吉川広家は関ヶ原でなぜ裏切った?毛利軍と「宰相殿の空弁当」の真相

関ヶ原の戦いを前に書状と地図が置かれた陣屋で思案する戦国武将

関ヶ原の戦いで、西軍に属しながら軍勢を動かさなかった吉川広家。
なぜ徳川家康と通じ、毛利軍の参戦を妨げたのでしょうか。

その背景には、毛利家を守ろうとした広家の判断がありました。
しかし、戦いの後には毛利家が大幅に減封されるという、思いがけない結果が待っていました。

また、この出来事には「宰相殿の空弁当」という有名な逸話も残されています。
吉川広家は本当に裏切り者だったのか。
関ヶ原での動きから毛利秀元との関係、戦後の処分まで、史実と伝承を分けながらたどってみましょう。

吉川広家は関ヶ原でなぜ裏切った?動かなかった理由を簡単に

1600年の関ヶ原の戦いで、吉川広家は西軍に属しながら、徳川家康率いる東軍との戦闘に加わりませんでした。
その背景には、西軍の敗北を警戒し、毛利家の領地と家名を守ろうとした広家の判断があったと考えられています。

広家は合戦前から東軍側と交渉を進めており、毛利家の所領安堵を求めていました。
しかし、その行動は西軍の戦力を弱める結果となり、後世には「裏切り者」と呼ばれることにもなりました。

吉川広家が関ヶ原で動かなかった3つの理由

広家が戦闘に加わらなかった背景を整理すると、主に次の3点が挙げられます。

 

理由内容
① 毛利家の存続を優先した西軍が敗れた場合に備え、毛利家の領地と家名を守ろうとした。
② 東軍側と交渉していた黒田長政らを通じて徳川方と接触し、毛利家の所領安堵を求めていた。
③ 西軍の勝敗を警戒していた西軍が敗れた場合の危険を考え、徳川方との交渉を進めていたとみられる。

ここで注目したいのは、広家が単に徳川家康へ味方したかったというだけではないことです。
毛利家を守るために、東軍との和睦の道を探っていたという側面があります。

もっとも、こうした判断が正しかったかどうかは、戦後の結果も含めて考える必要がありそうです。

吉川広家の不戦は毛利軍にどんな影響を与えた?

関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が西軍の総大将となっていました。
ただし、輝元自身は大坂城におり、関ヶ原方面には毛利秀元らの軍勢が進出していました。

毛利秀元は南宮山に布陣し、吉川広家もその北麓に陣を構えたとされています。
ところが、広家は戦闘に参加せず、毛利秀元らの軍勢も本戦に加わりませんでした。

広家の軍勢が進路をふさいだため、毛利秀元らが出陣できなかったという話が伝わっています。

ただし、その具体的なやり取りについては、後世の軍記などに基づく部分もあるため、すべてを確定した史実として扱うことはできません。

いずれにしても、毛利勢が関ヶ原の本戦に参加しなかったことは、西軍にとって大きな痛手となりました。

毛利勢が動かなかったことは、関ヶ原の戦い全体の流れにも関わっていました。
合戦が始まった経緯から東軍・西軍の勝敗まで確認したい方は、関ヶ原の戦いとは?いつ・誰と誰が戦ったのか、勝敗と結果も参考にしてみてください。

吉川広家は本当に裏切り者だったのか?

西軍の立場から見れば、広家は味方でありながら東軍側と交渉し、戦闘に加わらなかった武将です。
そのため、「裏切り」と受け止められるのも無理はないでしょう。

一方、広家自身は毛利家の存続を図ろうとしていたと考えられています。

ところが、関ヶ原の戦いが終わると、毛利家はそれまでの広大な領地を失い、周防・長門の2か国へ大幅に減封されました。

毛利家を守ろうとした広家の行動は、結果として何をもたらしたのでしょうか。
この点は、関ヶ原の戦いを振り返るうえで興味深いところです。

次の章では、そもそも吉川広家がどのような武将で、毛利輝元とどんな関係にあったのかを見てみましょう。

吉川広家とはどんな武将?毛利輝元との関係

吉川広家(きっかわひろいえ)は、1561年に生まれた戦国武将です。
父は毛利元就の次男・吉川元春で、広家はその三男にあたります。

つまり、広家は毛利元就の孫であり、毛利輝元とは従兄弟の関係でした。
関ヶ原の戦いでは、この近い血縁関係にあった毛利家の存続をめぐって、難しい判断を迫られることになります。

