武田信玄の家臣一覧!武田四天王・二十四将と有名武将

武田信玄の館に集まる家臣団と戦国武将たちを描いた歴史イラスト

戦国最強とも称される武田信玄ですが、その強さを支えたのは、優れた家臣たちの存在でした。
山県昌景や馬場信春などの武田四天王をはじめ、武田二十四将として知られる武将たちは、戦場だけでなく領国の統治でも重要な役割を果たしました。

では、武田信玄にはどのような家臣がいたのでしょうか。
また、四天王と二十四将にはどんな違いがあり、最も強かった家臣は誰だったのでしょう。

この記事では、武田信玄の主な家臣を一覧で紹介しながら、有名武将の功績や軍師、家臣団の仕組み、信玄の死後までをたどってみます。

武田信玄の家臣一覧!主な武将を表で紹介

武田信玄が甲斐国から信濃・駿河などへ勢力を広げることができた背景には、多くの家臣たちの働きがありました。

戦場で軍勢を率いる武将だけでなく、城の守備や領国の統治、外交などを担う人物もいました。

まずは、武田信玄に仕えた代表的な家臣を一覧で見てみましょう。

武田信玄に仕えた主な家臣一覧

 

家臣の名前主な役割・特徴
山県昌景(やまがた まさかげ)武田四天王の一人。勇猛な武将として知られ、長篠の戦いで命を落とした。
馬場信春(ばば のぶはる)武田四天王の一人。信玄を支えた重臣で、長篠の戦いで戦死した。
内藤昌豊(ないとう まさとよ)武田四天王の一人。西上野方面の支配を担い、長篠の戦いで戦死した。
高坂昌信(こうさか まさのぶ)武田四天王の一人。海津城を守り、北信濃方面の防衛を担った。春日虎綱とも呼ばれる。
板垣信方(いたがき のぶかた)信玄の父・信虎の時代から仕えた重臣。信玄の家督相続を支え、上田原の戦いで戦死した。
甘利虎泰(あまり とらやす)武田家の宿老。板垣信方とともに信玄を支え、上田原の戦いで戦死した。
飯富虎昌(おぶ とらまさ)武田家の有力家臣。赤備えとの関係でも知られ、義信事件に関わって命を落とした。
真田幸隆(さなだ ゆきたか)信濃攻略で活躍した武将。真田幸綱とも呼ばれ、真田昌幸の父にあたる。
秋山虎繁(あきやま とらしげ)信濃・美濃方面で活動した武将。伊那郡の支配や岩村城の守備に関わった。
原虎胤(はら とらたね)武勇に優れた武将として知られ、信玄の信濃攻略などで活動した。
小山田信茂(おやまだ のぶしげ)甲斐郡内地方を治めた有力国衆。信玄・勝頼に仕え、武田家滅亡時の動向でも知られる。
穴山信君(あなやま のぶただ)武田家の一門衆。穴山梅雪として知られ、後に徳川家康に従った。
山本勘助(やまもと かんすけ)信玄の軍師として有名。史料には「山本菅助」の名が確認されるが、軍記に登場する山本勘助との関係には議論がある。
土屋昌続(つちや まさつぐ)信玄・勝頼に仕えた武将。長篠の戦いで戦死した。
武田信繁(たけだ のぶしげ)信玄の弟で、武田家を支えた一門の重臣。第四次川中島の戦いで戦死した。

このように、武田家には武勇に優れた武将、領国を守る重臣、信玄を支える一門衆など、さまざまな立場の人物がいました。

なかでも山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信の4人は、後世に武田四天王として知られるようになりました。

武田家の家臣は全部で何人いた?

