徳川家康の家系図で見る正室側室と子供の処遇!子孫は維新まで継続?

猊鼻渓の春の写真
徳川家康公の家系図で、正室と側室の方の名前と、子供の名前とその処遇を解説。

  • ・子供の人数は11男5女とその処遇。
    ・徳川御三家の祖と母親と子。
    ・藩は明治まで続いたか考察。
    ・側室19人の方の名前。
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「天下人」はあまねく自身の子孫を配置したのは見事!

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徳川家康公の家系図から正室側室と子供の一覧!

徳川家康公の写真
(wikipediaより引用)

「徳川家康公」
の家系図です。
この家系図で、視覚的に見ることができます。

徳川家康公の家系図

一番上に「徳川家康公」。
正室~側室の方と、その方の子供の名前です。
子供が生まれた順番になっているので、見やすいかと思います。

*wikipedia等の情報をもとに私、管理人が作成いたしました。

徳川家康公の正室・継室の方の名前と子供とその後!

英勝院

徳川家康公の、正室は
「築山殿」
継室には
「朝日姫」
此方は太閤殿下との、政略結婚。

以下に詳しく。

徳川家康公の正室築山殿で子は二人!

以下のお二人です。

正室:築山殿 関口親永の娘(今川家の有力家臣)
 長男:信康 武田に内通の嫌疑で不慮の最後
 長女:亀姫 奥平信昌室(「上野小幡藩初代藩主」後に美濃加納藩初代藩主)

子供はお二人です。
しかしながら、亀姫の加納藩は、寛永9年(1632年)1月5日に当時の嫡流のお殿様が、25歳で死去した。
嗣子が無く、加納藩における奥平氏は断絶した。

とあります。

継室朝日姫は政略結婚!

2:継室:朝日姫

こちらは豊臣秀吉の妹で、政略結婚です。
ほとんど、当時の国家安定のための、処置かと。
「朝日姫」
は、夫婦仲がよく平和に暮らしていたのですが、無理やりの離縁での処置はとても悲しいもの。
時代ですね。

徳川家康公の子供の名前と側室(母親)と子の処遇!

鎌倉の写真

徳川家康公の側室は、なんと19人もいました。
でも、子供の処遇はどうも均等ではなかった?
寵愛なればこその処置だったのかもね。

「小督局」(長勝院)と結城秀康!

「お万の方」
は別名
「小督局」(こごうのつぼね)
とも呼ばれ後に「長勝院」と称しました。

お万の方 物部姓永見氏の娘で通称於古茶(おこちゃ)という。
 次男:結城秀康 越前北の庄68万石:明治維新まで維持。

次男ですから、実は徳川家の二代目になる予定だったんだと思います。
(この時点で長男元康はいない)
が・・歴史は、そうはなりませんでした。

「小牧長久手の戦い」

の後に、豊臣秀吉から請われて養子に。
が・豊臣秀吉に秀頼が生まれると、関東の結城氏に養子に出されました。
紆余曲折の末に最終的に

「越前北庄68万石」

で落ち着きました。
その後は、すったもんだで・・福井の越前は「松平」は残ったのですが、「秀康公」は嘆いたかと。

お愛の方「西郷局」と徳川秀忠と忠吉!

「お愛の方」
は「西郷局」と言われ、院号は
「宝台院」
です。

お愛の方 戸塚忠春と母は西郷氏。
 三男:徳川秀忠 徳川幕府二代将軍
 四男:徳川忠吉 井伊直政娘婿のち「清州52万石」が急死:享年28歳
 二女:督姫 北条氏直室・その後「池田輝政」室。明治維新まで存続

三男の、徳川秀忠は皆さん承知のように
「二代将軍」
になります。

四男の松平忠吉は、徳川四天王の1人「井伊直政」の娘婿になります。
関ヶ原の戦で、井伊直政の後見の元、初陣を飾りました。
見事に抜け駆け先鋒を務め、その後尾張及び美濃にまたがる

「清洲52万石」

を拝領。
しかし関ヶ原の傷が元で、急死。享年28歳。
忠吉には子供が無かったため、新たに家康公の子供の徳川義直公(尾張徳川氏)が、ここに入ります。
その後は、名古屋藩に吸収されるような形になりました。

二女:督姫

このころは、まだ北条氏が健在。
政略結婚ですが「北条氏直」に嫁ぎました。
豊臣秀吉の、小田原攻めで北条氏は滅亡。

北条氏直が死去ののちは、「池田輝政」に嫁いで五男次女を設けています。

その前に、北条氏との間に一男二女を設けているので、子だくさんの方でした。
池田氏は、岡山藩を明治維新まで維持しています。

下山殿の子は武田信吉!

