柴田勝家はなぜ秀吉に敗れた?生涯と石高やお市の方との最期

柴田勝家は、織田信長の家臣団の中でも屈指の武勇を誇り、「鬼柴田」とも呼ばれた戦国武将です。
信長に仕えて北陸方面軍を任され、越前を領する大名へと出世しました。
しかし、本能寺の変で信長が倒れると、羽柴秀吉との主導権争いに敗れ、最後は北ノ庄城で妻のお市の方とともに自害します。
なぜ、信長の重臣として大きな力を持っていた柴田勝家は、秀吉に敗れたのでしょうか。
この記事では、柴田勝家の生涯や織田信長との関係、石高と領地の推移、賤ヶ岳の戦い、北ノ庄城で迎えた最期まで、わかりやすく紹介します。
柴田勝家とは?どんな武将だった?
柴田勝家は、織田信長に仕えた戦国武将で、織田家を代表する重臣の一人です。
生年には諸説ありますが、尾張国の出身とされ、若い頃から織田家に仕えました。
勇猛な武将として知られ、
「鬼柴田」
と呼ばれるほど武勇に優れていたと伝わります。
意外なのは、最初から織田信長に忠実な家臣だったわけではないことです。一時は信長の弟・織田信勝(信行)を支持して信長と対立しました。
しかし、その後は信長に従って数々の戦いで功績を挙げ、やがて越前を与えられ、北陸方面の攻略を任されるまでに出世します。
本能寺の変で信長が亡くなると、織田家の主導権をめぐって羽柴秀吉と対立。1583年(天正11年)の
「賤ヶ岳の戦い」
で敗れ、北ノ庄城で妻・お市の方とともに最期を迎えました。
柴田勝家の基本プロフィール
- ・名前: 柴田勝家(しばた かついえ)
・生年: 1522年頃とされる(諸説あり)
・出身: 尾張国
・主君: 織田信秀・織田信長
・居城: 北ノ庄城(現在の福井県福井市)
・妻: お市の方(織田信長の妹)
・通称: 権六
・没年: 1583年(天正11年)
・享年: 62歳とされる(生年に諸説あり)
柴田勝家の生涯で特に興味深いのが、一度は信長と敵対しながら、その後は織田家屈指の重臣にまで出世したことです。
では、柴田勝家と織田信長はどのような関係だったのでしょうか。
柴田勝家と織田信長の関係
柴田勝家と織田信長の関係は、最初から良好だったわけではありません。
勝家はもともと信長の父・織田信秀に仕えていたとされ、信秀の死後には信長ではなく、
「弟の織田信勝(信行)」
を支持しました。
つまり柴田勝家は、一度は信長と敵対した武将だったのです。
ところが信長との争いに敗れた後、勝家は信長に従うようになります。
その後は戦場で次々と功績を挙げ、織田家を代表する重臣へと出世しました。
信長も、一度敵対した勝家を排除するのではなく、その武勇と能力を評価して重要な役割を与えています。
最終的には越前を任され、北陸方面の攻略を担当するまでになりました。
敵対関係から始まりながら、信長から大きな軍事権限を任される重臣となったことは、柴田勝家の生涯を語るうえで大きな特徴です。
最初は信長ではなく弟・織田信勝に仕えた
1551年(天文20年)に織田信秀が亡くなると、家督を継いだ織田信長に対し、織田家内部では反発する勢力が現れました。
柴田勝家もその一人で、信長の弟である織田信勝を支持します。
信長は若い頃、その奇抜な振る舞いから
「うつけ」
と評されることがあり、家臣の中には信長よりも信勝の方が織田家の当主にふさわしいと考える者もいました。
1556年(弘治2年)の稲生の戦いでは、勝家は林秀貞らとともに信勝側として信長軍と戦います。
しかし戦いは信長側の勝利に終わり、勝家らは敗北しました。
信長に許されて忠臣へと転じる
稲生の戦いの後、柴田勝家は信長に許されました。
その後、信勝が再び信長に対して謀反を企てていることを知った勝家は、その計画を信長に知らせたと伝えられています。
信勝は1557年(弘治3年)に清洲城へ呼び出され、信長によって殺害されました。
ここから柴田勝家は信長に仕え、武将として頭角を現していきます。
一度は敵として戦った勝家を再び家臣として用いた信長と、その後は信長に従って戦い続けた勝家。
二人の関係は、単純な主君と家臣というよりも、戦国時代らしい実力を重視した関係だったと見ることができます。
「鬼柴田」と呼ばれ織田家の重臣へ
信長に仕えるようになった柴田勝家は、各地の戦いで活躍しました。
特に武勇に優れた武将として知られ、
「鬼柴田」
の異名でも語られています。
