武田信玄の領地はどこまで?最大版図と石高・領土の推移

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武田信玄の領地は、最盛期にはどこまで広がっていたのでしょうか。
甲斐国(現在の山梨県)を本拠地とした信玄は、信濃国への進出を進め、やがて駿河国や遠江国、三河国方面にも勢力を広げていきました。

では、武田信玄が支配した領地は現在の何県にあたり、最大版図はどのくらいの広さだったのでしょうか。
また、その石高は何万石ほどだったのかも気になるところです。

この記事では、武田信玄の領地が広がった過程を年表でたどりながら、最大版図と推定石高、信玄の死後の領国の変化まで見ていきます。

武田信玄の領地はどこまで?最大版図を確認

武田信玄の領地は、最盛期には甲斐国(現在の山梨県)を中心に、信濃国(長野県)、駿河国(静岡県中部)、西上野(群馬県西部)などへ広がりました。

さらに、遠江国(静岡県西部)や三河国(愛知県東部)、美濃国・飛騨国(現在の岐阜県)の一部にも勢力を伸ばしています。

信玄が晩年に築いた勢力圏は、現在の山梨・長野・静岡・群馬・愛知・岐阜の6県にまたがる地域に及んでいました。

ただし、信濃国の北部などには武田氏以外の勢力も残っており、これらの地域すべてを同じ程度に支配していたわけではありません。

武田信玄の最大版図を示す地図で甲斐・信濃・駿河・西上野と遠江・三河方面への進出を表示

武田信玄晩年の勢力範囲を示す概念図。継続的な支配地域と軍事進出地域を区別している。

武田信玄の最大版図に含まれる主な国々

信玄の領国と勢力範囲を、現在の都県と照らし合わせて見てみましょう。

戦国時代の国名現在の地域武田氏との関係
甲斐国山梨県武田氏の本拠地
信濃国長野県各地を攻略し、領国の中心となった地域
駿河国静岡県中部今川氏から奪い、領国に組み込んだ地域
西上野群馬県西部箕輪城などを攻略して支配を広げた地域
遠江国静岡県西部北部などに勢力を広げ、晩年には大規模な軍事侵攻を行った地域
三河国愛知県東部一部地域へ勢力を広げた地域
美濃国・飛騨国岐阜県一部地域に勢力が及んだ地域

こうして見ると、甲斐一国から始まった武田氏の勢力が、信玄の時代に大きく広がったことがわかります。

ただし、領地として継続的に支配した地域と、軍勢が進出した地域は同じではありません。

最大版図を地図で見る場合も、その違いに注意したいところです。

最大版図は信玄晩年の1572~1573年頃

武田信玄の勢力が最も広がった時期として注目されるのが、元亀3年(1572年)から元亀4年(1573年)にかけての晩年です。

すでに甲斐・信濃・駿河などを領国としていた信玄は、徳川家康の勢力下にあった遠江・三河方面へ大軍を進めました。

1572年には遠江の二俣城を攻略し、三方ヶ原の戦いで徳川家康らの軍勢を破っています。

翌1573年には三河の野田城も攻略しましたが、その後、信玄は病により亡くなりました。

信玄晩年の最大版図は、甲斐・信濃・駿河などの領国を土台に、周辺地域へ広がった勢力範囲として捉えるとわかりやすいでしょう。

では、これほど広い領地を持った武田信玄の石高は、最大で何万石ほどだったのでしょうか。

次の章では、武田氏の領国を石高という数字から見ていきます。

武田氏の本拠地については、武田信玄の城と躑躅ヶ崎館で紹介しています。

武田信玄の最大石高は何万石だった?