武田信玄の家臣について調べると、「武田二十四将」や「家臣88人」といった数字を見かけることがあります。

しかし、これらは武田家に仕えた家臣の総人数を示すものではありません。

武田二十四将は、後世の絵画や軍記などで広まった代表的な武将の呼び名であり、顔ぶれも資料によって異なります。

また、88人という数字も、信玄の家臣が全部で88人だったことを示す確定した人数ではありません。

実際の武田家には、直属の家臣だけでなく、各地の国衆やその配下の武士など、多くの人々が関わっていました。

そのため、信玄に仕えた家臣の総数を一つの数字で示すことは難しいのです。

まずは代表的な家臣を知り、その後に武田四天王や二十四将の顔ぶれを見ていくと、武田家臣団の姿がわかりやすくなるでしょう。

武田四天王とは?4人の名前と功績

武田信玄の家臣のなかでも、特に有名なのが「武田四天王」と呼ばれる4人の武将です。

山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信がその顔ぶれで、いずれも武田家を支えた重臣として知られています。

ただし、武田四天王は信玄が正式に任命した役職ではなく、後世に武田家の代表的な重臣をまとめて呼ぶようになった名称です。

それぞれがどのような働きをしたのか、見てみましょう。

山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信

武田四天王の4人は、戦場での指揮だけでなく、城の守備や領国の支配など、異なる役割を担っていました。

武将名主な役割・功績最期
山県昌景武田軍の有力な部隊を率い、赤備えでも知られる。1575年、長篠の戦いで戦死
馬場信春信玄の信頼を受けた重臣。築城や軍事面でも活躍した。1575年、長篠の戦いで戦死
内藤昌豊西上野方面の支配を担い、箕輪城の城代を務めた。1575年、長篠の戦いで戦死
高坂昌信海津城を拠点に北信濃方面を守った。春日虎綱の名でも知られる。1578年に死去

山県昌景は、武田軍のなかでも勇猛な武将として知られています。

赤い武具で統一した部隊を率いたと伝えられ、武田軍の精鋭を象徴する人物の一人です。

信玄の死後も勝頼に仕えましたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで命を落としました。

馬場信春は、信玄の時代から多くの戦いに参加した重臣です。

築城や城の守備にも関わったと伝えられ、武勇だけでなく経験豊かな指揮官としても知られています。

「不死身の鬼美濃」という呼び名や、長篠の戦いでの最期にまつわる逸話も残されています。

内藤昌豊は、西上野の箕輪城を拠点とし、武田家の勢力を支えました。

戦場での活躍に加え、占領地の支配や城の管理にも関わった武将です。

山県昌景や馬場信春と同じく、長篠の戦いで戦死しました。

高坂昌信は、春日虎綱とも呼ばれ、信濃国の海津城を守った重臣です。

海津城は上杉謙信の勢力と向き合う重要な拠点であり、北信濃方面の防衛を担いました。

四天王のなかでは長篠の戦いを生き延び、勝頼の時代まで武田家を支えました。

武田四天王の山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信をイメージした軍議の歴史イラスト

武田四天王は、戦場での指揮だけでなく、城の守備や各地の領国支配でも武田家を支えた。

武田四天王はどのような役割を担った?

武田四天王というと、4人がそろって戦場で活躍する姿を思い浮かべるかもしれません。

しかし、実際にはそれぞれが異なる地域や役割を担当し、武田家の勢力を支えていました。

山県昌景や馬場信春は軍事面での活躍がよく知られ、内藤昌豊は西上野、高坂昌信は北信濃の重要拠点を任されていました。

つまり、武田家の強さは、戦場での武勇だけでなく、各地の拠点を守り、領国を維持する仕組みにも支えられていたのです。

また、武田四天王に明確な順位が定められていたわけではありません。

山県昌景や馬場信春を最強の家臣として挙げることもありますが、武勇、戦功、統率力、領国経営など、何を基準にするかによって評価は変わってきます。

こうした違いは、後の章で「武田信玄の家臣で最強は誰か」を考える際にも重要になります。

なお、信玄の初期には板垣信方や甘利虎泰といった重臣も大きな役割を果たしていました。

武田四天王だけでなく、時代ごとに多くの武将が信玄を支えていたことも忘れずに見ておきたいところです。

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武田二十四将とは?24人の名前と一覧

武田信玄の家臣について調べると、「武田二十四将」という名前をよく見かけます。

これは、信玄を支えた代表的な武将たちを24人にまとめた呼び名です。

ただし、信玄が生前に24人を選んで任命したわけではありません。

武田二十四将は、江戸時代以降に広まった武将図などによって知られるようになったもので、描かれる人物には違いがあります。

まずは、一般に武田二十四将として紹介される代表的な顔ぶれを見てみましょう。

武田二十四将の名前と主な功績一覧

次の表では、信玄公宝物館が紹介する武田24将図の顔ぶれをもとに、24人の名前と主な功績をまとめました。

武田二十四将には複数の顔ぶれが伝わっており、この一覧が唯一の決まった組み合わせというわけではありません。

信玄の弟や一門衆も含まれており、すべてが同じ時期に活躍した家臣というわけではありません。

 

