ケ原町にある陣場野(じんばの)です。

布陣図で桃配山と陣場野を比べると、家康が戦場の中心に近づいたことが分かります。

ただし、本陣を移した正確な時刻や、その理由については、伝承や史料の解釈に違いがあります。
家康の前進については、後の章でもう少し詳しく見てみましょう。

福島正則・黒田長政・細川忠興の配置

東軍の前線で活躍した武将として、福島正則、黒田長政、細川忠興が挙げられます。

福島正則は、豊臣秀吉に仕えた武将でしたが、関ヶ原の戦いでは東軍に参加しました。
関ヶ原の中央から南寄りの方面で、宇喜多秀家の軍勢と激しく戦ったと伝えられています。

黒田長政も東軍の中心的な武将の一人です。
笹尾山に陣を構えた石田三成の軍勢と向き合い、戦闘に加わりました。

細川忠興も東軍に属し、黒田長政らとともに石田三成の軍勢を攻めたとされています。

このように東軍は、複数の武将がそれぞれの正面にいる西軍と戦う形で展開していました。
布陣図を見る際も、東軍全体を一つの集団として見るより、各武将がどの西軍部隊と向き合っていたのかに注目すると分かりやすくなります。

井伊直政・松平忠吉ら東軍の動き

井伊直政は、徳川家康の重臣として知られる武将です。
関ヶ原の戦いでは、家康の四男である松平忠吉とともに行動したと伝えられています。

合戦の始まりについては、井伊直政と松平忠吉の部隊が宇喜多秀家の軍勢に攻撃を仕掛けたという有名な話があります。
一方、福島正則が先鋒を務める予定だったという伝承もあり、開戦時の動きについては記録によって説明が異なります。

また、東軍には池田輝政や浅野幸長、竹中重門などの武将も参加していました。
黒田長政と竹中重門は、関ヶ原の北側にある丸山周辺に陣を構えたと伝えられています。

こうした武将たちの配置を見ると、東軍が関ヶ原の各方面に軍勢を展開していた様子がうかがえます。

関ヶ原の戦い後に近江の山間部で石田三成が捕らえられた出来事をイメージした歴史風景

関ヶ原の戦い後、石田三成は近江で捕らえられました。田中吉政の家臣たちが捕縛に関わったと伝えられています。

田中吉政とは?東軍での役割と石田三成の捕縛

今回の布陣図には、田中吉政(たなか よしまさ)という武将の名前も入れています。
徳川家康や福島正則ほど広く知られていないかもしれませんが、関ヶ原の戦いに東軍として参加した人物です。

田中吉政は、もともと豊臣秀吉に仕え、三河国岡崎城の城主となった武将でした。
しかし、1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に加わっています。

吉政の名前が特に知られるのは、戦いが終わった後の出来事です。
敗走した石田三成は近江国で捕らえられますが、その捕縛に関わったのが田中吉政の家臣たちだったと伝えられています。

つまり、吉政は戦場での働きだけでなく、戦後の石田三成の捕縛でも歴史に名前を残した武将だったのです。

関ヶ原の戦いの後、吉政は石田三成の捕縛などの功績を認められ、それまでの岡崎10万石から、筑後国32万5,000石の大名となりました。
その後は柳川城を本拠地に城下町や道路、堤防の整備を進めましたが、1609年に亡くなっています。

ただし、田中吉政が関ヶ原の戦場で正確にどこへ陣を構えていたのかは、はっきりしていません。
現在残る陣跡碑の位置も、そのまま当時の布陣地点と断定できるものではありません。

そのため、今回の布陣図にある田中吉政の位置は、東軍に参加した武将の配置を理解するための概略表示として見ていただければと思います。

関ヶ原の戦いが始まった経緯や、東軍・西軍が対立した背景を改めて確認したい方は、関ヶ原の戦いとは?いつ・誰と誰が戦ったのか、勝敗と結果で全体の流れをたどっています。

こうして東軍の武将を見ていくと、徳川家康の直属の家臣だけでなく、かつて豊臣秀吉に仕えた武将たちも数多く参加していたことが分かります。
では、これに対する西軍は、どのような武将たちが陣を構えていたのでしょうか。

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関ヶ原の戦いの西軍の布陣と主な武将

関ヶ原の戦いで西軍に加わった武将たちは、盆地の西側から南側、さらに南宮山方面まで広く陣を構えたと伝えられています。
石田三成をはじめ、宇喜多秀家、小西行長、島津義弘、大谷吉継などが主な武将として知られています。