吉川広家は毛利元就の孫!吉川元春の三男として生まれた

毛利元就には、毛利家を継いだ毛利隆元のほか、吉川元春、小早川隆景という息子がいました。
元春と隆景は、それぞれ吉川家と小早川家を継ぎ、毛利宗家を支える役割を担いました。

この体制は「毛利両川」と呼ばれています。

広家は、その吉川元春の三男として生まれました。
長男ではなかったため、当初から吉川家の家督を継ぐ立場だったわけではありません。

ところが、1586年に父・元春が亡くなり、翌1587年には家督を継いでいた兄・吉川元長も亡くなります。
こうして広家が吉川家の当主となりました。

毛利家との関係を簡単に整理すると、次のようになります。

人物吉川広家との関係
毛利元就祖父
吉川元春父・毛利元就の次男
小早川隆景叔父・毛利元就の三男
毛利輝元従兄弟・毛利宗家の当主
吉川元長兄・広家の前の吉川家当主

このように、吉川広家は単なる毛利家の家臣ではなく、毛利宗家を支える一族の有力武将だったのです。

吉川広家はどんな功績を残した?関ヶ原以前の活躍

広家は、関ヶ原の戦いで軍勢を動かさなかった人物として知られています。
しかし、それ以前は戦場で経験を重ねてきた武将でした。

豊臣秀吉の九州平定に従軍し、その後は文禄・慶長の役にも参加しています。

1587年の九州平定では、兄の吉川元長が陣中で病死しました。
元長は弟の広家を後継者に指名しており、広家は戦いのさなかに吉川家の当主となりました。

毛利家の軍勢を率いて活動するなど、実戦経験を積んでいました。

1591年には、出雲・伯耆・隠岐・安芸などの一部に約14万石を領し、出雲富田城へ居城を移しました。

主な経歴を年表で見てみましょう。

年吉川広家の主な出来事
1561年吉川元春の三男として誕生
1587年兄・吉川元長の死後、吉川家の家督を継ぐ
1591年出雲の月山富田城へ移り、約14万石を領する
1592年以降文禄・慶長の役に従軍
1600年関ヶ原の戦いで東軍側と交渉し、不戦の立場を取る

こうして経歴をたどると、広家は戦いを避け続けた武将ではなかったことが分かります。
関ヶ原での不戦は、それまでの戦歴とは異なる、政治的な判断だったと考えられます。

毛利輝元とは従兄弟!なぜ毛利家の存続を重視したのか?

関ヶ原の戦いで西軍の総大将となった毛利輝元は、広家の従兄弟にあたります。

広家の父・吉川元春は、長年にわたって毛利宗家を支えてきました。
広家もまた、父から受け継いだ吉川家の立場として、毛利宗家を支える役割を担っていました。

そのため、輝元が西軍の総大将となったことは、広家にとって無関係では済まされない問題でした。

もし西軍が敗れれば、毛利家全体が徳川家康から厳しい処分を受ける可能性があります。
広家は、そうした事態を避けようと東軍側との交渉を進めたと考えられています。

ただし、毛利家を守ろうとする広家の判断と、西軍の総大将となった輝元の方針は一致していませんでした。

同じ毛利一族でありながら、関ヶ原を前に異なる道を選ぶことになったわけです。

西軍の総大将だった毛利輝元のほかにも、関ヶ原には多くの大名が参加していました。
東軍・西軍それぞれの武将や総大将、兵力については、関ヶ原の戦いの東軍・西軍メンバー一覧と兵力の比較で確認できます。