番号武将名主な功績・特徴
1武田信繁(たけだ のぶしげ)信玄の弟。武田家の一門として信玄を支え、第四次川中島の戦いで戦死した。
2武田信廉(たけだ のぶかど)信玄の弟。武田家の一門衆として活動し、信玄に容姿が似ていたという逸話でも知られる。
3山県昌景(やまがた まさかげ)武田四天王の一人。赤備えで知られ、長篠の戦いで戦死した。
4馬場信春(ばば のぶはる)武田四天王の一人。軍事や築城で活躍し、長篠の戦いで戦死した。
5内藤昌豊(ないとう まさとよ)武田四天王の一人。西上野の箕輪城を拠点とし、長篠の戦いで戦死した。
6高坂昌信(こうさか まさのぶ)武田四天王の一人。春日虎綱とも呼ばれ、海津城を守った。
7板垣信方(いたがき のぶかた)信玄の初期を支えた重臣。上田原の戦いで戦死した。
8甘利虎泰(あまり とらやす)武田家の宿老。板垣信方とともに信玄を支え、上田原の戦いで戦死した。
9飯富虎昌(おぶ とらまさ)武田家の重臣。赤備えとの関係や、武田義信事件で知られる。
10真田幸隆(さなだ ゆきたか)真田幸綱とも呼ばれる。信濃攻略で活躍した真田昌幸の父。
11山本勘助(やまもと かんすけ)信玄の軍師として知られる人物。川中島の戦いに関する逸話が残る。
12原虎胤(はら とらたね)武勇に優れた武将として知られ、信玄の信濃攻略などで活動した。
13原昌胤(はら まさたね)武田家の奉行人として活動し、軍事や行政を支えた。
14秋山虎繁(あきやま とらしげ)信濃・美濃方面で活躍し、岩村城の守備などを担った。
15小幡虎盛(おばた とらもり)武田家の重臣。戦場での活躍や武勇にまつわる逸話が残る。
16真田信綱(さなだ のぶつな)真田幸隆の長男。信玄・勝頼に仕え、長篠の戦いで戦死した。
17横田高松(よこた たかとし)信玄の初期を支えた武将。砥石城攻めで戦死した。
18多田満頼(ただ みつより)武田家に仕えた武将。夜襲や怪異に関する伝承でも知られる。
19三枝守友(さいぐさ もりとも)信玄・勝頼に仕えた武将。長篠の戦いで戦死した。
20土屋昌続(つちや まさつぐ)信玄・勝頼に仕えた重臣。長篠の戦いで戦死した。
21穴山信君(あなやま のぶただ)武田家の一門衆。穴山梅雪として知られ、後に徳川家康に従った。
22小山田信茂(おやまだ のぶしげ)甲斐郡内地方を治めた有力国衆。武田家滅亡時の動向で知られる。
23曽根昌世(そね まさただ)武田家の重臣。信玄・勝頼に仕え、武田家滅亡後は徳川家に仕えた。
24真田昌幸(さなだ まさゆき)真田幸隆の三男。信玄・勝頼に仕え、武田家滅亡後も真田家を存続させた。