ただし、西軍の軍勢がすべて同じように戦ったわけではありません。
激しく戦った部隊がある一方で、戦闘に加わらなかった軍勢や、途中で東軍側に転じた武将もいました。

布陣図を見ながら、西軍の武将たちがどこに陣を構え、どのような動きをしたのかをたどってみましょう。

石田三成|笹尾山に構えた陣

石田三成は、関ヶ原の北西側にある笹尾山(ささおやま)に陣を構えたと伝えられています。
現在も笹尾山には石田三成の陣跡があり、関ヶ原古戦場を代表する史跡の一つになっています。

笹尾山は周囲の平地より高い場所にあり、関ヶ原の戦場を見渡すことができます。
三成はこの周辺に陣を置き、東軍の黒田長政や細川忠興らの軍勢と戦ったとされています。

また、三成の重臣として知られる島左近も、石田隊の一員として戦ったと伝えられています。
島左近の奮戦は後世の軍記物などでも語られていますが、その具体的な行動については史料による違いがあります。

布陣図では、笹尾山が西軍の北側に位置する重要な陣地だったことを確認できます。

笹尾山に陣を構えたと伝わる石田三成は、なぜ関ヶ原で敗れたのでしょうか。
三成の立場から見た敗因や、その後の最期については、関ヶ原の戦いで石田三成が負けた理由と処刑までの経緯で詳しくたどっています。

宇喜多秀家・小西行長・島津義弘の配置

宇喜多秀家は、豊臣秀吉の政権で五大老の一人を務めた武将です。
関ヶ原の戦いでは西軍の主力として参戦し、福島正則らの東軍部隊と激しく戦ったと伝えられています。

従来の布陣図では、宇喜多秀家の軍勢は関ヶ原の中央から南寄りの天満山周辺に配置されることが多くなっています。

小西行長も西軍に参加した武将です。
小西隊は石田三成と宇喜多秀家の軍勢の間に布陣したとされ、東軍との戦闘に加わりました。

一方、島津義弘は薩摩の島津氏の武将です。
西軍に属して関ヶ原に布陣していましたが、合戦中の行動については、ほかの西軍部隊とは異なる特徴がありました。

西軍の敗色が濃くなると、島津隊は東軍の軍勢がいる方向へ進み、戦場を突破して撤退したと伝えられています。
これが、後に「島津の退き口」として知られる出来事です。

こうして見ると、西軍の主力部隊でも、戦闘の経過や撤退の方法には大きな違いがあったことが分かります。

大谷吉継|小早川秀秋に備えたとされる陣地

大谷吉継は、石田三成と親しい関係にあった武将として知られています。
関ヶ原の戦いでは西軍に加わり、戦場の南西側にある山中方面に陣を構えたと伝えられています。

その南側に位置する松尾山には、小早川秀秋の軍勢が布陣していました。
小早川秀秋は当初西軍側に属していましたが、戦いの途中で東軍側に転じたとされています。

従来の合戦の説明では、大谷吉継は小早川秀秋の動きを警戒し、その方面にも備えていたと語られてきました。

そして小早川隊が西軍側へ攻撃を始めると、大谷隊は厳しい状況に置かれます。
大谷吉継は戦場で敗れ、最期を迎えたと伝えられています。

ただし、小早川秀秋の寝返りの経緯や大谷隊との戦闘の詳細については、近年の研究でも検討が続けられています。
従来の布陣図に描かれた動きを、そのまま確定した史実と考えないことも大切でしょう。

毛利秀元・吉川広家と南宮山の軍勢

関ヶ原の戦いでは、主戦場から離れた南宮山(なんぐうさん)方面にも、西軍の大きな軍勢が配置されていました。

南宮山周辺には、毛利秀元や吉川広家らの軍勢がいたと伝えられています。
毛利秀元は毛利輝元の一族で、吉川広家も毛利氏と深い関係を持つ武将でした。

ところが、南宮山方面の軍勢は、関ヶ原の主戦場で本格的な戦闘に加わることがありませんでした。

従来の説明では、東軍との交渉を進めていた吉川広家が軍勢の進路を塞ぎ、毛利秀元らが動けなかったとされています。
ただし、南宮山の各部隊がどのような事情で動かなかったのかについては、史料の読み方によって説明に違いがあります。