武田信玄の最大石高については、約120万石という数字が紹介されることがあります。

しかし、信玄の領国全体を120万石と確定できる同時代の記録は確認できません。

戦国時代の武田氏は、甲斐・信濃・駿河を中心に、西上野や遠江・三河などの一部へ勢力を広げました。

ただし、それぞれの地域を支配した時期や範囲は異なり、領国全体の石高を一つの数字にまとめることは容易ではありません。

そのため、約120万石という数字は確定値ではなく、後世の石高などを参考にした概算として慎重に扱う必要があります。

武田信玄の石高を正確に求めるのが難しい理由

信玄の時代には、土地の生産力や年貢を把握する方法が地域によって異なっていました。

また、甲斐・信濃・駿河などの国ごとに、武田氏が実際に支配していた範囲にも違いがあります。

後世の石高を単純に合計すると、信玄が支配していなかった土地まで含めてしまう可能性があります。

武田信玄の最大石高は、現時点では確かな数字として断定せず、領国の広さを考える参考情報として紹介するのが適切でしょう。

戦国時代の石高と江戸時代の石高は同じではない

そもそも石高とは、土地の米の生産力を基準に表した数字です。

江戸時代の大名については「何万石」という表現がよく使われますが、信玄が生きた戦国時代には、地域によって土地や年貢を把握する方法が異なっていました。

全国的に石高を用いた土地の把握が進んだのは、豊臣秀吉による太閤検地以降のことです。

そのため、武田信玄の領地を石高で表す場合には、後の時代の数字を利用することになります。

約120万石は、信玄が実際に徴収した年貢の量でも、当時確定していた領国の石高でもありません。

武田氏の勢力がどれほど大きかったのかを知るための、一つの参考値として考えるのがよさそうです。

では、これほどの勢力を築いた武田信玄の領地は、現在の何県にあたるのでしょうか。

次の章では、戦国時代の国名と現在の都県を照らし合わせて見ていきます。

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武田信玄の領地は現在の何県にあたる?

