関ヶ原の戦いの東軍・西軍メンバー一覧!武将・総大将・兵力を比較

関ヶ原の戦いを前に軍議を開く戦国武将たちと城内の広間

関ヶ原の戦いでは、徳川家康が率いる東軍と、毛利輝元を総大将とする西軍に、多くの戦国武将が参加しました。

では、東軍と西軍には具体的に誰がいたのでしょうか。
また、西軍の中心人物として知られる石田三成と、総大将の毛利輝元では、どのように立場が違っていたのでしょうか。

この記事では、関ヶ原の戦いに参加した東軍・西軍のメンバーを一覧表で整理し、それぞれの武将の役割や総大将、両軍の兵力を比較します。
さらに、戦場での動きや戦死した武将についても見ていきましょう。

関ヶ原の戦いの東軍・西軍メンバー一覧!主な武将を比較

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、徳川家康を中心とする東軍と、毛利輝元を総大将とする西軍に、多くの戦国武将が加わりました。
まずは、東軍と西軍の主なメンバーを一覧表で見てみましょう。

東軍の主な武将西軍の主な武将
徳川家康(総大将)毛利輝元(総大将)
福島正則石田三成
黒田長政宇喜多秀家
細川忠興小西行長
井伊直政大谷吉継
本多忠勝島津義弘
藤堂高虎長宗我部盛親
池田輝政毛利秀元
浅野幸長吉川広家
山内一豊小早川秀秋(のちに東軍側へ)

東軍には徳川家康の家臣だけでなく、福島正則や黒田長政など、豊臣秀吉に仕えた武将たちも参加していました。
一方の西軍には、石田三成や宇喜多秀家、小西行長など、豊臣政権で重要な役割を担った武将が名を連ねています。

ここで注意したいのは、東軍が徳川家の家臣だけ、西軍が豊臣家の家臣だけという単純な分け方ではなかったことです。
どちらの陣営にも豊臣政権と深い関係を持つ大名が参加しており、武将たちの立場や判断はそれぞれ異なっていました。

東軍と西軍はどのように分かれた?

豊臣秀吉が1598年に亡くなると、豊臣政権の内部では徳川家康の影響力が強まっていきました。
これに対して、石田三成らは家康に対抗する動きを進め、やがて東軍と西軍の対立へと発展します。

ただし、武将たちが東軍と西軍に分かれた理由は一つではありません。
家康との関係、豊臣政権内での対立、領地の問題など、それぞれの事情がありました。

また、西軍に属した武将が全員関ヶ原の主戦場で戦ったわけでもありません。
毛利輝元は大坂城にとどまり、毛利秀元や吉川広家らの軍勢も、関ヶ原当日の主戦闘には加わりませんでした。

さらに、小早川秀秋のように、当初は西軍に属しながら、戦いの途中で東軍側についた武将もいました。
こうした違いも踏まえながら、次の章から東軍・西軍それぞれのメンバーを詳しく見ていきましょう。

関ヶ原の戦いがいつ起こり、どのような経緯で東軍と西軍が対立したのかは、関ヶ原の戦いとは?いつ・誰と誰が戦ったのか、勝敗と結果で詳しくたどっています。

関ヶ原の戦いの東軍メンバー一覧!徳川家康側の武将たち

関ヶ原の戦いで東軍の中心となったのは徳川家康でした。
しかし、東軍に参加したのは徳川家の家臣だけではありません。

福島正則や黒田長政、細川忠興など、かつて豊臣秀吉に仕えた有力大名も家康側についています。
まずは、東軍の主なメンバーと関ヶ原での役割を一覧表で確認してみましょう。