南宮山にいた軍勢が戦闘に参加しなかったことは、西軍全体の戦い方を考えるうえで重要な点です。

布陣図を見ると、南宮山は笹尾山や天満山などの主戦場から離れた場所にあります。
この位置関係も、関ヶ原の戦いを理解する手がかりになりそうです。

南宮山方面の毛利勢は、なぜ関ヶ原の本戦に加わらなかったのでしょうか。
吉川広家が徳川方と交渉した経緯や、毛利秀元の「宰相殿の空弁当」の逸話については、吉川広家が関ヶ原で裏切ったといわれる理由と毛利軍の不戦で詳しく見ています。

では、笹尾山・松尾山・桃配山・南宮山といった山々は、実際にどのような位置関係にあったのでしょうか。
次の章では、布陣図に登場する山と陣地を中心に見ていきましょう。

関ヶ原の戦いの布陣を左右した山の位置関係

関ヶ原の戦いの布陣図を見ると、武将たちが平地だけでなく、周囲の山や丘陵にも陣を構えていたことが分かります。
関ヶ原は山々に囲まれた地形で、各軍勢の配置を考えるうえでも、山の位置が重要になります。

特に知られているのが、石田三成の笹尾山、小早川秀秋の松尾山、徳川家康の桃配山、毛利勢などがいた南宮山です。
それぞれの位置と特徴を、布陣図と照らし合わせながら見てみましょう。

笹尾山|石田三成の陣地

笹尾山は、関ヶ原の主戦場から見て北西側にある小高い山です。
石田三成が本陣を置いた場所として知られ、現在も山頂には陣跡の石碑が残されています。

笹尾山からは関ヶ原の平地を見渡すことができ、東軍の動きを確認するうえでも重要な場所だったと考えられます。
また、山の麓には三成の重臣・島左近が布陣したと伝えられています。

現在は馬防柵が復元されており、当時の陣地の様子を想像できる場所にもなっています。

笹尾山は、西軍の北側を押さえる重要な陣地として、布陣図でも目立つ位置にあります。

松尾山|小早川秀秋の陣地

松尾山は、関ヶ原の主戦場から南西側に位置する山です。
この山には、小早川秀秋が軍勢を率いて布陣していたと伝えられています。

小早川秀秋は当初、西軍側に属していました。
しかし、戦いの途中で東軍側に転じたとされ、その動きは関ヶ原の戦いを語るうえで欠かせません。

従来の説明では、小早川隊が松尾山から下って大谷吉継らの軍勢を攻撃し、西軍の敗北につながったとされています。

布陣図で見ると、松尾山は西軍の南側に位置しています。
そのため、小早川秀秋がどちらの軍に味方するかは、周辺の西軍部隊にとって重大な問題だったと考えられます。

ただし、寝返りの時刻や戦闘の詳しい経過については、史料によって異なる見方があります。

小早川秀秋の寝返りについては、いつ東軍側についたのかという点にも議論があります。
秀秋の行動と、ほかに東軍側へ通じた武将の違いについては、関ヶ原の戦いの裏切り者一覧と小早川秀秋が寝返った理由で詳しく取り上げています。

