小田原攻めとは?いつ・なぜ起きた?豊臣秀吉と北条氏の戦いをわかりやすく!

1590年の小田原攻め直前の城下町と小田原城を再現した歴史風景

小田原攻めとは、1590年に豊臣秀吉が北条氏を攻めた戦いです。
戦国時代の終わりを語るうえで欠かせない出来事ですが、なぜ秀吉は大軍を率いて小田原城を攻めたのでしょうか。

当時の北条氏は関東に大きな勢力を築いており、小田原城を中心に豊臣軍へ抵抗しました。
その戦いには徳川家康や伊達政宗も関わり、北条氏の滅亡後には関東の勢力図が大きく変わることになります。

今回は、小田原攻めがいつ、なぜ起きたのか、戦いの経過や北条氏の最後、戦後の変化まで一緒にたどってみましょう。

小田原攻めとは?いつ・誰と誰が戦ったのか簡単に

小田原攻めとは、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が関東の北条氏を攻めた戦いです。
豊臣秀吉による全国統一の仕上げともいえる大規模な軍事行動で、戦国時代の大きな転換点になりました。

戦いの中心となったのは、現在の神奈川県小田原市にある小田原城です。
しかし、実際には小田原城だけでなく、関東各地の北条氏の城でも戦いが繰り広げられました。

まずは、小田原攻めがいつ起き、誰と誰が戦い、どのような結果になったのかを見てみましょう。

小田原攻めは1590年に起きた豊臣秀吉と北条氏の戦い

小田原攻めが行われたのは、1590年(天正18年)です。
豊臣秀吉は全国各地の大名を動員して関東へ軍勢を進め、小田原城を本拠地とする北条氏と戦いました。

北条氏は、戦国時代に関東で勢力を広げた大名です。
北条早雲を祖とする一族で、氏綱・氏康・氏政・氏直と、五代にわたって関東に大きな勢力を築いていました。

このとき北条氏の当主だったのは北条氏直です。
父の北条氏政も大きな影響力を持ち、親子で豊臣軍への対応にあたっていました。

戦いの基本情報を表にまとめると、次のようになります。

項目内容
戦いの名称小田原攻め(小田原合戦・小田原征伐など)
時期1590年(天正18年)
主な場所小田原城と関東各地の北条氏の城
豊臣方豊臣秀吉・徳川家康ら
北条方北条氏直・北条氏政ら
結果北条氏が降伏し、小田原城を開城
歴史的な影響小田原北条氏の支配が終わり、秀吉の全国統一が大きく進展

つまり、豊臣秀吉が関東の北条氏を従わせるために行った戦いが、小田原攻めだったわけです。

小田原攻め・小田原合戦・小田原征伐は同じ戦い?

小田原攻めを調べていると、「小田原合戦」「小田原征伐」「小田原の役」といった名前も出てきます。

これらは、基本的に1590年の豊臣秀吉と北条氏の戦いを指す呼び方です。
「北条征伐」と呼ばれることもあります。

ただし、「小田原の戦い」という表現には少し注意が必要です。
小田原周辺では1590年以前にも戦いが起きており、文脈によって別の合戦を指す場合があるためです。

今回の記事では、1590年の豊臣秀吉による北条氏への攻撃を「小田原攻め」と呼んで進めていきます。

戦いの結果を先に確認|北条氏の滅亡と秀吉の全国統一

小田原攻めの結果は、豊臣秀吉の勝利でした。
豊臣軍に包囲された小田原城は、1590年7月に開城し、北条氏は降伏しました。

北条氏政と弟の北条氏照は切腹を命じられ、当主の北条氏直は高野山へ追放されました。

これによって、北条早雲以来、五代にわたって関東を支配してきた小田原北条氏の大名としての支配は終わります。
ただし、北条一族そのものが完全に途絶えたわけではありません。

また、北条氏の旧領には徳川家康が移され、家康は江戸を本拠地とすることになります。

小田原攻めは、北条氏が敗れただけの戦いではありません。
豊臣秀吉による全国統一を大きく前進させ、後の江戸時代にもつながる出来事だったのです。

北条早雲から始まる小田原北条氏の五代の当主や、その後の子孫については、北条早雲の家系図と後北条氏5代のつながりで詳しくたどっています。

では、なぜ豊臣秀吉は北条氏を攻めることになったのでしょうか。
次は、両者が対立した理由と、戦いのきっかけになった事件をたどってみましょう。

小田原攻めはなぜ起きた?豊臣秀吉と北条氏が対立した理由

1590年の小田原攻めは、豊臣秀吉が突然、北条氏を攻めようと思い立った戦いではありません。
その背景には、秀吉が進めていた全国統一と、関東に大きな勢力を持つ北条氏との対立がありました。

秀吉は各地の大名同士の争いを抑え、自らの裁定によって領土問題を解決しようとしていました。
一方の北条氏も、関東で長年にわたって築いてきた勢力を簡単には手放せません。

両者の関係が悪化するなか、上野国の名胡桃城をめぐる事件が、戦いに踏み切る直接的なきっかけとなりました。

豊臣秀吉が進めていた惣無事令とは?

