服部半蔵正成の家系図と子孫その後!服部家の歴史と戦国時代年表!

松島五大堂の赤い橋の写真
「服部半蔵正成」は徳川十六神将で家康公の懐刀。

  • ➀:服部半蔵のルーツは飛鳥時代。
    ➁:家系図で子孫とその後。
    ➂:戦国時代の功績年表で解説。
    ➃:死因と家紋と墓所案内。
    ➄:服部半蔵の逸話
https://kotobaimi.jp/wp-content/themes/be_tcd076/img/no-avatar.png

「服部半蔵」は「鬼半蔵」の異名。

スポンサーリンク

「服部半蔵」の初代は父「保長」より始まる

伊賀忍者の里

「服部半蔵」の

  • ➀:服部姓の由来
    ➁:服部半蔵の初代保長は忍者?

について解説。

「服部姓」の由来は飛鳥時代にあった!

「服部半蔵」
のルーツは飛鳥時代までさかのぼります。

飛鳥時代と言えば
「聖徳太子」
が有名。
その「聖徳太子」が、伊賀の情報を集めるために
「服部一族」
を使用していたと言われます。

服部氏は実は

「はとり」は「はたおり」(機織)の音約であり、元は機織り(服部)を職掌とした品部を指す。なお、促音を交えた「はっとり」は更に後世のものである
(wikipediaより)

古代の「伊豆国造一族」の出身で諸国の織部を管掌したことから
「服部連」
と号されたと。

そのあと子孫が伊賀国阿拝郡(いがのくにあえぐん)の
「服部郷」
を領地としたことに由来します。

「服部半蔵」初代は「保長」!服部半蔵で唯一の忍者?

伊賀忍者の里

「服部半蔵保長」
「正種」
とも言います。

その後「服部家」は三つに分裂。

  • ➀:「千賀地」(ちがち)
    ➁:「百地」(ももち)
    ➂:「藤林」(ふじばやし)

この三家を称して
「上忍三家」(じょうにんさんけ)
と言われます。

「服部半蔵保長」
は、➀:「千賀地」(ちがち)の出身。
「服部半蔵」という名乗り方はもともとは

「千賀地服部宗家」
が名乗る名称です

然し「服部半蔵保長」は
「庶流」なれど、かまわず名乗ります。

「服部半蔵保長」の出身地と忍者としての位置!

出身は
「伊賀国花垣村(現・三重県伊賀市)」
先祖代々花垣村予野で忍者の頭領を務める一族の出とあります。

伊賀の住んでる地に3家が存在するので生活が困窮し
「12代将軍足利足利義晴」
につかえます。

その後三河の国
「松平清康」(家康公の祖父)
上洛時、保長と面会し大いに気に入り意気投合し
「三河」
に移り、松平家に仕えます。

*忍者の頭領なので忍者だったんですね。

「服部半蔵保長」以降は代々は「服部半蔵」が名前!

「服部半蔵保長」
という
「服部半蔵」
はもともとは「千賀地」宗家の名前。
庶流でも名乗れたという事はその宗家よりも
「保長」
の家の方が勢いがあったのかもしれません(私見)
以後代々が
「服部半蔵」
です。
思うにこれって苗字と思えばいかもしれません。
次はいよいよ大活躍した

「服部半蔵正成」

の時代に入っていきます。

「服部半蔵正成」の人物像と家系図!子の名前とその後!


(wikipediaより)

「服部半蔵正成」の

  • ➀:出時と人物象
    ➁:家系図と子のその後

について解説。

「服部半蔵正成」の出身と人物簡単に!

「服部半蔵正成」
は「服部半蔵保長」の
「五男」(六男とも)
に生まれました。

6歳の時に出家に出されますが拒否して失踪。
兄弟に面倒を見てもらったと言われます。

「服部半蔵」
と言えば此方の
「服部半蔵正成」
徳川家康公に仕え伊賀越や数々の情報戦に大活躍したイメージ。
が‥実は忍者ではなかったようですね。

「伊賀者」
を束ねる頭領という立場。

服部半蔵正成の家系図!子の名前とその後!

「服部半蔵正成」の家系図は以下。

服部半蔵の家系図
(ネット上の情報をもとに管理人作成)

  • 正室:長坂信政女子
    子:4男

になります。
表にしてみました。

正室(妻) 長坂信政女子:長坂信政(徳川家旗本)
長男:正就 まさなり:宗家相続も改易:松平定勝蟄居もその後仕えるも大坂夏の陣で不明
次男:正重 正就改易の後を継ぎ相続。佐渡の金山政策を担当:以後改易:越後国村上藩勤務もその後牢人
    正重続く 正就次男「服部正辰」に探し出され後桑名藩にて家老職:大服部家と言われる。
三男:正廣 出家
四男:服部康成 弘前藩筆頭家老:3000石:その後加賀藩前田氏に仕官

「服部半蔵正成」
の長男(嫡男)の
「正就」(まさなり)
の妻の
「松尾」氏
は桑名藩「松平定勝」の娘。
「正重」再士官時の「桑名藩」のお殿様
「松平定綱」
は「松尾氏」の甥。

