武田信玄の城はどこ?躑躅ヶ崎館と城を持たない理由

山梨県甲府市の武田神社にある石鳥居と拝殿を正面から撮影した写真

戦国最強ともいわれる武田信玄ですが、どこの城を本拠地にしていたのでしょうか。

信玄が暮らし、甲斐国を治める拠点としていたのは、現在の山梨県甲府市にあった「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」です。

ところが、信玄には「城を持たなかった」という話もあり、甲府城や武田神社との関係が気になるところです。

実際には、躑躅ヶ崎館の背後には要害山城もありました。

今回は、武田信玄の城の名前や場所、躑躅ヶ崎館の歴史、城を持たないといわれる理由、現在の城跡まで、一緒にたどってみましょう。

武田信玄の城はどこ?名前と場所を確認

武田信玄の城はどこにあったのでしょうか。

その本拠地は、現在の山梨県甲府市にあった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)です。

武田氏館とも呼ばれ、信玄が甲斐国を治める政治や軍事の中心となっていました。

まずは、城の名前と場所、どのような役割を持っていたのかを見てみましょう。

武田信玄の本拠地は躑躅ヶ崎館

躑躅ヶ崎館は、1519年(永正16年)に信玄の父・武田信虎が築いた館です。

その後、信玄、勝頼へと受け継がれ、武田氏三代の本拠地として使われました。

信玄自身が最初に築いた城ではないという点は、押さえておきたいところです。

「館」という名前から、普通の武家屋敷を想像するかもしれません。

しかし、躑躅ヶ崎館には堀や土塁が設けられ、周囲を守るための構造も備わっていました。

武田氏の当主が暮らす場所であると同時に、領国を治める重要な拠点だったのです。

躑躅ヶ崎館の読み方と現在の所在地

躑躅ヶ崎館の読み方は「つつじがさきやかた」です。

難しい漢字ですが、「躑躅」は花のツツジを表しています。

現在の所在地は、山梨県甲府市古府中町です。

甲府盆地の北側、山々を背にした場所に館が築かれていました。

そして、躑躅ヶ崎館の中心部には、現在の武田神社が建っています。

武田神社は武田信玄を祭神とする神社で、館の跡地を訪ねる際の目印にもなっています。

周辺には当時の堀や土塁などが残り、国の史跡「武田氏館跡」に指定されています。

武田信玄の本拠地・躑躅ヶ崎館跡に建つ武田神社の石柱と参道入口

躑躅ヶ崎館跡に建つ武田神社の入口。現在は武田信玄をまつる神社として親しまれている。

(管理人撮影)