東軍に参加した主な武将一覧

武将名関ヶ原での役割・行動
徳川家康東軍の総大将。関ヶ原の主戦場で軍勢を指揮した。
福島正則東軍の主力として宇喜多秀家の軍勢と戦った。
黒田長政石田三成の軍勢と戦い、東軍の勝利に貢献した。
細川忠興黒田長政らとともに石田三成の軍勢と戦った。
井伊直政徳川家の重臣。開戦時の先陣に関わったと伝わる。
本多忠勝徳川家の重臣。家康の軍勢に加わり、戦場で行動した。
藤堂高虎東軍として参戦し、西軍の軍勢と戦った。
京極高知東軍に加わり、関ヶ原の主戦場で戦った。
田中吉政東軍として戦い、敗走した石田三成の捕縛にも関わった。
加藤嘉明東軍として関ヶ原の主戦場に参加した。
筒井定次東軍として関ヶ原の主戦場に参加した。
池田輝政東軍に加わり、関ヶ原へ向かう過程で岐阜城攻めなどに参加した。
浅野幸長東軍に加わり、岐阜城攻めなどで活動した。

このように東軍には、徳川家の重臣に加え、豊臣政権で活躍してきた大名が数多く参加していました。
東軍は徳川家だけの軍勢ではなく、複数の有力大名が協力した連合軍だったことが分かります。

1600年頃の街道を関ヶ原方面へ進む東軍の武士と荷駄隊

東軍には関ヶ原で戦った武将だけでなく、各地で行動した武将たちも参加していた。

関ヶ原の主戦場以外で東軍に協力した武将

東軍に協力した武将の中には、関ヶ原の主戦場ではなく、別の地域で行動した大名もいました。
代表的な武将を見てみましょう。

武将名主な行動
徳川秀忠中山道を進軍したが、上田城攻めなどで遅れ、関ヶ原の本戦には間に合わなかった。
山内一豊家康に協力し、掛川城を提供する意向を示したことで知られる。
加藤清正東軍側に立ち、九州で西軍方の勢力と戦った。
黒田如水(官兵衛)九州で軍勢を動かし、西軍方の城を攻めた。
伊達政宗東北地方で上杉氏と対立し、東軍側として行動した。
最上義光出羽で上杉軍と戦い、東軍側として活動した。

関ヶ原の戦いというと、美濃国の関ヶ原で行われた合戦がよく知られています。
しかし、実際には東北や九州などでも戦闘が起きていました。

そのため、関ヶ原の戦いに参加した武将と、関ヶ原の主戦場で戦った武将は必ずしも同じではありません。
東軍の全体像を見るうえでは、この違いも押さえておきたいところです。

東軍にはなぜ豊臣恩顧の武将が多かった?

福島正則や黒田長政、加藤清正などは、豊臣秀吉のもとで活躍した武将として知られています。
それにもかかわらず、関ヶ原の戦いでは徳川家康側に立ちました。

その背景には、豊臣政権内部での対立や、石田三成との関係、徳川家康との結びつきなど、さまざまな事情があったと考えられています。

ただし、すべての武将が同じ理由で東軍についたわけではありません。
それぞれの立場や領地の事情もあり、単純に豊臣家を裏切ったと考えることはできないでしょう。

豊臣秀吉に仕えた武将たちを味方につけたことも、徳川家康の強みの一つでした。
家康が関ヶ原で勝利した背景や、戦いが始まる前の戦略については、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝った理由と戦略で詳しく見ています。

こうして見ると、関ヶ原の東軍は、徳川家康の指揮のもとに多くの大名が集まった軍勢だったことが分かります。
では、これに対抗した西軍には、どのような武将が参加していたのでしょうか。

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関ヶ原の戦いの西軍メンバー一覧!石田三成側の武将たち

関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に対抗したのが、毛利輝元を総大将とする西軍でした。
その中心人物として知られるのが石田三成です。

しかし、西軍には石田三成の家臣だけでなく、宇喜多秀家や小西行長、大谷吉継など、多くの有力大名が参加していました。
まずは、西軍の主なメンバーと関ヶ原での行動を一覧表で見てみましょう。

