黒田官兵衛の子孫と家系図|妻・子供と黒田家のその後を解説

黒田官兵衛(黒田孝高)は、豊臣秀吉の天下統一を支えた名軍師として知られる戦国武将です。

竹中半兵衛と並んで
「秀吉の軍師」
として語られることも多い官兵衛ですが、その子孫や黒田家のその後はどうなったのでしょうか。
官兵衛の跡を継いだ長男の黒田長政は、関ヶ原の戦い後に筑前国へ入り、福岡藩52万石の初代藩主となりました。その後、黒田家は江戸時代を通じて福岡藩主として続いていきます。

では、黒田官兵衛には何人の子供がいたのでしょうか。
正室・光(てる)との関係や側室はいたのか、長政以外の子供はどうなったのか、そして黒田家はその後どのように続いたのか。
この記事では、黒田官兵衛の家系図を中心に、妻・子供・子孫と黒田家のその後を紹介します。

さらに、官兵衛の石高の推移、生涯年表、家紋、名言、死因などについてもあわせて見ていきます。

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黒田官兵衛の子孫と家系図|黒田家はその後どうなった?

軍配を掲げ軍勢を指揮する官兵衛

「軍師・黒田官兵衛」を一目で伝える

黒田官兵衛(孝高:よしたか)の子孫は、長男の黒田長政を通じて福岡藩黒田家へと受け継がれていきました。

官兵衛自身は豊前国中津12万石余を領しましたが、関ヶ原の戦いで長政が徳川家康率いる東軍に加わって大きな功績を挙げたことで、黒田家は筑前国52万3,000石余を与えられます。
ここから黒田家は福岡藩主として江戸時代を通じて続いていくことになります。

まず、黒田官兵衛から長政へ続く家系を見てみましょう。

黒田官兵衛の家系図|先祖は近江国黒田村?

黒田官兵衛は1546年(天文15年)、**黒田職隆(もとたか)**の嫡男として播磨国姫路で生まれました。

黒田氏の出自については諸説あり、近江国伊香郡黒田村を出自とする説などがあります。
したがって「黒田氏の祖先は近江国黒田村だった」と断定するより、

「黒田氏の出自には諸説あり、近江国黒田村をルーツとする説が知られている」

程度にしておくのがいいでしょう。
家系の流れを簡単にすると、次のようになります。

黒田重隆

黒田職隆

黒田官兵衛(孝高) ── 正室・櫛橋光

┌───┴───┐
黒田長政   黒田熊之助

┌──┬──┬──┐
忠之 長興 高政 正直

※黒田官兵衛には養子もいましたが、ここでは官兵衛から福岡藩黒田家へ続く血筋を分かりやすくするため、主要人物のみ掲載しています。

この家系図で重要なのは、やはり黒田長政です。
官兵衛の
「軍師」
としての能力だけでなく、黒田家が江戸時代に52万石を超える大藩として存続した背景には、長政の存在が大きく関係しています。

黒田官兵衛の妻・櫛橋光と子供

黒田官兵衛の正室は、**櫛橋光(くしはし・てる)**です。

光は播磨国志方城主・櫛橋伊定の娘とされ、官兵衛との間には長政と熊之助が生まれました。
官兵衛は戦国大名としては珍しく、側室を置かなかった人物として知られています。

したがって、実子として特に重要なのは次の二人です。

人物官兵衛との関係・その後
黒田長政長男。官兵衛の跡を継ぎ、関ヶ原後に筑前52万3,000石余を与えられ、福岡藩初代藩主となる
黒田熊之助次男。朝鮮出兵中の父・官兵衛や兄・長政を追って渡海しようとした途中、海難事故で亡くなったとされる

熊之助が若くして亡くなったため、黒田家の本流は長政へ受け継がれていきました。

官兵衛の跡を継いだ黒田長政の家系図や妻・子供、その後の黒田家についてはこちらで詳しく紹介しています。

黒田長政が福岡藩52万石を継ぐ

官兵衛の長男・黒田長政は、父とは少し違った道を歩みました。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に加わり、本戦だけでなく戦前の諸将への働きかけでも重要な役割を果たします。
その功績によって黒田家には、筑前国52万3,000石余が与えられました。
ここで注意したいのが、