武田信玄の居城と呼ばれる理由

躑躅ヶ崎館は、武田信玄の「居城」として紹介されることがあります。

居城とは、城主が日常的に暮らし、政治や軍事の拠点とした城のことです。

躑躅ヶ崎館も、信玄が生活し、家臣たちとともに領国を治めた場所でした。

ただし、現在よく見かける天守のある城とは、姿が異なっていました。

戦国時代の武田氏は、堀や土塁に囲まれた館を本拠地とし、周囲の山城なども防御に利用していたのです。

つまり、武田信玄の城を一つ挙げるなら躑躅ヶ崎館ですが、館だけで領国を守っていたわけではありません。

その背景を知るためにも、まずは躑躅ヶ崎館が築かれた時代からたどってみましょう。

スポンサーリンク

躑躅ヶ崎館とは?武田三代が暮らした本拠地

躑躅ヶ崎館は、武田信虎・信玄・勝頼の三代が本拠地とした場所です。

1519年に築かれてから、1581年に勝頼が新府城へ移るまで、60年以上にわたって武田氏の中心となりました。

現在では武田信玄の城として知られていますが、その始まりは父・信虎の時代にさかのぼります。

武田三代と躑躅ヶ崎館の歩みを、順番にたどってみましょう。

躑躅ヶ崎館を築いた武田信虎

躑躅ヶ崎館を築いたのは、武田信玄の父である武田信虎です。

信虎は1519年(永正16年)、それまで本拠地としていた川田館から、新たに甲府の躑躅ヶ崎へ拠点を移しました。

『高白斎記』には、同年8月に館の建設が始まり、12月に信虎が移り住んだことが記されています。

新しい館が置かれたのは、甲府盆地の北側にある、三方を山に囲まれた土地でした。

周囲の地形を利用しながら、武田氏の政治や軍事の中心を整えようとしたのです。

さらに信虎は、館の建設だけでなく、家臣や商人などが集まる新しい町づくりも進めました。

これが、戦国時代の甲府の発展につながっていきます。

武田信玄が館を本拠地とした時代

1541年(天文10年)、武田晴信(のちの信玄)は父・信虎に代わって武田氏の当主となりました。

その後も、躑躅ヶ崎館は武田氏の本拠地として使われ続けます。

信玄は甲斐国を基盤に信濃などへ勢力を広げていきましたが、本拠地を別の城へ移すことはありませんでした。

領国が広がっても、甲府の躑躅ヶ崎館が政治や軍事の中心であり続けたのです。

館には当主の生活の場だけでなく、家臣たちと政務を行うための空間も設けられていました。

また、1551年(天文20年)には、信玄の嫡男・武田義信の婚儀に伴い、西曲輪が新たに造られました。

こうした施設の整備からも、館が武田氏の中心として発展していった様子がうかがえます。

各地で合戦を重ねた信玄にとって、躑躅ヶ崎館は領国を治めるための大切な拠点だったのでしょう。

武田勝頼まで続いた武田氏の館

1573年(元亀4年)に信玄が亡くなると、武田勝頼が武田氏の後継者となりました。

勝頼も当初は、父や祖父と同じ躑躅ヶ崎館を本拠地としていました。

しかし、周辺の情勢が変化するなかで、勝頼は新たな拠点を築くことになります。

それが、現在の山梨県韮崎市にある新府城です。

1581年(天正9年)、勝頼は新府城へ本拠地を移しました。

これによって、武田三代が使い続けた躑躅ヶ崎館は、領国の中心としての役割を終えることになったのです。

ただし、館そのものの歴史がここで完全に終わったわけではありません。

武田氏の滅亡後も、甲斐国を治める拠点として再利用された時期がありました。

信虎が築き、信玄が使い続け、勝頼が新府城へ移るまで。

躑躅ヶ崎館の歴史を振り返ると、武田氏三代の歩みが重なって見えてきます。

武田信玄はなぜ城を持たないといわれる?