武田信玄が最盛期に勢力を広げた地域を現在の都県に置き換えると、山梨県・長野県・静岡県・群馬県・愛知県・岐阜県の6県にまたがります。

ただし、6県すべてを領有していたという意味ではありません。

甲斐国を本拠地に、信濃国や駿河国などへ領地を広げ、周辺地域にも勢力を及ぼしたというのが実際の姿です。

現在の地図で考えると、山梨県から長野県、静岡県へと広がり、さらに群馬県西部や愛知県東部、岐阜県の一部にも及んでいたことになります。

現在の山梨・長野・静岡が武田領国の中心だった

武田信玄の領地を現在の地図で見る場合、まず注目したいのが山梨県・長野県・静岡県の3県です。

山梨県にあたる甲斐国は、武田氏が代々本拠地としてきた土地でした。

現在の甲府市にあった躑躅ヶ崎館を政治の中心とし、信玄はここから領国を治めています。

長野県にあたる信濃国は、信玄が長い年月をかけて勢力を広げた地域です。

諏訪地方や佐久地方、松本平などを支配下に収め、北信濃では上杉謙信との争いが続きました。

また、静岡県中部にあたる駿河国には、永禄11年(1568年)から侵攻を始め、今川氏の領国を武田氏の支配下に組み込んでいきました。

甲斐・信濃・駿河は、信玄の領国を考えるうえで中心となる3か国です。

群馬・愛知・岐阜にも武田氏の勢力が及んだ

武田信玄の勢力は、甲斐・信濃・駿河の周辺にも広がっていました。

群馬県西部にあたる西上野では、箕輪城などを攻略し、武田氏の支配を進めています。

愛知県東部にあたる三河国では、徳川家康の勢力と対立しながら、一部地域へ進出しました。

また、岐阜県にあたる美濃国や飛騨国の一部にも、武田氏の勢力が及んでいました。

ただし、これらの地域は甲斐国のように一国全体を支配していたわけではありません。

特に遠江・三河方面では、武田氏と徳川氏の勢力が接する地域で争いが続いていました。

そのため、現在の県境をそのまま武田氏の領地として塗り分けると、実際より広く見えてしまうことがあります。

最大版図の地図を見るときは国境と支配範囲に注意

武田信玄の最大版図を地図で確認する際には、戦国時代の国境と、実際に武田氏が支配した範囲を区別する必要があります。

例えば、信濃国は現在の長野県におおむね相当しますが、信玄の時代にすべての地域が同じように武田氏の支配下にあったわけではありません。

また、遠江国や三河国では、軍勢が進出した場所と継続的に支配した場所に違いがありました。

さらに、戦国大名の領国には、家臣や地域の有力者を通じて治めていた土地もあります。

武田信玄の領地は「現在の6県にまたがる勢力圏」と考え、その中に支配の程度が異なる地域があったことを押さえておきたいところです。

では、武田信玄は甲斐国からどのように領地を広げていったのでしょうか。

次の章では、信濃国への進出と領地拡大の始まりをたどってみます。

武田信玄は甲斐国から信濃国へ領地を広げた

武田信玄が領地を大きく広げるきっかけとなったのが、甲斐国の北西に位置する信濃国への進出でした。

天文10年(1541年)、信玄は父・武田信虎を駿河国へ追放し、武田家の家督を継ぎました。

信濃国への進出は父・信虎の時代から始まっていましたが、信玄は諏訪・佐久・伊那などへ支配を広げ、本格的な領国拡大を進めていきます。

1542年の諏訪攻略が領地拡大の重要な一歩となった

天文11年(1542年)、信玄は信濃国の諏訪地方へ軍勢を進めました。

この地域を治めていた諏訪頼重は、信玄の妹・禰々を妻としており、武田家とは婚姻関係にありました。

しかし、信玄は諏訪氏の一族である諏訪頼継らと協力して頼重を攻め、諏訪氏の領地へ進出します。

頼重は武田方に捕らえられて甲府へ送られ、東光寺で自害しました。

その後、信玄は諏訪頼継とも対立し、諏訪地方での支配を広げていきました。