「下山殿」
名は都摩、津摩。秋山夫人とも・

下山殿 武田一門で家臣の秋山虎康(越前守)の娘で穴山氏幼女
 五男:武田信吉 常陸の国25万石:21歳で早世

信吉の母は、武田氏の家臣の穴山氏の養女。
その縁で、武田家滅亡ののちは、武田家の名跡を引き継ぎ、穴山氏の部下も多く引き連れていた様です。
関ヶ原の戦いの後、常陸の国25万石に封ぜられる。
そこで、「松平姓」の復活も許されました。
しかし、21歳の若さで亡くなってしまいます。

その後11男の頼房が入部し、水戸徳川家の祖になります。

茶阿の局の子は松平忠輝と松千代!

「茶阿の局」
名は久。
本姓は河村。
法名は朝覚院。

茶阿の局 夫が代官に殺され直訴がきっかけで、のちに側室に。
 六男:忠輝 越後国高田75万石を拝領も後に秀忠公により改易
 七男:松千代 五歳で夭逝

松平忠輝公は、慶長15年(1610年)閏2月、高田藩(福島城主・後述)30万石を加封され、のちも順調に加増。
しかしながら、度重なる命令違反や、戦への遅延などが重なり家康公とは疎遠に。

最終的には、秀忠公より「改易」されてします。
幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて死去した。享年92歳
とありますから、当時としてはずいぶんと長生きだったんですね~~

7男松千代

残念ながら5歳で亡くなっています。
残念ですね。

お亀の方(相応院)と仙千代と徳川義直!

「お亀の方」(相応院)
夫と死別後、奥勤めに入り、その後、石川光元の側室、その後離縁。
見染められ側室に。

お亀の方 石清水八幡宮の祀官家・田中氏(紀姓田中氏)の分家である京都正法寺・志水宗清の娘
 八男:仙千代 五歳で夭逝
 九男:徳川義直 松平忠吉の遺領を継ぎ尾張徳川氏(御三家)

いよいよ、本流に入ってきましたよ~~~

八男:仙千代

残念ながら5歳で、お亡くなりになってます。

九男:徳川義直

兄の松平忠吉の遺領、清洲藩を継いで尾張国清洲藩主となります。
その後、清洲から名古屋に居城を移し、徳川御三家として明治維新まで続きます。

家康公は、ここ名古屋を防衛のかなめ(要衝)と考えていたようです。

お万の方(養珠院)と徳川頼宣と徳川頼房!

「お万の方」
は名を「万」といい
「養珠院(ようじゅいん)」
と称しました。

お万の方 勝浦城主正木頼忠と智光院の娘(諸説あり)
 十男:徳川頼信 紀伊国和歌山55万5千石:紀州徳川家(御三家)
 十一男:徳川頼房 常陸水戸城25万石:水戸徳川家(御三家)

この側室のお万の方、いわゆる養珠院という方は、おそらくですが最も、徳川家康公の「寵愛」を受けたのではないでしょうか。
そうでなければ、子供二人ともに、御三家の両輪とは、ありえないかもしれませんね。

十男:徳川頼宣

紀州徳川家の祖。常陸国水戸藩、駿河国駿府藩を経て紀伊国和歌山藩主となった・・とあります。
誕生は慶長7年3月7日(1602年4月28日)とあります。

関ケ原の戦の二年後ですね。
2歳にして常陸水戸藩20万石。
加藤清正の次女・八十姫(瑤林院)を正室に迎える。
元和5年(1619年)、紀伊国和歌山55万5千石に転封、紀州徳川家の家祖となる・・ここから、将軍が何人出たのかな~~

名門紀州家の誕生ですね。

十一男:徳川頼房

こちらは、水戸徳川家ですね。
1603年(慶長8年)8月10日、伏見城にて生まれる・・とあります。
この方兄弟は、年子なんですね・これは驚き。

3歳にして常陸下妻城10万石を、次いで1609年(慶長14年)12月12日、兄の頼将(頼宣)の駿河転封によって新たに常陸水戸城25万石を領した
(wikipediaより引用)

すごいね。
その後、3代将軍家光公とは、まるで兄弟の仲で、江戸に常駐。
そういえば、鎌倉に英勝院というのがあったけど、確か水戸藩のゆかりでしたよね。
一昨年、鎌倉に行ったときに、確かそんなことがあったような‥

お梶の方(英勝院)の養子に入ったという記述もあるので、水戸藩にはゆかりがあったと。

天下の副将軍ですが、幕末も主役の藩でした。

と・・男子の十一男の内容は、こういうことのようです。
いずれ、歴史ですから、素晴らしいものがありますね。

お竹の方と三女の振姫(ふりひめ)!

