長篠の戦いの場所は現在どこ?地図でわかる設楽原・長篠城と古戦場跡

長篠の戦いの舞台となった設楽原をイメージした歴史風景

長篠の戦いは、現在のどこで行われたのでしょうか。
1575年に織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼が戦った場所は、現在の愛知県新城市にあります。

ただし、長篠城と設楽原は同じ場所ではありません。

長篠城では籠城戦が行われ、設楽原では両軍の主力が激突しました。
現在も長篠城跡や馬防柵の再現施設、武将たちの墓所など、当時の戦いを伝える史跡が残っています。
この記事では、長篠の戦いが起きた場所を地図で確認しながら、設楽原と長篠城の位置関係、現在の古戦場跡や見どころをたどってみます。

長篠の戦いの場所は現在どこ?愛知県新城市にある

長篠の戦いが行われた場所は、現在の愛知県新城市(しんしろし)にあります。

1575年(天正3年)、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼の軍勢が戦った場所です。

ただし、長篠の戦いという名前から、長篠城のすぐ前で両軍が激突したと思われるかもしれません。

実際には、長篠城をめぐる攻防と、少し離れた設楽原(したらがはら)での決戦がありました。

両軍の主力が激突したのは設楽原で、現在も古戦場として知られています。

長篠の戦いの場所を現在の地名で確認

長篠の戦いに関係する主な場所を、現在の地名で整理すると次のようになります。

場所現在の所在地戦いとの関係
長篠城跡愛知県新城市長篠奥平貞昌(のちの信昌)らが籠城し、武田軍の攻撃を受けた場所
設楽原古戦場愛知県新城市竹広・八束穂周辺織田・徳川連合軍と武田軍の主力が戦った地域
連吾川周辺愛知県新城市の設楽原周辺織田・徳川連合軍が防御陣地を構えたとされる地域
鳶ヶ巣山砦跡愛知県新城市の長篠城周辺長篠城を包囲した武田方の砦の一つ