豊臣秀吉は、各地の大名が勝手に戦争を始めることを抑えようとしていました。
こうした大名間の私的な戦いを禁じ、領土争いを豊臣政権の裁定に従わせる方針は、一般に「惣無事令(そうぶじれい)」と呼ばれています。

ただし、全国の大名に対して同じ内容の命令が一度に出されたというわけではなく、地域や相手によって働きかけの時期や内容には違いがありました。

秀吉は九州の島津氏を服属させるなど、全国統一を進めていました。
そのなかで、関東に大きな勢力を持つ北条氏の動向は重要な問題となっていきます。

北条氏は、関東で独自の支配体制を築いてきた戦国大名でした。
豊臣政権の裁定に従うことは、それまでのように自らの判断で領土問題を解決することが難しくなることも意味します。

つまり、全国の大名を自らの秩序のもとに置こうとする秀吉と、関東での勢力を維持したい北条氏との間には、政治的な緊張があったのです。

北条氏政・氏直はなぜ秀吉に従わなかったのか?

小田原攻めのころ、北条氏の当主は五代目の北条氏直でした。
ただし、父の北条氏政も大きな影響力を持っており、豊臣政権への対応には親子が深く関わっていました。

北条氏が秀吉との関係をまったく持とうとしなかったわけではありません。
実際には交渉が続けられ、北条氏直の叔父にあたる北条氏規が上洛するなど、豊臣政権との関係を調整する動きもありました。

その一方で、北条氏は徳川家康との同盟関係を持ち、関東では依然として大きな軍事力を保持していました。

また、上野国の沼田領をめぐって、北条氏と真田氏の間には長年の争いがありました。
この問題には徳川家康も関わっており、秀吉による裁定が求められることになります。

1589年、秀吉の裁定によって沼田領の大部分が北条氏側に渡され、名胡桃城など一部は真田氏側に残されました。

北条氏はこの裁定を受け入れる方向に動いていましたが、豊臣政権への全面的な服属が円滑に進んだわけではありません。

このように、北条氏は秀吉との交渉を進めながらも、関東での立場や領地をめぐる問題を抱えていたのです。

そもそも北条氏は、どのようにして関東の有力大名になったのでしょうか。
その始まりについては、北条早雲の生涯と伊豆・小田原への勢力拡大で紹介しています。

名胡桃城事件が小田原攻めのきっかけになった

小田原攻めの直接的なきっかけとなったのが、1589年(天正17年)に起きた名胡桃城事件です。

名胡桃城は、現在の群馬県みなかみ町にあった城で、真田氏の勢力下に置かれていました。
沼田領の裁定後も、真田氏側に残されていた城の一つです。

ところが、北条方の沼田城代だった猪俣邦憲が名胡桃城を奪取する事件が起きました。

この行動は、秀吉が決めた領地の取り決めに反するものでした。
秀吉は北条氏に対し、裁定に背いた重大な行為として厳しく対応します。

北条氏側の事情や、事件が起きた詳しい経緯については、史料の解釈によって議論があります。
ただし、秀吉がこの事件を北条氏への軍事行動に踏み切る重要な理由としたことは確かです。

そして1590年、豊臣秀吉は大軍を動員して関東へ進軍しました。

名胡桃城事件は小田原攻めの直接的な契機でしたが、その背景には豊臣政権と北条氏の政治的な対立があったわけです。

では、秀吉はどのような武将たちを集め、北条氏に対してどれほどの軍勢を動員したのでしょうか。
次は、豊臣軍と北条軍の主な武将や兵力を見てみましょう。

小田原攻めの参加武将は?豊臣軍と北条軍の兵力を比較

1590年の小田原攻めでは、豊臣秀吉が全国各地の大名を動員し、関東の北条氏に対して大軍を送り込みました。
豊臣軍には徳川家康をはじめ、織田信雄や前田利家、上杉景勝など、多くの有力大名が参加しています。

一方、北条氏も小田原城を中心に各地の城を守り、豊臣軍に対抗しました。

では、豊臣軍と北条軍にはどのような武将が参加し、兵力にはどれほどの違いがあったのか、順番に見てみましょう。

豊臣秀吉・徳川家康ら豊臣軍の主な武将

豊臣軍の中心となったのは、もちろん豊臣秀吉です。
秀吉は全国統一を進めるなかで、すでに服属していた大名たちにも軍勢を出すよう命じました。

そのため、小田原攻めには東海・北陸・近畿・中国・四国など、広い地域から武将が集まっています。

主な参加武将を表にまとめてみました。

武将小田原攻めでの主な動き
豊臣秀吉豊臣軍の最高指揮者として小田原城を包囲
徳川家康豊臣軍の有力大名として参戦し、小田原城包囲に参加
織田信雄豊臣軍の一員として小田原城包囲に参加
前田利家北国方面から進軍し、北条方の城を攻略
上杉景勝前田利家らとともに北国方面から進軍
石田三成忍城攻めを担当した武将の一人
黒田孝高(官兵衛)北条氏との降伏交渉に関わったとされる
福島正則豊臣軍の一員として北条方の城の攻略に参加
長宗我部元親水軍を率いて小田原攻めに参加
宇喜多秀家豊臣軍の有力武将として小田原攻めに参加