・「黒田官兵衛が52万石の大名になった」わけではない

という点です。
52万石余を与えられたのは、あくまで長政を当主とする黒田家です。
官兵衛は関ヶ原の頃には家督を長政へ譲っていました。

長政は福崎の地を本拠とし、福岡城を築いて城下町を整備します。
こうして、

「黒田官兵衛 → 黒田長政 → 福岡藩黒田家」

という流れが成立しました。

黒田官兵衛の子孫と黒田家のその後

では、官兵衛の子孫はその後どうなったのでしょうか。

長政の死後、福岡藩は長男の黒田忠之が継ぎました。
一方、長政の三男・黒田長興には秋月藩、四男・黒田高政には東蓮寺藩(のち直方藩)が分知され、黒田家から支藩も生まれています。

本家である福岡藩黒田家は、その後も藩主を交代しながら江戸時代を通じて存続しました。
幕末には第11代藩主**黒田長溥(ながひろ)**の時代を迎え、明治維新後は黒田家も華族制度のもとで侯爵家となりました。
つまり黒田官兵衛の家系は、

官兵衛

長政

福岡藩黒田家

明治以降の黒田侯爵家

へとつながっていったことになります。

「戦国武将・黒田官兵衛」だけを見ると、1604年に亡くなったところで物語が終わってしまいます。

しかし家系という視点から見ると、官兵衛と長政が築いた黒田家は、福岡52万石余という大藩となり、江戸時代を通して存続したことが分かります。
これは官兵衛の「その後」を考えるうえでも非常に重要な部分でしょう。

黒田官兵衛の生涯を年表で紹介

黒田官兵衛(黒田孝高)は1546年(天文15年)、播磨国姫路に生まれました。

若くして家督を継ぎ、当初は播磨の小寺氏に仕えていましたが、織田信長の勢力が西へ伸びてくると、信長に従うことを進言。その後は羽柴秀吉の中国攻めを支え、軍略や外交で才能を発揮していきます。

しかし官兵衛の人生は順風満帆だったわけではありません。
荒木村重を説得するために
「有岡城」
へ赴いて幽閉されたこともあれば、秀吉の天下統一後には豊前中津の大名となり、晩年の関ヶ原では九州で独自に軍を動かしています。

その生涯を年表で見てみましょう。

黒田官兵衛の生涯年表

年齢主な出来事
1546年1歳黒田職隆の嫡男として播磨国姫路に生まれる
1567年22歳父・職隆から家督を継ぐ
1568年23歳長男・松寿丸(のちの黒田長政)が誕生
1575年30歳織田信長に謁見。信長に従うことを進言し、その後は羽柴秀吉の中国攻めを支える
1578年33歳謀反を起こした荒木村重を説得するため有岡城へ向かうが捕らえられ、幽閉される
1579年34歳約1年間の幽閉を経て有岡城から救出される
1582年37歳備中高松城攻めに参加。本能寺の変後、秀吉の中国大返しを支える
1583年38歳キリスト教の洗礼を受け、洗礼名「シメオン」を名乗る
1586年41歳秀吉の九州平定に参加し、軍略・交渉などで活躍する
1587年42歳九州平定後、豊前国六郡を与えられ大名となる
1588年43歳中津城へ移り、城と城下町の整備を進める
1589年44歳家督を長男・黒田長政へ譲る
1590年45歳小田原征伐に参加し、北条氏との交渉でも活躍する
1591年46歳秀吉の命により肥前名護屋城の縄張りに関わる
1593年48歳剃髪して「如水」と号する
1600年55歳関ヶ原の戦いに際して九州で挙兵。石垣原の戦いで大友勢を破るなど勢力を拡大する
1600年55歳長政が関ヶ原で東軍として功績を挙げ、黒田家は筑前国52万3,000石余を与えられる
1601年56歳筑前へ移り、長政とともに福岡城築城や新たな領国づくりに関わる
1604年59歳3月20日に死去。福岡の崇福寺に葬られる

※年齢は数え年で表記しています。

1600年、徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が関ヶ原で激突します。
官兵衛の長男・長政は東軍に加わりました。
関ヶ原の戦いでは黒田家だけでなく、多くの大名の運命が大きく変わりました。
関ヶ原後に加増された大名・減封された大名はこちらでランキング形式で紹介しています。

官兵衛は1578年に荒木村重の説得に向かって捕らえられ、翌1579年に救出されています。
その後、秀吉の中国攻めや九州平定に参加し、1587年には豊前の領地を与えられ、1588年には中津城へ移りました。

官兵衛の人生最大の転機は有岡城幽閉?