このように、長篠の戦いは一か所だけで行われたわけではありません。

長篠城を包囲する武田軍と、それを救援する織田・徳川連合軍の動きが、周辺の広い地域に及んでいました。

現在も長篠城跡や設楽原古戦場を訪れることができる

現在の新城市には、長篠の戦いに関係する史跡が残されています。

長篠城跡では城の地形や土塁などを確認でき、設楽原には当時の戦いを伝える史跡や馬防柵の再現施設があります。

また、設楽原歴史資料館では、長篠の戦いや火縄銃に関する展示を見ることができます。

歴史上の戦場を現在の風景と重ねてみると、なぜこの場所で戦いが起きたのか、少し違った見方ができるかもしれません。

次の章では、現在の地図を使い、長篠城と設楽原がどのような位置関係にあるのかを確認してみましょう。

長篠城の包囲から設楽原での決戦まで、合戦全体の流れについては、長篠の戦いとは?いつ・どこで誰が戦ったのかで紹介しています。

長篠の戦いの場所を地図で確認!設楽原と長篠城の位置関係

長篠の戦いが行われた場所を、現在の地図で確認してみましょう。

主な舞台となったのは、長篠城と、その西方に広がる設楽原です。

長篠城では武田軍による包囲戦が続き、設楽原では救援に向かった織田・徳川連合軍と武田軍の主力が戦いました。

両地点は離れているため、地図で位置関係を確認すると、戦いの流れが理解しやすくなります。

現在の地図で長篠城跡と設楽原古戦場を確認

次の地図には、長篠城跡、設楽原古戦場、馬防柵再現地、設楽原歴史資料館の4か所を示します。

長篠城跡は城をめぐる攻防の舞台で、設楽原古戦場は両軍の主力が激突した地域です。

また、連吾川沿いには馬防柵が再現され、近くの設楽原歴史資料館では合戦に関する資料を見ることができます。

まずは長篠城跡の現在位置を、Googleマップで確認してみましょう。

長篠城跡は現在の愛知県新城市長篠にあり、武田軍による包囲戦の舞台となった場所です。

地図を見ると、長篠城跡と設楽原古戦場が別の場所にあることがわかります。

なお、設楽原古戦場は一定の広がりを持つ地域です。地図上のピンは見学地点を示すもので、戦場全体の範囲を示すものではありません。

長篠城と設楽原の位置関係を布陣図で見る

現在の地図に続いて、1575年当時の両軍の位置関係も見てみましょう。

武田軍は長篠城を包囲していましたが、織田・徳川連合軍が救援に進むと、設楽原での決戦に至りました。

連合軍は連吾川周辺に防御陣地を構え、武田軍と対峙しました。

地図は長篠・設楽原の戦いの決戦場を示しています。実際の戦闘は、この地点だけでなく周辺の広い範囲で行われました。

長篠の戦いにおける織田徳川連合軍と武田軍の布陣、連吾川、長篠城、鳶ヶ巣山砦の位置関係を示す概略図

長篠の戦いの布陣概略図。両軍の配置と酒井忠次の別働隊の動きを示したもので、部隊位置や経路には推定を含みます。

布陣図では、長篠城、設楽原、連吾川、鳶ヶ巣山砦の位置関係に注目してみてください。

ただし、両軍の細かな布陣や移動経路には、史料の解釈によって異なる点があります。

現在の地図は史跡の所在地、布陣図は当時の戦いの流れを確認するためのものとして、分けて見るとよさそうです。

次の章では、長篠の戦いと設楽原の戦いという2つの呼び方について、違いを確認してみましょう。

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長篠の戦いと設楽原の戦いは違う?2つの戦場を整理

長篠の戦いを調べていると、「設楽原の戦い」という名前を見かけることがあります。

この2つは別々の合戦なのでしょうか。

結論からいうと、設楽原の戦いは、長篠の戦いの中でも両軍の主力が激突した決戦を指す呼び方です。

長篠の戦いには、長篠城をめぐる攻防と、設楽原で行われた野戦という2つの大きな場面がありました。

武田軍の包囲に耐える長篠城の籠城戦を描いた歴史イメージ

長篠城では奥平貞昌らが武田軍の包囲に耐えた(イメージ画像)

長篠城では武田軍と城を守る徳川方が戦った

1575年(天正3年)、武田勝頼は三河国へ軍勢を進め、長篠城を包囲しました。

当時の長篠城は徳川家康方の城で、奥平貞昌(のちの信昌)らが守っていました。

武田軍は城を攻めましたが、城兵は籠城して抵抗を続けます。

徳川家康は織田信長に援軍を求め、織田・徳川連合軍が長篠城の救援に向かいました。

つまり、長篠城での戦いは、城を攻める武田軍と籠城する徳川方との攻防だったのです。

設楽原では織田・徳川連合軍と武田軍の主力が激突した

長篠城を救援するために進軍した織田・徳川連合軍は、城の西方にある設楽原方面へ進みました。

一方、武田勝頼も主力を率いて連合軍と対峙します。

1575年5月21日(旧暦)、設楽原で両軍の決戦が行われました。

織田・徳川連合軍は連吾川周辺に馬防柵などの防御施設を設け、武田軍を迎え撃ちました。

この戦闘で武田軍は大きな損害を受け、山県昌景や馬場信春らの有力武将が討死しました。

現在、馬防柵が再現されている場所も、この設楽原の戦場に関係する史跡です。

長篠の戦いと設楽原の戦いの違いを比較

2つの呼び方を、場所と戦闘内容で比較してみましょう。

比較項目長篠城の攻防設楽原の決戦
場所現在の愛知県新城市長篠現在の愛知県新城市竹広・八束穂周辺
主な戦闘武田軍による城の包囲・攻撃両軍主力による野戦
武田方武田勝頼の軍勢武田勝頼の主力軍
織田・徳川方奥平貞昌らの城兵織田信長・徳川家康の連合軍
結果長篠城は落城せず武田軍が敗北

