武田信玄の死因は何?病気説や最期・亡くなった場所と年齢も!

戦国最強ともいわれる武田軍を率い、織田信長や徳川家康を脅かした武田信玄。
しかし、天下を目指して西へ進軍していた1573年、突然その生涯を閉じました。
武田信玄の死因は何だったのでしょうか。
病気によるものとされていますが、結核や胃の病気、鉄砲による狙撃など、さまざまな説が語られています。
また、トイレにまつわる噂も気になるところです。
この記事では、武田信玄の死因と病気説を中心に、最期を迎えるまでの経緯、亡くなった場所や年齢、遺言と死を隠したという話まで、残された記録をもとにたどってみます。
武田信玄の死因は何?病死とされる理由
武田信玄の死因は、病気によるものだったという説が有力です。
ただし、具体的に何の病気だったのかについては、現在もはっきりした結論が出ていません。
信玄が亡くなったのは、元亀4年(1573年)4月12日。
数え年で53歳でした。
前年の1572年には三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り、翌年には三河国の野田城を攻略しています。
しかし、その後に体調が悪化し、武田軍は進軍を中断。
甲斐国へ引き返す途中で、信玄は生涯を閉じました。
武田信玄の死因は病気だったのか
信玄の死因について病死説が有力とされるのは、晩年の病状を伝える記録が残されているためです。
信玄は西上作戦の途中で体調を崩し、軍勢を率いて進み続けることが難しくなったと考えられています。
当時の武田軍は、三方ヶ原の戦いで徳川軍に勝利するなど、軍事的には大きな成果を挙げていました。
それにもかかわらず進軍を中断した背景には、総大将である信玄の健康状態があったとみられています。
病名としては肺結核や胃の病気などが挙げられていますが、当時の記録から現代の医学的な診断を確定することはできません。
そのため、「病死したと考えられるが、病名は特定できない」というのが、信玄の死因についての基本的な見方です。
死因を伝える史料には何が書かれている?
武田信玄の最期を考えるうえで注目されるのが、医師の御宿監物(みしゅくかんもつ)が残した書状です。
御宿監物は武田氏に仕えた医師で、その書状には信玄が病に苦しみ、治療を受けても回復しなかった様子が記されています。
具体的な病名はわかりませんが、信玄の晩年の健康状態を知るうえで重要な手がかりとなっています。
また、武田氏の軍事や家臣団について記した『甲陽軍鑑』にも、信玄の病状や死に関する記述があります。
ただし、『甲陽軍鑑』は信玄の死後に成立した軍記物であり、臨終の場面などには後世の伝承が含まれている可能性があります。
一方、徳川方に伝わる記録には、野田城攻めの際に信玄が鉄砲で撃たれたという話も残されています。
このように、信玄の死については異なる記録や伝承がありますが、病状の悪化によって進軍を断念したという経緯から、病死説が有力視されています。
では、信玄を苦しめた病気とは、いったい何だったのでしょうか。
次の章では、肺結核説や胃の病気説を中心に見ていきましょう。
武田信玄の病気は何だった?結核説や胃の病気説
武田信玄の死因として、よく挙げられるのが肺結核と胃の病気です。
いずれも、信玄の晩年の病状を伝える記録から考えられてきました。
特に注目されるのが、武田氏に仕えた医師の御宿監物が残した書状と、武田家の歴史を記した『甲陽軍鑑』です。
それぞれの記録を手がかりに、信玄がどのような病気を患っていたと考えられているのかを見てみましょう。
肺結核だったという説