この年表を眺めていると、官兵衛の人生にはいくつもの転機があります。

中でも大きかったのが、1578年の有岡城幽閉でしょう。
荒木村重を説得するために自ら有岡城へ向かったものの捕らえられ、約1年間幽閉されました。
翌年に救出された官兵衛は、その後も秀吉を支え、中国攻めから天下統一へと深く関わっていきます。

そしてもう一つ面白いのが、1600年の関ヶ原の戦いです。

関ヶ原では官兵衛自身も九州で戦っていた

関ヶ原というと、黒田家では長政の活躍が有名です。

長政は徳川家康率いる東軍に加わり、その功績によって黒田家は筑前国を与えられました。
福岡市博物館も、長政が関ヶ原の戦功によって筑前一国を与えられた経緯を紹介しています。

しかし、その頃の官兵衛も隠居して静かに暮らしていたわけではありません。
九州で兵を集め、石垣原の戦いで大友勢を破り、小倉城などへ勢力を広げています。

つまり関ヶ原では、

・息子・長政 → 本州で徳川家康とともに戦う
・父・官兵衛 → 九州で独自に軍を動かす

という、親子が別々の場所で動いていたわけです。

この1600年の動きは黒田官兵衛という人物の最後の大きな見せ場でもあります。
関ヶ原後、黒田家は筑前へ移り、長政が福岡城と城下町を築いていきます。

官兵衛も筑前へ移り
「1604年に59歳」
でその生涯を閉じました。

「黒田官兵衛の石高の推移|1万石から豊前12万石へ」

黒田官兵衛は
「豊臣秀吉の軍師」
という印象が強い人物ですが、自らも領地を持つ大名でした。

ただし、後の黒田家が筑前52万3,000石余となったため、
「官兵衛自身も52万石の大名だった」
と思われることがあります。

実際には、52万石余を与えられたのは長男の黒田長政です。

官兵衛自身の石高は、秀吉の九州平定後に与えられた
「豊前国六郡12万石余」
が最大規模となります。

福岡市博物館でも、1587年の九州平定後、官兵衛に豊前国六郡12万石余が与えられたと紹介されています。

黒田官兵衛の石高と領地の推移

時期石高領地・出来事
小寺氏家臣時代播磨国姫路を拠点に小寺氏に仕える
1583年頃約1万石秀吉のもとで活躍し、播磨国内などに所領を持つ
1587年12万石余九州平定後、豊前国六郡を与えられる
1589年12万石余家督を長男・黒田長政へ譲り、官兵衛は隠居する
1600年52万3,000石余
※黒田家
関ヶ原の戦功により長政が筑前国を与えられる。官兵衛本人への加増ではない

※初期の石高については史料や数え方によって違いがあるため、ここではおおよその数字として扱います。

官兵衛自身は豊前12万石余の大名

1587年(天正15年)、秀吉による九州平定が終わると、官兵衛はその功績によって
「豊前国六郡12万石余」
を与えられました。

そして中津を本拠として、中津城や城下町の整備を進めます。
「天下人・秀吉の軍師」
として見ると12万石は少なく感じるかもしれません。

しかし1万石が大名の一つの目安とされる江戸時代の基準で考えれば、12万石は十分に大きな領地です。
一方で、加藤清正や福島正則など後に数十万石を領した豊臣系大名と比べると、官兵衛の石高はそれほど大きくありません。

この点から、

「秀吉は官兵衛の才能を恐れて、大きな領地を与えなかった」

という逸話もよく語られます。
ただし、これは後世の逸話も含む話ですので、
「秀吉が官兵衛を恐れていたから12万石に抑えた」
と史実として断定する必要はありません。

1589年、44歳で長政へ家督を譲る

さらに興味深いのは、官兵衛が1589年(天正17年)という比較的早い時期に、長男の黒田長政へ家督を譲ったことです。
官兵衛はまだ44歳でした。

もちろん、これで完全に政治や戦から引退したわけではありません。
その後も秀吉の小田原征伐や朝鮮出兵などに関わり、1600年の関ヶ原では九州で軍事行動を起こしています。