桃配山|徳川家康の最初の陣地

桃配山は、関ヶ原の主戦場から東側に位置する丘陵です。
徳川家康が合戦当日の早朝、最初に本陣を構えた場所として知られています。

笹尾山や松尾山と比べると、桃配山は東軍の後方寄りに位置しています。
家康はここから戦況を見守り、その後、前線に近い陣場野へ本陣を移したと伝えられています。

この移動については、東軍の士気を高めるためだったという説明などがありますが、詳しい事情には検討の余地があります。

今回の布陣図では、桃配山と陣場野を別々に示すことで、家康の本陣移動が分かるようにしています。

関ヶ原の戦いで南宮山の山林に陣を構え戦闘に加わらなかった毛利勢をイメージした歴史風景

南宮山方面には毛利秀元や吉川広家らの軍勢が布陣していましたが、主戦場での本格的な戦闘には参加しませんでした。

南宮山|毛利勢などが布陣した場所

南宮山は、関ヶ原の主戦場から南東側に位置する山です。
この方面には、毛利秀元や吉川広家ら、西軍に属する軍勢が布陣していたと伝えられています。

南宮山の軍勢は、笹尾山や天満山周辺で戦った西軍の部隊とは離れた場所にいました。
そして、関ヶ原の主戦場で本格的な戦闘に加わることはありませんでした。

従来の説明では、東軍と交渉していた吉川広家が軍勢の進路を塞ぎ、毛利秀元らが動けなかったとされています。

ただし、南宮山方面の各部隊の配置や不参戦の事情については、史料の解釈によって違いがあります。

布陣図を見ると、南宮山の軍勢が主戦場から離れた位置にいたことが分かります。
この位置関係は、西軍全体の動きを考えるうえでも見逃せない点でしょう。

天満山・丸山など周辺の陣地

関ヶ原の布陣を考える際には、四つの山以外にも注目したい場所があります。
その代表が天満山と丸山です。

天満山は関ヶ原の西側にあり、従来の布陣図では、宇喜多秀家や小西行長らの軍勢が周辺に配置されています。
特に小西行長は北天満山に布陣したと伝えられています。

一方、丸山は関ヶ原の北側にある丘陵で、岡山烽火場(おかやまのろしば)とも呼ばれています。
ここには東軍の黒田長政と竹中重門が布陣し、開戦の合図となる烽火を上げたと伝えられています。

現在の岡山烽火場は、標高約164メートルの場所にあり、関ヶ原の戦場を見渡せる史跡です。

このように、関ヶ原の戦いでは、山や丘陵の位置を知ることで、武将たちの配置がより理解しやすくなります。

そして、これらの陣地の中でも気になるのが、徳川家康が桃配山から陣場野へ本陣を移したことです。
次の章では、その移動の経緯と理由について、もう少し詳しく見ていきましょう。

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徳川家康はなぜ桃配山から陣場野へ移動したのか?

関ヶ原の戦いの布陣図を見ると、徳川家康の陣地が二か所に示されています。
東側の桃配山と、そこから戦場の中心に近づいた陣場野です。

家康は合戦の途中で本陣を前進させたと伝えられていますが、なぜ移動する必要があったのでしょうか。
最初の陣地と移動先の位置関係を確認しながら、その理由を考えてみましょう。

桃配山に置かれた最初の本陣

桃配山(ももくばりやま)は、関ヶ原の主戦場から東側に位置する丘陵です。
徳川家康は1600年(慶長5年)9月15日の早朝、この場所に本陣を構えたと伝えられています。

桃配山は東軍の前線から少し離れた場所にあり、家康が戦況を把握するための拠点だったと考えられます。

また、桃配山という名前については、壬申の乱の際に大海人皇子が兵士に桃を配ったという伝承に由来するとされています。
関ヶ原が古くから交通や軍事の要地だったことを感じさせる話ですね。

ただし、桃配山から戦場のすべてが見渡せたというわけではありません。
関ヶ原は周囲を山や丘陵に囲まれており、地形によって見通せない場所もあります。

そのため、桃配山は家康が最初に陣を置いた場所として知られるものの、戦場全体を一望できる場所だったとまでは言い切れません。

陣場野への前進と戦場との距離

合戦が始まった後、家康は桃配山から陣場野(じんばの)へ本陣を移したと伝えられています。
陣場野は現在、徳川家康最後陣地として知られる史跡です。

布陣図を見ると、桃配山が戦場の東側にあるのに対し、陣場野は石田三成が陣を構えた笹尾山にも近い位置にあります。

つまり家康は、東軍の後方寄りの場所から、戦闘が行われている地域へ近づいたことになります。

現在の史跡案内では、陣場野は笹尾山から直線距離で約800メートルの場所と紹介されています。
ただし、これは陣場野と笹尾山の距離であり、家康が桃配山から移動した距離ではありません。

本陣の移動は、家康自身が前線に近づくという点でも、東軍の武将たちに大きな意味を持った可能性があります。

本陣移動の理由についての見方

では、家康はなぜ本陣を前進させたのでしょうか。

従来の説明では、戦いが思うように進まない状況を見て、家康が東軍の士気を高めるために前進したという見方があります。
総大将が前線に近づけば、味方の武将たちに戦う姿勢を示すことにもつながったでしょう。

また、戦場に近づくことで、各部隊の動きを確認しやすくし、指揮を執るためだったという考え方もあります。

一方で、家康が移動した正確な時刻や、そのときの戦況については、史料によって説明に違いがあります。
本陣移動の理由を、単に「東軍が苦戦していたから」と決めつけることはできません。