西軍に参加した主な武将一覧

武将名関ヶ原での役割・行動
毛利輝元西軍の総大将。大坂城にとどまり、関ヶ原の主戦場には出陣しなかった。
石田三成西軍の中心人物の一人。関ヶ原の主戦場で東軍と戦った。
宇喜多秀家西軍の主力を率い、福島正則らの東軍と戦った。
小西行長西軍として布陣し、東軍の軍勢と戦った。
大谷吉継西軍として参戦。小早川秀秋の軍勢などと戦い、敗れて最期を迎えた。
島津義弘西軍として布陣。敗戦後、敵中を突破して戦場から撤退した。
島左近石田三成の重臣。西軍の武将として戦ったが、最期には諸説がある。
小早川秀秋当初は西軍として松尾山に布陣したが、合戦中に東軍側へ転じた。
脇坂安治当初は西軍側に布陣したが、合戦では東軍側についた。
小川祐忠当初は西軍側に属したが、合戦中に東軍側についたとされる。
長宗我部盛親西軍として南宮山周辺に布陣したが、主戦闘には加わらなかった。
毛利秀元西軍の毛利勢を率いて南宮山に布陣したが、主戦闘には加わらなかった。
吉川広家西軍として布陣しながら東軍側と交渉し、毛利勢の進軍を妨げた。
安国寺恵瓊西軍に参加し、南宮山方面に布陣したが、主戦闘には加わらなかった。

一覧を見ると、西軍には豊臣政権を支えてきた武将が数多く参加していたことが分かります。
しかし、西軍に所属した武将が全員、東軍と戦ったわけではありません。

実際に戦った武将もいれば、戦場に布陣しながら動かなかった武将、途中で東軍側についた武将もいました。
こうした行動の違いが、関ヶ原の勝敗にも大きく関わっていきます。

西軍の武将には、実際に東軍と戦った人物だけでなく、途中で東軍側についた人物もいました。
小早川秀秋をはじめ、寝返った武将と戦闘に参加しなかった武将の違いは、関ヶ原の戦いの裏切り者一覧と小早川秀秋が寝返った理由で詳しく取り上げています。

関ヶ原の主戦場以外で行動した西軍の武将

西軍に参加した武将の中には、関ヶ原の主戦場ではなく、大坂城や各地の城を拠点として行動した人物もいました。

武将名主な行動
毛利輝元西軍の総大将として大坂城に入り、関ヶ原の本戦には参加しなかった。
立花宗茂西軍として大津城攻めに参加し、関ヶ原の本戦には間に合わなかった。
丹羽長重北陸方面で東軍側の前田利長と対立し、浅井畷の戦いなどで戦った。
上杉景勝会津を拠点に徳川家康と対立し、東北方面で東軍側の諸将と戦った。
真田昌幸西軍側につき、信濃の上田城で徳川秀忠の軍勢を迎え撃った。
真田信繁(幸村)父の昌幸とともに西軍側につき、上田城で徳川軍と対峙した。

なお、大津城では東軍側についた京極高次が籠城し、立花宗茂らの西軍が城を攻めました。
この戦いによって西軍の一部は関ヶ原の本戦に参加できませんでした。

このように、関ヶ原の戦いは美濃国の関ヶ原だけで完結した戦いではありません。
各地で東軍と西軍の対立が続き、武将たちはそれぞれの場所で行動していました。

西軍の中心人物は石田三成だけではなかった

関ヶ原の戦いでは、石田三成が西軍を率いた人物としてよく知られています。
しかし、西軍の総大将は毛利輝元であり、石田三成だけが西軍を動かしていたわけではありません。

宇喜多秀家や大谷吉継、小西行長なども、それぞれの軍勢を率いて東軍と戦いました。
また、毛利氏や長宗我部氏のように、関ヶ原の主戦場で十分に動かなかった軍勢もありました。