1570年(元亀元年)の長光寺城の戦いでは、六角氏の軍勢に包囲されながら城を守り抜いたとされ、この戦いにまつわる
「瓶割り柴田」
の逸話も有名です。
その後も浅井・朝倉氏との戦いなどで功績を挙げ、織田家の主要武将として存在感を高めていきました。

北陸方面で上杉謙信軍と対峙する柴田軍と、それを見つめる柴田勝家。織田家の北陸方面軍を率いた勝家の戦いをイメージした画像です。
越前を与えられ北陸方面軍を任される
柴田勝家は越前を任され、織田家でも有数の領地を持つ武将となりました。
戦国大名の石高と兵力の関係については、**「戦国時代の兵力ランキング!石高から最大動員数を比較」**でも詳しく紹介しています。
1575年(天正3年)、信長が越前の一向一揆を平定すると、柴田勝家は越前国を任され、北ノ庄城を本拠としました。
さらに勝家は北陸方面の攻略を担当し、前田利家や佐々成政、不破光治らを配下に置いて上杉氏との戦いを進めます。
これは信長が勝家を単なる猛将ではなく、広大な地域を任せられる武将として評価していたことを示しています。
「本能寺の変」
が起きた1582年(天正10年)には、勝家は北陸で上杉氏と戦っていました。
信長から北陸方面を任されたことが勝家の大出世につながった一方、その場所にいたことが、本能寺の変後の羽柴秀吉との主導権争いにも大きな影響を与えることになります。
柴田勝家の領地と石高の推移
柴田勝家は、織田信長の家臣としてどのくらいの領地を持っていたのでしょうか。
勝家は若い頃から大領主だったわけではありません。
信長に従って各地を転戦し、戦功を重ねたことで次第に立場を高めていきました。
大きな転機となったのが、1575年(天正3年)の
「越前一向一揆」
の平定です。
信長は越前を平定すると、柴田勝家に越前の支配を任せました。
勝家は北ノ庄城を本拠として北陸攻略を進め、織田家の中でも有数の勢力を持つ武将となります。
ただし、戦国時代の領地を江戸時代のような「○万石」という数字だけで正確に表すことは難しく、史料や計算方法によって数字には違いがあります。
柴田勝家の石高は何万石だった?
柴田勝家の石高については、一般に越前約49万石と紹介されることがあります。
ただし、この数字は後世の石高を基準にした見方も含まれるため、信長から
「49万石」
という石高そのものを与えられた、と考えるのは注意が必要です。
重要なのは、勝家が越前の大部分を支配し、北ノ庄城を本拠とする大名クラスの領主になったことです。
さらに北陸方面軍の指揮官として、越中や加賀などの攻略も担当しました。
単純な石高以上に、信長から与えられた軍事的な権限が非常に大きかった武将といえます。
越前・北ノ庄城を本拠に北陸を支配
1575年、越前一向一揆を平定した信長は、越前の支配を柴田勝家に任せました。
勝家は北ノ庄に城を築き、ここを北陸経営の拠点とします。
また、前田利家・佐々成政・不破光治らが勝家の指揮下に置かれ、後に
「府中三人衆」
と呼ばれる武将たちも越前国内に領地を与えられました。
勝家は自分の領地を治めるだけでなく、北陸方面の織田軍をまとめる立場にあったのです。
その後は加賀・能登・越中へと織田勢力を拡大し、上杉氏と対峙しました。
柴田勝家の領地と石高の推移
柴田勝家の正確な石高を年代ごとに示すことは困難ですが、その勢力の拡大を整理すると次のようになります。
| 時期 | 主な領地・立場 | 石高・規模の目安 |
|---|---|---|
| 信長に仕える以前 | 尾張の織田家臣 | 詳細不明 |
| 1560年代~1570年代前半 | 織田信長の有力武将 | 詳細不明 |
| 1575年 | 越前・北ノ庄城主 | 越前約49万石とされることがある |
| 1580年代初頭 | 越前を基盤に北陸方面を指揮 | 北陸方面軍を率いる織田家屈指の勢力 |
| 1583年 | 賤ヶ岳の戦いで敗北 | 北ノ庄城落城により領地を失う |
こうして見ると、柴田勝家は信長の家臣の中でも、広大な地域と大軍を任された武将だったことがわかります。
しかし、本能寺の変によって信長が突然亡くなると、この大きな勢力を持つ勝家と、急速に台頭した羽柴秀吉との対立が始まります。
その前に、勝家の生涯を語るうえで欠かせないのが、信長の妹・お市の方との結婚です。
柴田勝家とお市の方はなぜ結婚した?