このように、長篠城の攻防と設楽原の決戦は、場所も戦闘の内容も異なります。

ただし、両者は長篠城の救援をめぐって連続して起きた戦闘です。

そのため、一般には一連の戦いをまとめて「長篠の戦い」と呼び、主力同士の決戦を特に「設楽原の戦い」と呼ぶことがあります。

次の章では、現在の設楽原古戦場に残る史跡や、再現された馬防柵を見てみましょう。

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設楽原古戦場は現在どうなっている?馬防柵と決戦の跡地

長篠の戦いの主戦場となった設楽原には、現在も合戦の歴史を伝える場所が残っています。

なかでも有名なのが、織田・徳川連合軍が築いたとされる馬防柵の再現施設です。

現在の設楽原は田畑や住宅地などが広がる地域ですが、現地に立つと、連吾川や周囲の丘陵が戦いにどのように関係していたのかを考えることができます。

現在の設楽原古戦場にある馬防柵再現地の参考イメージ

設楽原に再現された馬防柵の参考イメージ

設楽原には現在も馬防柵が再現されている

設楽原古戦場では、連吾川沿いに馬防柵が再現されています。

織田・徳川連合軍は、武田軍の攻撃を防ぐために、川沿いに防御施設を設けたと伝えられています。

当時の馬防柵は広い範囲に設けられたとされますが、現在見られるのはその一部を再現したものです。

再現された馬防柵では、木材を組み合わせた防御施設の様子を間近に見ることができます。

織田・徳川両軍の柵には出入り口の設け方に違いがあったとする復元もあり、当時の防御方法を考える参考になります。

ただし、現在の柵が1575年からそのまま残っているわけではありません。

合戦図屏風などを参考に、後世に再現された施設です。

馬防柵再現地は現在のどこにある?