つまり西軍は、石田三成の命令だけで動く一つの軍隊ではなく、複数の有力大名が参加した連合軍だったと考えられます。

では、東軍の徳川家康に対し、西軍ではなぜ毛利輝元が総大将となったのでしょうか。
次の章では、毛利輝元と石田三成の立場の違いを見ていきましょう。

東軍・西軍の総大将は誰?毛利輝元と石田三成の違い

関ヶ原の戦いでは、東軍の総大将が徳川家康、西軍の総大将が毛利輝元でした。
ところが、西軍の中心人物として広く知られているのは石田三成です。

なぜ総大将と中心人物が違うのでしょうか。
まずは、東軍と西軍の指導者の立場を一覧表で確認してみましょう。

人物立場関ヶ原での行動
徳川家康東軍の総大将関ヶ原の主戦場に出陣し、東軍を率いた。
毛利輝元西軍の総大将大坂城に入り、関ヶ原の主戦場には出陣しなかった。
石田三成西軍結成の中心人物の一人関ヶ原に布陣し、自らの軍勢を率いて東軍と戦った。

東軍の総大将は徳川家康

東軍の総大将を務めたのは、五大老の一人であった徳川家康です。
家康は豊臣秀吉の死後、豊臣政権の中で大きな影響力を持つようになっていました。

1600年、家康は上杉景勝への対応を目的として会津方面へ軍勢を進めます。
その途中で石田三成らの挙兵を知り、軍勢を西へ向けることになりました。

家康は関ヶ原の主戦場にも出陣し、東軍の諸大名をまとめる立場にありました。
東軍では、総大将の家康自身が戦場にいたことが大きな特徴です。

西軍の総大将は毛利輝元

一方、西軍の総大将となったのは、中国地方に大きな領地を持っていた毛利輝元です。
輝元も徳川家康と同じく、豊臣政権の五大老の一人でした。

西軍が挙兵すると、毛利輝元は大坂城に入り、西軍の総大将としての立場を担いました。
ただし、関ヶ原の主戦場へは出陣せず、大坂城にとどまっています。

毛利家の軍勢は関ヶ原方面にも進出しましたが、毛利秀元や吉川広家らの部隊は主戦闘に加わりませんでした。
そのため、西軍は総大将の毛利輝元が戦場にいない状態で決戦を迎えたことになります。

石田三成はなぜ西軍の総大将ではなかった?

石田三成は豊臣政権で五奉行の一人として活躍した人物です。
関ヶ原の戦いでも、西軍の結成に深く関わった中心人物の一人でした。

しかし、石田三成は毛利輝元や宇喜多秀家と比べると、領地の規模や大名としての立場が異なっていました。
多くの有力大名をまとめるには、五大老であり大きな勢力を持つ毛利輝元の存在が重要だったと考えられます。

また、西軍には宇喜多秀家や小西行長、大谷吉継など、それぞれ独自の軍勢を持つ大名が参加していました。
石田三成がすべての武将に直接命令できる立場だったわけではありません。

西軍の中心人物だった石田三成は、関ヶ原でなぜ敗れたのでしょうか。
三成の立場から見た敗因や、敗戦後に処刑されるまでの経緯については、関ヶ原の戦いで石田三成が負けた理由とその最期でたどっています。

つまり、毛利輝元は西軍の総大将、石田三成は西軍の結成と戦闘に関わった中心人物の一人という違いがあったのです。

関ヶ原の戦いを「徳川家康と石田三成の戦い」と表現することもあります。
しかし、実際には多くの大名が参加しており、西軍の総大将が毛利輝元だったことも押さえておきたいところです。

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関ヶ原の戦いの兵力は何人?東軍と西軍の人数を比較

関ヶ原の戦いでは、東軍と西軍のどちらが多くの兵を集めていたのでしょうか。
一般的には、東軍が約7万~8万人、西軍が約8万~9万人という数字が紹介されています。

岐阜県の関ヶ原古戦場に関する資料では、東軍約7万5千人、西軍約8万5千人と紹介されています。
ただし、兵力は史料や集計方法によって異なり、確定した数字ではありません。

戦場に布陣した人数と、実際に戦った人数は同じではありません。
まずは、両軍の兵力の目安を比較してみましょう。

東軍と西軍の兵力を一覧表で比較

比較項目東軍西軍
兵力の目安約7万~8万人約8万~9万人
総大将徳川家康毛利輝元
主な軍勢徳川家康・福島正則・黒田長政・細川忠興など宇喜多秀家・石田三成・小西行長・大谷吉継など
戦闘への参加主力の多くが戦闘に参加布陣しても戦わなかった軍勢が存在
勝敗勝利敗北