柴田勝家の妻としてよく知られているのが、織田信長の妹・お市の方です。
お市の方は最初、近江の戦国大名・浅井長政に嫁ぎました。
しかし浅井氏が信長と敵対し、1573年(天正元年)に小谷城が落城すると、長政は自害。
お市の方は三人の娘とともに織田方へ戻ったとされます。
その後、1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が亡くなり、その年にお市の方は柴田勝家と再婚しました。
では、なぜ信長の妹であるお市の方は、勝家と結婚したのでしょうか。
お市の方は織田信長の妹
お市の方は、織田信長の妹として知られる女性です。
最初の夫は浅井長政で、二人の間には
「茶々・初・江」
の三姉妹が生まれました。
長女の茶々は後に豊臣秀吉の側室となる淀殿、次女の初は京極高次の正室、三女の江は徳川秀忠の正室となります。
つまり柴田勝家は、お市の方との結婚によって、後に豊臣・徳川両家と深く関わる三姉妹の継父になったことになります。
柴田勝家とお市の方はなぜ結婚した?
二人が結婚したのは、本能寺の変から間もない1582年とされています。
結婚の理由については諸説あり、はっきりとしたことはわかっていません。
従来は、清洲会議後の織田家内部の勢力調整の一環として、羽柴秀吉が勝家とお市の方の結婚を取り持ったという説も語られてきました。
一方で、お市の方自身の意思や、織田家と有力家臣である勝家との関係を強める意味があったとする見方もあります。
少なくとも、信長亡き後の織田家が大きく揺れていた時期の結婚であり、政治的な意味をまったく切り離して考えることは難しいでしょう。
柴田勝家とお市の方の年齢差は?
柴田勝家は1522年(大永2年)頃の生まれ、お市の方は1547年(天文16年)頃の生まれとされることがあります。
この説に従えば、二人の年齢差は約25歳です。
結婚した1582年には、勝家は60歳前後、お市の方は35歳前後だった計算になります。
ただし、勝家もお市の方も生年については諸説あるため、年齢や年齢差については確定した数字ではありません。
勝家と茶々・初・江の三姉妹との関係
お市の方との結婚によって、柴田勝家は茶々・初・江の継父となりました。
三姉妹は母のお市の方とともに、勝家の本拠である北ノ庄城へ移ったと考えられています。
しかし、その生活は長く続きません。
翌1583年(天正11年)、柴田勝家と羽柴秀吉の対立は
「賤ヶ岳の戦い」
へと発展します。
勝家が敗れて北ノ庄城へ戻ると、城は秀吉方の軍勢に包囲されました。
勝家とお市の方は城で最期を迎えますが、三姉妹は城外へ逃がされて生き延びます。
後に茶々は豊臣秀吉、江は徳川秀忠と結ばれることになります。
戦国時代を代表する女性たちの運命を考えるうえでも、柴田勝家とお市の方の結婚は大きな転換点だったといえるでしょう。
本能寺の変後に柴田勝家と秀吉が対立した理由
1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変によって織田信長が明智光秀に討たれました。
信長という絶対的な存在を突然失った織田家では、その後の主導権を誰が握るのかが大きな問題となります。
このとき織田家の重臣として大きな勢力を持っていたのが柴田勝家でした。
ところが、信長の仇である明智光秀を討った
「羽柴秀吉」
が急速に発言力を高めます。
勝家と秀吉の立場は次第に対立し、わずか1年ほどで賤ヶ岳の戦いへと発展していきました。
本能寺の変のとき柴田勝家は何をしていた?