つまり、

黒田家当主=長政

となった後も、

官兵衛=黒田家を支える大きな存在

だったわけです。

52万石は官兵衛ではなく長政が得た石高

そして最も間違えやすいのが、関ヶ原後の52万3,000石余です。

1600年の関ヶ原の戦いで長政は徳川家康率いる東軍に参加しました。
戦場での働きに加えて、小早川秀秋や吉川広家などへの働きかけにも関わり、東軍の勝利に大きく貢献したとされています。
その功績によって、長政は筑前国を与えられ、黒田家は52万3,000石余の大大名となりました。

ここで、
官兵衛:豊前12万石余
から、
長政:筑前52万3,000石余
へ。

わずか一代で黒田家の石高は4倍以上になったことになります。
では52万石という石高は、当時の大名の中でどの程度の規模だったのでしょうか。戦国時代から関ヶ原までの大名の石高と兵力はこちらで比較しています。
戦国時代の兵力ランキング|大名の石高と最大動員数を比較

官兵衛が残したものは12万石以上だった?

官兵衛本人の最大石高だけを見るなら、約12万石余です。

しかし、家督を継いだ長政が関ヶ原で活躍し、黒田家は52万石余へと大きく成長しました。
さらにその子孫は福岡藩主として江戸時代を通じて続いていきます。
そう考えると、官兵衛の本当の「石高」は、自分一代でどこまで領地を増やしたかだけでは測れないように思います。

12万石余の黒田家を長政へ引き継ぎ、それが52万石余の福岡藩黒田家へ発展した。
これも黒田官兵衛が残した大きな成果の一つでしょう。

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黒田官兵衛の家紋・死因・墓所

黒田官兵衛は1604年(慶長9年)3月20日、京都の伏見で亡くなりました。享年59(数え年)。

関ヶ原の戦いからわずか4年後のことです。
官兵衛の死因についてはさまざまな説が語られていますが、確実な死因を特定するのは難しいのが実際のところです。
また黒田家の家紋といえば「藤巴」が有名ですが、実は黒田家では藤巴だけを使っていたわけではありません。

黒田官兵衛の死因は何だった?

黒田官兵衛は1604年3月20日、京都伏見の黒田藩邸で亡くなったとされています。
官兵衛は1578年、荒木村重を説得するため有岡城へ入った際に捕らえられ、長期間にわたって幽閉されました。

救出後には足が不自由になったとも伝えられています。
しかし、
有岡城での幽閉による後遺症が直接の死因だった
とも、
・梅毒が死因だった
とも断定できません。

黒田官兵衛の死因については諸説ありますが、確実な死因は分かっていません。

59歳という年齢は現代なら早く感じますが、戦国時代を生きた武将としては決して極端に短命だったわけでもありません。
有岡城での幽閉、秀吉の中国攻め、九州平定、朝鮮出兵、そして関ヶ原――。

戦国時代の激動期を生き抜き、黒田家を長政へ引き継いだ後の死でした。

黒田官兵衛の家紋は藤巴だけではなかった

黒田家の家紋として有名なのが**「藤巴(ふじどもえ)」**です。

三つの藤の花房が渦を巻くように配置された特徴的な家紋で、現在でも黒田家を象徴する紋としてよく知られています。
ところが福岡市博物館によると、江戸時代の黒田家では、

  • ・表紋:白餅紋(しろもちもん)
    ・替紋:藤巴紋

として使われていました。つまり
「黒田家の家紋=藤巴だけ」
と考えると、少し違うわけです。

さらに藤巴紋について有名なのが、官兵衛の有岡城幽閉にまつわる逸話です。
牢から見えた藤の花に官兵衛が励まされ、生きる希望を失わなかったため、後に藤巴を家紋にした――という話です。
非常に官兵衛らしい逸話なのですが、これもそのまま史実とは言えません。

福岡市博物館では、この
「獄窓藤花」
の話について、黒田家史の研究者が根拠の薄い説と評価していたことを紹介しています。

一方、藤巴紋は官兵衛の主君だった小寺政職との関係から生まれた可能性が高いとされています。
ここは面白いですね。

黒田官兵衛は築城の名人|手掛けた城は?