この目安だけを見ると、西軍の方がやや兵力で上回っていたようにも見えます。
しかし、数字の大小だけで勝敗を判断することはできません。

西軍には、戦場に布陣しながら主戦闘に加わらなかった軍勢がありました。
そのため、兵力の総数が多くても、そのすべてを戦闘に投入できたわけではなかったのです。

なお、上記の数字は一般的な概数であり、関ヶ原周辺のどの部隊まで含めるかによっても変わります。
正確な人数が確定しているわけではないことに注意が必要です。

関ヶ原の戦いを前に食料や荷物を運ぶ足軽と戦国時代の野営地

大軍が集まった関ヶ原の戦いでは、兵士だけでなく食料や物資を運ぶ人々も軍勢を支えていた。

西軍は兵力が多かったのになぜ負けた?

西軍が敗れた理由を考えるうえで、重要なのが各武将の行動です。
関ヶ原の主戦場には、石田三成や宇喜多秀家、大谷吉継などの軍勢が布陣していました。

一方で、南宮山方面にいた毛利秀元や吉川広家、長宗我部盛親らの軍勢は、主戦闘に加わりませんでした。
さらに、小早川秀秋の軍勢は、戦いの途中で東軍側についたとされています。

こうした動きによって、西軍は布陣していた軍勢を十分に生かすことができませんでした。
ただし、敗因は兵力だけではなく、武将同士の連携や事前の交渉、戦場での判断など、複数の事情が重なったと考えられます。

島津義弘の軍勢は、西軍に属しながら合戦の前半は積極的な攻撃を控えていました。
西軍が崩れると、東軍の中央を突破して戦場から脱出する「島津の退き口」を行ったことで知られています。

西軍には、南宮山方面に布陣しながら戦闘に加わらなかった毛利勢もいました。
*吉川広家が徳川方と交渉した理由や、毛利秀元の「宰相殿の空弁当」の逸話については、吉川広家が関ヶ原で裏切ったといわれる理由と毛利軍の不戦で詳しくたどっています。

兵力の数字にはなぜ違いがある?

関ヶ原の戦いについて調べると、東軍と西軍の人数が資料によって異なることがあります。
これは、当時の軍勢の人数を正確に把握することが難しいためです。

また、関ヶ原の主戦場にいた軍勢だけを数えるのか、周辺に布陣した部隊も含めるのかによって、兵力の合計は変わってきます。

さらに、徳川秀忠の軍勢のように、東軍に属しながら関ヶ原の本戦に間に合わなかった部隊もありました。
全国各地で行動していた軍勢まで含めれば、さらに大きな数字になります。