これを見ると、小田原攻めは豊臣秀吉一人の軍勢ではなく、全国の大名を動員した大規模な戦いだったことがわかります。

なお、伊達政宗も小田原へ参陣しましたが、豊臣軍の主力として小田原城を包囲した武将たちとは事情が異なります。
政宗は秀吉への服属を示すために小田原へ赴いており、その経緯については後の章で見ていきます。

北条氏直・北条氏政ら北条軍の主な武将

豊臣軍に対抗したのは、関東に大きな勢力を築いていた小田原北条氏です。

当時の当主は五代目の北条氏直でしたが、父の北条氏政も大きな影響力を持っていました。
また、北条一族や重臣たちは小田原城だけでなく、関東各地の城を守っています。

主な武将を見てみましょう。

武将小田原攻めでの主な立場・動き
北条氏直北条氏五代目当主として豊臣軍に対抗
北条氏政氏直の父として北条方の重要な意思決定に関与
北条氏照氏政の弟で、北条一族の有力武将
北条氏邦鉢形城を守備し、豊臣軍に抵抗
北条氏規韮山城を守備し、豊臣軍に抵抗
北条氏勝山中城の守備に関わり、落城後は玉縄城へ退く
成田氏長忍城を領有し、城は家臣らによって守られた
大道寺政繁松井田城などで豊臣軍に対抗

北条氏は、小田原城だけに全軍を集めたわけではありません。
鉢形城や韮山城、忍城など、各地の城にも兵を配置していました。

ただし、豊臣軍は複数の方面から関東へ進軍しており、北条方の城は次々と攻撃を受けることになります。

小田原城を中心とする防衛体制を築いていた北条氏に対し、豊臣軍は各地の城を攻略しながら包囲を進めたわけです。

豊臣軍と北条軍の兵力はどれほど違った?

小田原攻めで北条氏が防御に利用した小田原城総構の土塁と空堀の再現風景

小田原城を広い範囲で守った総構。土塁や堀を利用した大規模な防御施設が築かれていました。

小田原攻めの兵力については、豊臣軍が約20万、北条軍が約5万と紹介されることがあります。

ただし、こうした数字は史料や数え方によって異なります。
小田原城を包囲した兵だけを数えるのか、関東各地の城を攻めた部隊まで含めるのかによっても、人数は変わってきます。

一般的に伝えられる兵力の規模を比較すると、次のようになります。

軍勢兵力の目安特徴
豊臣軍約20万人規模とされる全国各地の大名を動員した大軍
北条軍約5万人規模とされる小田原城と関東各地の城を守備

兵力の推計には幅がありますが、豊臣軍は北条軍のおよそ4倍にあたる規模だったと考えられます。
ただし、両軍とも複数の戦場に兵を分けていたため、すべての兵が小田原城の前で直接対峙したわけではありません。

それでも、豊臣軍が兵力と動員力で北条軍を大きく上回っていたことは、小田原攻めを考えるうえで重要な点でしょう。

北条氏は堅固な小田原城を中心に抵抗しましたが、豊臣軍は城を包囲すると同時に、周辺の城を次々と攻略していきました。

では、実際の戦いはどのように進んだのでしょうか。
次は、山中城の戦いから小田原城の開城までを、年表とともにたどってみましょう。

小田原攻めの経過を年表で確認!豊臣軍はどう戦った?

1590年(天正18年)の小田原攻めでは、豊臣秀吉の大軍が複数の方面から関東へ進軍しました。
北条氏は小田原城を中心に守りを固めましたが、豊臣軍は周辺の城を攻略しながら包囲を進めていきます。

この戦いは、一度の大きな野戦で勝敗が決まったわけではありません。
各地の城の攻略と小田原城の包囲が並行して進み、約3か月にわたる戦いの末に北条氏が降伏しました。

まずは、小田原攻めの主な出来事を年表で確認してみましょう。

 

時期主な出来事
1590年3月豊臣軍が関東へ進軍し、小田原攻めが本格化
3月29日山中城が豊臣軍の攻撃によって落城
4月初旬豊臣軍が小田原城を包囲し、石垣山城の築城が始まる
4~6月関東各地の北条方の城が次々と攻撃を受ける
6月27日豊臣秀吉が石垣山城へ本陣を移す
7月5日北条氏直が降伏する
7月9日小田原城が豊臣方へ明け渡される
7月11日北条氏政・北条氏照が切腹する