本能寺の変が起きたとき、柴田勝家は京都から遠く離れた北陸にいました。
勝家は信長の命を受けて上杉氏と戦っており、越中の魚津城を攻めていました。
魚津城が織田軍によって攻略されたのは1582年6月3日とされ、本能寺の変の翌日にあたります。
勝家は信長の死を知ると明智光秀を討つために動こうとしましたが、北陸から京都までは距離があります。
さらに上杉氏への備えも必要で、すぐに軍勢を畿内へ移動させることは容易ではありませんでした。
なぜ柴田勝家は山崎の戦いに間に合わなかった?
一方の羽柴秀吉は、本能寺の変当時、中国地方で毛利氏と戦っていました。
信長の死を知った秀吉は毛利氏と急いで和睦し、軍勢を率いて畿内へ引き返します。
これが有名な「中国大返し」です。
秀吉は6月13日の山崎の戦いで明智光秀を破り、信長の仇討ちを果たしました。
勝家も光秀討伐へ向かおうとしましたが、結果として間に合いませんでした。
ここで重要なのは、単純に勝家の行動が遅かったということではありません。
勝家は北陸戦線、秀吉は中国戦線という、それぞれ異なる場所で信長の命令を受けて戦っていました。
しかし結果的には、
「信長の仇を討った武将」
という大きな実績を秀吉が手にしたことが、その後の二人の立場を大きく変えることになります。
清洲会議で秀吉が主導権を握る
明智光秀を倒した後、織田家の後継体制を決めるために清洲会議が開かれました。
会議には柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興ら織田家の重臣が参加します。
大きな問題となったのが、信長亡き後の織田家を誰が継ぐのかということでした。
勝家は信長の三男・織田信孝を推したとされる一方、秀吉は本能寺の変で父・織田信忠とともに亡くなった
「信忠の嫡男・三法師(後の織田秀信)」
を推しました。
最終的に三法師が織田家の後継者とされます。
まだ幼い三法師を後継者に据えたことで、織田家の実権を誰が握るのかという問題は残りました。
そして山崎の戦いで光秀を討った秀吉の存在感は、以前よりもはるかに大きなものとなっていました。
柴田勝家と秀吉の対立が決定的になる
清洲会議の後、柴田勝家と羽柴秀吉の対立は次第に深まっていきます。
勝家側には織田信孝や滝川一益らがつき、秀吉側も丹羽長秀や池田恒興らとの関係を固めていきました。
秀吉は同年末、勝家が雪深い北陸にいて大軍を動かしにくい時期に行動を開始します。
秀吉は織田信孝を岐阜城で圧迫し、さらに翌1583年には滝川一益との戦いを進めました。
北陸の雪が解けると、柴田勝家もついに軍勢を率いて近江へ南下します。
こうして信長の死から一年もたたないうちに、かつて同じ主君に仕えた柴田勝家と羽柴秀吉は、織田家の主導権をめぐって直接対決することになります。
その決戦となったのが、
「1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い」
でした。
柴田勝家はなぜ賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた?
1583年(天正11年)、柴田勝家と羽柴秀吉は近江の賤ヶ岳周辺で激突しました。
これが「賤ヶ岳の戦い」です。
織田家屈指の重臣で、北陸方面軍を率いてきた勝家が、なぜ急速に勢力を伸ばした秀吉に敗れたのでしょうか。
その理由は、単純に勝家より秀吉の軍勢が強かったから、というだけではありません。
秀吉の素早い行動、勝家側の連携、佐久間盛政の突出など、いくつもの要因が重なった結果でした。
賤ヶ岳の戦いまでの経緯
柴田勝家は北陸から近江へ南下し、羽柴秀吉との決戦に備えました。
両軍は近江北部で対峙しますが、秀吉は勝家だけを相手にしていたわけではありません。
伊勢方面では勝家方の滝川一益が抵抗し、美濃では織田信孝が秀吉と対立していました。
秀吉はこうした勝家側の勢力を分断しながら戦いを進めます。
勝家にとっては、味方と連携して秀吉を挟み撃ちにしたいところでした。
しかし秀吉は各方面へ素早く軍勢を動かし、勝家側が一つにまとまることを許しませんでした。
柴田勝家軍と秀吉軍の兵力は?