このため、関ヶ原の兵力を比較するときは、何人いたかだけでなく、どの軍勢を数えているのかを確認することが大切でしょう。

では、東軍と西軍の武将たちは、実際の戦場でどのような位置に布陣し、どのように動いたのでしょうか。
次の章で主な陣地と戦場での役割を見ていきましょう。

東軍と西軍の武将は戦場でどう動いた?主な陣地と役割

関ヶ原の戦いでは、東軍と西軍の武将たちが関ヶ原盆地や周辺の山々に布陣しました。
しかし、すべての武将が同じ場所で戦ったわけではありません。

主戦場で激しく戦った軍勢もあれば、山上に布陣しながら動かなかった軍勢もありました。
まずは、主な武将の陣地と戦場での行動を一覧表で見てみましょう。

東軍・西軍の主な武将の配置と役割一覧

武将名所属主な陣地・行動
徳川家康東軍桃配山付近に布陣し、その後、関ヶ原の中央寄りへ本陣を進めたと伝わる。
福島正則東軍関ヶ原の東側から進み、宇喜多秀家の軍勢と激しく戦った。
黒田長政東軍石田三成の軍勢と対峙し、戦闘に参加した。
井伊直政東軍開戦時の先陣に関わったと伝わり、戦闘中に負傷した。
石田三成西軍笹尾山付近に布陣し、東軍の軍勢と戦った。
宇喜多秀家西軍関ヶ原の南東寄りに布陣し、福島正則らと戦った。
小西行長西軍関ヶ原の中央付近に布陣し、東軍と戦った。
大谷吉継西軍山中村付近に布陣し、小早川秀秋の軍勢などと戦った。
小早川秀秋西軍から東軍側へ松尾山に布陣し、合戦中に東軍側へ転じた。
毛利秀元西軍南宮山に布陣したが、主戦闘には参加しなかった。
吉川広家西軍南宮山方面に布陣し、毛利勢の進軍を妨げた。
長宗我部盛親西軍南宮山方面に布陣したが、主戦闘には加わらなかった。

この一覧からも分かるように、関ヶ原の戦いでは、実際に戦った軍勢と、布陣したまま動かなかった軍勢がありました。
その違いが、戦場全体の動きに影響を与えたと考えられます。

東軍は関ヶ原の東側から進軍した

東軍の主力は、関ヶ原の東側から西軍の陣地へ向かいました。
福島正則や黒田長政、細川忠興らがそれぞれの軍勢を率い、西軍の武将たちと戦っています。

徳川家康は当初、桃配山付近に本陣を置き、その後、より前方へ本陣を進めたと伝えられています。
一方、井伊直政は開戦時の先陣に関わったという逸話でも知られています。

東軍は複数の大名が参加した連合軍でしたが、家康を中心として戦闘を進め、最終的に西軍を破りました。

西軍は山や高台にも布陣していた

西軍の石田三成は笹尾山付近に陣を構え、宇喜多秀家や小西行長、大谷吉継らも関ヶ原周辺に布陣しました。
これらの軍勢は東軍と激しく戦いました。

一方、小早川秀秋は松尾山に、毛利秀元らは南宮山方面に布陣していました。
しかし、小早川秀秋は合戦中に東軍側へ転じ、南宮山方面の毛利勢などは主戦闘に加わりませんでした。

西軍には多くの武将が参加していましたが、すべての軍勢が同じように動いたわけではなかったのです。

武将たちがどこに陣を構えていたのかを知ると、関ヶ原の戦いの様子も違って見えてきます。
東軍・西軍の配置や、近年の研究による布陣の見直しについては、関ヶ原の戦いの布陣図と東軍・西軍の配置・新説で紹介しています。

武将の配置と行動が勝敗に影響した

関ヶ原の戦いでは、東軍と西軍の兵力だけでなく、武将たちがどこに布陣し、いつ動いたのかも重要でした。

石田三成や宇喜多秀家、大谷吉継らは東軍と戦いましたが、西軍の一部は戦闘に加わらず、小早川秀秋の軍勢は途中で東軍側につきました。

こうした動きが重なり、西軍の戦線は崩れていきました。
ただし、各武将の行動や合戦の細かな経過については、史料によって異なる説明もあります。

関ヶ原の戦いを振り返ると、単純な兵力の比較だけでは分からない部分が多いことに気づきます。
それぞれの武将がどのような立場で戦場にいたのかを見ることも、戦いを理解する手がかりになりそうです。

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関ヶ原の戦いで死んだ武将は誰?戦死者とその最期

関ヶ原の戦いでは、多くの兵士が命を落とし、名の知られた武将にも犠牲者が出ました。
では、実際にどのような武将が亡くなったのでしょうか。

ここで注意したいのは、戦場で討ち死にした武将と、敗戦後に処刑された武将は異なることです。
まずは、関ヶ原の戦いで命を落とした主な武将と、敗戦後に処刑された人物を分けて確認してみましょう。

関ヶ原の戦いで戦死・自害した主な武将一覧

 