では、広家は徳川家康側と具体的にどのような交渉をしていたのでしょうか。
次の章で、その内容を確認してみましょう。

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吉川広家は徳川家康と密約していた?交渉の内容

関ヶ原の戦いは1600年9月15日に行われました。
その前日の14日、吉川広家に関係する重要な文書が交わされています。

それが、徳川方の武将たちによる起請文です。
合戦が始まる前から、広家と東軍側の間では具体的な交渉が進んでいたことが分かります。

交渉の窓口になったのは黒田長政らだった

吉川広家が接触した相手として知られるのが、黒田長政です。
長政は徳川家康に味方し、西軍諸将への働きかけにも関わっていました。

広家との交渉には、黒田長政のほか、福島正則、井伊直政、本多忠勝らの名前も登場します。

注目したいのは、交渉が広家と家康の二人だけで行われたわけではないことです。

毛利家側にも福原広俊らの重臣が関わっており、複数の人物を通じて話が進められていました。

関ヶ原の戦いというと、武将同士が直接対決する場面を思い浮かべます。
しかし、その裏側では、戦う前に相手の軍勢を動かさないための交渉も進められていたのです。

吉川広家への働きかけは、徳川家康が関ヶ原の戦いで優位に立つうえでも重要な要素でした。
家康が合戦前から進めた準備や諸大名との交渉については、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝った理由と戦略で詳しくたどっています。

9月14日の起請文には何が記されていた?

関ヶ原の決戦前日、9月14日付で、福島正則・黒田長政の連署起請文と、井伊直政・本多忠勝の連署起請文が作成されました。

9月14日付の起請文には、本多忠勝・井伊直政が吉川広家と福原広俊に宛てたものがあります。
そこには、広家らが徳川方への忠節を果たした場合、家康から毛利輝元へ直接書状を取り付け、所領を従来どおりとする趣旨の約束が記されています。

これらは、吉川広家らと徳川方との交渉を考えるうえで重要な史料です。

交渉では、毛利家の所領を安堵することが条件となっていました。
その代わり、毛利勢が東軍との戦闘に加わらないことが期待されていたと考えられます。

ここで整理しておきたいのは、次の違いです。

確認したいこと史料から考えられる内容
交渉は実在したのか合戦前日の起請文によって確認できる
誰が関わったのか黒田長政・福島正則・井伊直政・本多忠勝らが関係した
何が重要な条件だったのか毛利家の所領安堵と不戦
毛利輝元は了承していたのか事前にどこまで把握し、認めていたかは慎重な検討が必要

「密約」という言葉からは、家康と広家が直接会って秘密の約束を交わしたような印象を受けるかもしれません。

しかし、実際には複数の武将や重臣が関わった交渉でした。
また、起請文が存在することと、約束がそのまま履行されたことは別の問題です。

関ヶ原の戦い前日に交わされた起請文をイメージした和紙の書状と筆

関ヶ原の決戦前日、吉川広家らと徳川方との間では起請文が交わされていました。(イメージ画像)

毛利輝元は広家の交渉を知っていたのか?

ここで、もう一つ気になる疑問があります。
西軍の総大将だった毛利輝元は、広家の交渉を知っていたのでしょうか。

もし輝元が事前に了承していたなら、広家の行動は毛利家内部の方針に沿ったものだった可能性があります。

反対に、輝元が知らなかったとすれば、広家は宗家の意向とは異なる行動を取ったことになります。

この点については研究上の議論があり、輝元が交渉の内容をどこまで把握していたのか、簡単には断定できません。

広家が東軍側と交渉していたことは確認できます。
しかし、毛利家内部でどのような了解があったのかについては、なお考える余地が残されています。

関ヶ原の前日に交わされた文書は、広家の行動を知る大きな手がかりです。
同時に、残された史料だけでは分からない部分があることも示しています。

次の章では、有名な「宰相殿の空弁当」という逸話を見てみましょう。

宰相殿の空弁当とは?意味と由来を確認

関ヶ原の戦いで毛利軍が動かなかった理由を語る際、よく登場するのが「宰相殿の空弁当(さいしょうどののからべんとう)」という言葉です。
これは、毛利秀元が弁当を食べていることを理由に出陣しなかったという逸話に由来します。

しかし、実際に弁当を食べていたことが原因で毛利軍が動かなかったわけではありません。
その背景には、吉川広家と東軍側との交渉があったと考えられています。

宰相殿の空弁当とはどういう意味?