武田信玄について調べていると、「信玄は城を持たなかった」という話を目にすることがあります。

しかし、実際には躑躅ヶ崎館を本拠地とし、各地の城も軍事拠点として利用していました。

では、なぜ城を持たない武将という印象が広まったのでしょうか。

有名な言葉と、戦国時代の城の姿から見てみましょう。

「人は城、人は石垣」の言葉との関係

武田信玄の言葉として知られているのが、「人は城、人は石垣、人は堀」という一節です。

城の石垣や堀だけに頼るのではなく、人の力や結びつきを大切にするという意味で受け取られています。

この言葉から、信玄は城を築かず、家臣の力だけで国を守ったという印象を持つ人もいるかもしれません。

しかし、この言葉だけを根拠に、信玄が城を必要としなかったとはいえません。

また、現在知られる言い回しが、信玄自身の発言をそのまま伝えているかについても慎重に考える必要があります。

有名な名言と実際の城づくりは、分けて見た方がよさそうです。

躑躅ヶ崎館にも堀や土塁があった

信玄の本拠地だった躑躅ヶ崎館には、天守を中心とする近世城郭のような姿はありませんでした。

そのため、城というより屋敷だったのではないかと思うかもしれません。

しかし、館の周囲には堀や土塁が設けられ、内部はいくつもの曲輪に分かれていました。

武田氏の当主が暮らす場所でありながら、防御のための施設も備えていたのです。

そもそも戦国時代の城は、現在よく知られる天守や高い石垣を持つものばかりではありません。

土塁や空堀を利用した城も、当時の重要な軍事施設でした。

躑躅ヶ崎館も、そうした戦国時代の城館として考えると、その役割が見えてきます。

信玄は本当に城を築かなかったのか

武田氏は、躑躅ヶ崎館だけで領国を守っていたわけではありません。

館の北側には、父・信虎が築き始めた要害山城がありました。

これは、緊急時に立てこもるための山城として整えられたものです。

さらに信玄の時代には、信濃などへ勢力を広げるなかで、各地の城を攻略し、防御拠点として利用しました。

既存の城を改修したり、軍事上必要な施設を整えたりすることも、武田氏の領国支配には欠かせませんでした。

つまり、信玄が城を持たなかったという話は、実際の姿とは異なります。

天守のある城を本拠地にしなかったことと、城を築かなかったことは同じではないのです。

では、躑躅ヶ崎館にはどのような防御施設があり、周囲にはどんな町が広がっていたのでしょうか。

スポンサーリンク

次は館の構造と城下町をたどってみましょう。

躑躅ヶ崎館の構造は?堀・土塁と城下町

躑躅ヶ崎館は、武田氏の当主が暮らす場所でしたが、防御のための設備も備えていました。

館の周囲には堀や土塁が築かれ、内部には役割の異なる曲輪が設けられていたのです。

また、館の周辺には家臣の屋敷や商人たちが集まり、甲府の町が形成されていきました。

ここでは、館の構造と城下町の様子を見てみましょう。

躑躅ヶ崎館跡に残る水堀と周囲の石積み、緑豊かな木々

武田氏館跡の水堀。現在も堀の姿が残り、かつての館が防御施設を備えていたことを伝えている。

(管理人撮影)

躑躅ヶ崎館の堀と土塁

躑躅ヶ崎館の中心には、ほぼ四角形の主郭が設けられていました。

その周囲には堀や土塁が築かれ、外部から容易に侵入できないよう工夫されていました。

堀は敵の進入を妨げるためのもので、土塁は土を高く盛り上げて造る防御施設です。

石垣や天守を備えた城とは異なりますが、土を利用した防御施設は戦国時代の城館で重要な役割を果たしていました。

また、館の東側には大手と呼ばれる主要な出入り口がありました。

発掘調査では、館の出入り口を守る馬出や、堀の跡なども確認されています。

馬出には時代による造り替えが見られ、武田氏の時代にどのような姿だったのか、調査が続けられています。

こうした構造からも、躑躅ヶ崎館が防御を意識した施設だったことがわかります。

武田信玄の本拠地だった躑躅ヶ崎館の堀や土塁、曲輪と城下町を描いた参考イラスト

躑躅ヶ崎館の構造をイメージした参考図。実際の遺構の正確な配置や縮尺を示すものではありません。

館の内部には何があった?

躑躅ヶ崎館の内部には、当主の生活や政治に使われる空間がありました。

中心となる主郭のほか、西曲輪や味噌曲輪など、複数の曲輪が設けられていました。

西曲輪は、1551年に信玄の嫡男・武田義信のために造られた場所です。

また、味噌曲輪は食料を保管する場所だったとも考えられていますが、具体的な使われ方については調査が続けられています。

主郭では発掘調査によって庭園の跡も確認されており、館には軍事施設だけでなく、日常生活や政務のための空間も存在していました。

ただし、現在確認できる遺構には、武田氏の時代より後に整備されたものも含まれています。

そのため、残っている石垣や施設のすべてが信玄の時代に造られたわけではありません。

甲府に広がった武田氏の城下町

躑躅ヶ崎館が築かれると、その周囲には家臣たちの屋敷が置かれ、商人や職人も集まるようになりました。

館を中心として新しい町が形成され、甲府は武田氏の領国を支える拠点へと発展していきます。

この町づくりを始めたのは、館を築いた武田信虎でした。

その後、信玄の時代には武田氏の勢力が広がり、甲府は政治や経済の中心として重要性を増していきました。

館の周辺には家臣の屋敷地が広がり、道路や人々の暮らしを支える施設も整えられていきました。

躑躅ヶ崎館は、城館だけでなく周囲の町と一体となって機能していたのです。

現在の甲府市にも、武田氏の時代に始まった町の歴史が受け継がれています。

こうして見ると、躑躅ヶ崎館は単なる武将の住まいではなく、甲斐国を治める中心だったことがわかります。

国指定史跡武田氏館跡の説明板に描かれた中世甲府の館と城下町の復元イメージ

武田氏館跡に設置された現地説明板。「中世の甲府」の復元イメージから、躑躅ヶ崎館を中心に広がった城下町の様子がわかる。

(管理人撮影:拡大画像はこちら

)