馬防柵の再現地は、愛知県新城市の設楽原古戦場にあります。

長篠城跡とは別の場所にあり、連吾川沿いの決戦場を見学する際の代表的な地点です。

場所は次のGoogleマップで確認できます。

地図は現在の馬防柵再現地を示しています。1575年当時の馬防柵全体の位置や規模を、そのまま示すものではありません。

連吾川と周囲の地形から当時の戦場を考える

設楽原の戦場を理解するうえで、もう一つ注目したいのが連吾川と周囲の地形です。

連吾川の周辺には低地があり、その両側には段丘や丘陵が広がっています。

織田・徳川連合軍は、このような地形を利用して防御陣地を構えました。

武田軍が攻撃する際には、川や低地、馬防柵などが進軍の障害になったと考えられています。

鉄砲の数だけでなく、地形と防御施設の組み合わせも、設楽原の戦いを考えるうえで重要な点です。

現在の風景は当時とは変わっていますが、川と高低差に注目してみると、両軍が戦った場所の特徴を感じ取ることができます。

設楽原に馬防柵が築かれた理由や、鉄砲の三段撃ちをめぐる議論については、長篠の戦いで織田信長が勝った理由と三段撃ちの真実で詳しく取り上げています。

古戦場には戦死した武将たちを伝える史跡も残る

設楽原には、馬防柵だけでなく、長篠の戦いで亡くなった人々を伝える墓碑や供養の史跡も残されています。

武田軍はこの戦いで多くの将兵を失い、山県昌景や馬場信春らの有力武将も討死しました。

戦場周辺には、戦死者を弔うために設けられたと伝わる塚などがあります。

これらは戦いの激しさだけでなく、戦後に人々が犠牲者を供養してきた歴史を伝えています。

次の章では、長篠城跡に目を向け、現在の城跡には何が残っているのかを確認してみましょう。

長篠城跡はどこ?籠城戦が行われた場所と見どころ

長篠城跡は、現在の愛知県新城市長篠にあります。

1575年(天正3年)の長篠の戦いでは、奥平貞昌(のちの信昌)らが城を守り、武田勝頼の軍勢による攻撃に耐えました。

現在は城の建物こそ残っていませんが、大きな土塁や堀の跡、河川に囲まれた地形から、当時の城の特徴を確認できます。

現在の長篠城跡に残る土塁と空堀をイメージした風景

長篠城跡の土塁と堀をイメージした参考画像

長篠城は2つの川に守られた天然の要害だった

長篠城が築かれたのは、豊川(寒狭川)と宇連川が合流する場所です。

城の南側と西側は急な崖になっており、川と崖が天然の防御施設として利用されていました。

川と崖に守られた南・西側に対し、北・東側は比較的平坦だったため、土塁や堀によって防御を補っていました。

このように、自然の地形と人工的な防御施設を組み合わせた城だったことが、長篠城の大きな特徴です。

現在の城跡でも、川に囲まれた立地を確認すると、なぜこの場所が城に選ばれたのかが見えてきます。

現在の長篠城跡には土塁や空堀が残っている

長篠城跡の見どころの一つが、本丸跡の北東側に残る大きな土塁と内堀です。

土塁は土を高く盛り上げた防御施設で、堀と組み合わせることで敵が城内へ入りにくい構造になっています。

新城市の資料によると、現存する土塁は高さ約5メートル、長さ約80メートルに及びます。

また、土塁に沿って幅約10~15メートルの堀も残されています。

これらは、徳川方が武田軍の侵攻に備えて改修したものと推定されています。

現在は城郭建築がないため、一見すると緑の多い広場のようにも見えます。

しかし、土塁と堀の高低差に注目すると、戦国時代の城がどのように守られていたのかを考えることができます。

長篠城址史跡保存館では籠城戦の歴史を学べる

長篠城跡には、長篠城址史跡保存館があります。

館内では、長篠城をめぐる攻防や設楽原での決戦について、歴史資料や展示を通して確認できます。

長篠城にゆかりのある品々や、合戦に関係する武具・出土品なども紹介されています。

城跡を歩くだけではわかりにくい当時の戦いについて、展示を見ながら理解を深められる施設です。

長篠城跡を訪れる際は、保存館とあわせて見学するのもよさそうです。

長篠城跡は国指定史跡で日本100名城にも選ばれている

長篠城跡は、1929年(昭和4年)に国の史跡に指定されました。

また、2006年には日本城郭協会による「日本100名城」にも選ばれています。

天守閣や石垣のある城とは異なりますが、戦国時代の城郭の姿を伝える貴重な史跡です。

なお、長篠城は1575年の合戦後も使われましたが、翌1576年には廃城となったとされています。