武将名所属最期
大谷吉継西軍小早川秀秋らの軍勢と戦い、敗北後に自害したと伝わる。
平塚為広西軍大谷吉継の軍勢とともに戦い、討ち死にしたと伝わる。
戸田勝成西軍大谷吉継らとともに戦い、関ヶ原で討ち死にした。
島左近西軍石田三成の重臣。関ヶ原で戦死したと伝わるが、最期には諸説がある。
島津豊久西軍島津義弘の撤退を助けるため、殿を務めて戦死したと伝わる。

この中でも特に知られているのが、大谷吉継と島左近です。
いずれも西軍の武将として戦いましたが、その最期については伝承と史料を区別して考える必要があります。

大谷吉継は関ヶ原で自害したと伝わる

大谷吉継は、石田三成と親しい関係にあったことで知られる武将です。
関ヶ原では西軍に加わり、山中村付近に布陣していました。

合戦中、小早川秀秋の軍勢が東軍側につくと、大谷勢は厳しい状況に追い込まれました。
さらに周辺の軍勢も東軍側に転じ、大谷勢は崩れていきます。

大谷吉継は敗北後、関ヶ原の戦場で自害したと伝えられています。
ただし、最期の具体的な様子については後世の伝承も含まれているため、細部まで確定しているわけではありません。

島左近は戦死した?最期には諸説がある

島左近は、石田三成に仕えた重臣として知られています。
関ヶ原では三成の軍勢に加わり、東軍と戦いました。

一般には関ヶ原で戦死したとされていますが、最期の詳しい経緯は明らかではありません。
戦場で討ち死にしたという説のほか、生存したとする伝承も残されています。

そのため、島左近は関ヶ原で戦死したと伝わるものの、確実な最期は不明としておくのがよさそうです。

石田三成と小西行長は戦場では死んでいない

関ヶ原で敗れた西軍の武将の中には、戦場を離れた後に捕らえられ、処刑された人物もいました。

武将名敗戦後の最期
石田三成敗走後に捕らえられ、1600年に京都の六条河原で処刑された。
小西行長敗走後に捕らえられ、石田三成らとともに京都で処刑された。
安国寺恵瓊関ヶ原の敗戦後に捕らえられ、石田三成・小西行長とともに処刑された。

石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人は、関ヶ原の戦場で討ち死にしたわけではありません。
敗戦後に捕らえられ、同年10月1日(旧暦)に京都で処刑されました。

このように、関ヶ原の戦いで亡くなった武将を調べる際には、戦場での戦死・自害と、戦後の処刑を分けて見ることが大切です。

また、東軍側にも戦死者や負傷者が出ており、井伊直政は合戦中に負傷し、1602年に亡くなっています。

東軍の井伊直政も関ヶ原の戦いで負傷し、1602年に亡くなっています。
彦根市の資料では、関ヶ原で受けた鉄砲傷が悪化したためと紹介されています。
ただし、合戦当日の戦死者ではありません。

ただし、直政の死因と関ヶ原での負傷との関係については諸説があるため、関ヶ原で戦死した武将には含めません。

東軍・西軍の武将たちは戦後どうなった?勝者と敗者の処遇

関ヶ原の戦いで東軍が勝利すると、参加した武将たちの領地や立場は大きく変わりました。
東軍の武将には領地を増やされた人物が多く、一方の西軍では領地を失った武将が相次ぎました。

ただし、東軍に参加した武将が全員同じように報われたわけでも、西軍の武将が全員処刑されたわけでもありません。
まずは、主な武将の戦後の処遇を比べてみましょう。

東軍の武将は戦後どうなった?主な加増と転封

武将名戦後の主な処遇
徳川家康戦後の領地配分を主導し、1603年に征夷大将軍となった。
福島正則安芸・備後の広島約49万8千石を与えられた。
黒田長政筑前福岡約52万石を与えられた。
細川忠興豊前小倉を中心とする約39万9千石を与えられた。
池田輝政播磨姫路約52万石を与えられた。
山内一豊土佐一国約20万石を与えられた。
井伊直政近江佐和山18万石を与えられた。後に井伊家が彦根城を築き、彦根藩へとつながった。
加藤清正肥後で小西行長の旧領を加えられ、領地を拡大した。