福岡城の普請を指揮する官兵衛

戦だけでなく築城・城づくりの能力を見せる

黒田官兵衛というと
「天才軍師」
という印象が強いですが、城づくりにも深く関わった武将でした。

自らの本拠となった中津城を築いたほか、長男・黒田長政が築いた福岡城でも官兵衛が普請について指示した書状が残っています。
一方、大坂城や広島城、名護屋城などについても官兵衛の名前が挙げられることがありますが、すべてを
「黒田官兵衛が築城した城」
とするのは正確ではありません。

そこで、官兵衛と城との関係を分けて見てみましょう。

黒田官兵衛が築城した中津城

官兵衛の城として、まず挙げたいのが中津城です。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州平定後、官兵衛は豊前国六郡12万石余を与えられました。
翌1588年には中津川河口の地で中津城の築城に着手します。

中津市によると、中津城は官兵衛が築城を始めた城で、北を海、西を川に面し、堀には海水が入り込む構造を持っていました。
城郭が扇の形をしていたことから
「扇城」
とも呼ばれています。

現在の中津城には官兵衛時代の石垣も残り、中津市歴史博物館ではこれを九州最古の近世城郭の石垣として紹介しています。
官兵衛が単なる合戦の軍師ではなく、領国を治める大名として城と城下町をつくっていたことが分かります。

福岡城は長政と官兵衛が築いた城

関ヶ原の戦い後、黒田家は豊前12万石余から
「筑前52万3,000石余」
へ大幅に加増されます。

筑前へ入った長政は、当初は名島城を居城としました。
しかし名島は城下町を発展させるには土地が狭かったため、新たな城を築くことになります。

これが「福岡城」です。

福岡城は1601年(慶長6年)から約7年をかけて築かれました。
一般には初代福岡藩主・黒田長政が築いた城とされています。
では、すでに隠居していた官兵衛は関係なかったのでしょうか。

実はそうではありません。

福岡市博物館には、築城時に官兵衛(如水)や長政が家臣へ石垣普請について指示した書状が残っています。
福岡市の資料でも、福岡城は長政と父・官兵衛によって築城されたと紹介されています。

したがって福岡城については、
築城主は黒田長政。
ただし父・官兵衛も築城に深く関与した

と解釈できると思います。
官兵衛は自分が築いた中津城だけでなく、黒田家がその後270年近く本拠とする福岡城の建設にも関わったわけです。

名島城は官兵衛が築いた城ではない

黒田家が筑前へ入った直後に居城とした名島城は、官兵衛や長政が築いた城ではありません。

名島城はそれ以前から存在し、小早川隆景・秀秋の時代にも改修されています。
関ヶ原後に長政が一時居城としましたが、城下町を広げるには不便だったため、福岡城を新たに築いて移りました。
名島城の石垣や門などの一部は、福岡城築城時に再利用されたとされています。

つまり、

・名島城 → 黒田家が一時的に使用
・福岡城 → 長政・官兵衛が新たな本拠として築城

という違いがあります。

名護屋城・広島城・大坂城にも関わった?

官兵衛の築城歴を紹介する記事では、ほかにも、

  • ・大坂城
    ・広島城
    ・名護屋城

などが挙げられることがあります。

しかし、ここは慎重に扱った方がいいです。
官兵衛が豊臣秀吉の側近として各地の城郭普請に関係した可能性と、官兵衛自身が縄張りを行った、あるいは築城したと確認できることは別問題だからです。
したがってこれらの城も、官兵衛が築城や縄張りに関与したと紹介されることもありますが、その関与の程度については慎重に見る必要があると思います。

官兵衛の築城術は「戦うため」だけではなかった

中津城と福岡城を見ていると、官兵衛の城づくりには共通するものがあります。

城そのものを強固にするだけではなく、城下町や交通、水運まで考えた拠点づくりです。
中津城は河口という水運に適した場所に築かれ、福岡城では城だけでなく、その周囲に新しい城下町が形成されていきました。
軍師というと、