武田信玄の病気として知られる説の一つが、肺結核です。
肺結核は結核菌による感染症で、長く続く咳や発熱、体重の減少などがみられる病気です。
現代では治療法がありますが、戦国時代には有効な抗結核薬はありませんでした。
この説を考えるうえで注目されるのが、御宿監物が武田家臣の小山田信茂に宛てた書状です。
そこには、信玄が「肺肝」に苦しみ、さまざまな治療を受けても病状が回復しなかったことが記されています。
この書状にある「肺肝」という表現などから、信玄は肺結核だったのではないかという説も生まれました。
ただし、当時の言葉を現在の病名にそのまま置き換えることはできません。
ただし、当時の「肺肝」という言葉を、そのまま現代医学の肺や肝臓の病名に置き換えることはできません。
書状は信玄の病状を考える重要な手がかりですが、肺結核という病名まで記されているわけではないのです。
胃の病気やその他の説
もう一つ有力な候補として挙げられるのが、胃がんや食道がんなどの消化器系の病気です。
こちらの説では、『甲陽軍鑑』に登場する「膈(かく)」という病名が注目されています。
膈は、食べ物が胸や胃のあたりにつかえるような症状を伴う病気を指す言葉として使われていました。
そのため、現代の病気に当てはめると、食道がんや胃がんなどの可能性が考えられています。
『甲陽軍鑑』には、信玄が亡くなる数年前から膈を患っていたという趣旨の記述もあります。
もし長年にわたって食事や体調に問題を抱えていたとすれば、西上作戦中の病状悪化ともつながります。
ただし、膈という言葉だけで、胃がんと食道がんのどちらだったのかを判断することはできません。
このほか、肺炎や日本住血吸虫病などを死因とする説も挙げられています。
特に日本住血吸虫病は、後の時代に甲斐地方で大きな問題となった感染症です。
信玄の死因との関係を考える説もありますが、本人が感染していたことを示す直接的な記録は確認されていません。

信玄の病状を伝える記録も残る戦国時代の医療。薬草による治療の再現イメージ
病名はどこまでわかっている?
ここまで見てきたように、武田信玄の病気には複数の説があります。
それぞれの説と、根拠として挙げられる記録を整理すると次のようになります。
| 病気の説 | 主な根拠・考え方 |
|---|---|
| 肺結核 | 御宿監物の書状にある病状の記述 |
| 胃がん・食道がん | 『甲陽軍鑑』に記された「膈」という病気 |
| 肺炎 | 呼吸器系の病気だった可能性 |
| 日本住血吸虫病 | 甲斐地方で後世に知られた感染症との関連を考える説 |
こうして比べると、病名についての説は、当時の記録に残された限られた症状を、後世の人々が読み解いたものであることがわかります。
現在のような検査結果や診断書が残っているわけではありません。
したがって、武田信玄は持病が悪化して亡くなったと考えられるものの、具体的な病名は特定されていないというのが、現時点での整理になります。
病気に苦しみながらも軍勢を率いていた信玄。
その最期には、病死説とは別に、鉄砲で撃たれたという話なども残されています。
武田信玄の死因にまつわるトイレ・狙撃・毒殺の噂
武田信玄の死因を調べると、病死説のほかにも、トイレや鉄砲による狙撃、毒殺などの話が見つかります。
特に、戦国時代を代表する武将がどのような最期を迎えたのかは、昔から人々の関心を集めてきました。
こうした噂には、古い記録に由来するものもあれば、出典がはっきりしないものもあります。
では、武田信玄の死因にまつわる3つの噂を順番に見ていきましょう。
トイレで亡くなったという話は本当?