ここで注目したいのは、家康の本陣移動が、戦場での軍勢の動きと結び付けて語られてきたという点です。

今回の布陣図でも、桃配山と陣場野を分けて示しています。
最初の配置だけを見るのではなく、合戦の途中で陣地が変わったことを意識すると、関ヶ原の戦いの様子が少し違って見えてきます。

徳川家康の本陣移動は、関ヶ原での戦略を考えるうえでも興味深い出来事です。
家康が合戦前に進めた交渉や、東軍が勝利した理由については、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝った理由と戦略で詳しくたどっています。

では、こうした東軍と西軍の配置には、どのくらいの兵力差があったのでしょうか。
次の章では、関ヶ原の戦いの勢力図と、実際に戦った軍勢の違いを見ていきましょう。

関ヶ原の戦いの勢力図!東軍と西軍の兵力差は?

関ヶ原の戦いでは、東軍と西軍のどちらが兵力で上回っていたのでしょうか。
布陣図を見ると、多くの武将が戦場の各方面に配置されており、両軍とも大規模な軍勢を集めていたことが分かります。

一般的には、東軍が約7万5,000人、西軍が約8万5,000人と紹介されています。
ただし、この数字は推定値であり、史料や集計する軍勢の範囲によって違いがあります。

まずは、東軍と西軍の兵力を比較してみましょう。

東軍・西軍の兵力はそれぞれ何人?

岐阜県の関ヶ原古戦場に関する公式資料では、東軍・西軍の兵力が次のように紹介されています。

項目東軍西軍
中心となった武将徳川家康石田三成ら
推定兵力約75,000人約85,000人
兵力差西軍が約10,000人多い
合戦の結果勝利敗北

この数字だけを見ると、西軍の方が約1万人多く、兵力では有利だったように見えます。
しかし、実際の戦いは単純な人数の比較だけでは説明できません。

西軍には、南宮山方面で本格的な戦闘に参加しなかった軍勢や、途中で東軍側に転じた武将がいたためです。

つまり、布陣していた兵力と、実際に東軍と戦った兵力は必ずしも一致しません。

なお、別の史料や研究では異なる兵力数も示されており、ここで紹介した数字は代表的な推定値の一つです。

南宮山などにいた軍勢はどう動いた?

西軍の兵力を考えるうえで重要なのが、南宮山方面に布陣していた軍勢です。
この方面には毛利秀元や吉川広家、長宗我部盛親らの軍勢がいたと伝えられています。

しかし、南宮山方面の西軍部隊は、関ヶ原の主戦場で本格的な戦闘に参加しませんでした。

従来の説明では、吉川広家が東軍側と交渉しており、毛利秀元らの進軍を妨げたとされています。
そのため、西軍に数えられていた軍勢の一部が、実際には戦闘に加わらなかったことになります。

一方、東軍にも南宮山方面に備えていた部隊があり、すべての兵力が関ヶ原の中央で戦っていたわけではありません。

こうした点を考えると、両軍の総兵力だけで戦場の優劣を判断することは難しいといえそうです。

布陣図に描かれた南宮山の位置を見ると、主戦場から離れた軍勢の存在が、戦い全体を考えるうえで重要だったことが分かります。

小早川秀秋の寝返りと勢力の変化

もう一つ、関ヶ原の戦いの勢力図を大きく変えた出来事として知られるのが、小早川秀秋の寝返りです。

小早川秀秋は当初、西軍側に属し、松尾山に布陣していました。
その兵力は資料によって異なりますが、約1万5,000人とする説明もあります。

従来の合戦の説明では、小早川隊は戦いの途中で東軍側に転じ、大谷吉継らの西軍部隊を攻撃したとされています。

これによって、西軍に数えられていた軍勢の一部が、反対に西軍を攻撃する側へ回ったことになります。

ただし、小早川秀秋がいつ、どのような経緯で東軍側に転じたのかについては、史料の解釈によって異なる見方があります。

それでも、西軍の兵力をそのまま西軍の戦闘力と考えることができないという点は、勢力図を見るうえで重要です。

関ヶ原の戦いでは、軍勢の人数だけでなく、各武将が実際にどのような行動を取ったのかが、勝敗を考える手がかりになります。

では、私たちがよく目にする関ヶ原の布陣図は、どこまで当時の実際の配置を示しているのでしょうか。
次の章では、従来の布陣図と近年の研究による新しい見方を比べてみましょう。

関ヶ原の戦いの布陣図に新説?従来説との違い

関ヶ原の戦いの布陣図は、教科書や歴史書、観光案内などでも目にすることがあります。
しかし、私たちがよく知る武将の配置について、近年の研究では異なる見方も示されています。

では、従来の布陣図と新しい研究では、何が違うのでしょうか。
布陣図が作られた経緯と、研究者による見直しを確認してみましょう。

従来の布陣図はどのように描かれてきた?