一覧を見ると、武田四天王の4人だけでなく、信玄の弟である武田信繁や武田信廉、信濃攻略で活躍した真田幸隆など、さまざまな人物が含まれています。

また、板垣信方や甘利虎泰のように信玄の初期を支えた武将と、長篠の戦いまで活躍した武将が同じ一覧に並んでいます。

こうして見ると、武田二十四将は特定の時期の役職一覧というより、武田家の歴史を彩った代表的な武将たちを集めたものと考えるとわかりやすいでしょう。

武田二十四将の顔ぶれが資料によって違う理由

武田二十四将の名前を調べると、資料によって一覧に載っている人物が異なることがあります。

これは、武田二十四将が信玄の時代に定められた正式な組織ではないためです。

江戸時代には、信玄とその家臣たちを描いた武田二十四将図などが広まりました。

こうした絵画では、描かれた時期や作品によって人物の選び方に違いがありました。

例えば、ある武田二十四将図には真田信綱や真田昌幸が描かれていますが、別の一覧では小幡昌盛や一条信龍などが含まれることもあります。

そのため、武田二十四将の顔ぶれを確認するときは、どの武将図や資料をもとにしているのかを見ることが大切です。

また、武田二十四将という呼び名から、24人全員が同じ時期に信玄の側近として仕えていたように感じるかもしれません。

しかし、実際には活動した年代や役割も異なります。

大切なのは、武田二十四将を武田家の正式な役職や序列と混同しないことです。

武田四天王と二十四将の違いも、こうした成り立ちを知ることで理解しやすくなります。

武田信玄の有名な家臣は?代表的な武将を紹介

武田信玄の家臣には、武田四天王以外にも多くの有名な武将がいました。

なかでも板垣信方や甘利虎泰は、信玄が家督を継いだ初期から武田家を支えた重臣です。

また、真田幸隆や秋山虎繁は、信玄が甲斐国の外へ勢力を広げていく過程で重要な役割を果たしました。

ここでは、武田家の発展を支えた代表的な4人の武将を見てみましょう。

板垣信方・甘利虎泰など信玄を支えた重臣

板垣信方(いたがき のぶかた)は、信玄の父・武田信虎の時代から武田家に仕えた重臣です。

天文10年(1541年)、信玄が父の信虎を駿河へ退けて家督を継いだ際には、その動きを支えた有力家臣の一人でした。

信玄が信濃への進出を始めると、板垣信方も軍勢を率いて各地の戦いに参加しました。

しかし、天文17年(1548年)の上田原の戦いで命を落としています。

板垣信方は、若い信玄の家督相続から信濃攻略の初期までを支えた人物だったのです。

甘利虎泰(あまり とらやす)も、信虎の時代から仕えた武田家の宿老です。

板垣信方とともに信玄を支え、武田家の軍事や家中の運営に関わりました。

甘利虎泰も上田原の戦いに参加し、板垣信方と同じく戦死しています。

この戦いでは武田軍が村上義清の軍勢に敗れ、信玄は有力な重臣を一度に失うことになりました。

武田信玄の生涯をたどるうえでも、上田原の敗戦は大きな出来事だったといえるでしょう。

真田幸隆・秋山虎繁など各地で活躍した武将

真田幸隆(さなだ ゆきたか)は、真田幸綱(さなだ ゆきつな)とも呼ばれる信濃出身の武将です。

武田信玄に仕え、信濃国の攻略で重要な働きをしました。

特に村上義清の勢力と争う過程では、信濃の地理や地域の武士たちとの関係を生かして活動したと考えられています。

真田幸隆は、後に徳川家康や豊臣秀吉の時代に活躍する真田昌幸の父であり、真田信之・信繁兄弟の祖父にあたります。

真田家が戦国時代を生き抜いていく基盤を築いた人物としても知られています。

秋山虎繁(あきやま とらしげ)は、秋山信友(あきやま のぶとも)の名でも知られる武田家の武将です。

信濃国の伊那地方などで活動し、武田家の南信濃方面の支配を支えました。

信玄の西上作戦では美濃方面へ進出し、岩村城を武田方の勢力下に置くことに関わりました。

信玄の死後も武田勝頼に仕えましたが、天正3年(1575年)、織田方の攻撃を受けて岩村城を明け渡し、その後、岐阜で処刑されました。

こうして見ると、武田家の強さは、信玄の側近だけでなく、各地の事情に通じた武将たちにも支えられていたことがわかります。

板垣信方や甘利虎泰が信玄の初期を支え、真田幸隆や秋山虎繁が領土の拡大に力を尽くしました。

武田四天王とともに、こうした家臣たちの働きも武田家の歴史には欠かせないものだったのでしょう。

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武田信玄の軍師は誰?山本勘助と家臣団

武田信玄の軍師といえば、山本勘助の名前を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

川中島の戦いで作戦を考えた人物として知られ、軍記物や小説、ドラマなどにも登場します。

しかし、山本勘助が実際にどのような役割を担っていたのかについては、伝承と史料を分けて考える必要があります。

まずは、信玄の軍師として有名な山本勘助の実像から見てみましょう。

信濃の山々を見渡す山本勘助をイメージした武士と武田家の武将の歴史イラスト

山本勘助は信玄の軍師として知られるが、その具体的な活躍には後世の伝承も含まれている。

山本勘助は本当に武田信玄の軍師だった?