諏訪は甲斐国から信濃国へ向かう交通上の重要な地域です。

ここを押さえたことで、武田氏は信濃の各地へ進出するための足場を築くことになりました。

佐久・松本平へ進出するも村上義清には苦戦した

諏訪地方への進出に続き、信玄は佐久地方や伊那地方、松本平などへ勢力を広げていきます。

しかし、信濃国には村上義清や小笠原長時といった有力な武将がいました。

天文17年(1548年)、信玄は上田原の戦いで村上義清に敗れています。

この戦いでは、板垣信方や甘利虎泰など、武田家を支えた重臣も命を落としました。

さらに天文19年(1550年)には、村上氏の砥石城を攻めましたが、攻略に失敗しました。

一方、同じ1550年には小笠原長時の勢力を退け、深志城を押さえて松本平での支配を進めています。

信玄の領地拡大は、戦いに勝ち続けて順調に進んだわけではありません。

敗戦を経験しながらも周辺の城や地域を押さえ、少しずつ支配を広げていったのです。

北信濃への進出が上杉謙信との川中島の戦いにつながった

天文22年(1553年)、村上義清の本拠地だった葛尾城が落城し、村上氏は信濃での勢力を大きく失いました。

村上義清らは越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ります。

これにより、信濃国を北へ進む武田信玄と、越後から信濃へ進出する上杉謙信が対立することになりました。

両者は1553年から1564年にかけて、川中島周辺でたびたび軍勢を対峙させています。

特に永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは、激しい戦闘が行われたことで知られています。

ただし、川中島の戦いで信玄が信濃国のすべてを支配したわけではありません。

北信濃では上杉方の勢力も残り、武田氏と上杉氏の争いが続きました。

*信濃国をめぐる争いについては、武田信玄と上杉謙信の関係・川中島の戦いも参考になります。

こうして信玄は、甲斐国を本拠地としながら信濃国の広い地域を領国に組み込み、戦国大名としての勢力を大きくしていきました。

次の章では、信濃国の外へ目を向け、駿河国や西上野へ広がった武田氏の領地を見ていきます。

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武田信玄の領土は駿河・西上野へも拡大した

信濃国で勢力を広げた武田信玄は、さらに周辺地域へ進出していきました。

その中でも重要なのが、現在の群馬県西部にあたる西上野と、静岡県中部にあたる駿河国です。

西上野では上杉氏や地域の有力武将と争い、駿河国では長年同盟を結んでいた今川氏との関係を断って領地を広げました。

この二つの地域への進出によって、武田氏の勢力は甲斐・信濃を中心とした内陸部から、関東方面と太平洋沿岸へ広がっていきます。

西上野では箕輪城を攻略して支配を広げた

武田信玄が西上野へ本格的に進出したのは、永禄年間のことでした。

上野国では関東管領・上杉憲政の勢力が衰え、地域の有力武将たちがそれぞれの立場で争っていました。

信玄は信濃国から上野国へ軍勢を進め、西上野の城や地域の武将を次第に支配下へ組み込んでいきます。

その重要な拠点となったのが、現在の群馬県高崎市にある箕輪城です。

箕輪城は長野氏の拠点として知られ、長野業政やその子・業盛らが武田氏に抵抗しました。

永禄9年(1566年)、武田軍は箕輪城を攻略し、西上野での支配を大きく前進させます。

その後、武田氏は箕輪城を上野方面の重要な拠点として利用しました。

ただし、信玄が上野国全体を支配したわけではなく、領国に組み込んだのは主に西部の地域でした。

1568年の駿河侵攻で今川氏の領国へ進出した