「どうすれば合戦に勝てるか」

を考える人物という印象があります。
しかし官兵衛の場合は、戦が終わった後に、

「どうすればこの土地を治め、発展させられるか」

まで考える能力を持った武将だったのでしょう。
黒田官兵衛を
「秀吉の軍師」
という一面だけで見ると、この築城・領国経営の能力を見落としてしまいます。

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黒田官兵衛の愛刀「へし切長谷部」と黒田家の名刀

名刀を手にする官兵衛

官兵衛の人物像や逸話に視覚的な変化をつける

黒田官兵衛ゆかりの刀として最も有名なのが、国宝の
**「へし切長谷部(へしきりはせべ)」**
です。

現在は福岡市博物館が所蔵する黒田家伝来の名刀ですが、もともとは織田信長が所有していた刀でした。
なぜ信長の刀が官兵衛の手に渡ったのでしょうか。

そこには、官兵衛が歴史の表舞台へ出ていく重要な出来事が関係しています。

へし切長谷部は織田信長から官兵衛へ

1575年(天正3年)、当時小寺政職に仕えていた官兵衛は、勢力を西へ拡大していた織田信長に味方するよう主君へ進言します。

そして自ら使者となって岐阜城へ赴き、信長と対面しました。
官兵衛は中国地方への進出について信長に協力する意思を伝えます。
そのとき信長から褒美として与えられたのが、
名物

・「へし切長谷部」

でした。

*官兵衛がその才能を認められるきっかけとなった織田信長の正室側室や子孫についてはこちらで紹介しています。

福岡市博物館も、官兵衛が1575年に岐阜城の信長を訪れた際、信長からこの刀を与えられたと紹介しています。
つまり、へし切長谷部は単なる官兵衛の愛刀ではありません。
官兵衛が織田信長と結びつき、その後に羽柴秀吉の中国攻めを支えていく
「出発点を象徴する刀」
ともいえるでしょう。

「へし切」という名前の由来がすごい

「長谷部」
は刀工・長谷部国重に由来します。

では、なぜ
「へし切」
という少し変わった名前が付いたのでしょうか。

「黒田家に伝わる由来では」(黒田家に伝わるお話)
このようです。

ある日のこと・・信長の怒りを買った茶坊主が膳棚の下へ逃げ込みました。
刀を振り下ろすことができなかったため、信長が刀を押し当てるようにして
**圧し切った(へし切った)**
ことから、
「へし切長谷部」
と呼ばれるようになったと伝わっています。

いかにも信長らしい逸話だと感じます。

「へし切長谷部」
は南北朝時代の刀で、現在の刃長は64.8cm。福岡市博物館が所蔵し、国宝に指定されています。

黒田家には「日光一文字」も伝わる

そして、へし切長谷部と並ぶ黒田家の名刀が、
国宝「日光一文字」
です。

こちらは鎌倉時代の一文字派による太刀で、へし切長谷部とともに黒田家に伝来しました。
現在はいずれも福岡市博物館の所蔵です。

黒田家には名刀が数多く残された

実は黒田家には、この二振り以外にも数々の名刀・武具が伝わっています。

福岡市博物館の黒田資料には、

  • ・へし切長谷部(国宝)
    ・日光一文字(国宝)
    ・安宅切(重要文化財)
    ・日本号

など、戦国好きなら一度は聞いたことのある名品が含まれています。

特に
「日本号」
は「酒は呑め呑め」で知られる黒田節にもつながりますから、黒田家の武具だけでも一つの記事が作れそうなくらいです。

へし切長谷部は官兵衛の転機を象徴する刀

官兵衛が
「へし切長谷部」
を与えられた1575年は、まだ豊前12万石の大名になるはるか前です。

この時点では播磨の小寺氏に仕える武将でした。
そこから信長と接触し、羽柴秀吉の中国攻めを支え、やがて秀吉の天下統一に欠かせない存在となっていきます。
そう考えると、へし切長谷部は単に
「官兵衛が持っていた名刀」
というだけではありません。

地方の一武将だった黒田官兵衛が、天下人たちと関わる
「歴史の表舞台」
へ出ていく、その始まりを象徴する一振りだったようにも感じます。

黒田官兵衛の名言・逸話と人物像

黒田官兵衛には、天才軍師らしい名言や逸話が数多く伝わっています。

しかし、官兵衛本人が実際に残した言葉もあれば、後世の軍記物や黒田家の伝承などによって広まった話もあります。
それらをすべて史実として扱うのではなく、確認できる官兵衛の言葉と、有名な逸話を分けて見ると、人物像がより分かりやすくなります。

黒田官兵衛は秀吉から恐れられていた?