要害山城とは?躑躅ヶ崎館を守る山城

武田信玄の本拠地だった躑躅ヶ崎館の北側には、要害山城という山城がありました。

読み方は「ようがいさんじょう」です。

現在の山梨県甲府市上積翠寺町に位置し、躑躅ヶ崎館の背後にそびえる山に築かれていました。

普段の生活や政治を行う館に対し、要害山城は緊急時に備えた城でした。

二つの施設がどのような役割を持っていたのか、見てみましょう。

要害山城が築かれた場所と目的

要害山城は、1520年(永正17年)に武田信虎が築き始めたとされる山城です。

躑躅ヶ崎館が完成した翌年にあたり、館を守るための防御拠点として整えられました。

城が築かれたのは、甲府盆地を見下ろす標高約770メートルの要害山です。

山頂付近には主郭があり、尾根に沿って曲輪や堀切、土塁などが設けられています。

山の地形を利用することで、敵が容易に攻め上がれない構造になっていました。

要害山城は、躑躅ヶ崎館の防御を補うための重要な山城だったのです。

躑躅ヶ崎館と要害山城の役割の違い

躑躅ヶ崎館と要害山城は、近い場所にありながら役割が異なっていました。

躑躅ヶ崎館は、武田氏の当主が暮らし、家臣たちと政治や軍事の方針を決める本拠地でした。

一方、要害山城は、敵の攻撃を受けた際に立てこもるための「詰城(つめじろ)」として築かれたと考えられています。

つまり、普段は館で領国を治め、非常時には背後の山城を防御に利用するという関係です。

戦国時代には、日常生活を送る居館と、防御に適した山城を組み合わせる例が見られました。

武田氏も、こうした仕組みを取り入れていたのです。

信玄が天守のある城を本拠地にしなかったからといって、防御を軽視していたわけではないことがわかります。

信玄誕生と要害山城に伝わる話

要害山城には、武田信玄の誕生にまつわる話も残されています。

1521年(大永元年)、甲斐国に今川氏の軍勢が侵攻しました。

このとき、信玄の母である大井夫人は、戦乱を避けるため要害山城へ移ったと伝えられています。

そして同年11月3日、のちの武田信玄となる武田晴信が生まれたとされています。

要害山城は、信玄の生誕地としても伝えられている場所なのです。

ただし、信玄の出生地については、要害山城とする伝承のほか、積翠寺との関係も語られています。

そのため、城内のどの場所で生まれたのかまで、確実にわかっているわけではありません。

現在の要害山城跡には、曲輪や堀切、土塁などの遺構が残っています。

躑躅ヶ崎館と要害山城を合わせて見ることで、武田氏がどのように本拠地を守ろうとしたのか、その姿が見えてきます。

甲府城は武田信玄の城?松本城との関係も確認

武田信玄の城を調べると、躑躅ヶ崎館のほかに甲府城や松本城の名前も出てきます。

しかし、この二つの城と信玄との関係は同じではありません。

甲府城は信玄が亡くなった後に整備された城で、一方の松本城には、信玄が前身の深志城を軍事拠点とした歴史があります。

それぞれの違いを確認してみましょう。

甲府城は信玄の時代の城ではない

甲府城は、現在の山梨県甲府市丸の内にある城跡です。

舞鶴城とも呼ばれ、現在は舞鶴城公園として親しまれています。

甲府城と武田信玄を結びつけて考える人もいるかもしれませんが、現在見られる甲府城は、信玄が築いた城ではありません。

甲府城の整備が本格的に進んだのは、1582年に武田氏が滅亡した後のことです。

徳川家康による甲斐支配の時期を経て、豊臣政権のもとで近世城郭として整えられていきました。

そのため、甲府城の石垣や天守台を、信玄が使っていた城の遺構と考えるのは正確ではありません。

武田氏の本拠地と甲府城の違い

武田信玄の本拠地だった躑躅ヶ崎館と甲府城は、同じ甲府市内にありますが、場所も時代も異なります。

躑躅ヶ崎館は甲府盆地の北側にあり、1519年に武田信虎が築いた館です。

信玄や勝頼もここを本拠地とし、武田氏の政治や軍事の中心となっていました。

一方、甲府城は現在の甲府駅に近い場所にあり、武田氏滅亡後に整備された城です。

高い石垣を備えた甲府城と、堀や土塁を中心とした躑躅ヶ崎館では、城の姿にも違いがありました。

つまり、武田信玄の居城を知りたい場合は躑躅ヶ崎館、武田氏滅亡後の甲府の城を知りたい場合は甲府城と分けて考えるとわかりやすいですね。

松本城と武田信玄にはどんな関係がある?