現在広く知られている関ヶ原の布陣図には、明治26年(1893年)に旧陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史 関原役』の附図を参考にしたものが多くあります。

この図では、石田三成が笹尾山、宇喜多秀家が天満山方面、小早川秀秋が松尾山、毛利秀元らが南宮山方面に布陣するなど、東軍・西軍の武将が戦場を取り囲むように配置されています。

今回の記事に掲載した布陣図も、こうした従来の布陣説を参考にした概略図です。

ただし、『日本戦史 関原役』は合戦当日に作られた記録ではありません。
戦いから約300年後に編纂されたものであり、武将の位置がすべて当時の一次史料によって確定しているわけではありません。

関ヶ原の戦いの従来の布陣図と新説を比較するための古地図や歴史資料を並べたイメージ

関ヶ原の布陣図は、古い記録や地形、近年の研究を照らし合わせながら見直しが進められています。

近年の研究で見直されている武将の配置

従来の布陣図に疑問を示した研究者の一人が、歴史学者の白峰旬氏です。

白峰氏は2013年の論文「関ヶ原の戦いの布陣図に関する考察」で、明治時代の参謀本部が作成した布陣図を検討し、そのまま史実として受け入れることの問題点を指摘しました。

さらに2016年には、西軍の武将たちの布陣位置について、新たな解釈を示しています。

こうした研究から、従来の布陣図に描かれた各部隊の位置関係についても、改めて検討する必要があると考えられるようになりました。

また、関ヶ原の戦いで有名な小早川秀秋の寝返りについても、従来の説明とは異なる説があります。

一般的には、戦いの途中で小早川秀秋が東軍に寝返ったと語られますが、開戦当初から東軍側として行動していたのではないかという説も示されています。

このように、武将がどこにいたのかだけでなく、いつ、どのように戦ったのかも研究上の論点になっています。

布陣図の新説はどこまで確かめられている?

では、新しい説が登場したことで、従来の布陣図はすべて間違いになったのでしょうか。

必ずしも、そうとは言い切れません。

例えば、水野伍貴氏は2023年の著書『関ヶ原合戦を復元する』で、近年発表された新説を検証し、史料に基づいて合戦当日の布陣や戦闘の経過を考察しています。

また、従来の布陣図についても、明治時代の参謀本部が根拠なく作り上げたものだとする見方に対して、異論が示されています。

つまり、研究者の間でも、史料の信頼性や布陣位置の解釈について、見解が一致しているわけではありません。

私たちが布陣図を見る際には、従来説も新説も、それぞれの根拠を確認することが大切なのでしょう。

今回掲載した布陣図は、従来の配置を理解するためのものです。
近年の新説まで含めて、当時の布陣を確定的に再現した図ではありません。

それでは最後に、関ヶ原の布陣図を見る際に注意したい点を整理しておきましょう。

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関ヶ原の戦いの布陣図を見るときの注意点

関ヶ原の戦いの布陣図は、東軍と西軍の位置関係を理解するうえで役立ちます。
しかし、同じ関ヶ原の戦いでも、資料によって武将の配置や陣地の描き方が異なる場合があります。

また、現在残っている陣跡碑の位置が、必ずしも当時の陣地を正確に示しているとは限りません。

ここでは、布陣図を見る際に知っておきたい三つの注意点を確認してみましょう。

布陣図によって武将の位置が違う理由

関ヶ原の戦いは1600年に起こった出来事です。
当時の軍勢の配置を、現在の地図のように正確な座標で記録した資料が、すべての武将について残されているわけではありません。

そのため、後世に作られた布陣図では、軍記物や古文書、現地に残る伝承などを参考にして、武将の位置を推定してきました。

また、戦いの始まりと途中では、軍勢の位置が変わることもあります。
例えば、徳川家康は最初に桃配山へ陣を構え、その後、陣場野へ本陣を移したと伝えられています。

こうした時間の違いを区別せず、一枚の布陣図に描くと、実際には同時に存在しなかった配置が並ぶことになります。

つまり、布陣図は作成時に採用した史料や、どの時点を描いたかによって内容が変わるのです。

現在の陣跡碑と当時の陣地は同じ?