「宰相殿の空弁当」とは、関ヶ原の戦いで毛利秀元が出陣を求められた際、兵の食事を理由に動かなかったとする逸話です。
「宰相殿」は参議に任じられていた秀元を指し、出陣しなかったことを皮肉る呼び名として伝わっています。

ここでいう「宰相殿」とは、毛利秀元を指しています。
秀元が官職に由来する「宰相殿」という呼び名で呼ばれていたことから、この表現が生まれました。

伝承では、南宮山方面に布陣していた西軍諸将から出陣を促された際、毛利方が食事中を理由に応じなかったとされています。
ただし、使者のやり取りや発言の内容を、当日の確実な記録として扱うことはできません。

ようは、毛利方は「これから弁当を食べるところなので、まだ動けない」といった趣旨の返答をしたとされています。

そのため、戦いに参加しなかった毛利軍の様子を象徴する逸話として、後世に広く知られるようになりました。

毛利秀元は本当に弁当を食べていたのか?

宰相殿の空弁当の逸話をイメージした戦国時代の陣幕と簡素な食事

「宰相殿の空弁当」は、毛利秀元の軍勢が出陣しなかったことにまつわる逸話です。(イメージ画像)

では、毛利秀元は本当に弁当を食べていたのでしょうか。

この話は後世の軍記や逸話を通じて知られるようになったもので、当日のやり取りをそのまま確認できる確実な同時代史料があるわけではありません。

そのため、実際に秀元が食事をしていたと断定することはできません。

むしろ、注目したいのは、なぜ毛利軍が戦闘に参加しなかったのかという点です。

吉川広家は東軍側と交渉を進めており、毛利勢が戦闘に加わらないように働きかけていました。
従来の説明では、広家の軍勢が南宮山の山麓に陣取っていたため、秀元の軍勢が進軍できなかったとされています。

つまり、弁当の話そのものよりも、毛利軍内部の事情と広家の不戦方針が重要だったと考えられます。

「宰相殿の空弁当」と吉川広家の関係

「宰相殿の空弁当」は毛利秀元の逸話ですが、その背景には吉川広家の行動がありました。

当時、毛利秀元の軍勢は南宮山方面に布陣していました。
その前方に位置していた吉川広家は、東軍との戦闘を避ける立場を取っていました。

従来の関ヶ原合戦の説明では、広家が進軍しなかったため、後方の毛利秀元や長宗我部盛親らも動けなかったとされています。

ただし、実際の進軍経路や各部隊の判断については、史料の検討が必要な部分もあります。

この逸話に登場する人物を整理すると、次のようになります。

人物関ヶ原での立場
吉川広家東軍側と交渉し、戦闘に参加しなかった
毛利秀元南宮山に布陣し、本戦に参加しなかった
長宗我部盛親西軍に属したが、本戦で大きな戦闘に加われなかった
毛利輝元西軍の総大将として大坂城にいた

こうして見ると、「宰相殿の空弁当」は、単に食事のために出陣しなかったという話ではありません。

毛利家を守ろうとした吉川広家の判断と、西軍として戦うはずだった毛利秀元らの立場が重なって生まれた逸話といえそうです。

では、実際の関ヶ原では、吉川広家と毛利秀元の軍勢はどこに布陣していたのでしょうか。
次の章では、南宮山の陣跡とともに、その動きをたどってみましょう。

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吉川広家と毛利秀元は関ヶ原でどう動いた?南宮山の布陣

1600年9月15日の関ヶ原の戦いで、吉川広家と毛利秀元の軍勢は、主戦場から少し離れた南宮山方面に布陣していました。

吉川広家の陣跡として案内されている場所は、岐阜県不破郡垂井町宮代の南宮山北麓付近にあります。
ただし、当時の陣地の正確な範囲まで確定しているわけではなく、現在の陣跡は伝承や史料などをもとに推定された場所です。

南宮山は現在の岐阜県不破郡垂井町にあり、関ヶ原の東側に位置する山です。

毛利勢がここから進軍すれば、東軍にとって大きな脅威になった可能性があります。
ところが、吉川広家は戦闘に参加せず、毛利秀元の軍勢も本戦では動きませんでした。

では、両軍はどのような位置関係にあり、なぜ出陣しなかったのでしょうか。

吉川広家の陣跡はどこ?南宮山の北麓に布陣

吉川広家の陣跡とされる場所は、岐阜県不破郡垂井町宮代にあります。
南宮山の北麓、朝倉山真禅院の周辺に近い場所です。

現在は吉川広家の陣跡として案内されており、関ヶ原の戦いに関係する史跡の一つになっています。

ただし、当時の陣地が正確にどこまで広がっていたかは、明確になっていません。
垂井町の文化財調査でも、陣跡の位置は推定されているものの、明確な遺構は確認できないとされています。