武田信玄については、「トイレで亡くなったのではないか」という話が検索されることがあります。
しかし、信玄がトイレで倒れ、そのまま亡くなったことを示す確かな史料は確認されていません。
信玄の死因を扱った歴史資料では、主に病死説や野田城での鉄砲狙撃説が取り上げられています。
一方、信玄は領国経営にも力を注ぎ、躑躅ヶ崎館には「甲州山」と呼ばれる便所があったという逸話も知られています。
ただし、こうした便所にまつわる逸話と、信玄が亡くなった場所は別の話です。
信玄は1573年、西上作戦から甲斐国へ引き返す途中で亡くなったと伝えられています。
したがって、「武田信玄はトイレで死亡した」という話には、確認できる根拠がありません。
鉄砲で狙撃されたという説

野田城には信玄が鉄砲で狙撃されたという伝承が残る(再現イメージ)
武田信玄の死因に関する異説の中で、特によく知られているのが鉄砲狙撃説です。
この話の舞台となったのは、1573年に武田軍が攻めた三河国の野田城です。
当時、野田城には菅沼定盈が立てこもり、武田軍に抵抗していました。
伝承によると、城内には村松芳休という笛の名手がおり、夜になると美しい笛の音を響かせていたといいます。
信玄がその笛の音色に聞き入っていたところを、野田城の城兵が鉄砲で狙ったという話が伝わっています。
ただし、実際に信玄が撃たれたことを裏付ける確かな記録はなく、病死説とは別の伝承として知られています。
この狙撃の話は、徳川方に伝わる『松平記』や、菅沼氏に関する記録などに見られます。
また、現在の愛知県新城市にある野田城跡にも、信玄が狙撃されたと伝わる場所が残されています。
しかし、実際に信玄が銃弾を受けたことを裏付ける確かな記録はなく、狙撃が死因だったとまでは確認できません。
野田城攻めのころに信玄の病状が悪化したことから、後世に鉄砲の逸話と結びつけられた可能性も考えられます。
鉄砲狙撃説は、野田城に伝わる有名な逸話として知っておきたい話ですが、病死説とは分けて考える必要があります。
毒殺説に根拠はある?
武田信玄の死因については、毒を盛られたのではないかという疑問も見られます。
信玄が亡くなった当時、武田氏は織田信長や徳川家康と敵対していました。
そのため、突然の死を政敵による暗殺と結びつけて考えたくなるのかもしれません。
しかし、信玄が毒を盛られたことを示す具体的な史料や、毒殺を実行した人物を確認できる記録は見つかっていません。
また、信玄には以前から病気を患っていたと考えられる記述があり、急な毒殺を想定しなくても、進軍の中断と死去の経緯を説明できます。
そのため、毒殺説は、病死説や鉄砲狙撃説と同じような史料上の根拠を持つ説とはいえないかと。
武田信玄の死因を考えるうえでは、病状を伝える記録と、後世に広まった逸話を分けて読むことが大切と思います。
武田信玄の最期!西上作戦から撤退まで
武田信玄が最後の大きな軍事行動を起こしたのは、元亀3年(1572年)のことでした。
信玄は甲斐・信濃・駿河などを支配する戦国大名として、徳川家康の領国へ進軍します。
この一連の軍事行動は、現在では一般に「西上作戦」と呼ばれています。
織田信長との対立も深まるなか、信玄は遠江・三河方面で軍事行動を展開しました。
ただし、この出陣が最初から京都への上洛を目的としていたのかについては、研究者の間でも見方が分かれています。
では、信玄の最後の数か月をたどってみましょう。
三方ヶ原の戦いで徳川家康に勝利
元亀3年(1572年)12月、武田信玄は遠江国の三方ヶ原で徳川家康の軍勢と戦いました。