1568年の駿河侵攻をイメージした山間の街道を進む武田軍の歴史イラスト

1568年、武田信玄は今川氏との同盟を破り、駿河国へ軍勢を進めた。

武田信玄の領地拡大で、もう一つ大きな転機となったのが駿河国への侵攻です。

武田氏は、それまで今川氏や北条氏と同盟関係を結んでいました。

しかし、永禄11年(1568年)、信玄は今川氏との同盟を破り、駿河国へ軍勢を進めます。

今川義元の死後、今川家を継いでいた今川氏真は、武田軍の侵攻によって本拠地の駿府を離れることになりました。

ただし、駿河国の支配が一度の侵攻で完成したわけではありません。

武田氏は北条氏とも対立し、駿河国内で戦いを続けながら支配を固めていきました。

武田氏は駿河国内で北条氏との戦いを続けながら、城や拠点を押さえて支配を固めていきました。

元亀2年(1571年)には北条氏との同盟が回復し、駿河国をめぐる情勢も変化していきます。

駿河国を領国に加えたことは、内陸の甲斐・信濃を本拠地としてきた武田氏にとって、大きな意味を持つ出来事でした。

駿河湾に面する地域へ進出したことで、武田氏の領国は海沿いにも広がることになったのです。

遠江・三河への進出は徳川家康との対立につながった

駿河国を押さえた武田信玄は、さらに西へと勢力を広げていきました。

その先にあったのが、徳川家康の勢力下にある遠江国と三河国です。

元亀3年(1572年)、信玄は大軍を率いて遠江・三河方面へ進出しました。

遠江国では二俣城を攻略し、同年12月には三方ヶ原の戦いで徳川家康らの軍勢を破っています。

翌元亀4年(1573年)には三河国の野田城も攻略しました。

しかし、信玄はその後に病状が悪化し、同年4月に亡くなりました。

そのため、遠江・三河方面への進出は、武田氏による安定した領国支配が完成する前に終わることになります。

こうして見ると、武田信玄の領地拡大は、甲斐から信濃、西上野、駿河へと進み、晩年には遠江・三河方面へ及んだことがわかります。

次の章では、この領地拡大の流れを年表にまとめ、武田氏の勢力がどのように変化したのかを確認してみましょう。

武田信玄の領地と石高の推移を年表で紹介

武田信玄の領地は、甲斐国を出発点として、約30年をかけて周辺の国々へ広がっていきました。

その過程を振り返ると、信濃国への進出、西上野の攻略、駿河国の獲得、そして遠江・三河方面への侵攻という大きな流れが見えてきます。

まずは、武田信玄の領地拡大を主な出来事とともに年表で確認してみましょう。

武田信玄の領地拡大の推移を示す地図で甲斐から信濃・西上野・駿河・遠江方面への進出を表示

1541年から1573年にかけての武田信玄の領地拡大を示す概念図。勢力拡大の主な方向と時期を整理したもの。

武田信玄の領地拡大を年代順に見る

年代主な出来事領地・勢力の変化
1541年武田信玄が家督を継ぐ甲斐国を本拠地として領国経営を始める
1542年諏訪頼重を攻める信濃国の諏訪地方へ勢力を広げる
1547年志賀城を攻略佐久地方で支配を拡大する
1548年上田原の戦いで村上義清に敗れる北信濃方面への進出が一時停滞する
1550年小笠原長時を退け、深志城を押さえる松本平での支配を広げる
1553年葛尾城が落城し、村上義清が越後へ逃れる北信濃への進出が進み、上杉謙信との対立が本格化する
1561年第四次川中島の戦い北信濃をめぐる上杉氏との争いが続く
1566年箕輪城を攻略西上野での支配を大きく広げる
1568年駿河国への侵攻を開始今川氏の領国へ進出する
1570~1571年頃駿河での支配を進め、北条氏との同盟を回復駿河国の支配基盤を固める
1572年遠江・三河方面へ出兵し、三方ヶ原の戦いで勝利徳川氏の勢力圏へ大きく進出する
1573年野田城を攻略した後、信玄が死去晩年の勢力拡大が終わり、武田勝頼が家督を継ぐ