そのため、現在の陣跡は、広家の布陣場所として伝えられる地点と理解するのがよさそうです。

毛利秀元は南宮山に布陣!吉川広家との位置関係

毛利秀元は、西軍の総大将となった毛利輝元の名代として、南宮山方面に軍勢を率いていました。

従来の布陣図では、毛利秀元が南宮山の高い場所に陣を構え、吉川広家はその北麓に位置していたとされています。

周辺には、安国寺恵瓊や長宗我部盛親、長束正家らの西軍諸将も布陣していたと伝えられています。

主な武将の位置関係を整理してみましょう。

武将従来の布陣位置関ヶ原での動き
毛利秀元南宮山の山上付近本戦には参加しなかった
吉川広家南宮山の北麓付近東軍側と交渉し、戦闘を避けた
安国寺恵瓊南宮山周辺本戦で目立った戦闘を行わなかった
長宗我部盛親南宮山周辺本戦には参加しなかった
長束正家南宮山の東麓方面本戦には参加しなかった

この表は、現在一般に紹介されている布陣の概要です。
各部隊の正確な位置や進軍経路については、史料によって違いもあります。

南宮山の毛利勢と、笹尾山の石田三成、松尾山の小早川秀秋は、戦場でどのような位置関係にあったのでしょうか。
従来の配置と近年の研究については、関ヶ原の戦いの布陣図と東軍・西軍の配置・新説で紹介しています。

吉川広家が動かなかったため毛利軍も出陣できなかった?

関ヶ原の戦いでは、吉川広家の軍勢が動かなかったため、後方にいた毛利秀元らの軍勢も進軍できなかったと説明されてきました。

広家は合戦前から東軍側と交渉しており、毛利勢を戦闘に参加させない方向で動いていました。

従来の説では、広家の軍勢が山麓の進路を押さえたことで、毛利秀元らは関ヶ原の主戦場へ向かえなかったとされています。

ただし、実際に広家がどのように進軍を妨げたのか、秀元がどこまで出陣を望んでいたのかについては、後世の記録による部分があります。

そのため、「吉川広家が毛利軍を完全に封じ込めた」と断定するのではなく、東軍との交渉と毛利勢の不戦が結びついていたと考えるのが適切でしょう。

結果として、南宮山方面の西軍諸将は、関ヶ原の本戦で大きな役割を果たすことができませんでした。

毛利勢が戦いに加わっていたら結果は違ったのか。
そう考えたくなるところですが、実際の勝敗がどう変わったかまでは分かりません。

では、この吉川広家の判断は、毛利家を守るための行動だったのでしょうか。
それとも西軍に対する裏切りだったのでしょうか。
次の章では、広家が「関ヶ原の戦犯」と呼ばれる理由を見てみましょう。

吉川広家は裏切り者?関ヶ原の戦犯といわれる理由

吉川広家を「裏切り者」と呼ぶとき、一つ考えてみたいことがあります。
それは、広家がいったい誰を裏切ったのかという問題です。

西軍の仲間から見れば、広家は頼りにしていた軍勢を動かさなかった武将です。
しかし、毛利一族の立場から見れば、戦いに参加しないことにも別の意味があったのでしょう。

同じ行動でも、誰の立場から見るかによって評価が変わる。
吉川広家の関ヶ原には、そんな難しさがあります。

戦国武将の忠義は主君と軍勢のどちらに向けられた?

戦国武将にとって、戦場で味方とともに戦うことは重要でした。
しかし、それと同じくらい、自分の家や主家を存続させることも大切な問題だったはずです。

吉川広家の場合、毛利輝元は従兄弟であり、毛利宗家の当主でした。
一方、その輝元は西軍の総大将でもありました。

ここに、広家が置かれた立場の難しさがあります。

西軍の勝利を目指して戦うことと、毛利宗家が敗戦によって失うものを少なくすること。
この二つが両立しないと広家が判断したとすれば、どちらを選んでも問題が残ります。

ただし、これは広家の行動から考えられる解釈であり、本人の心中をそのまま再現できるわけではありません。

小早川秀秋の寝返りと吉川広家の不戦は何が違う?