現在の城跡を訪れると、武田勝頼が攻略を目指した長篠城の立地と、奥平貞昌らが守り抜いた城の特徴を確かめることができます。

次の章では、長篠城や設楽原の周辺に残る、武将たちの墓所や鳶ヶ巣山砦などの史跡を見てみましょう。

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長篠の戦いの史跡はどこにある?武将の墓所と鳶ヶ巣山砦

長篠の戦いに関係する史跡は、長篠城跡や設楽原古戦場だけではありません。

周辺には、武田軍の重臣たちの墓碑、戦死者を供養した塚、長篠城を包囲した砦の跡などが点在しています。

こうした場所をたどると、長篠の戦いが広い地域で繰り広げられた合戦だったことがわかります。

馬場信春や山県昌景らの墓碑が残る

設楽原の決戦では、武田軍の多くの有力武将が討死しました。

現在も新城市内には、馬場信春(信房)、山県昌景、内藤昌秀(昌豊)、土屋昌続(昌次)らに関係する墓碑や供養の史跡が残されています。

なかでも馬場信春の墓は、長篠城跡から比較的近い場所にあります。

馬場信春は武田信玄以来の宿将で、長篠の戦いでは敗走する武田勝頼を守るため、殿(しんがり)を務めて戦死したと伝えられています。

ただし、現在見られる墓碑には後世に建立されたものもあり、墓碑の所在地がそのまま正確な戦死地点を示すとは限りません。

こうした史跡は、合戦の犠牲者が後世までどのように弔われてきたのかを伝える場所でもあります。

現地に残る武将の墓や戦死地に加え、山県昌景・馬場信春らがどのように命を落としたのかについては、長篠の戦いで戦死した武将一覧とその最期をご覧ください。

鳶ヶ巣山砦跡は長篠城を包囲した武田軍の陣地だった

鳶ヶ巣山(とびがすやま)砦跡は、長篠城の対岸にある山中に位置します。

武田軍は長篠城を包囲するため、周辺の山々に複数の砦を設けていました。

鳶ヶ巣山砦も、その一つとされています。

1575年5月21日(旧暦)、徳川家康の重臣・酒井忠次らが率いる別働隊は、長篠城周辺の武田方の砦を攻撃しました。

酒井忠次らの別働隊によって鳶ヶ巣山砦などが攻略され、武田軍による長篠城の包囲網は崩れました。

ただし、この攻撃が設楽原での主力決戦の勝敗にどの程度影響したかについては、さまざまな見方があります。

ただし、この攻撃が設楽原の主力決戦にどの程度影響したのかについては、慎重に考える必要があります。

現在の鳶ヶ巣山砦跡には石柱などがありますが、当時の砦の構造を明確に示す遺構は確認されていません。

山中の史跡であるため、訪れる際には道の状況や歩行時間を事前に確認したいところです。

信玄塚は長篠の戦いの戦死者を弔った場所

設楽原歴史資料館の南隣には、「信玄塚」と呼ばれる史跡があります。

信玄塚は、長篠の戦いで亡くなった人々を埋葬した塚と伝えられています。

信玄塚には大塚と小塚の2つがあり、大塚には武田軍、小塚には徳川・織田連合軍の戦死者を埋葬したという伝承が残っています。

ただし、実際の埋葬状況や「信玄塚」という名称の由来には不明な点もあります。

ただし、塚の名称の由来には諸説があります。

また、武田信玄は長篠の戦いより前の1573年に亡くなっているため、信玄塚を武田信玄本人の墓と考えるのは正確ではありません。

信玄塚は、長篠の戦いの戦死者を供養してきた歴史を伝える史跡として見ておきたい場所です。

長篠城周辺には勝頼本陣跡や大通寺もある

長篠城の周辺には、武田勝頼の本陣が置かれたとされる医王寺山や、武田軍の武将たちに関係する大通寺もあります。

医王寺の裏山にある医王寺山は、長篠城を包囲した際の武田勝頼の本陣地と伝えられています。

また、大通寺には、馬場信春や山県昌景らが決戦前夜に別れの水盃を交わしたという「盃井戸」の伝承が残っています。

ただし、軍議や水盃の逸話は、後世に伝えられた話を含むため、そのまま確定した史実として扱うことはできません。

長篠城周辺を歩く際には、こうした伝承の残る場所にも目を向けてみると、合戦の歴史をより身近に感じられるかもしれません。

長篠の戦いに関係する主な史跡一覧

ここまで紹介した史跡を整理してみましょう。

史跡主な見どころ・由来
馬場信春の墓武田軍の宿将・馬場信春を弔う墓碑
山県昌景らの墓碑設楽原で討死した武田軍の武将を伝える史跡
鳶ヶ巣山砦跡長篠城を包囲した武田方の砦の推定地
信玄塚長篠の戦いの戦死者を埋葬したと伝わる塚
医王寺山長篠城包囲時の武田勝頼本陣跡と伝わる場所
大通寺・盃井戸武田軍の重臣たちが水盃を交わしたという伝承地