徳川家康は浜松城を本拠地としていましたが、武田軍の進軍に対して出陣し、三方ヶ原で激突します。
戦いは武田軍の勝利に終わり、徳川軍は大きな損害を受けました。
家康自身も浜松城へ退却し、危機を脱したことで知られています。
三方ヶ原の戦いは、武田信玄が徳川家康を破った代表的な合戦として、現在も広く知られています。
しかし、信玄はこの勝利のあと、すぐに浜松城を攻め落としたわけではありませんでした。
武田軍は遠江から三河方面へと進み、さらに軍事行動を続けていきます。
三河への進軍と病状の悪化
元亀4年(1573年)に入ると、武田軍は三河国の野田城を攻めました。
野田城は、現在の愛知県新城市にあった城です。
城主の菅沼定盈らが守り、武田軍に抵抗しました。
信玄は野田城を包囲し、同年2月に攻略したとされています。
ところが、このころから信玄の体調が悪化し、軍勢を率いて進み続けることが難しくなったと考えられています。
信玄は以前から病気を患っていたとする記録もあり、長期間の遠征が身体に負担をかけた可能性もあります。
三方ヶ原で徳川家康を破り、野田城も攻略した武田軍でしたが、総大将の病状は深刻になっていきました。
そして、武田軍はそれ以上の進軍を中断し、領国へ引き返すことになります。
甲斐へ戻る途中で迎えた最期
武田信玄は、三河方面から甲斐国へ戻る途中で亡くなりました。
その日は元亀4年(1573年)4月12日。
数え年で53歳でした。
亡くなった場所は、信濃国の駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村付近)と伝えられています。
三方ヶ原の戦いから、わずか4か月ほど後のことでした。
武田軍は徳川家康との戦いで優位に立ちながらも、信玄の死によって遠征を終えることになります。
信玄の死後、武田家の指導者となったのは武田勝頼でした。
戦場で数々の勝利を重ねてきた信玄でしたが、その最後の遠征は、思いがけない形で幕を閉じたのです。
武田信玄はいつ何歳で死んだ?亡くなった場所も確認
武田信玄が亡くなったのは、元亀4年(1573年)4月12日です。
享年53歳で、当時の数え年による年齢でした。
亡くなった場所として広く知られているのは、現在の長野県下伊那郡阿智村にあたる信濃国駒場です。
ただし、同じ下伊那郡の根羽村にも信玄の最期にまつわる伝承が残されています。
まずは、死亡年月日と年齢、そして最期の地を順番に確認してみましょう。
死亡年月日と享年
武田信玄の生没年は、1521年から1573年です。
死亡した元亀4年4月12日は旧暦の日付で、現在の暦では1573年5月13日にあたります。
なお、1573年は途中で元亀から天正へ改元されていますが、信玄が亡くなった4月の時点では、まだ元亀4年でした。
信玄の享年は53歳と伝えられています。
これは生まれた年を1歳として数える「数え年」によるもので、現在一般的な満年齢では51歳でした。
死亡年月日と年齢を整理すると、次のようになります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年月日 | 大永元年(1521年)11月3日・旧暦 |
| 死亡年月日 | 元亀4年(1573年)4月12日・旧暦 |
| 新暦の死亡日 | 1573年5月13日 |
| 享年 | 53歳(数え年) |
| 満年齢 | 51歳 |
| 死亡場所 | 信濃国駒場とする記録がある |
三方ヶ原の戦いで徳川家康を破ってから、およそ4か月後のことでした。
亡くなった場所は信濃国駒場?