官兵衛について有名なのが、

「官兵衛に大きな領地を与えれば天下を取ってしまう」

と豊臣秀吉が警戒していたという話です。
官兵衛が12万石余にとどまったことと結びつけて語られることもあります。

確かに官兵衛は、中国攻めや九州平定などで秀吉を支えた重要人物でした。
福岡市博物館には、秀吉が官兵衛に対して、弟の秀長と同じように親しく思っているという趣旨を記した書状も残されています。

一方で、後年には秀吉との関係が悪化する時期もありました。
朝鮮出兵では秀吉の怒りを買い、官兵衛は死まで覚悟して遺言状を書いています。
実際にこのときの官兵衛直筆の覚書が残されています。

つまり、

「秀吉が官兵衛の才能を恐れていた」

という話そのものを史実として断定するより、
秀吉から高く評価される一方、その才能や行動ゆえに緊張関係が生じることもあった・・
と考える方がよさそうです。

関ヶ原が長引けば官兵衛は天下を狙った?

もう一つ有名なのが、1600年の関ヶ原の戦いです。

官兵衛は九州に残り、兵を集めて大友義統の軍を石垣原の戦いで破るなど、急速に勢力を広げました。
ここから、

・「関ヶ原が長期戦になれば九州を制圧し、官兵衛自身が天下を狙っていた」

という説が生まれています。
官兵衛らしい壮大な話です。
ただし、これも官兵衛本人が
「天下を取る」
と明言した史料があるわけではありません。

福岡市博物館も、関ヶ原の際の官兵衛について、九州で戦乱を鎮めた人物として紹介しています。
したがって、

「官兵衛は関ヶ原で天下を狙った」

と断定するより、

「官兵衛は天下を狙っていたのではないか、という説が後世に生まれるほど大胆に九州で軍を動かした」

と理解するのが正解のような気がします。

「その左手は何をしていた?」は本当に官兵衛の言葉?

関ヶ原にまつわる官兵衛の逸話として、特に有名なのが長政との会話です。
戦いが終わった後、長政は父・官兵衛に、徳川家康から右手を取って感謝されたと自慢したといいます。
すると官兵衛が、

「そのとき左手は何をしていた?」

と答えた――。
つまり、
「左手で家康を討てば、お前が天下を取れたではないか」
という意味だったとされます。

いかにも天下を狙う官兵衛らしい話ですが、これも有名な逸話として語られています。
官兵衛の天下取り説と組み合わされ、後世に広く知られるようになったお話だと理解します。

ただ、史実かどうかとは別に、この逸話が長く語り継がれたこと自体が、
「黒田官兵衛なら、それくらい考えていたかもしれない」
と思わせる人物だったことを表しているように感じます。

官兵衛は家臣を大切にした武将だった?

官兵衛の人物像を見るうえで、もう一つ重要なのが家臣との関係です。

1578年、官兵衛が荒木村重によって有岡城へ幽閉された際、黒田家臣団は官兵衛を見捨てませんでした。
官兵衛不在の黒田家を守るため、家臣たちは起請文を書いて結束しています。

福岡市博物館にはこの起請文が残っており、官兵衛救出後も家臣団が黒田家を支え続けたことが紹介されています。
後に
「黒田二十四騎」
と呼ばれる家臣たちも有名ですが、実は官兵衛の時代から「黒田二十四騎」という名称があったわけではありません。

福岡市博物館によれば、24人をまとめて
「黒田二十四騎」
と呼ぶようになったのは江戸時代中期以降です。
それでも、黒田家に優秀な家臣団が形成されていたことは確かでしょう。