山本勘助は、武田信玄に仕えた人物として知られています。

江戸時代に成立した軍記物『甲陽軍鑑』では、信玄の軍師として登場し、数々の作戦や築城に関わった人物として描かれています。

なかでも有名なのが、永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いにまつわる「啄木鳥戦法」の逸話です。

これは、武田軍が部隊を分けて上杉軍を動かし、別の部隊で迎え撃とうとしたと伝えられる作戦です。

しかし、山本勘助がこの作戦を立案したことを、同時代の史料から確実に確認できるわけではありません。

一方、武田信玄に仕えた「山本菅助」という人物については、実在を示す史料が確認されています。

弘治3年(1557年)の武田晴信書状には、山本菅助が信玄の意向を伝える使者として登場しています。

ただし、この山本菅助と『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助が、完全に同一人物だったのかについては議論があります。

山本菅助という家臣の実在は確認できるものの、軍師として知られる山本勘助の人物像には、後世の伝承が含まれていると考えるのがよさそうです。

特に、武田信玄の書状に「山本菅助」の名が登場することは、勘助の実在を考えるうえで重要な手がかりです。

ただし、史料に名前が残っていることと、『甲陽軍鑑』に描かれた軍師としての活躍がすべて事実であることは別の問題です。

山本勘助は実在した武田家の家臣と考えられますが、どこまで軍事作戦の立案に関わったのかは、慎重に見ていく必要があります。

武田家の戦略は誰が考えていた?

では、武田信玄の軍事作戦は、山本勘助のような軍師が一人で考えていたのでしょうか。

戦国時代の大名家では、現代の物語に登場するような軍師一人が、すべての作戦を決めていたとは限りません。

武田家にも、山県昌景や馬場信春、内藤昌豊、高坂昌信など、経験豊かな重臣がいました。

また、信濃の事情に詳しい真田幸隆のように、地域の地理や国衆との関係を生かして活動した武将もいます。

信玄はこうした家臣たちを各地に配置し、軍事行動だけでなく、城の守備や領国の支配も任せていました。

戦いを進めるうえでは、敵の動向を探ること、兵を集めること、補給路を確保することなど、多くの準備が必要になります。

そのため、武田家の軍事行動は、信玄の判断と家臣たちの働きによって支えられていたと考えるのが自然でしょう。

もちろん、信玄が個々の戦いで誰の意見をどの程度取り入れたのか、すべてが明らかになっているわけではありません。

それでも、武田家には軍事や外交、領国の統治を担う多くの家臣がいたことがわかります。

山本勘助の軍師伝説は魅力的ですが、その背景にあった武田家臣団全体の働きにも目を向けてみたいところです。

武田信玄の家臣で最強は誰?四天王の実力

武田信玄の家臣のなかで、最も強かった武将は誰なのでしょうか。

武田四天王には山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信がいますが、それぞれ得意とする分野が異なります。

戦場での武勇を重視するのか、軍勢を率いる統率力を評価するのかによっても、答えは変わってきます。

まずは、最強の家臣として名前が挙がりやすい山県昌景と馬場信春から見てみましょう。

山県昌景と馬場信春はなぜ強いといわれる?