武田信玄の死亡場所としてよく知られるのが、信濃国伊那郡の駒場です。
現在の地名では、長野県下伊那郡阿智村駒場にあたります。
信玄が駒場で亡くなったという話は、御宿監物が小山田信茂に宛てた書状などをもとに伝えられています。
一方、『甲陽軍鑑』には根羽で亡くなったとする記述があり、最期の場所については異なる伝承が残っています。
当時の信玄は、三河国から甲斐国へ戻る途中でした。
病状が悪化したため、馬ではなく輿に乗って移動していたとも伝えられています。
一方、『甲陽軍鑑』には根羽で亡くなったとする記述があります。
根羽は現在の長野県下伊那郡根羽村で、阿智村よりも愛知県寄りに位置しています。
このように、信玄の最期の地には駒場説と根羽説があり、記録によって場所が異なっています。
最期の地に残る伝承
信玄が亡くなったとされる阿智村には、現在もゆかりの寺院が残されています。
その一つが、駒場にある長岳寺です。
長岳寺には、信玄の遺骸が安置されたという伝承があり、境内には信玄を供養する十三重の石塔が建てられています。
また、根羽村にも「信玄塚」と呼ばれる場所があります。
根羽村の横旗地区には、病状が重くなった信玄を悼み、旗を横にしたことから地名が生まれたという言い伝えも残されています。
こうした史跡や伝承を見ると、信玄の最後の道のりが、今も地域の歴史として大切にされていることがわかります。
甲斐国から勢力を広げ、数々の戦いを経験した武田信玄。
その生涯は、故郷へ帰る途中の信濃の山あいで幕を閉じました。
武田信玄の遺言とは?死を3年間隠したという話
武田信玄の最期には、「自分が死んでも3年間は秘密にしておくように」という遺言を残した話があります。
信玄ほどの有力な戦国大名が亡くなれば、周囲の大名たちが武田領へ攻め込む可能性もありました。
そこで、信玄は自分の死を隠し、武田家の安全を守ろうとしたと伝えられています。
この有名な遺言は、『甲陽軍鑑』に記された信玄の最期の逸話です。

武田信玄が亡くなったと伝わる信濃国駒場。現在の長野県阿智村付近をイメージした風景
死を3年間隠すよう命じたという伝承
『甲陽軍鑑』によると、信玄は死を前にして、家臣たちに自分の死を3年間隠すよう命じたとされています。
その理由は、信玄が生きていると思わせることで、敵国が武田領へ攻め込むのを防ぐためでした。
さらに、葬儀を行わず、遺体は3年後に諏訪湖へ沈めるようにとも伝えたといいます。
また、跡を継ぐ武田勝頼には、しばらく大きな戦いを控え、国内の政治に力を入れるよう求めたとされています。
信玄が心配していたのは、自分の死後に武田家の力が弱まることだったのでしょう。
ただし、これらは『甲陽軍鑑』に記された内容で、信玄本人が書き残した遺言書が見つかっているわけではありません。
それでも、自分の死後まで武田家の行く末を案じた信玄の姿が伝わってくる逸話です。
上杉謙信に関する遺言の逸話
信玄の遺言には、長年の宿敵だった上杉謙信に関する話も残されています。
『甲陽軍鑑』によると、信玄は勝頼に対して、困ったときには上杉謙信を頼るように伝えたといいます。
信玄と謙信といえば、川中島で何度も戦ったことで知られる間柄です。
その相手を頼るようにという遺言は、少し意外に感じられるかもしれません。
しかし、敵として戦ったからこそ、信玄は謙信の人物や力を高く評価していたとも考えられます。
もっとも、実際に信玄がこの言葉を残したかどうかは確認できません。
川中島で激しく争った二人だからこそ、後世の人々の心に残った話なのでしょう。
信玄の死は実際に隠されていた?
それでは、武田家は本当に信玄の死を3年間隠していたのでしょうか。
信玄が亡くなった1573年、跡を継いだ武田勝頼は、信玄が病気のため隠居したという形をとり、対外的には生存しているように見せようとしました。
信玄の名前を使って書状を出すなど、武田家がその死を隠そうとした動きも確認されています。
しかし、信玄が亡くなったという情報は、比較的早い時期から周囲に伝わっていました。
しかし、信玄が亡くなったという情報は、周囲の大名たちにも次第に伝わっていきました。
武田家は信玄の死を隠そうとしましたが、3年間にわたって完全に秘密を守れたわけではなかったようです。
つまり、武田家は死を隠そうとしたものの、3年間ずっと秘密を守り通せたわけではありません。
一方、信玄の正式な葬儀が行われたのは、死去から3年後の天正4年(1576年)4月でした。
この点では、『甲陽軍鑑』に記された「3年間」という話と、実際の葬儀の時期が重なっています。
信玄の死を隠そうとした武田家でしたが、その後の情勢は大きく変わっていきます。
次の章では、信玄の跡を継いだ武田勝頼と、武田家のその後をたどってみましょう。
武田信玄の死後、武田家はどうなった?