なお、当時の出来事は旧暦で記録されています。
この年表の日付も、基本的に当時の旧暦に基づくものです。

山中城の戦いから小田原城包囲まで

豊臣軍が関東へ進むうえで、重要な場所となったのが山中城です。
山中城は現在の静岡県三島市にあった北条氏の城で、小田原へ向かう箱根西側の防衛拠点でした。

1590年3月29日、豊臣軍は山中城を攻撃します。
北条方は城を守って抵抗しましたが、豊臣軍の大軍によって、その日のうちに落城しました。

山中城は、現在も障子堀などの特徴的な遺構が残る城として知られています。

この城の陥落によって、豊臣軍は小田原へ向けて進軍を続けることができました。

一方、北条氏は小田原城を中心とする防衛体制を整えていました。
各地の城に兵を配置しながら、豊臣軍を迎え撃とうとしていたのです。

しかし、山中城が短期間で落城したことは、豊臣軍の攻撃力と兵力の大きさを示す出来事となりました。

秀吉の大軍が小田原城を包囲した

1590年4月、豊臣軍は小田原城の周辺に到着し、包囲を進めました。

小田原城は、北条氏が長い年月をかけて整備してきた堅固な城です。
特に城下町を含む広い範囲を土塁や堀で囲んだ「総構(そうがまえ)」は、大きな特徴でした。

北条氏は、この総構の内側に多くの兵を集め、豊臣軍に対抗しました。

一方の秀吉は、力攻めだけに頼るのではなく、小田原城を包囲しながら周辺の城も攻略していきます。

北国方面では前田利家や上杉景勝らが進軍し、松井田城や鉢形城などを攻撃しました。
また、石田三成らは忍城を攻めるなど、関東各地で戦いが続きました。

豊臣軍による包囲が長期化すると、北条氏は外部からの援軍や補給を期待しにくくなっていきます。

こうして小田原城では、豊臣軍との大規模な決戦を避けながら、城内で対応を検討する状況が続きました。

石垣山一夜城は本当に一夜で築かれた?

小田原攻めでよく知られているのが、豊臣秀吉の「石垣山一夜城」です。

石垣山城は、小田原城の西側に位置する山に築かれた豊臣軍の陣城です。
現在の神奈川県小田原市に、その石垣などの遺構が残っています。

この城には、秀吉が木々で工事の様子を隠し、完成後に周囲の木を切り払って、一夜にして城が現れたように見せたという逸話があります。

しかし、実際に城を一晩で築いたわけではありません。

石垣山城は一定の工期をかけて築かれた城で、「一夜城」という名前は、後世に伝わる逸話に由来するものです。

また、木を切り払って北条方を驚かせたという具体的な演出についても、伝承として慎重に扱う必要があります。

石垣山城は、秀吉が小田原城を見下ろす位置に築いた本格的な陣城でした。
大規模な石垣を備えた城を築くこと自体が、豊臣軍の動員力を示すものだったと考えられます。

現在は「石垣山一夜城歴史公園」として整備され、小田原城や相模湾を見渡すことができます。

小田原城の開城と北条氏の降伏

豊臣軍による包囲が続くなか、北条方の支城は次々と攻略されていきました。

小田原城そのものは大規模な総攻撃によって落城したわけではありません。
しかし、各地の城が失われ、豊臣軍の包囲が続いたことで、北条氏が置かれた状況は厳しくなっていきます。

そして1590年7月5日、北条氏直は豊臣秀吉に降伏しました。

これによって小田原城は開城し、約3か月にわたった包囲戦は終結へ向かいます。

その後、北条氏政と弟の北条氏照は切腹を命じられ、氏直は高野山へ追放されました。

こうして、北条早雲以来、五代にわたって関東で勢力を築いた小田原北条氏の戦国大名としての支配は終わります。

小田原攻めは、城を一気に攻め落とす戦いではなく、大軍による包囲と各地の支城攻略によって北条氏を降伏へ追い込んだ戦いだったといえるでしょう。

では、北条氏はなぜ、堅固な小田原城を持ちながら敗れることになったのでしょうか。
次は、兵力差や支城の陥落、そして有名な「小田原評定」について見てみましょう。

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北条氏はなぜ負けた?小田原評定と敗北の理由

豊臣秀吉の大軍に包囲された北条氏は、なぜ小田原城を守り切れなかったのでしょうか。
小田原城は、関東でも有数の規模を誇る堅固な城でした。

それでも、1590年7月には北条氏直が降伏し、長年にわたる小田原北条氏の支配は終わることになります。

北条氏の敗北には、豊臣軍との兵力差だけでなく、各地の支城の陥落や、長期にわたる包囲による孤立など、複数の要因がありました。

また、「小田原評定」という言葉から、北条氏は話し合いばかりしていたという印象もあります。
しかし、実際の敗因を考えるには、城の防御力と当時の戦況を分けて見る必要がありそうです。

小田原城の総構は豊臣軍に通用しなかったのか?