「お竹の方」
法号は「良雲院」

お竹の方 武田氏の家臣市川昌永の娘(諸説あり)
 振姫(正清院) 蒲生秀行室・その後和歌山藩主の浅野長晟と再婚・浅野家は現代も存続

最初は、蒲生秀行に嫁いで二男二女をもうけています。
その後、政略結婚で紀州の「浅野長晟」の正室に迎えられています。

浅野氏は「紀伊国和歌山藩2代藩主」とあります。
その後、安芸国広島藩初代藩主。

当初石高は:42万6000石
維新当時の石高は不明ですが、明治維新まで浅野氏が広島藩を納めていました。

お久の方と四女の松姫(松ひめ)!

「お久の方」
駿府で没。

お久の方 後北条氏旧臣・間宮氏の娘・駿府でなくなる
 四女:松姫 伏見城で出産・早世

駿府は、家康公が最後まで過ごした城。
という事は、そこまで一緒に過ごした方。
家康公の死の、翌年に亡くなっています。

お梶の方と五女の一姫(いちひめ)!

「お梶の方」
院号は
「英勝院」
です。

お梶の方 太田康資と北条氏康の養女(遠山綱景の娘)(諸説あり)
 五女:一姫 伊達藩の跡取り予定の、伊達忠宗公と婚約も四歳で早世

お梶の方は「英勝院」ですね。
徳川頼房は養子になります。
家康公の、粋な計らいなんでしょうね~~

その五女の一姫は、伊達藩の跡取り予定の、伊達忠宗公と婚約でしたが、4歳で病死してしまいました。
残念ですね。

・・・・・・・・・・
と・・十一男五女の、16人の徳川家康公の、男女の子供たちの処遇や、その後明治維新まで、その藩は続いたかを見てきました。
・・・・・・・・・・

鎌倉の写真

・・・・・・・・・・・・・



徳川四天王:最強は私の好みでつけてみました。
・・・・・・

子供ができなかった側室は何人いたのか?

上で紹介したのは、子供ができて後継ができた、側室の方たちです。
しかしながら、側室でも子供ができなかった方もいます。

その方たちは何人いたのでしょうか?
以下のようです。

  • 1:お梅の方
    2:阿茶の局
    3:お那須の方
    4:お仙の方
    5:お六の方
    6:お夏の方
    7:富子
    8:法光院
    9:三条氏

と、わかってるだけで、9人ほどいらっしゃるようですね。
ちょっと、残念だったと思います。

しかしながら、これも世の常ならんことでしょうから、仕方のないことですね。

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徳川家康公の子供たちのその後と歴史の感想!

徳川家康公の子供たちは何人いるのか?
男の子は何人で、女の子(姫君)は何人いるのかを調べて、その後の処遇や明治維新まで続いたかを見てきました。

徳川家康公には

  • 正室:1人
    継室:1人
    側室:19人

子供:十一男五女(16人)

いました。
が・・これを書いていて・・
まぁ、こんな事は邪推かもしれませんが、家康公が最も寵愛した側室の方は、子供の処遇でなんとなく察しがつきますね。
と思った次第です。

  • 特に「お梶の方」:徳川義直公
    「お万の方」:徳川頼宣公、徳川頼房公

この方二人は、すごいですね。
御三家ですから。

この側室の方たちに、どんな方なのか会ってみたい気がするなぁと、思ったのですがもちろん叶うはずがないので私が勝手に思っただけです。

子供に対する、処遇から見て水戸、紀州、尾張については、どうやら急いでいたような気がします。
自分の年齢と、徳川幕府の体制の確立を、天秤にかけて構築することを最優先したのかもしれません。

これを書いていて思ったのは、やはり家康公ゆかりの藩ですから、遠慮があったのかもしれませんが、ほとんどは明治維新まで、残っているので驚きました。

しかも、藩内のいざこざについても、幕府から人を送り込んで、解決したりしていますから、驚きです。
外様なら、お取り潰し必死かと。

徳川家康公は、いつの時代にあっても主役です。
大河ドラマにも、必ず主役でなくとも必要な人物。

これからも、戦国の大河には、必ず必要な方なので、主役であり続けると思います。



・・・・・・・・・・・・・・

*かなりの私の主観で書いてますので、???な部分があっても容赦ください。
情報には正確を期してるつもりですが、勘違いなどもあろうかと思いますが、その点も容赦くださいね。
ヘッダーの写真は私が撮影した、日本三大渓流の猊鼻渓の春の風景写真です。

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