東軍の武将たちは、関ヶ原での戦功やそれまでの協力を評価され、大きな領地を与えられました。
特に福島正則や黒田長政、池田輝政らは、西軍の大名が失った領地を新たに与えられています。

この領地の再配分によって、徳川家康を支える大名たちが各地に配置されることになりました。

西軍の武将は戦後どうなった?改易・減封の一覧

武将名戦後の主な処遇
石田三成捕らえられて処刑され、領地を失った。
小西行長捕らえられて処刑され、領地を失った。
宇喜多秀家領地を没収され、後に八丈島へ流された。
毛利輝元中国地方の広大な領地を失い、周防・長門の約36万9千石に減封された。
長宗我部盛親土佐の領地を没収され、改易となった。
立花宗茂筑後柳川の領地を失い、改易となった。
真田昌幸領地を失い、紀伊九度山へ配流された。
真田信繁(幸村)父の昌幸とともに九度山へ移された。

西軍の武将には、領地をすべて失う「改易」や、領地を減らされる「減封」といった処分が行われました。

なかでも毛利輝元は、西軍の総大将という立場にありながら、処刑はされず、領地を大幅に減らされました。
一方、石田三成や小西行長は処刑され、宇喜多秀家は流罪となっています。

このように、同じ西軍でも、戦後の処遇には大きな違いがあったことが分かります。

西軍でも領地を守った武将や復活した武将がいた

西軍に参加した武将の中には、戦後も領地を維持した人物がいました。
その代表が島津義弘の属する島津家です。

島津義弘は関ヶ原で西軍として戦いましたが、戦後の交渉を経て、島津家は薩摩・大隅などの領地を維持しました。
ただし、島津義弘個人の行動と島津家全体の立場は、分けて考える必要があります。

また、立花宗茂は関ヶ原の敗戦後に改易となりましたが、その後、徳川政権に仕え、1620年には旧領の柳川へ復帰しています。

関ヶ原で西軍についたことが、その武将の生涯をすべて決めたわけではなかったのです。

関ヶ原の戦い後の1600年代初頭に城下町で荷物を運ぶ町人と武士

関ヶ原の戦いの後、領地の再配分が進み、各地の大名と城下町のあり方も変わっていった。

関ヶ原の戦後処理は江戸幕府成立につながった

関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、全国の大名の領地を大きく再編しました。
その結果、徳川家に協力した大名たちが各地で勢力を伸ばし、西軍の有力大名は領地を失ったり、勢力を弱めたりしました。

そして1603年、徳川家康は征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開きます。

関ヶ原の戦いは、単に東軍と西軍の勝敗を決めた戦いではありませんでした。
戦後の領地再編を通じて、徳川家康が全国支配を進める大きな転機にもなったのです。

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まとめ|関ヶ原の戦いの東軍・西軍メンバーと総大将

関ヶ原の戦いでは、徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とする西軍が対立しました。
石田三成は西軍の中心人物として知られていますが、正式な総大将は毛利輝元でした。

今回見てきた東軍・西軍の主な違いを振り返ってみましょう。

  • 東軍の総大将は徳川家康。福島正則や黒田長政、細川忠興らが参加した。
  • 西軍の総大将は毛利輝元。石田三成や宇喜多秀家、小西行長、大谷吉継らが中心となった。
  • 兵力は東軍約7万~8万人、西軍約8万~9万人と紹介されることが多いが、推定値には幅がある。
  • 西軍には主戦闘に加わらなかった軍勢や、途中で東軍側についた武将がいた。
  • 東軍の勝利後、領地の再配分が進み、徳川家康の勢力がさらに強まった。

関ヶ原の戦いは、徳川家康と石田三成だけの戦いではありません。
多くの大名がそれぞれの立場で参加し、その判断が戦いの行方に関わっていました。

東軍・西軍のメンバーを一人ずつ見ていくと、勝敗だけでは分からない武将たちの事情も見えてきます。
そうした違いに目を向けると、関ヶ原の戦いがより興味深く感じられるのではないでしょうか。

参考資料

※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。

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