小田原城には、城下町を含む広い範囲を土塁や堀で囲んだ「総構(そうがまえ)」が築かれていました。

これは、城の中心部だけでなく、町全体を防御するための大規模な施設です。
小田原攻めのころには、周囲約9キロメートルに及ぶ総構が整備されていたとされています。

北条氏は、この防御施設を利用して豊臣軍に対抗しようとしました。

実際、小田原城は豊臣軍の総攻撃によって力ずくで落とされたわけではありません。
最後は北条氏直の降伏によって開城しています。

このことから、総構がまったく役に立たなかったとはいえないでしょう。

ただし、どれほど堅固な城でも、外部との連絡や補給が難しくなれば、長期間にわたって抵抗し続けることは容易ではありません。

豊臣軍は小田原城を包囲する一方で、関東各地の北条方の城を攻略していきました。

つまり、小田原城の防御力だけでは、豊臣軍による広範囲の包囲と支城攻略に対応しきれなかったと考えられます。

小田原評定とは?北条氏は本当に決断できなかった?

小田原攻めを語るとき、よく登場するのが「小田原評定(おだわらひょうじょう)」という言葉です。

現在では、長い時間をかけて話し合っても結論が出ないことを「小田原評定」と呼ぶ場合があります。

この言葉は、豊臣軍に包囲された北条氏が、降伏するか戦い続けるかをなかなか決められなかったという故事に結びつけて説明されます。

しかし、実際の北条氏が、ただ漫然と会議を繰り返していたと考えるのは慎重であるべきでしょう。

北条氏は小田原城の防備を整え、関東各地の城にも兵を配置していました。
また、豊臣軍との交渉も行われており、戦況に応じた対応が続けられていました。

もちろん、北条氏内部で意見の違いがあった可能性はあります。
しかし、会議が長引いたことだけを敗北の原因とするのは、当時の複雑な状況を単純化しすぎるように思います。

「小田原評定」という言葉の意味と、実際の北条氏の意思決定は区別して考えることが大切です。

北条氏が置かれていた状況を見れば、降伏するにしても徹底抗戦するにしても、簡単に結論を出せる問題ではなかったのでしょう。

*会社の会議でも、何度集まっても結論が出ないときに「まるで小田原評定だ」と表現されることがあります。
戦国時代の出来事に由来する言葉が、現代の職場でも使われているのは面白いところですね。

圧倒的な兵力差と支城の陥落が与えた影響

北条氏にとって大きな問題となったのが、豊臣軍との兵力差でした。

豊臣軍は約20万人規模、北条軍は約5万人規模と紹介されることがあります。
数字には史料による違いがありますが、豊臣軍が動員力で大きく上回っていたことは確かです。

さらに、豊臣軍は小田原城だけを攻撃していたわけではありません。

山中城をはじめ、松井田城や鉢形城、韮山城など、北条方の重要な城にも軍勢を送りました。

北条氏は各地の城を利用して豊臣軍に対抗しようとしましたが、支城が次々と失われることで、小田原城を中心とした防衛体制は弱まっていきます。

また、徳川家康をはじめとする有力大名が豊臣方に参加していたことも、北条氏にとって厳しい状況でした。

小田原城が堅固であっても、外部から大きな援軍が来る見込みは乏しく、豊臣軍の包囲を打ち破ることは難しかったと考えられます。

こうして見ていくと、北条氏の敗北は一つの理由だけでは説明できません。

主な要因を整理すると、次のようになります。

敗北につながった要因北条氏への影響
豊臣軍との兵力差大規模な包囲や複数方面からの攻撃に対抗しにくかった
各地の支城の陥落小田原城を支える防衛体制が弱まった
有力大名の豊臣方への参加外部からの援軍を期待しにくくなった
長期にわたる包囲城内の将来への見通しが厳しくなった
豊臣政権との政治的対立従来の関東支配を維持することが難しくなった

このように、豊臣軍の圧倒的な動員力と、北条氏を孤立させる戦い方が、降伏につながる大きな要因になったと考えられます。

では、降伏した北条氏の人々は、その後どうなったのでしょうか。
次は、北条氏政・氏直の最後と、小田原北条氏のその後をたどってみましょう。

小田原攻めで北条氏はどうなった?氏政・氏直の最後

1590年7月、小田原城を包囲されていた北条氏は、豊臣秀吉に降伏しました。
しかし、降伏したことで北条一族のすべてが助かったわけではありません。

北条氏政と弟の氏照は切腹を命じられ、当主の氏直は高野山へ追放されました。
北条早雲から五代にわたって関東に勢力を築いた小田原北条氏は、戦国大名としての支配を終えることになります。