賤ヶ岳の戦いの兵力については史料によって差があり、正確な人数はわかっていません。
一般には、秀吉軍が勝家軍を兵力で上回っていたとされています。
勝家は北陸から主力を率いて南下しましたが、滝川一益や織田信孝などの味方は別方面におり、一つの大軍として秀吉と戦うことができませんでした。
一方の秀吉は、各方面の戦況を見ながら自軍を機動的に動かしています。
単純な総兵力以上に、必要な場所へ素早く兵力を集中できたことが秀吉側の大きな強みでした。
佐久間盛政が秀吉方の砦を攻撃
戦局が大きく動いたのが、勝家の家臣・佐久間盛政による攻撃です。
盛政は賤ヶ岳周辺に築かれた秀吉方の砦を攻撃し、中川清秀が守る大岩山砦を攻略しました。
中川清秀はこの戦いで討死します。
ここまでは勝家側にとって大きな戦果でした。
しかし勝家は、秀吉の反撃を警戒して盛政に撤退するよう命じていたとされます。
ところが盛政はすぐには撤退せず、前線にとどまりました。
この判断が、その後の戦況を大きく変えることになります。
秀吉の「美濃大返し」で形勢が逆転
佐久間盛政が攻撃を行ったとき、秀吉は織田信孝への対応のため美濃方面へ移動していました。
秀吉本隊が遠くにいることも、盛政が攻撃を決断した理由の一つだったと考えられます。
ところが知らせを受けた秀吉は、軍勢を率いて急速に賤ヶ岳方面へ引き返しました。
この素早い移動は
「美濃大返し」
と呼ばれることがあります。
本能寺の変後の「中国大返し」と同様、秀吉はここでも機動力を発揮しました。
予想以上に早く秀吉軍が戻ったことで、前線に残っていた盛政の部隊は危険な状態に置かれます。
前田利家の戦線離脱も勝家に打撃
戦いの最中、柴田軍の一角を担っていた前田利家が戦線から離脱しました。
前田利家は長年勝家の指揮下で戦ってきた武将でしたが、一方で秀吉とも親しい関係にありました。
利家が戦線を離れたことで柴田軍の陣形は崩れ、秀吉軍が攻勢を強めます。
佐久間盛政らの部隊も支えきれなくなり、柴田軍は敗走しました。
ただし、前田利家の行動だけを勝家敗北の原因とするのは単純すぎます。
すでに勝家側には、秀吉の機動力や味方同士の連携など、複数の問題が生じていました。
柴田勝家が秀吉に敗れた理由
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が敗れた理由を整理すると、主に次の点が挙げられます。
・秀吉が勝家側の勢力を各個に分断した
・秀吉軍の兵力と機動力が勝っていた
・佐久間盛政が攻撃後すぐに撤退しなかった
・秀吉が美濃から予想以上の速さで引き返した
・前田利家が戦線を離脱し、柴田軍が崩れた
勝家自身が戦場で大きな失策を犯したというよりも、秀吉が政治面と軍事面の両方で勝家側を追い込んでいった結果と見ることができます。
本能寺の変からわずか一年足らず。
信長の家臣団で最大級の勢力を誇った柴田勝家は、急速に力を伸ばした羽柴秀吉との主導権争いに敗れました。
賤ヶ岳から敗走した勝家が向かったのは、本拠である越前の北ノ庄城でした。

賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家は北庄城へ退却。羽柴秀吉の大軍に城を包囲され、ついに最期の時を迎えます。
柴田勝家とお市の方の最期|北ノ庄城で自害
賤ヶ岳の戦いで敗れた柴田勝家は、越前の本拠・北ノ庄城へ退却しました。
しかし羽柴秀吉は追撃の手を緩めず、北ノ庄城を包囲します。
もはや勝家に形勢を逆転するだけの力は残されていませんでした。
1583年(天正11年)4月24日、柴田勝家は北ノ庄城で妻のお市の方とともに自害し、その生涯を終えます。
一方、お市の方の三人の娘、茶々・初・江は城外へ逃がされて生き延びました。
賤ヶ岳から北ノ庄城へ敗走
賤ヶ岳で柴田軍が崩れると、勝家は北陸へ向かって撤退しました。
勝家が戻ったのは、自らの本拠である北ノ庄城です。
しかし秀吉軍はそのまま勝家を追撃しました。
賤ヶ岳で主力を失った勝家には、秀吉の大軍を迎え撃つだけの十分な戦力は残されていません。
北ノ庄城は秀吉軍に包囲され、勝家は最後の時を迎えることになります。
勝家はお市の方を逃がそうとした?