関ヶ原の戦いで裏切りを語るとき、必ずといってよいほど登場するのが小早川秀秋です。

小早川秀秋は関ヶ原の本戦で大谷吉継の軍勢を攻撃し、東軍の勝利に貢献しました。
一方、吉川広家は東軍側と交渉していたものの、西軍への攻撃には加わっていません。

秀秋はつまり、実際に武力を使って東軍側に加わったのです。

これに対して、吉川広家は東軍と交渉していましたが、西軍を攻撃したわけではありません。

両者の違いを簡単に整理してみましょう。

比較項目吉川広家小早川秀秋
西軍での立場毛利一族の有力武将西軍に属する大名
関ヶ原での行動東軍と交渉し、戦闘に参加しなかった東軍側に加わり、大谷勢を攻撃した
西軍への影響毛利勢の不戦に関わった西軍の一部を直接攻撃した
行動の特徴不戦寝返りと攻撃

どちらも西軍に不利な結果をもたらした点では共通しています。
しかし、戦わなかった広家と、味方を攻撃した秀秋を同じ行動として扱うことはできません。

「裏切り」という一言でまとめると、こうした違いが見えにくくなってしまいます。

関ヶ原の戦いでは、小早川秀秋のほかにも東軍側へ通じた武将がいました。
寝返りと不戦の違いや、秀秋が東軍側についた理由については、関ヶ原の戦いの裏切り者一覧と小早川秀秋が寝返った理由で詳しく見ています。

吉川広家一人が関ヶ原の敗北を招いたのか?

では、吉川広家は関ヶ原の戦犯だったのでしょうか。

この問いを考えるには、広家の行動が西軍に与えた影響と、戦い全体の敗因を分ける必要があります。

南宮山方面の毛利勢が戦闘に参加しなかったことは、西軍にとって不利な出来事でした。
しかし、西軍の敗北には小早川秀秋らの動きや、諸将の連携など、ほかにも多くの要因が関わっています。

仮に毛利勢が出陣していたとしても、必ず西軍が勝ったとは言えません。

一方で、広家の行動が戦局に影響しなかったと考えるのも無理があります。

広家を「戦犯」と呼ぶかどうかは別として、戦わない選択が西軍に与えた影響は、「戦犯という評価をどう考えるか」ということに対して、検討する必要があるでしょう。

私には、吉川広家の興味深さは、成功した英雄とも失敗した裏切り者とも簡単に決められないところにあるように思えます。

戦場では勝敗が決まります。
しかし、そのときの判断が正しかったかどうかは、勝敗だけでは決められないのかもしれません。

西軍の敗北は吉川広家の不戦だけでは説明できず、石田三成の立場や諸将の連携も関わっていました。
三成の視点から見た敗因と敗戦後の最期については、関ヶ原の戦いで石田三成が負けた理由と処刑までの経緯でたどっています。

関ヶ原の戦い後、毛利家はなぜ減封された?

関ヶ原の戦いで吉川広家は、毛利家の領地を守ろうと徳川家康側と交渉していました。
ところが、戦いが終わると毛利家は、中国地方を中心とする広大な領地を失うことになります。

その理由として大きかったのが、毛利輝元が西軍の総大将となり、反徳川方の動きに深く関わっていたことでした。

広家の交渉だけでは、輝元の責任を帳消しにすることはできなかったのです。

毛利輝元が西軍の総大将だったことが問題になった

関ヶ原の戦いで毛利輝元は、大坂城に入り、西軍の総大将となっていました。
輝元自身は関ヶ原の本戦に出陣していませんが、西軍の中心人物として行動していたことは重要です。