では、北条氏政・氏直はどのような最期を迎え、残された一族はその後どうなったのか、順番にたどってみましょう。

1590年の小田原城開城後に静まり返った城門と城内を再現した風景

1590年、小田原城は豊臣軍に明け渡され、戦国大名としての北条氏の関東支配は終わりました。

北条氏政・北条氏照は切腹を命じられた

小田原城が降伏した後、豊臣秀吉は北条氏政と、その弟である北条氏照に切腹を命じました。

1590年7月11日、氏政と氏照は小田原城下で自害しました。
北条氏政は、北条氏康の息子であり、小田原北条氏の四代目当主だった人物です。

氏政は1580年に息子の氏直へ家督を譲っていましたが、その後も北条氏の政治や軍事に大きな影響力を持っていました。

そのため、小田原攻めの敗北についても、氏政は重い責任を負うことになったのです。

ところで、北条氏政には、父の北条氏康が将来を心配したという有名な逸話があります。

それが「汁かけ飯」の話です。

あるとき、氏政が飯に汁をかけて食べようとしました。
ところが汁が足りず、もう一度かけ直したといいます。

それを見た父の氏康は、毎日食べる飯の汁の量さえ見積もれないようでは、人の心や国の行く末を見通すことも難しいだろうと嘆いたと伝えられています。

さらに、「北条家も自分の代で終わってしまうのか」という趣旨の言葉を残したともいわれます。

後に北条氏が滅亡したことを考えると、まるで氏康の心配が現実になったようにも感じられます。

ただし、この話は後世に伝わった逸話であり、実際に氏康がこの言葉を口にしたと確認できるわけではありません。

また、氏政は上杉謙信や武田信玄の攻撃を退け、関東で北条氏の勢力を維持した実績もあります。

そのため、汁かけ飯の話だけで氏政の性格や能力を判断するのは難しいでしょう。

それでも、北条氏の滅亡と結びつけて語り継がれてきた、印象深い逸話であることは確かです。

北条氏直は高野山へ追放された

一方、北条氏の五代目当主だった北条氏直は、父の氏政とは異なる処分を受けました。

氏直は切腹を免れ、高野山へ追放されたのです。

氏直は徳川家康の娘である督姫を妻に迎えており、家康とは義理の親子にあたる関係でした。

こうした家康との関係も、氏直の助命に影響したと考えられています。

高野山へ追放された氏直は、翌1591年に豊臣秀吉から赦免されました。
関東と近江で合わせて約1万石の領地を与えられ、再び大名としての道が開かれます。

しかし、同じ年に病気で亡くなりました。
享年30と伝えられ、ようやく再起の機会を得たところでの死でした。

1591年(天正19年)に病気で亡くなっています。

享年30と伝えられ、まだ若い年齢での死でした。

小田原攻めで降伏し、父を失い、自らも領地を離れることになった氏直。
ようやく再起の機会を得たところで亡くなったことになります。

氏直の死によって、小田原北条氏がかつてのように関東を支配する時代が戻ることはありませんでした。

小田原北条氏の滅亡とその後の子孫

小田原攻めによって北条氏は滅亡したといわれますが、これは北条一族がすべて途絶えたという意味ではありません。

終わったのは、北条早雲以来、関東に大きな領国を築いてきた戦国大名としての支配です。

実際には、北条氏の一族はその後も存続しました。

その代表的な人物が、北条氏規の息子である北条氏盛です。
氏盛は北条氏直の養子となっており、氏直の死後、その家を継ぐことになります。

その後、氏盛は河内国の狭山藩につながる領地を治め、北条氏の家名を残しました。

狭山藩の北条家は江戸時代を通じて存続し、明治維新を迎えています。

つまり、小田原攻めで北条氏の関東支配は終わったものの、一族の血筋と家名はその後も受け継がれたわけです。

戦国大名としては敗れた北条氏ですが、その歴史は1590年で完全に途切れたわけではなかったのですね。

そして、この小田原攻めには徳川家康や伊達政宗も深く関わっていました。
次は、二人がどのような立場で小田原攻めに関わったのか、見てみましょう。

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小田原攻めに徳川家康と伊達政宗はどう関わった?

1590年の小田原攻めには、後に江戸幕府を開く徳川家康と、奥州の戦国大名として知られる伊達政宗も関わっていました。
ただし、二人の立場は同じではありません。

徳川家康は豊臣秀吉に従う有力大名として軍勢を率いて参戦しました。
一方、伊達政宗は秀吉から小田原への参陣を求められ、遅れて現地に姿を見せています。

そして、小田原攻めの後には、家康がそれまでの領地を離れて関東へ移るという大きな変化が起きました。

まずは、二人がどのような立場で小田原攻めに関わったのか、順番にたどってみましょう。

徳川家康は豊臣軍の一員として参戦した

小田原攻めのころ、徳川家康はすでに豊臣秀吉に従う有力大名となっていました。

家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃に領地を持ち、東海地方を中心に大きな勢力を築いていました。

また、北条氏とは同盟関係にあり、娘の督姫を北条氏直に嫁がせていました。
つまり、家康と北条氏直は義理の親子という関係でもあったのです。

それでも、1590年に秀吉が小田原攻めを始めると、家康は豊臣軍の一員として参戦しました。

家康は軍勢を率いて小田原城の包囲に加わり、北条氏と対峙することになります。

かつて同盟を結んでいた北条氏を、今度は豊臣軍の立場から攻める側になったわけです。

この出来事からも、当時の家康が豊臣政権のもとで行動していたことがわかります。

また、家康は北条氏との関係を持っていたことから、降伏をめぐる交渉や氏直の助命にも関わったとされています。

そして、小田原攻めの終了後、家康自身の領地にも大きな変化が訪れることになります。

伊達政宗はなぜ小田原へ参陣したのか?