武田信玄が亡くなった1573年、武田家の跡を継いだのは四男の武田勝頼でした。
信玄という大きな存在を失った武田家ですが、その後すぐに衰退したわけではありません。
勝頼は父の政策を引き継ぎ、徳川家康や織田信長との戦いを続け、領土を広げた時期もありました。
しかし、1575年の長篠の戦いで大敗し、やがて武田家は厳しい状況に追い込まれていきます。
ここでは、信玄の死から武田氏が滅亡するまでの9年間をたどってみましょう。
武田勝頼が家督を継承
武田勝頼は、天文15年(1546年)に生まれた信玄の四男です。
母は信濃国の諏訪頼重の娘で、勝頼はもともと諏訪氏の名跡を継ぎ、「諏訪四郎勝頼」と名乗っていました。
ところが、信玄の長男・武田義信が廃嫡され、その後に亡くなったことで、勝頼が武田家の後継者となりました。
1573年に信玄が亡くなると、勝頼は武田家の実質的な指導者となります。
ただし、信玄の死が公にされなかったため、勝頼の家督継承も当初は正式な形をとらなかったとされています。
勝頼は父の方針を引き継ぎ、周辺諸国への軍事行動を続けました。
天正2年(1574年)には、美濃国の明知城を攻略。
さらに遠江国の高天神城も攻め落としています。
高天神城は徳川家康にとって重要な拠点であり、信玄の時代にも攻略できなかった城でした。
その城を落とした勝頼は、父の死後も武田軍の強さを示したのです。
長篠の戦いと1582年の武田氏滅亡
武田家にとって大きな転機となったのが、天正3年(1575年)の長篠の戦いです。
勝頼は三河国の長篠城を包囲しましたが、織田信長と徳川家康の連合軍が救援に向かいました。
同年5月21日、武田軍と織田・徳川連合軍は設楽原で激突します。
この戦いで武田軍は大敗し、山県昌景や馬場信春、内藤昌豊など、多くの有力家臣を失いました。
長篠の戦いは、織田軍の鉄砲隊が活躍した合戦として知られていますが、武田軍の敗因は鉄砲だけではなく、地形や防御施設、兵力の違いなども関係していたと考えられています。
それでも、武田家は長篠の敗戦ですぐに滅亡したわけではありません。
勝頼は領国の立て直しを図り、外交関係の見直しや城の整備を進めました。
天正9年(1581年)には、甲斐国の新府城を新たな本拠地としています。
しかし、翌天正10年(1582年)、織田信長の軍勢が武田領へ大規模な攻撃を開始しました。
このとき、武田家の一門や家臣の中からも離反する者が現れ、勝頼は追い詰められていきます。
勝頼は新府城を離れ、最終的に甲斐国の天目山麓へ逃れました。
そして1582年3月11日、現在の山梨県甲州市田野で、妻や嫡男の信勝らとともに最期を迎えます。
こうして、戦国大名としての甲斐武田氏は、信玄の死から9年後に滅亡しました。
信玄が築き上げた武田家の勢力は、勝頼の時代にも一時は広がりましたが、長篠の敗戦や周辺勢力との対立、家臣の離反などが重なり、最後には支えきれなくなったのです。
武田信玄の墓はどこ?菩提寺と墓所の伝承
武田信玄の墓は、山梨県甲州市にある恵林寺(えりんじ)がよく知られています。
恵林寺は信玄が生前から深く関わった寺院で、亡くなった後には葬儀も行われました。
一方、甲府市には信玄の遺体を火葬したと伝わる墓所があり、長野県などにもゆかりの場所が残されています。
なぜ信玄の墓と呼ばれる場所がいくつもあるのでしょうか。
まずは、信玄の菩提寺である恵林寺から見ていきましょう。
恵林寺と武田信玄の墓所
恵林寺は、山梨県甲州市塩山小屋敷にある臨済宗妙心寺派の寺院です。
元徳2年(1330年)に夢窓疎石によって開かれた寺で、武田信玄は生前、この寺を自らの菩提寺と定めました。