山県昌景は、武田軍のなかでも勇猛な武将として知られています。

赤い武具で統一した「赤備え」の部隊を率いたと伝えられ、武田軍の精鋭を象徴する人物の一人です。

信玄の時代から重要な戦いに参加し、信玄の死後も武田勝頼に仕えました。

天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍と戦い、命を落としています。

山県昌景は、武勇や戦場での攻撃力を重視するなら、有力な候補となる武将でしょう。

一方、馬場信春は、長年にわたって武田家を支えた経験豊かな重臣です。

信玄の信濃攻略などに参加し、軍事だけでなく築城や城の守備にも関わったと伝えられています。

馬場信春には「不死身の鬼美濃」という呼び名や、長篠の戦いまで大きな傷を負わなかったという逸話も残されています。

ただし、こうした話には後世の軍記物によって広まったものもあり、そのまま史実とすることはできません。

長篠の戦いでは、敗走する武田軍を支えながら戦死したと伝えられています。

馬場信春は、戦場経験や軍勢を率いる能力を重視するなら、最強候補の一人といえそうです。

武勇・戦功・統率力から見た有力武将

武田家臣団の実力を考えるとき、山県昌景と馬場信春だけでなく、内藤昌豊や高坂昌信の働きも見逃せません。

内藤昌豊は西上野の箕輪城を拠点とし、軍事と地域の支配を担いました。

高坂昌信は北信濃の海津城を守り、上杉謙信の勢力と向き合う重要な地域を任されていました。

こうした役割を比べると、武田家の重臣たちにはそれぞれ異なる強みがあったことがわかります。

武将評価できる強み主な活動
山県昌景武勇・部隊の指揮武田軍の有力部隊を率いて各地で活動
馬場信春戦場経験・統率力軍事や築城、城の守備などに関わる
内藤昌豊軍事・領国支配箕輪城を拠点に西上野方面を担当
高坂昌信拠点防衛・地域統治海津城を拠点に北信濃方面を担当

この表は、4人の能力を数値化したランキングではなく、それぞれの役割を比較したものです。

武田家には、ほかにも信濃攻略で活躍した真田幸隆や、信玄の初期を支えた板垣信方など、有力な武将がいました。

そのため、武田二十四将全体を含めて誰が最強だったのか、一人に決めるのは難しいところです。

それでも、戦場での武勇という点では山県昌景、長年の経験と統率力という点では馬場信春が、特に注目される人物でしょう。

一方、領国を守り、武田家の勢力を維持するという点では、内藤昌豊や高坂昌信の働きも重要でした。

武田軍の強さは、一人の最強武将ではなく、異なる能力を持つ家臣たちの組み合わせによって生まれていたのかもしれません。

武田信玄の家臣団はどんな組織だった?

武田信玄の家臣団というと、山県昌景や馬場信春など、戦場で活躍した武将たちが思い浮かびます。

しかし、武田家が甲斐国から信濃・駿河などへ勢力を広げるには、戦いに強いだけでは十分ではありませんでした。

各地の城を守り、年貢を集め、地域の武士たちをまとめる仕組みも必要だったのです。

武田家臣団には、信玄の親族や古くからの家臣、各地の有力な国衆など、異なる立場の人々が加わっていました。

まずは、その主な違いを見てみましょう。

譜代家臣・親族衆・国衆の役割

武田家臣団は、信玄との関係や、それぞれが持つ領地などによって立場が異なっていました。

代表的な区分を整理すると、次のようになります。

区分主な役割・特徴代表的な人物
一門衆・親族衆武田家の親族として軍事や領国支配を支える武田信繁・武田信廉
譜代家臣古くから武田家に仕え、軍事や家中の運営を担う板垣信方・甘利虎泰・馬場信春
有力国衆独自の領地や家臣を持ち、武田家に従う小山田信茂・真田幸隆
親族関係を持つ有力領主武田家と血縁関係を持ち、独自の領域も支配する穴山信君
奉行人など文書の発給や行政実務を担う駒井高白斎・原昌胤

なお、こうした区分は家臣団の特徴を整理したもので、実際には親族関係や領地の支配などが重なり合う人物もいました。

一門衆には、信玄の弟である武田信繁や武田信廉、武田家と血縁関係を持つ穴山信君などがいました。

こうした人物は、武田家の親族として重要な役割を担い、軍勢を率いることもありました。

譜代家臣は、武田家に古くから仕えてきた家臣たちです。

板垣信方や甘利虎泰は、信玄の父・信虎の時代から仕え、信玄の家督相続を支えた重臣として知られています。

一方、国衆は各地に独自の領地や家臣を持つ有力な武士たちです。

真田幸隆は信濃の国衆として武田家に仕え、小山田信茂は甲斐郡内地方に勢力を持っていました。

国衆は単なる直属の家臣とは異なり、地域に根ざした支配基盤を持っていたことが特徴です。

また、武田家には文書の作成や行政実務を担う奉行人もいました。

軍事と領国の運営を、それぞれの立場の家臣たちが支えていたことがわかります。

武田家の家臣団はどのようにまとまっていた?