小田原攻めに関わったもう一人の有名な武将が、伊達政宗です。

政宗は当時、奥州で勢力を拡大していた戦国大名でした。
1589年には摺上原の戦いで蘆名氏を破り、南奥州に大きな勢力を築いています。

しかし、全国統一を進めていた豊臣秀吉は、奥州の大名たちにも服属を求めていました。

政宗も小田原への参陣を命じられましたが、すぐには出発せず、到着が遅れることになります。

この遅参は秀吉の怒りを買う危険があり、政宗にとっては重大な問題でした。

1590年6月、政宗は小田原へ到着しました。
6月9日には豊臣秀吉と対面し、服属する意思を示しています。

このときの様子は、政宗が国元の家臣に送った書状からも確認できます。

このとき政宗が白装束で秀吉の前に現れたという有名な逸話があります。
死を覚悟して参陣した姿を表す話として知られていますが、具体的な演出については後世の伝承も含まれるため、慎重に見る必要があります。

政宗は処刑されることなく、領地の一部を失いながらも大名として存続しました。

つまり、政宗にとって小田原への参陣は、豊臣秀吉への服属を示し、伊達家の存続を左右する重要な出来事だったのです。

徳川家康が豊臣軍として戦いに参加したのに対し、伊達政宗は秀吉に従う姿勢を示すために小田原へ赴いたという違いがありました。

伊達政宗が小田原へ遅れて参陣した理由や、白装束の逸話、その後の処遇については、伊達政宗と豊臣秀吉の関係・小田原参陣の経緯で詳しく見ています。

小田原攻めの後に家康は関東へ移封された

1590年7月、小田原城が開城し、北条氏の関東支配は終わりました。

その後、豊臣秀吉は北条氏が支配していた関東の広大な領地を徳川家康に与えます。

これが、徳川家康の「関東移封(かんとういほう)」です。

家康は、それまで本拠としていた三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の領地を離れ、関東へ移ることになりました。

そして、新たな本拠地として選んだのが江戸でした。

当時の江戸は、後の江戸幕府の時代のような大都市ではありません。
家康は江戸城を拠点として、城や城下町の整備を進めていくことになります。

家康の関東移封については、豊臣秀吉が有力大名である家康を畿内から遠ざけようとしたという見方もあります。
一方で、北条氏の旧領を安定して治めるため、家康の力を必要としたという面も考えられます。

秀吉の意図を一つの理由だけで断定するのは難しいところでしょう。

ただし、小田原攻めをきっかけに家康が江戸へ移ったことは、後の江戸幕府成立につながる大きな転機となりました。

もし家康が関東へ移っていなかったら、江戸の歴史も大きく違っていたのかもしれませんね。

この関東移封については、移封の理由や石高、江戸を本拠地に選んだ事情など、別の記事で詳しくたどる予定です。

関東への移封によって家康の領地や石高がどう変化したのかは、徳川家康の石高推移と領地の変遷でも確認できます。

では、小田原攻めの結果、豊臣秀吉の全国統一はどこまで進んだのでしょうか。
次は、北条氏の滅亡が戦国時代に与えた影響を見てみましょう。

小田原攻めの結果は?豊臣秀吉の全国統一と戦国時代への影響

1590年の小田原攻めは、豊臣秀吉の勝利と北条氏の降伏によって終わりました。
しかし、この戦いの影響は小田原城の開城だけにとどまりません。

北条氏が支配していた関東の広大な領地は再編され、徳川家康が新たに関東へ移ることになりました。

さらに、秀吉は東北地方の大名たちにも支配を及ぼし、全国統一を完成させる段階へ進んでいきます。

小田原攻めは、一つの戦国大名が滅亡した戦いであると同時に、日本全体の政治的な勢力図が大きく変わる出来事だったのです。

北条氏の領地はどうなった?