軍師・官兵衛というと本人の頭脳ばかり注目されますが、自分一人ではなく家臣を使って組織として動く能力も優れていたのだと思います。

軍師だけではなく文化人でもあった

黒田官兵衛は戦や謀略ばかり考えていた人物ではありません。
・茶の湯
・和歌
・連歌
にも造詣が深い文化人でした。

またキリスト教の洗礼を受けたキリシタン大名でもあり、洗礼名は
・**「シメオン」**
です。

福岡市博物館にも官兵衛の連歌やローマ字印を押した書状などが残されており、武将とは違う一面を知ることができます。

「天才軍師」
という言葉だけでは、官兵衛という人物を少し単純化しすぎているのかもしれません。

黒田官兵衛が最後に残した言葉

そして官兵衛が1604年に亡くなる際に残した辞世の歌があります。
福岡市博物館には官兵衛自筆の辞世和歌短冊が残っています。

そこから読み取れるのは
「天下を狙う野心家というより、人生の最後には自分の運命を受け入れた」
ような官兵衛の姿です。
福岡市博物館も、この辞世から59年間の人生を生き抜いた達観した心境を読み取っています。

若い頃には信長に自ら会いに行き、秀吉の天下取りを支え、有岡城では死の危険を経験し、最後には家康の時代まで見届けました。
そして黒田家は息子・長政によって52万石余の大藩となります。

官兵衛自身が天下人になったわけではありません。
しかし、
信長を見抜き、秀吉を支え、家康の時代を読み、息子には52万石余の黒田家を残した。

そこに黒田官兵衛の本当の「軍師」としての凄さがあったように思います。

*秀吉を支えた人物では、弟の豊臣秀長も政権を支えた名補佐役として知られています。官兵衛とは立場が違いますが、秀吉の天下統一を支えた二人を比べてみるのも興味深いところです。

黒田官兵衛の生涯と黒田家のその後|感想とまとめ

黒田官兵衛の生涯を振り返ると、「豊臣秀吉の天才軍師」という言葉だけでは語り切れない人物だったように思います。

播磨の一武将から始まり、織田信長と接触し、羽柴秀吉の中国攻めを支え、有岡城では約1年間も幽閉されました。
普通なら、ここで人生が終わっていても不思議ではありません。
しかし官兵衛は生還し、その後も九州平定や小田原征伐などで活躍。豊前国六郡12万石余を領する大名となりました。

そして私が官兵衛の人生で特に興味深いと思うのは、自分自身がどこまで出世したかだけでは黒田官兵衛を評価できないことです。
官兵衛自身の石高は豊前12万石余でした。

ところが長男の黒田長政は関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍に加わり、その功績によって筑前52万3,000石余を与えられます。
官兵衛から長政へ。
12万石余だった黒田家が、一代後には52万石余の大大名になったわけです。

そして長政の子孫は福岡藩黒田家として続き、江戸時代を通じて福岡藩を治めました。
今回、官兵衛の家系図や子孫を追ってみると、ここが非常に面白く感じます。
戦国武将の評価というと、

  • ・「何万石まで出世したのか」
    ・「どの合戦で勝ったのか」
    ・「天下を取ったのか」

という本人の実績に目が向きがちです。
しかし官兵衛の場合は、自分の次の世代まで含めて黒田家の基礎を作ったことも、大きな功績だったのではないでしょうか。
一方で、
・「秀吉から恐れられた軍師」
・「関ヶ原が長引けば天下を狙った」
・「長政に『左手は何をしていた』と言った」
など、官兵衛には数多くの逸話があります。

どこまでが史実なのか慎重に見なければなりませんが、それだけ多くの逸話が生まれたこと自体、官兵衛が後世の人々にとって
**「何を考えているのか分からないほど頭の切れる武将」**
という存在だったのでしょう。

その一方で、茶の湯や和歌を好み、家臣との結びつきも強かった人物でもありました。
さらに城づくりや領国経営にも能力を発揮しています。

そう考えると黒田官兵衛は、

「戦に勝つための軍師」ではなく、外交・交渉・築城・領国経営、そして
「次の世代まで見据えることのできた武将」
だったように感じます。

1604年、官兵衛は59歳で亡くなりました。

天下人にはなりませんでした。
しかしその後も黒田家は続き、長政が築いた福岡藩は明治維新まで存続します。
官兵衛本人の人生だけでなく、その子供や子孫、黒田家のその後まで見て初めて、黒田官兵衛という人物の大きさが分かるような気がします。

秀吉の「軍師」という脇役のような呼ばれ方をすることもありますが、その生涯を追ってみると、やはり戦国時代を代表する武将の一人だったと思います。

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