「服部正辰」
は「松尾氏」の子供。

そのような関係で桑名藩にての処遇なのだと思います。

「服部半蔵正成」と一族の戦国時代の功績!したこと年表で解説

伊賀忍者の里

「服部半蔵正成」
と「服部半蔵」家の戦国時代の活躍を年表にしてみました。

生没年不詳 「服部 保長」誕生:父:千賀地保遠
一族を率い室町幕府12代将軍・足利義晴に仕える:後三河に移住し松平氏に。
「服部半蔵」を代々名乗ることを定める
天文11年:1542年 「服部半蔵正成」誕生:保長五男
天文17年:1548年 6歳で出家に出される:大樹寺:幼い頃より筋骨逞しかった。
天文20年:1551年 出家を拒否し失踪:兄に育てられる
弘治3年:1557年 初陣:三河宇土城(上ノ郷城)を夜襲し戦功を立て家康から盃と持槍を拝領
永禄3年:1560年 桶狭間の合戦以降:旗本馬廻衆に所属
永禄6年:1563年 三河一向一揆:一向宗でありながら家康公に仕え闘う
永禄12年:1569年 掛川城攻め
元亀元年:1570年 姉川の合戦:姉川堤における一番槍の功名を上げる。
元亀6年:1572年 三方ヶ原の戦い:先手で一番槍の功名も大敗:家康公より槍二穂を贈られる:伊賀宗150人頭領
天正3年:1575年 長坂血鑓九郎信政の娘を正室に:33歳:遅咲でした
天正7年:1579年 「信康」介錯に指名も落涙し倒れ伏し未達
「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」という「家康公」のコメント
天正8年:1580年 織田家家臣「大垣卜仙」の家人とのトラブルで牢人となる。その後二年消息不明
天正10年:1582年 本能寺の変:伊賀越:伊賀甲賀の土人を味方につけ案内させ伊勢湾から岡崎に船で帰還。
同年その後 御先手頭を申し付けられる。
天正11年:1583年 甲斐国の谷村城(山梨県都留市)城番:伊賀宗200人引き連れる
天正18年:1590年 小田原征伐:鉄砲奉行として従軍:大組百人の組頭として根来衆50人を率いる
小田原の陣の功により遠江に知行:与力30騎および伊賀同心200人:給料8000石
文禄元年:1592年 肥前名護屋へ鉄砲奉行として従軍
慶長元年11月14日 1597年1月2日に病没:享年55歳
その後 家督は長男「正就」が継ぐ。
「正就」お目見えでの不手際で改易
その後 次男「正重」が服部半蔵を引き継ぐ。:その後は子のその後で解説。(上記)

「服部半蔵正成」
は忍者ではなく武将でした。
但し、伊賀の忍者の頭目(頭領)であったことは確かですね。
それは、伊賀越えでの伊賀と甲賀集を味方につけて、警護させたことからも推察できます。

その後小田原征伐ののちの処遇。

「与力30騎および伊賀同心200人:給料8000石」

です。
伊賀同心の下には、また何人もいたと推察。
この辺を駆使して家康公の手足となって全国の
「情報」
を集めていたんだろうな~~と思うのは当然かと思います。

スポンサーリンク

「服部半蔵正成」と「服部家」の石高と領地の維新までの変遷!

「服部半蔵正成」と服部家の
領地と石高の変遷を、明治維新まで以下にまとめてみました。

服部半蔵保長:初代 松平清康に仕える:知行不明
服部半蔵正成:二代
元亀6年:1572年 伊賀衆150人の頭領
天正18年:1590年:最大 与力30騎および伊賀同心200人を付属され同心給とあわせて8,000石
服部半蔵正就:三代 21歳で上記家督相続
慶長9年:1604年 上様お目見えの不手際で改易。すべて没収:その後松平定勝に仕える
服部半蔵正重:四代
慶長9年:1604年 正就改易で四代目として相続:この時点で伊賀同心とは縁切れに。
寛永24年:1647年 正就次男「服部正辰」の縁で桑名藩「上席年寄り」(上席家老):2千石:子の正吉:千石
服部半蔵正吉 正重より家督相続
以後大服部家として明治維新まで存続

上記以降は、以下の家系図を参考にしてください。

服部半蔵家の系図
(ネット上の情報をもとに管理人作成)

  • 「服部半蔵正就」の次男
    「服部正辰」の流れ:小服部家
    「服部半蔵正重」の流れ:大服部家

こういう構図で、桑名藩松平家に「家老職」で仕え
「明治維新」
を迎えます。

「服部半蔵正成」の死因と墓所と家紋!