小田原攻めで北条氏が降伏すると、それまで北条氏が支配していた関東の領地は豊臣政権によって再編されました。

そのなかで、北条氏の旧領を中心とする関東の広大な領地を与えられたのが徳川家康です。

家康は、それまで治めていた三河・遠江・駿河・甲斐・信濃などの領地を離れ、関東へ移ることになりました。

関東での家康の所領は、一般に約250万石といわれています。
ただし、石高の数字については史料や集計の方法によって違いがあります。

家康が新たな本拠地としたのは江戸城でした。

一方、家康がそれまで治めていた東海地方などの領地には、豊臣秀吉の家臣たちが配置されました。

つまり、北条氏の滅亡によって関東だけでなく、東海地方を含む広い地域で大名の配置が変わったことになります。

この領地の再編は、秀吉が全国の大名を自らの支配体制のもとに組み込んでいくうえでも、重要な意味を持っていました。

秀吉による全国統一が大きく前進した

豊臣秀吉は、小田原攻め以前から全国統一を進めていました。

1585年には四国の長宗我部氏を服属させ、1587年には九州の島津氏を従わせています。

そして1590年、小田原攻めによって関東の北条氏を降伏させました。

しかし、秀吉の全国統一は小田原攻めだけで完了したわけではありません。

小田原城が開城した後、秀吉は東北地方へ向かい、奥州の大名や領主たちの領地を調査・再編する政策を進めました。

これが「奥州仕置(おうしゅうしおき)」です。

奥州仕置では、秀吉への服属状況や、それまでの領地支配などを踏まえて、大名の領地が認められたり、没収されたりしました。

伊達政宗もこの政策の影響を受け、前年に獲得した会津などの領地を失っています。

このように、小田原攻めの後も各地で抵抗や反発は続きましたが、豊臣政権による全国規模の支配体制が整えられていきました。

小田原攻めと、その後の奥州仕置によって、豊臣秀吉の全国統一は大きな節目を迎えたといえるでしょう。

戦国大名がそれぞれの判断で領土を争う時代から、豊臣政権が大名の領地を裁定する時代へと移っていったのです。

小田原攻めが後の江戸時代につながった理由

小田原攻めの結果を長い歴史の流れで見ると、徳川家康の関東移封も見逃せません。

家康は1590年に江戸へ入り、江戸城を拠点として関東の支配を進めました。

当時の江戸は、後の江戸時代に見られるような大都市ではありませんでした。
しかし、家康が本拠地としたことで、城や城下町の整備が進んでいきます。

その後、1600年の関ヶ原の戦いで家康は勝利し、1603年には征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。

もちろん、1590年の時点で江戸幕府の成立が決まっていたわけではありません。

それでも、家康が関東へ移り、江戸を本拠地としたことは、その後の歴史を考えるうえで大きな意味を持っています。

徳川家康が関東へ移封された1590年頃の江戸城周辺と町づくりの始まりを再現した風景

小田原攻めの後、徳川家康は江戸を本拠地としました。後に大都市となる江戸の歴史は、ここから大きく動き始めます。

小田原攻めから江戸幕府の成立までの主な出来事を整理すると、次のようになります。

年主な出来事
1590年小田原攻めで北条氏が降伏し、徳川家康が関東へ移封される
1590年豊臣秀吉が奥州仕置を進め、全国統一の大きな節目を迎える
1598年豊臣秀吉が死去する
1600年関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍が勝利する
1603年徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開く

こうして並べてみると、小田原攻めが単に北条氏を滅ぼした戦いではなかったことがわかります。

北条氏の滅亡によって関東の支配者が変わり、家康が江戸へ移り、やがて江戸幕府が成立することになります。

小田原攻めは豊臣秀吉の全国統一を大きく前進させるとともに、後の江戸時代につながる歴史の転換点でもあったのですね。

小田原攻めから関ヶ原の戦い、江戸幕府の成立まで、家康の歩みを通して見たい方は、徳川家康は何をした人?生涯と主な功績も参考にしてみてください。

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まとめ|小田原攻めは豊臣秀吉の全国統一を決定づけた戦い

1590年の小田原攻めは、豊臣秀吉が関東の北条氏を攻め、降伏させた戦いでした。

その背景には、秀吉が進める全国統一政策と、関東で独自の勢力を築いていた北条氏との対立がありました。
そして、1589年の名胡桃城事件が、秀吉が軍事行動に踏み切る直接的なきっかけとなります。

今回の内容を振り返ると、次のようになります。

  • いつ:1590年(天正18年)に起きた戦い
  • 対戦勢力:豊臣秀吉の軍勢と北条氏政・氏直ら北条氏
  • 戦いの理由:豊臣政権と北条氏の対立、名胡桃城事件
  • 戦いの経過:豊臣軍が各地の支城を攻略し、小田原城を包囲
  • 結果:北条氏直が降伏し、北条氏の関東支配が終わる
  • その後:徳川家康が関東へ移封され、秀吉は奥州仕置を進める

小田原城は堅固な総構を備えていましたが、豊臣軍の大規模な包囲と各地の支城攻略によって、北条氏は厳しい状況に追い込まれました。

北条氏政と氏照は切腹を命じられ、当主の氏直は高野山へ追放されました。
ただし、北条一族の血筋そのものが途絶えたわけではなく、その後も家名は受け継がれています。

そして、小田原攻めの結果、徳川家康が江戸を本拠地とすることになった点も見逃せません。

豊臣秀吉の全国統一を大きく前進させ、後の江戸時代にもつながった小田原攻め。
戦国時代から新しい時代へ移る、大きな転換点となった戦いだったのですね。

参考資料

※小田原攻めの兵力や各武将の行動、伝承については、史料によって記述や解釈が異なる場合があります。

※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。

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