年表を見ると、信玄が家督を継いでから信濃国の各地へ勢力を広げるまでに、長い年月を費やしていたことがわかります。

特に信濃国では、村上義清や上杉謙信との戦いが続き、簡単に領地を拡大できたわけではありませんでした。

一方、1560年代後半になると、西上野や駿河国へも勢力を伸ばし、武田氏の領国はさらに広がっていきます。

領国拡大に関わる合戦については、武田信玄の戦い一覧と勝敗でたどっています。

領地の拡大とともに石高も増えていった

領地が広がれば、そこから得られる年貢や人員、物資なども増えていきます。

武田信玄の場合も、甲斐国だけを本拠地としていた時代と、信濃・駿河などを領国に組み込んだ晩年とでは、動員できる経済的な力に大きな違いがあったと考えられます。

ただし、戦国時代の武田氏について、1541年は何万石、1550年は何万石というように、各年の石高を正確に示せるわけではありません。

領地の支配範囲が変化しただけでなく、土地の生産力を把握する方法も、後世の石高制とは異なっていたためです。

そのため、石高の推移については、具体的な数字を並べるよりも、領国の拡大とともに経済基盤が強まっていった流れを押さえるのがよさそうです。

領地拡大の転機は信濃・西上野・駿河の攻略だった

武田信玄の領地拡大を大きく分けると、三つの段階が見えてきます。

最初は1540年代から1550年代にかけての信濃国への進出です。

次に、1560年代の西上野への勢力拡大と、駿河国への侵攻が続きました。

そして最後が、1572年から1573年にかけての遠江・三河方面への軍事行動です。

信玄の領地は一度に広がったのではなく、戦いと領国経営を重ねながら段階的に拡大していきました。

この流れを地図でたどると、甲斐国から信濃国へ、さらに東西へと勢力が広がっていった様子が見えてきます。

では、武田信玄の最大版図は、具体的にいつ頃だったのでしょうか。

次の章では、信玄の晩年に注目し、最盛期の領国を考えてみます。

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武田信玄の最大版図はいつ?最盛期の領国を考える

武田信玄の最大版図を考えるとき、注目したいのは元亀3年(1572年)から元亀4年(1573年)にかけての晩年です。

この頃の武田氏は、甲斐・信濃・駿河を中心とする広い領国を持ち、西上野などにも支配を広げていました。

さらに信玄は遠江・三河方面へ軍勢を進め、徳川家康の勢力と激しく争っています。

武田信玄の勢力が最も広がった時期は、1572年から1573年頃と考えることができます。

ただし、最大版図をどこまで含めるかによって、その範囲には違いが生じます。

1572年の西上作戦で武田氏の勢力はさらに拡大した

元亀3年(1572年)、武田信玄は遠江・三河方面への大規模な軍事行動を開始しました。

この軍事行動は、一般に西上作戦と呼ばれています。

信玄はすでに駿河国での支配を進めており、そこから徳川氏の勢力圏へ進出していきました。

同年12月には遠江国の二俣城を攻略し、続く三方ヶ原の戦いで徳川家康と織田方の援軍を破っています。

この勝利によって、武田軍は遠江方面で大きな軍事的優位を得ました。

翌1573年には三河国の野田城も攻略しています。

こうした戦いを見ると、信玄の晩年には、武田氏の勢力がそれまで以上に西へ伸びていたことがわかります。

しかし、軍勢が進出して城を攻略したことと、その地域全体を領国として支配したことは同じではありません。

遠江・三河の広い範囲には、引き続き徳川氏の支配が及んでいました。

最大版図には安定した領国と軍事的な進出地域があった

武田信玄の最大版図を考える場合、領地を大きく二つに分けるとわかりやすくなります。

一つは、甲斐・信濃・駿河や西上野など、武田氏が城や家臣を通じて継続的に支配していた地域です。

もう一つは、遠江・三河方面のように、武田軍が進出して城を攻略したものの、支配範囲が変動していた地域です。

例えば、三方ヶ原の戦いで徳川家康に勝利したからといって、遠江国全体が武田領になったわけではありません。

また、信濃国でも北部には上杉氏の勢力が残っていました。

そのため、戦国時代の地図では、国境の線だけでなく、どの地域を実際に支配していたのかを見る必要があります。

武田氏の最大版図は、領国として確保した範囲と、軍事的な勢力が及んだ範囲を区別して捉えることが大切です。

信玄の死によって領地拡大は大きな転機を迎えた

元亀4年(1573年)、野田城を攻略した武田信玄は、その後に病状が悪化しました。

武田軍は遠江・三河方面から引き返し、信玄は甲斐国へ戻る途中の同年4月に亡くなっています。

享年53歳でした。

信玄の死によって、武田氏の西方への大規模な軍事行動は中断されました。

しかし、それまでに築いた甲斐・信濃・駿河などの領国が、すぐに失われたわけではありません。

武田家の家督を継いだ勝頼は、信玄が残した領国を引き継ぎ、さらに勢力を広げようとします。

つまり、1573年は信玄自身の領地拡大が終わった年であると同時に、武田氏の領国が次の時代へ受け継がれた年でもありました。

では、信玄の死後、武田氏の領地はどのように変わっていったのでしょうか。

最後の章では、武田勝頼の時代から武田氏滅亡までの流れをたどってみます。

武田信玄の死後、領地はどうなった?