また、毛利勢は関ヶ原だけでなく、各地で東軍側の城や勢力と対立していました。

徳川家康から見れば、毛利家は単に戦場で動かなかった大名ではありません。
西軍を支える有力勢力だったわけです。

広家は毛利家の所領安堵を求めていましたが、戦後には輝元が西軍の活動に関与したことが問題となり、毛利家に厳しい処分が検討されました。

つまり、吉川広家が戦わなかったことと、毛利輝元が西軍を率いた責任は、別の問題として扱われたと考えられます。

毛利家の領地は中国地方から周防・長門の2か国へ縮小された

関ヶ原以前の毛利家は、中国地方を中心に約120万石規模の領地を持つ大大名でした。
しかし、戦後は周防・長門の2か国に領地を削減されました。

新たな領地の石高は、一般に約36万9千石と紹介されます。
一方、1600年の検地帳には約29万8千石という数字も残されています。

これは石高の対象や算定方法が異なるためで、数字だけを単純に比較することはできません。
それでも、毛利家が以前の領地の大部分を失ったことに変わりはありません。

ここでは、おおよその規模を比較してみましょう。

 

項目関ヶ原以前関ヶ原以後
領地安芸・周防・長門・石見など中国地方を中心とする広い領域周防・長門の2か国
石高の目安約120万石約36万9千石
毛利家の立場豊臣政権下の有力大名徳川政権下で存続する大名
当主の動き毛利輝元が当主戦後、輝元が隠居し、秀就へ家督を譲る

*毛利輝元は西軍の総大将として大坂城に入り、徳川方に対抗する動きに関わっていました。
関ヶ原の戦い後、こうした輝元の関与が問題視され、毛利家は厳しい領地処分を受けることになります。

単純に石高を比較すると、毛利家の領地は以前の3分の1程度に縮小したことになります。

これほどの減封は、毛利家にとって大きな打撃だったでしょう。
しかし、家名そのものは残り、後の長州藩へとつながっていきます。

吉川広家は自分の領地より毛利宗家の存続を優先した?

関ヶ原の戦い後、徳川家康側は毛利輝元の領地を取り上げ、吉川広家に領地を与える方向で処分を進めようとしました。

しかし、広家は毛利宗家の存続を求め、自分だけが領地を得ることを望まなかったと伝えられています。

その結果、毛利家は改易を免れ、周防・長門の2か国を領する大名として存続しました。

この経緯から、吉川広家は毛利家の領地を大きく失わせた人物である一方、毛利宗家の存続に尽力した人物とも評価されています。

ただし、毛利家が存続した理由を広家一人の働きだけで説明することはできません。
徳川家康側の政治的な判断や、戦後の交渉も関わっていました。

また、広家が当初から毛利家の大幅な減封を想定していたとは考えにくく、交渉の結果は広家の期待とは異なるものだったとみられます。

毛利家を守るために戦闘を避けた広家でしたが、結果として領地の大部分を失うことになりました。

では、関ヶ原の戦い後、吉川広家自身はどのような立場になったのでしょうか。
次の章では、岩国への移封と広家の晩年を見てみましょう。

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吉川広家のその後は?岩国領と晩年

関ヶ原の戦いが終わると、吉川広家はそれまでの出雲国を中心とする領地を離れ、現在の山口県岩国市に移ることになりました。
毛利家は周防・長門の2か国へ減封され、広家も新たな土地で再出発することになります。

広家に与えられたのは、当初約3万石の岩国領でした。
関ヶ原では戦わなかった広家ですが、その後は岩国の城下町を築き、地域の発展に力を注いだ人物として知られています。