新城市・長篠城址周辺マップが便利です。

長篠の戦いの史跡は、設楽原の決戦場だけでなく、長篠城の周辺にも広がっています。

すべてを一度に回るのは難しいかもしれませんが、興味のある場所を選んで訪れるだけでも、当時の戦いの広がりを感じられそうです。

次の章では、これらの史跡を実際に訪れる場合のアクセス方法や、見学のポイントを確認してみましょう。

長篠の戦いの古戦場を観光するには?アクセスと見学のポイント

長篠の戦いの古戦場は、現在の愛知県新城市にあり、史跡を訪ねながら合戦の舞台を確認できます。

ただし、長篠城跡と設楽原古戦場は離れているため、移動方法を考えてから訪れると便利です。

特に初めて訪れる場合は、長篠城跡と設楽原古戦場を中心に見学すると、合戦の流れを理解しやすくなります。

長篠城跡へのアクセスはJR飯田線が便利

長篠城跡の最寄り駅は、JR飯田線の長篠城駅です。

長篠城駅から城跡までは徒歩で約8分が目安となります。

長篠城跡には長篠城址史跡保存館があり、城をめぐる攻防について展示資料を通して確認できます。

公共交通機関で訪れる場合は、JR飯田線の運行本数が限られる時間帯もあるため、帰りの列車の時刻も確認しておきたいところです。

設楽原古戦場と馬防柵へは車での移動が便利

設楽原古戦場は、長篠城跡の西方に広がる地域です。

馬防柵再現地や周辺の史跡を訪れる場合は、車での移動が便利です。

公共交通機関を利用する場合は、JR飯田線の三河東郷駅などが見学の起点になります。

ただし、設楽原古戦場は広い範囲に史跡が点在しているため、駅から目的地までの距離や歩く道を事前に確認する必要があります。

特に夏場は暑さが厳しくなるため、飲み物や歩きやすい靴を準備しておくと安心です。

設楽原歴史資料館では長篠の戦いと火縄銃を学べる

設楽原古戦場を訪れるなら、設楽原歴史資料館にも立ち寄ってみたいところです。

資料館では、長篠の戦いや設楽原の歴史、火縄銃に関する資料などが展示されています。

長篠城址史跡保存館が長篠城の歴史を中心に扱うのに対し、設楽原歴史資料館では設楽原の決戦や鉄砲に関する展示を通して、合戦を別の角度から見ることができます。

資料館の場所は、次のGoogleマップで確認できます。

*参考:新城市公式ホームページ

開館時間や休館日、入館料などは変更される場合があります。

訪問前には、新城市の公式案内で最新情報を確認してください。

設楽原歴史資料館の最寄り駅は、JR飯田線の三河東郷駅です。
駅からは徒歩約15分が目安となります。

長篠の戦いの史跡を見学するならどの順番がよい?

初めて長篠の戦いの史跡を訪れる場合は、次のような順番で回る方法があります。

順番見学場所確認したいポイント
①長篠城跡・長篠城址史跡保存館籠城戦の舞台と城の防御施設
②設楽原歴史資料館合戦の経緯と火縄銃の展示
③馬防柵再現地連吾川周辺の地形と防御施設
④設楽原古戦場周辺の史跡武将の墓碑や戦死者を弔う史跡

この順番なら、まず長篠城の籠城戦を確認し、資料館で合戦の背景を学んでから、設楽原の決戦場を見学できます。

ただし、実際の見学順序は交通手段や資料館の開館時間によって調整してください。

史跡の中には住宅地や農地に隣接する場所もあるため、現地の案内表示に従い、私有地への立ち入りは避けましょう。

次の章では、長篠の戦いが行われた場所と、現在残る古戦場の特徴をまとめます。

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まとめ|長篠の戦いの場所と現在の古戦場を振り返る

長篠の戦いが行われた場所は、現在の愛知県新城市です。

1575年(天正3年)、武田勝頼の軍勢と織田信長・徳川家康の連合軍が戦いました。

ただし、長篠城をめぐる攻防と、設楽原での決戦は別の場所で行われています。

今回紹介した場所を整理すると、次のようになります。

  • 長篠城跡:奥平貞昌らが籠城し、武田軍の攻撃に耐えた場所
  • 設楽原古戦場:織田・徳川連合軍と武田軍の主力が激突した地域
  • 馬防柵再現地:連吾川沿いに当時の防御施設を再現した場所
  • 設楽原歴史資料館:長篠の戦いや火縄銃に関する資料を見学できる施設

現在の古戦場には、馬防柵の再現施設や城跡の土塁、武将たちの墓碑などが残されています。

地図で位置関係を確認し、実際の地形に目を向けると、長篠の戦いがどのような場所で行われたのか、より具体的に理解できます。

長篠の戦いは、鉄砲や馬防柵だけでなく、城の立地や河川、丘陵などの地形も重要な意味を持つ合戦でした。

機会があれば、現在の古戦場を訪ね、歴史の舞台となった風景を確かめてみるのもよさそうです。

参考資料

この記事の作成にあたり、以下の資料を参考にしました。

  • 新城市公式ホームページ「長篠城址・設楽原の戦いに関する史跡案内」
  • 新城市教育委員会「長篠城址周辺マップ」
  • 新城市「長篠城址史跡保存館」施設案内
  • 新城市「設楽原歴史資料館」施設案内
  • 文化庁「国指定文化財等データベース」長篠城跡
  • 平山優『検証 長篠合戦』吉川弘文館
  • 太田牛一『信長公記』

なお、現在の史跡の所在地についてはGoogleマップも利用しています。

古戦場の範囲や両軍の細かな布陣には諸説があるため、記事中の地図や布陣図は、位置関係を理解するための参考として掲載しています。

また、資料館の開館時間、休館日、見学条件などは変更される場合があります。訪問の際は新城市の公式情報をご確認ください。

※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。

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