元亀4年(1573年)4月、武田信玄が亡くなると、武田家の家督は四男の武田勝頼が継ぎました。

勝頼は、信玄が築いた甲斐・信濃・駿河を中心とする広い領国と、西上野などの支配地域を引き継ぎます。

信玄の死によって遠江・三河方面への大規模な軍事行動は中断されましたが、武田氏の領地が直ちに失われたわけではありません。

むしろ勝頼は、父から受け継いだ領国を基盤として、さらに勢力を広げようとしました。

武田勝頼は信玄の領国を引き継ぎ、さらに拡大を目指した

武田勝頼は家督を継いだ後も、徳川家康や織田信長との対立を続けました。

天正2年(1574年)には、遠江国の高天神城を攻略しています。

高天神城は、徳川氏が支配する遠江国の重要な城でした。

信玄の時代には攻略できなかった城を勝頼が落としたことは、武田氏の勢力が信玄の死後も強さを保っていたことを示す出来事です。

そのため、武田氏全体の領土が最も広がった時期と、信玄自身の最大版図の時期は、必ずしも一致しません。

勝頼の時代にも武田氏の勢力は拡大しており、1573年を武田氏全体の領地拡大の終点と考えることはできないのです。

信玄の後を継いだ武田勝頼については、武田信玄の子供一覧と武田勝頼の生涯で紹介しています。

1575年の長篠の戦いが武田氏の転機となった

天正3年(1575年)、武田勝頼は三河国の長篠城を攻めました。

これに対し、織田信長と徳川家康の連合軍が出陣し、設楽原で武田軍と激突します。

この長篠の戦いで武田軍は大きな敗北を喫し、山県昌景や馬場信春、内藤昌豊などの有力武将が命を落としました。

長篠の戦いは、武田氏の軍事力に大きな打撃を与えた戦いとして知られています。

ただし、この敗戦だけで武田氏の領国が一度に崩壊したわけではありません。

勝頼はその後も領国を維持し、軍事行動や外交を続けていました。

しかし、織田・徳川両氏との対立は続き、武田氏を取り巻く情勢は次第に厳しくなっていきます。

1582年の甲州征伐で武田氏の領国は失われた

天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康らによる武田領への大規模な侵攻が始まりました。

これが甲州征伐と呼ばれる戦いです。

武田氏の家臣や一族の中には、勝頼から離れる者も現れ、各地の城や拠点が次々と失われていきました。

勝頼は本拠地の新府城を離れ、甲斐国の東部へ退きます。

しかし、天目山の近くまで追い詰められ、同年3月、勝頼は妻や嫡男の信勝らとともに命を落としました。

これによって、戦国大名としての武田氏は滅亡します。

信玄が約30年をかけて築いた広い領国は、その死から9年後の1582年に失われることになりました。

甲斐・信濃・駿河などの領地は、その後、織田氏の家臣らに分配され、さらに本能寺の変後には支配者が入れ替わっていきます。

武田信玄の領地を振り返ると、甲斐一国から始まった勢力が周辺の国々へ広がり、勝頼の時代を経て、わずか数十年の間に大きく変化したことがわかります。

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まとめ|武田信玄の領地は甲斐から周辺諸国へ広がった

武田信玄の領地は、甲斐国を本拠地として、信濃・駿河・西上野などへ大きく広がりました。

今回の内容を振り返ってみましょう。

    • 最大版図:甲斐・信濃・駿河を中心に、西上野や遠江・三河などの一部へ勢力を拡大した。
    • 現在の県:山梨・長野・静岡・群馬・愛知・岐阜の6県にまたがる勢力圏だった。ただし、各県の全域を支配したわけではない。
    • 最大石高:約120万石という数字が紹介されることもあるが、算定根拠は明確ではなく、信玄時代の確定石高として扱うことはできない。
    • 領地拡大の推移:1540年代の信濃進出から、1560年代の西上野・駿河攻略、1572~1573年の遠江・三河方面への侵攻へと続いた。
    • 信玄の死後:勝頼が領国を引き継ぎ、一時はさらに勢力を広げたが、1582年の甲州征伐で武田氏は滅亡した。

武田信玄の領地をたどると、甲斐一国を本拠地とした武田氏が、約30年をかけて広大な勢力圏を築いたことがわかります。

一方で、戦国時代の領地は現在の県境のように明確に区切られていたわけではなく、支配が安定していた地域と、軍事的に進出した地域がありました。

武田信玄の最大版図は、領地の広さだけでなく、どの地域をどのように支配していたのかにも注目すると、より興味深く見えてきます。

信玄が築いた領国の広がりを、当時の戦いや周辺大名との関係とともに振り返ってみるのも、戦国史の楽しみの一つですね。

参考資料

※武田信玄の領地や石高には、時期や支配範囲の捉え方によって違いがあります。本記事では、領国として継続的に支配した地域と、軍事的に進出した地域を区別して記載しています。また、石高は後世の資料を参考にした概算として扱っています。

※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。

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