北ノ庄城の最期については、勝家がお市の方に城から逃げるよう勧めたという逸話が伝わっています。
しかし、お市の方は勝家とともに死ぬことを選び、城に残ったとされています。
最初の夫・浅井長政を小谷城の戦いで失い、兄の織田信長も本能寺の変で亡くしたお市の方。
そして再婚した柴田勝家も秀吉に敗れました。
ただし、勝家とお市の方が最後にどのような言葉を交わしたのかについては、後世に脚色された逸話も含まれているため、史実として断定することはできません。
茶々・初・江の三姉妹は城外へ
勝家とお市の方は最期を迎える一方、茶々・初・江の三姉妹は北ノ庄城から逃がされました。
三姉妹は秀吉方に引き取られ、その後それぞれが戦国時代から江戸時代の歴史に大きく関わっていきます。
長女の茶々は後に豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼を産みました。
次女の初は京極高次の正室となり、三女の江は徳川秀忠の正室となります。
北ノ庄城から生き延びた三姉妹が、後の豊臣家と徳川家につながっていくことを考えると、この落城は戦国史の大きな転換点の一つともいえます。
北ノ庄城炎上と柴田勝家の最期
1583年(天正11年)4月24日、北ノ庄城は秀吉軍の攻撃を受け、勝家は最期を覚悟します。
勝家は城内で宴を開いたとも伝えられ、その後、お市の方とともに自害しました。
最期には城に火が放たれたとされ、北ノ庄城は炎に包まれます。
柴田勝家は60歳前後、お市の方は30代半ばだったと考えられていますが、二人とも生年には諸説があります。
かつて「鬼柴田」と恐れられ、信長から北陸方面を任された勝家でしたが、主君の死からわずか一年ほどでその生涯を閉じました。
しかし柴田勝家が亡くなった後も、柴田家に関わった人々の系譜がすべて途絶えたわけではありません。
では、柴田勝家に実の子供はいたのでしょうか。そして柴田家の子孫はその後どうなったのでしょうか。
柴田勝家の子孫は現在まで続いている?
柴田勝家はお市の方と結婚しましたが、二人の間に子供はいませんでした。
お市の方の娘である茶々・初・江は浅井長政との間に生まれた子供であり、勝家にとっては継娘にあたります。
では、柴田勝家自身に実子はいたのでしょうか。
勝家の子供については不明な点が多く、後世の系図には実子とされる人物も登場します。
しかし確実な史料から確認することは難しく、
「柴田勝家の直系子孫が現在まで続いている」
と単純に断定することはできません。
一方で、勝家には柴田勝豊などの養子がおり、柴田氏につながる家系そのものは勝家の死によって完全に消滅したわけではありません。
柴田勝家に実の子供はいた?
柴田勝家の実子については、はっきりしていません。
系図などでは勝家の子とされる人物の名前が挙げられることがありますが、史料によって記述が異なり、その関係を確定することは困難です。
そのため
「勝家には実子がいなかった」
と断定するよりも、実子については諸説あり、確実なことはわかっていないとするのが適切でしょう。
少なくとも、お市の方との間に二人の子供が生まれたという記録はありません。
養子・柴田勝豊とは?
柴田勝家の養子としてよく知られているのが柴田勝豊です。
勝豊は勝家の一族とされ、養子となって柴田家を支える武将の一人となりました。
清洲会議後の領地配分では近江の長浜城を与えられます。
ところが柴田勝家と羽柴秀吉の対立が激しくなると、長浜城は秀吉側の攻撃を受け、勝豊は秀吉に降伏しました。
その後は秀吉側につきますが、1583年に病死したとされています。
勝家にとっては、自らの養子が秀吉側へ移ったことも大きな痛手となりました。
柴田家は勝家の死後どうなった?