吉川広家は岩国へ移り、初代領主となった

1600年の関ヶ原の戦い後、吉川広家は毛利輝元から周防国岩国付近の約3万石を与えられました。
領地は後に公称6万石となります。

1601年には横山や錦見で城下町の計画が進められ、翌1602年には居館の普請が始まりました。
吉川広家が岩国に入城したのは、1602年の冬とされています。

広家が拠点に選んだ岩国は、錦川が流れ、山々に囲まれた土地でした。
周防・長門を領する毛利家にとって、東側の重要な場所でもあります。

広家は、毛利宗家を支える立場を保ちながら、岩国領の統治を進めていきました。

関ヶ原の戦いで領地を大きく失った広家にとって、岩国での町づくりは新たな役割だったといえそうです。

岩国城を築き、城下町の基礎をつくった

岩国に移った広家は、横山の山頂に岩国城を築き、その麓に居館を設けました。
また、錦川を挟んだ地域に武家屋敷や町人地を整備し、城下町を形成していきます。

岩国城の天守は1608年に完成しました。
しかし、1615年には江戸幕府の一国一城令によって取り壊され、城は廃城となります。

岩国城の歴史を簡単に整理すると、次のようになります。

年岩国での主な出来事
1600年吉川広家が岩国付近の約3万石を与えられる
1601年横山・錦見で屋敷割りや城下町の計画が進む
1602年居館や家臣の屋敷の普請が進み、冬に広家が入城
1608年岩国城の天守が完成
1615年一国一城令により岩国城が廃城となる

城は短い期間で失われましたが、広家が進めた城下町の整備は、その後の岩国の発展につながっていきました。

なお、現在の岩国を代表する錦帯橋は、広家の時代ではなく、孫の吉川広嘉が領主だった1673年に完成したものです。

吉川広家が岩国城を築いた江戸時代初期の錦川と城下町の想像風景

関ヶ原の戦い後、吉川広家は岩国へ移り、城と城下町の整備を進めました。(再現イメージ)

岩国は独立した藩ではなかった?毛利家との関係

吉川広家は岩国の初代領主となりましたが、江戸時代初期の岩国は、幕府から独立した藩として認められていたわけではありません。

吉川家は毛利宗家から領地を与えられた立場であり、長州藩の中で特別な地位にありました。

そのため、江戸時代の岩国については「岩国藩」という呼び方が使われることもありますが、広家の時代は「岩国領」とする方が正確です。

岩国が正式に藩として認められるのは、明治維新期の1868年になってからでした。

関ヶ原で毛利家の存続を図った広家は、その後も毛利宗家との関係を保ちながら、岩国を治めていたのです。

吉川広家の最期は?1625年に65歳で死去

1617年、広家は岩国領の統治に関する法度を定め、同じ年に家督を息子の吉川広正へ譲りました。
戦国の武将として生きた広家は、次の世代へ領地の運営を引き継いでいったのです。

吉川広家は、1625年(寛永2年)9月21日に亡くなりました。
享年65歳(数え年)でした。

広家の跡は、息子の吉川広正が継ぎました。
その後も吉川家は岩国領を治め、江戸時代を通じて家を存続させていきます。

関ヶ原の戦いで「裏切り者」と評価されることもある吉川広家ですが、晩年までの歩みを見ると、戦場での判断だけでは語れない人物だったことが分かります。

毛利家の存続を願って東軍と交渉し、戦後は岩国の基礎を築いた広家。
その判断が正しかったかどうかは、見る立場によって変わるでしょう。

ただ、毛利家と吉川家が江戸時代を通じて存続したことは、広家の生涯を振り返るうえで見逃せない結果です。

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まとめ|吉川広家の判断と毛利家の運命

吉川広家の関ヶ原での行動を振り返ると、一つ気になることがあります。
それは、家を守るための判断が、必ずしも望んだ結果を生むとは限らないということです。

広家は戦場で武功を挙げる道ではなく、敵方との交渉を選びました。
その結果、毛利宗家は存続しましたが、広大な領地を失い、広家自身も裏切り者という評価を背負うことになります。

もし毛利軍が参戦していたら、歴史は変わったのでしょうか。
それは誰にも分かりません。

ただ、関ヶ原の戦いは、実際に戦った武将だけでなく、戦わないという選択をした武将によっても動いていたことが見えてきます。

関ヶ原の戦いから400年以上が過ぎた今も、吉川広家の評価が一つに定まらないのは、戦わなかったという事実の裏に、毛利一族それぞれの事情があったからかもしれません。

戦場で勝つことだけが武将の役割ではなかった時代。
吉川広家の生涯をたどると、戦国から江戸へ移り変わる時代の難しさも見えてくるように思います。

吉川広家を英雄とも裏切り者とも決めつけず、その判断と結果を分けて考える。
そこに、この人物の歴史をたどる面白さがあるように思います。

参考資料

本記事の作成にあたって、次の資料を参考にしました。

※「宰相殿の空弁当」などの逸話については、後世の伝承と確認できる史実を区別して記述しています。

※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。

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