関ヶ原の古戦場には、徳川家康や石田三成、小早川秀秋など、多くの武将の陣跡が残されています。
現在は石碑や案内板が設置され、歴史を感じられる場所になっています。

しかし、陣跡碑がある場所を、そのまま武将が立っていた正確な地点と考えることには注意が必要です。

例えば、東軍の田中吉政については、正確な布陣位置が明らかになっていません。
現在の陣跡碑も移設されたものであり、碑の位置だけで当時の陣地を確定することはできません。

また、陣跡として伝えられる場所でも、実際の軍勢は周囲の広い範囲に展開していた可能性があります。

陣跡碑は歴史を知るための大切な手がかりですが、必ずしも陣地全体の正確な位置を示すものではないと考えておくとよいでしょう。

現地の地形から分かること・分からないこと

関ヶ原の戦場は、周囲を山や丘陵に囲まれた地形にあります。
笹尾山、松尾山、桃配山、南宮山などの位置を確認すると、東軍と西軍がどのような場所に陣を構えたのか、イメージしやすくなります。

一方で、現在の道路や建物、土地の利用状況は、1600年当時とは異なります。
そのため、今の地形図だけで、当時の軍勢の動きや見通しを完全に再現することはできません。

今回の記事に掲載した布陣図も、主要な山と武将の位置関係を分かりやすくするために作成したものです。
山の形や距離、各武将の陣地を、測量図のように正確に表現したものではありません。

それでも、布陣図と実際の地形を合わせて見ることで、関ヶ原の戦いを考える手がかりは増えていきます。

一枚の布陣図だけで判断せず、史料や現地の案内も参考にしながら見ていくことが大切なのでしょう。

関ヶ原の戦いは、武将の配置だけでなく、戦闘に参加しなかった軍勢や途中で動きを変えた武将の存在によっても、戦いの様子が大きく変わりました。
最後に、今回見てきた東軍・西軍の布陣と勢力図を振り返ってみましょう。

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まとめ:関ヶ原の戦いの布陣図から東軍・西軍の配置を振り返る

関ヶ原の戦いの布陣図をもとに、東軍・西軍の武将たちがどこに陣を構えていたのかを見てきました。
最後に、今回のポイントを振り返ってみましょう。

  • 東軍:徳川家康を中心に、福島正則・黒田長政・細川忠興・田中吉政らが参加した。
  • 西軍:石田三成・宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継らが各方面に布陣した。
  • 主要な山:笹尾山・松尾山・桃配山・南宮山などが、武将の配置を考える手がかりになる。
  • 家康の本陣移動:桃配山から陣場野へ移ったと伝えられている。
  • 兵力と勢力図:両軍の総兵力と、実際に戦闘に参加した兵力は同じではない。
  • 布陣図の新説:従来の配置には異なる解釈もあり、研究が続けられている。

今回、布陣図を作成してみて改めて感じたのは、関ヶ原の戦いが、単に東軍と西軍が正面からぶつかっただけの戦いではなかったということです。
周囲の山々に陣を構えた武将たちの動きも、戦いの経過に関わっていました。

ただし、布陣図に描かれた位置が、すべて確定した史実というわけではありません。
従来の布陣説と新しい研究の違いにも目を向けながら、関ヶ原の戦いをたどっていきたいと思います。

参考資料

  • 岐阜関ケ原古戦場記念館 公式サイト(関ヶ原の戦い・古戦場の史跡案内)
  • 岐阜県観光公式サイト「岐阜の旅ガイド」(関ヶ原古戦場・武将の陣跡)
  • 関ケ原町公式サイト(古戦場の歴史・史跡に関する情報)
  • 旧陸軍参謀本部編『日本戦史 関原役』(1893年)
  • 白峰旬「関ヶ原の戦いの布陣図に関する考察」(2013年、『別府大学大学院紀要』)
  • 白峰旬「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」(2016年、『史学論叢』)
  • 水野伍貴『関ヶ原合戦を復元する』(星海社新書、2023年)

※本文では、従来の布陣説と近年の研究による見解を区別して記載しています。武将の配置や兵力については、史料によって異なる場合があります。

※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。

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