1583年の賤ヶ岳の戦いと北ノ庄城の落城によって、柴田勝家が築いた大名としての勢力は失われました。
越前を中心とした広大な領地も秀吉側によって再編され、勝家の家臣たちはそれぞれ別の道を歩むことになります。
一方、柴田姓を名乗る一族や勝家と血縁関係を持つとされる家系は、その後も各地に存在しました。
ただし、それらすべてを柴田勝家の直系子孫とすることはできません。
柴田勝家は大名家として自らの勢力を後世に残すことはできませんでしたが、その名は織田信長を支えた重臣、そして羽柴秀吉と天下の主導権を争った武将として現在まで伝えられています。
次に、柴田勝家の誕生から北ノ庄城での最期までを年表でまとめてみます。

燃え上がる北庄城を前にした柴田勝家とお市の方。ともに最期を迎えた二人の悲劇的な結末をイメージした画像です。
柴田勝家の生涯を年表で紹介
柴田勝家は、織田信長と一度は敵対しながら、その後は織田家を代表する重臣にまで出世した武将です。
信長から越前と北陸方面の攻略を任されるほどの勢力を築きましたが、本能寺の変によって状況は一変します。
最後は羽柴秀吉との賤ヶ岳の戦いに敗れ、北ノ庄城でお市の方とともに最期を迎えました。
柴田勝家の生涯を、主な出来事とともに年表でまとめます。
| 年 | 年齢の目安 | 柴田勝家の主な出来事 |
|---|---|---|
| 1522年頃 | 1歳 | 尾張国に生まれたとされる(生年には諸説あり) |
| 1551年 | 30歳頃 | 織田信秀死去後、信長の弟・織田信勝(信行)を支持 |
| 1556年 | 35歳頃 | 稲生の戦いで信勝側として織田信長と戦うが敗北 |
| 1557年 | 36歳頃 | 信勝の謀反計画を信長に知らせたとされ、その後は信長に仕える |
| 1570年 | 49歳頃 | 長光寺城の戦い。「瓶割り柴田」の逸話でも知られる |
| 1573年 | 52歳頃 | 浅井・朝倉氏との戦いなどで織田軍の有力武将として活躍 |
| 1575年 | 54歳頃 | 越前一向一揆平定後、越前を任され北ノ庄城を本拠とする |
| 1576年以降 | 55歳頃~ | 北陸方面軍を率い、加賀・能登・越中方面へ織田勢力を拡大 |
| 1582年6月 | 61歳頃 | 越中・魚津城を攻略。本能寺の変で織田信長が死去 |
| 1582年6月 | 61歳頃 | 羽柴秀吉が山崎の戦いで明智光秀を破る。勝家は光秀討伐に間に合わず |
| 1582年6月27日 | 61歳頃 | 清洲会議に参加。織田家の後継問題をめぐり秀吉との対立が深まる |
| 1582年 | 61歳頃 | 織田信長の妹・お市の方と結婚 |
| 1583年 | 62歳頃 | 羽柴秀吉との賤ヶ岳の戦いで敗北 |
| 1583年4月24日 | 62歳頃 | 北ノ庄城でお市の方とともに自害し、その生涯を終える |
※年齢は1522年生まれとした場合の目安です。柴田勝家の生年には諸説があるため、年齢についても確定したものではありません。
柴田勝家の生涯を時系列で見ると、信長に敵対した時期、織田家重臣としての出世、北陸支配、本能寺の変、秀吉との対立という大きな転換点があったことがわかります。
特に本能寺の変から北ノ庄城での最期まではわずか一年ほどです。
信長のもとで長い年月をかけて築いた勝家の地位と勢力は、信長の死を境に急速に失われていったことになります。
まとめ|柴田勝家は信長亡き後の主導権争いで秀吉に敗れた
柴田勝家は、一度は織田信長と敵対しながら、その後は信長に重用され、越前と北陸方面を任されるまでに出世した武将です。
「鬼柴田」
と呼ばれるほど武勇に優れ、信長の家臣団の中でも大きな勢力を持っていました。
しかし1582年の
「本能寺の変」
で信長が亡くなると、状況は大きく変わります。
明智光秀を討った羽柴秀吉が急速に発言力を高め、
「清洲会議」
を経て、勝家との主導権争いが表面化しました。
翌1583年の賤ヶ岳の戦いでは、秀吉の素早い兵力移動や勝家側の連携不足、佐久間盛政の突出、前田利家の戦線離脱などが重なり、勝家は敗北します。
その後、北ノ庄城へ戻った勝家は、妻のお市の方とともに自害しました。
柴田勝家が秀吉に敗れたのは、単に武将としての力量で劣っていたからとは言い切れません。
本能寺の変の際に北陸にいたこと、秀吉が信長の仇討ちを果たして主導権を握ったこと、そして秀吉の政治力と機動力など、いくつもの要因が重なった結果でした。
信長のもとでは北陸方面軍を任された柴田勝家と、中国方面軍を任された羽柴秀吉。
信長亡き後、この二人の有力武将が争い、勝者となった秀吉が
「天下人」
への道を大きく進んでいくことになります。
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