「服部半蔵正成」の

  • ➀:死因
    ➁:墓所の場所
    ➂:家紋

について解説。

服部半蔵の死因は病気説が有力

「服部半蔵正成」
の死因は
「病気」説が優勢です。

享年は55歳。

当時の寿命からしたら、このくらいだったのかもしれません。
多くの武将の年齢を見ると
「55歳以下」
でなくなってる有力武将の方も多いですから。

服部半蔵の墓所は

「服部半蔵正成」
の墓所は新宿の
「西念寺」
住所は以下
〒160-0011 東京都新宿区若葉2丁目9

マップは以下です。

「西念寺」
は元は「江戸麹町清水谷」にあったのですが
「1634年(寛永11年)」
江戸城拡張工事に伴い現在の場所に移動されました。

上記マップでは、服部半蔵正成の墓所の写真も出てきます。
(参考までに)

服部半蔵の家紋は

「服部半蔵」
の家紋は「源氏輪に並び矢」と称する家紋です。
以下。

服部半蔵の家紋の写真

外周が車輪の形です。
中の模様は
「矢」
をイメージしています。
「服部半蔵」
というと忍者をイメージしますが、武将と同じ紋様とは思いませんでした。

・・・・・・・・・

関連記事


・・・・・・・・・・

「服部半蔵正成」の伊賀越他有名な逸話の特集

「特集」
というほどではないですが以下の逸話を紹介します。

  • ➀:信康介錯申し渡しの場面
    ➁:伊賀越えで服部半蔵討ち死に
    ➂:伊賀軍団との確執
    ➃:都内半蔵門の由来

について紹介

服部半蔵に「信康」介錯の申し渡し

「信康」
に武田内通の兆しありで、織田信長公よりの処置を一任(諸説ありますが今回はそういう事で)された
「家康公」
はその介錯を当初
「渋川四郎右衛門」
に命じるも、本人は
「三代相恩の主の御首に刀は当てられぬ」
とその日のうちに出奔。

代わりが「服部半蔵正成」
が・・当の本人も
「刀を投げ捨て落涙し倒れ伏したと」
その行状を家康公曰く

「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」

と言ったと。
ちなみに代わりに解釈したのが、その場にいた
「天方通綱」
という方。
この方も、そののち同じく出奔。
のちに「結城秀康」に仕えたとあります。

伊賀越えで不覚にも討ち死にの報告

「服部半蔵正成」
の徳川家康公の
「伊賀越え」
の案内は有名なお話。
堺は全て押さえられていたので、伊賀を超えて伊勢湾に出て海上を通るルート。

伊賀は「服部半蔵」の故郷ですから旧知も多く、味方につけ警護させたと。
その時のお話。

一揆勢が襲ってきたときに
「服部半蔵正成」
は馬を駆り土塁を駆けあがったのですが、勢い余ってその下の
「堀」
に転落し、足を十数か所刺されて失神。
家臣がそれを見て
「大成は討ち死にした」
と家康公に報告。

が・・遺体を引き上げに行ったらまさかの
「生きていた」
介抱しながら岡崎に帰ったと。
・・・・・・・・・

関連記事


・・・・・・・・・・

伊賀軍団との確執が深刻だった件

「伊賀越え」
で功績のあった「伊賀の里」の住人。
多くは徳川家に仕官を望んだのですが、そのほとんどは

  • ➀:伊賀同心
    ➁:伊賀集

の多くは「服部半蔵」の元は部下でも何でもなく、むしろ
「服部半蔵保長」
の家格は、その多くの同心よりも格下だったそうな。

そのため、その時の士官は殆どが
「服部半蔵正成」
の下につけられたため、無念に思う方が多かったと言われます。

が・それも正就の改易後は、服部半蔵家とは縁が切れ

「伊賀同心二百人組は四つまたは六つに分割解体され、それぞれの組には新たに指揮者となる旗本を置いて再編成された」

とあります。

都内の半蔵門の由来は服部半蔵

半蔵堀

江戸城の「西側」にある大きな

  • ➀:堀:「半蔵濠」
    ➁:門:「半蔵門」

と言います。

此の半蔵門の前に
「服部半蔵正成」
の屋敷がありました。
そして、その「服部半蔵」が守っているもんであると思われていました。

半蔵門の写真

ここは甲州街道の起点。
江戸幕府にとっては、ここは引くも攻めるも要衝な場所であるという認識だったようです。

スポンサーリンク

「服部半蔵正」に思う現代の忍者!感想とまとめ

「服部半蔵正成」
と「服部半蔵」について、いろんな文献を調べながら書いてきました。
多少差異があるところは容赦ください。

ところで、伊賀と聞けばすぐ浮かぶのが
「甲賀」
・・と言えばそうあの有名な
「猿飛佐助」
です。
「真田幸村」
に仕えた優秀な忍者で有名。
甲賀忍術の開祖と言われる
「戸沢白雲斎」
に師事。

「甲賀流忍術免許皆伝」
で、当時の情報戦をリードしました。

現代ならどうでしょうか?
お国の中か、お国対お国かで中身が変わってきそうですが、いわゆる

「特殊部隊」

となるとそんなイメージ。
「007」
の映画でのシーンなどは今の時代ですが昔なら
「忍者」
の世界かな~~と。

ところで、次回の
「007」
は誰になるんだろうか?

こっちも興味があります。
大河ドラマでは、どのように出てくるか興味津々でこれから毎週楽しみなのでした~~~

・・・・・・・・・


*ヘッダーの写真は私が撮影した松島の五大堂にかかる赤い橋の写真です。

関連記事