長野県松本市にある松本城も、武田信玄と関係のある城です。

松本城の前身は「深志城(ふかしじょう)」と呼ばれていました。

1550年(天文19年)、武田晴信(のちの信玄)は信濃へ進出し、小笠原長時の勢力を退けました。

そして深志城を手に入れ、信濃を支配するための拠点として利用したのです。

深志城は交通の要所にあり、北信濃方面へ進むうえでも重要な場所でした。

武田氏による支配は、1582年の滅亡まで続きました。

その後、小笠原貞慶が深志城を取り戻し、「松本城」と改めました。

さらに1590年に入った石川数正と、その子・康長の時代に城の整備が進み、現在につながる天守が築かれました。

したがって、信玄は松本城の前身である深志城を利用しましたが、現在の松本城の天守を築いたわけではありません。

武田信玄と城の関係をたどると、本拠地の躑躅ヶ崎館だけでなく、領国支配のために各地の城を活用していたことがわかります。

スポンサーリンク

躑躅ヶ崎館の現在は?武田神社と城跡

武田信玄が本拠地としていた躑躅ヶ崎館は、現在どうなっているのでしょうか。

館の中心部には武田神社が建ち、武田信玄を祭神としてまつっています。

一方、神社の周囲には堀や土塁などが残り、戦国時代の城館の姿を今に伝えています。

現在の武田氏館跡で見られるものを、順番に確認してみましょう。

山梨県甲府市の武田神社に建つ大鳥居と境内へ続く参道

武田神社の大鳥居。武田信玄をまつる神社で、躑躅ヶ崎館の跡地に建っている。

(管理人撮影)

躑躅ヶ崎館跡に建つ武田神社

武田神社は、山梨県甲府市古府中町にある神社です。

1919年(大正8年)、武田信玄を祭神として、躑躅ヶ崎館の跡地に創建されました。

現在の参道は南側から境内へ続いていますが、武田氏の時代に館の正門があったのは東側でした。

そのため、現在の神社の入り口と、戦国時代の館の大手は同じ場所ではありません。

境内には武田氏ゆかりの品々を展示する宝物殿もあります。

武田神社は信玄をまつる場所であると同時に、武田氏の本拠地の歴史に触れられる場所でもあるのです。


(管理人撮影)