信玄が亡くなったのは元亀4年(1573年)4月12日ですが、正式な葬儀が恵林寺で行われたのは天正4年(1576年)4月16日でした。
葬儀では、信玄が深く信頼していた禅僧の快川紹喜(かいせんじょうき)が導師を務めています。
現在、恵林寺には信玄の墓所があり、山梨県の史跡に指定されています。
墓所には五輪塔と宝篋印塔があり、宝篋印塔の銘文から、信玄の百回忌にあたる寛文12年(1672年)に再建されたと考えられています。
また、墓所の近くには、信玄の姿を写したと伝わる武田不動尊を安置する明王殿があります。
恵林寺は、武田信玄の生涯と死後の供養を考えるうえで欠かせない寺院といえるでしょう。
なお、墓所は通常非公開で、毎月12日に特別公開されています。
訪れる場合は、事前に恵林寺の公式案内を確認しておくと安心です。
各地に残る信玄の墓の伝承
武田信玄の墓所として知られる場所は、恵林寺だけではありません。
山梨県甲府市岩窪町には、「武田信玄公墓所」と呼ばれる場所があります。
ここは信玄の遺体を火葬した場所と伝えられ、「火葬塚」とも呼ばれています。
信玄の死がしばらく公にされなかったことから、遺体の扱いや埋葬について、さまざまな言い伝えが残ったのでしょう。
また、信玄が亡くなったとされる長野県阿智村の長岳寺にも、信玄を供養する石塔があります。
そのほか、長野県の竜雲寺や愛知県の福田寺、和歌山県の高野山などにも、信玄の墓や供養に関する伝承が残されています。
こうした場所が各地にあるのは、信玄の死が秘密にされたという話や、後世の人々が信玄を供養してきたこととも関係しているようです。
ただし、墓や供養塔がある場所すべてに、信玄の遺骨が埋葬されているという意味ではありません。
信玄の墓所を訪ねてみると、戦国大名としての活躍だけでなく、亡くなった後も長く人々に敬われてきたことが感じられます。
まとめ|武田信玄の死因と最期を振り返る
武田信玄の死因は、病気によるものだったという見方が有力です。
肺結核や胃の病気などが考えられていますが、具体的な病名まではわかっていません。
今回の内容を振り返ってみましょう。
- 武田信玄は元亀4年(1573年)4月12日に亡くなった。
- 享年は53歳で、現在の満年齢では51歳だった。
- 死因は病死説が有力で、肺結核や胃の病気などの説がある。
- 鉄砲狙撃説も伝わるが、トイレで死亡したという確かな記録はない。
- 最期の場所は信濃国駒場とする記録があり、根羽にも伝承が残る。
- 信玄の死後は武田勝頼が跡を継ぎ、1582年に戦国大名としての武田氏が滅亡した。
三方ヶ原の戦いで徳川家康を破りながら、甲斐へ帰る途中で亡くなった武田信玄。
その死は、武田家だけでなく、戦国時代の勢力関係にも大きな影響を与えました。
数々の戦いを勝ち抜いた信玄も、最後は病に苦しんでいたと考えると、歴史上の名将にも一人の人間としての姿が見えてくるように思います。
参考資料
- 『甲陽軍鑑』武田信玄の病状・最期・遺言に関する記述
- 国立国会図書館 レファレンス協同データベース「武田信玄の最後の状況について知りたい」(山梨県立図書館)
- 甲州市「甲州市歴史的風致維持向上計画 第2章」(信玄の死去と恵林寺での葬儀)
- 阿智村公式サイト「長岳寺」(信玄終焉の地に関する伝承)
- 山梨県「武田晴信の墓」(恵林寺の墓所に関する文化財資料)
※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。