現在も残る堀や土塁などの遺構

躑躅ヶ崎館跡で特に注目したいのは、館の周囲に残る堀と土塁です。

館の周囲には、現在も堀や土塁が残されています。

武田神社の南側では水堀を見ることができ、周囲を歩くと堀の深さや土塁の高さから、かつての城館の規模を感じられます。

堀の内側に土を盛り上げた土塁が続く様子から、館を守るための工夫が感じられます。

また、西曲輪には出入り口を守る枡形虎口などの遺構が残されています。

館の東側にあった大手付近でも発掘調査が行われ、馬出や堀などの構造が確認されました。

現在の武田氏館跡は、神社だけでなく、城としての防御施設を見学できる史跡なのです。

ただし、現在見られる遺構には、武田氏滅亡後に整備されたものや、発掘調査をもとに復元されたものも含まれます。

すべてが信玄の時代の姿をそのまま残しているわけではない点にも注意したいところです。

武田氏館跡を訪ねる際の見どころ

武田氏館跡を訪れるなら、まず武田神社の周囲を歩いてみるとよさそうです。

参拝だけで終わらず、堀や土塁を見て回ることで、かつての館の広がりが感じられます。

特に、館の東側にある大手跡や、西曲輪の周辺は、城の構造を知るうえで興味深い場所です。

堀の深さや土塁の高さを実際に見ると、天守がなくても防御を意識した施設だったことがわかります。

また、近くには「信玄ミュージアム(甲府市武田氏館跡歴史館)」があります。

武田氏館跡の歴史や発掘調査の成果を知ることができる施設で、現地を歩く前後に立ち寄るのもよさそうです。

武田神社、館跡の堀や土塁、信玄ミュージアムを合わせて見ると、武田氏三代の本拠地だった場所を、より身近に感じられるのではないでしょうか。

現在の躑躅ヶ崎館跡は、国の史跡「武田氏館跡」として保存されています。

武田信玄の城を訪ねたい人にとって、ぜひ知っておきたい場所ですね。

武田信玄の城と本拠地を年表で振り返る

ここまで、武田信玄の本拠地だった躑躅ヶ崎館と、周囲の城について見てきました。

最後に、武田氏三代の本拠地がどのように変わっていったのか、年表で振り返ってみましょう。

特に注目したいのは、信玄の時代には躑躅ヶ崎館が使われ続け、勝頼の時代に新府城へ移ったという点です。

武田信虎から信玄・勝頼までの年表

年代出来事
1519年
永正16年
武田信虎が躑躅ヶ崎館を築き、本拠地を川田館から移す。
1520年
永正17年
信虎が躑躅ヶ崎館の背後に要害山城を築き始める。
1521年
大永元年
のちの武田信玄が誕生。要害山城で生まれたという伝承が残る。
1541年
天文10年
武田晴信(のちの信玄)が家督を継ぎ、躑躅ヶ崎館を本拠地とする。
1551年
天文20年
信玄の嫡男・武田義信のために西曲輪が造営される。
1573年
元亀4年
武田信玄が亡くなり、武田勝頼が後継者となる。
1581年
天正9年
勝頼が新府城を築き、12月に躑躅ヶ崎館から本拠地を移す。
1582年
天正10年
勝頼が新府城を退去。3月11日に武田氏が滅亡する。

こうして並べてみると、躑躅ヶ崎館が武田氏三代にわたって重要な役割を果たしていたことがわかります。

躑躅ヶ崎館から新府城への移転

武田勝頼が新たな本拠地として築いたのが、新府城(しんぷじょう)です。

現在の山梨県韮崎市にあり、七里岩と呼ばれる台地の上に築かれました。

新府城の築城が始まったのは1581年で、勝頼は同年12月24日に躑躅ヶ崎館から移ったとされています。

「新府」という名前には、新しい府中、つまり新たな政治の中心という意味が込められていました。

しかし、新府城は完成しないまま、翌1582年に織田・徳川勢の侵攻を受けることになります。

勝頼は3月3日に城へ火を放って退去し、その8日後の3月11日に武田氏は滅亡しました。

新府城が武田氏の本拠地だった期間は、わずか68日ほどだったのです。

武田氏の本拠地が変わった理由

では、勝頼はなぜ、長年使われてきた躑躅ヶ崎館から新府城へ移ったのでしょうか。

その背景には、武田氏を取り巻く軍事情勢の変化がありました。

1575年(天正3年)の長篠の戦いで敗れた後、勝頼は領国の立て直しを進めていました。

織田氏や徳川氏との対立が続くなかで、新たな防御拠点と政治の中心が必要になったと考えられています。

新府城が築かれた七里岩は、周囲に急な崖があり、自然の地形を防御に利用できる場所でした。

また、信濃方面へ通じる交通の要所でもありました。

勝頼は、新府城を中心に武田氏の支配体制を立て直そうとしたのでしょう。

しかし、その計画が十分に実現する前に、武田氏は滅亡を迎えました。

武田信虎が築いた躑躅ヶ崎館、信玄が使い続けた本拠地、そして勝頼が築いた新府城。

それぞれの城をたどると、武田氏三代の歴史と、戦国時代の情勢の変化が見えてきます。

スポンサーリンク

まとめ|武田信玄の城と躑躅ヶ崎館

武田信玄の城はどこにあったのか、躑躅ヶ崎館を中心にたどってきました。

信玄の本拠地は、現在の山梨県甲府市にあった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)です。

1519年に父・武田信虎が築き、信玄、勝頼へと受け継がれました。

今回の内容を振り返ると、次のようになります。

  • 武田信玄の本拠地は、甲府の躑躅ヶ崎館だった。
  • 躑躅ヶ崎館には堀や土塁があり、防御施設も備えていた。
  • 背後の要害山城は、緊急時に備えた詰城だった。
  • 甲府城は信玄が築いた城ではなく、松本城の前身である深志城は信玄が利用した。
  • 1581年、武田勝頼が躑躅ヶ崎館から新府城へ本拠地を移した。
  • 現在の躑躅ヶ崎館跡には武田神社が建ち、堀や土塁などの遺構が残っている。

信玄には「城を持たなかった」という話もありますが、実際には館と山城を組み合わせ、各地の城も利用していました。

天守のある城を本拠地にしなかったことと、城を持たなかったことは違うのですね。

現在の武田神社や周囲の城跡を訪ねると、武田氏三代が甲斐国を治めた時代の面影を感じられます。

歴史をたどりながら、実際の館跡を歩いてみるのも興味深そうです。

参考資料

スポンサーリンク

関連記事