武田信玄は、家臣たちに領地や役割を与えながら、軍事と領国の支配を進めていきました。

その仕組みを考えるうえで重要なのが、家臣たちの軍役です。

武田家では、家臣が知行などに応じて一定の軍事的な負担を担う仕組みが整えられていました。

戦いの際には、各地の家臣や国衆が兵を率いて武田軍に参加しました。

こうした軍勢をまとめることが、信玄の領土拡大を支える力になったのです。

また、信玄は信濃や上野などの重要な拠点に重臣を配置しました。

高坂昌信は北信濃の海津城、内藤昌豊は西上野の箕輪城を拠点として活動しています。

それぞれの地域を任せることで、敵対勢力への備えと領国の支配を進めていました。

ただし、武田家臣団が常に一枚岩だったわけではありません。

武田家には独自の勢力を持つ国衆も多く、信玄はそれぞれの利害や立場にも配慮する必要がありました。

また、永禄8年(1565年)には、信玄の嫡男・武田義信と重臣の飯富虎昌をめぐる事件が起こっています。

この出来事からも、武田家の内部に政治的な対立が存在したことがうかがえます。

それでも信玄は、親族や譜代家臣、各地の国衆をまとめながら勢力を広げていきました。

武田家の強さは、個々の武将の武勇だけでなく、多様な家臣たちを軍事と領国支配に結びつけた仕組みにもあったのでしょう。

こうした家臣団のあり方を知ると、武田信玄が戦国大名として大きな勢力を築いた背景も見えてきます。

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武田信玄の家臣はその後どうなった?

元亀4年(1573年)、武田信玄は西上作戦の途中で亡くなりました。

その後、武田家を継いだのは信玄の四男・武田勝頼です。

勝頼のもとでも武田家は勢力の拡大を図りましたが、やがて織田信長や徳川家康との戦いが厳しくなっていきます。

特に天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、信玄の時代から仕えた多くの重臣が命を落としました。

まずは、長篠の戦いで武田家が失った主な家臣を見てみましょう。

1575年の長篠の戦いで後退する武田軍の武士たちと設楽原の戦場を描いた歴史イラスト

1575年の長篠の戦いでは、山県昌景や馬場信春、内藤昌豊など多くの重臣が命を落とした。

長篠の戦いで命を落とした重臣たち

天正3年(1575年)、武田勝頼は織田信長・徳川家康の連合軍と長篠・設楽原で戦いました。

この戦いで武田軍は敗れ、多くの有力武将を失うことになります。

なかでも、武田四天王として知られる山県昌景・馬場信春・内藤昌豊の3人が戦死したことは、武田家にとって大きな損失でした。

武将名長篠の戦いでの動向
山県昌景武田軍の有力部隊を率いて戦い、戦死した。
馬場信春武田軍の重臣として参戦し、戦死した。
内藤昌豊西上野方面を担った重臣で、長篠の戦いで戦死した。
土屋昌続信玄・勝頼に仕えた武将で、長篠の戦いで戦死した。
原昌胤武田家の行政や軍事を支えた重臣で、長篠の戦いで戦死した。
三枝守友武田家に仕えた武将で、長篠の戦いで戦死した。

このように、長篠の戦いでは武田家を長年支えてきた重臣たちが相次いで命を落としました。

ただし、この敗戦によって武田家がすぐに滅亡したわけではありません。

勝頼はその後も領国の維持に努め、軍事行動を続けています。

それでも、経験豊かな重臣を一度に失ったことは、武田家の軍事や領国運営にとって大きな痛手となりました。

武田家滅亡後に徳川家などへ仕えた家臣

天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康らによる甲州征伐が行われ、武田勝頼は追い詰められました。

勝頼は天目山付近の田野で命を落とし、戦国大名としての武田家は滅亡します。

しかし、武田家に仕えていたすべての家臣が、このときに命を落としたわけではありません。

生き残った武将やその一族のなかには、徳川家などに仕えて新たな道を歩んだ人々もいました。

武将・一族武田家滅亡前後の動向
穴山信君(梅雪)武田家滅亡前に徳川家康へ従った。同年、本能寺の変後の混乱のなかで命を落とした。
真田昌幸武田家滅亡後、織田家に従ったが、本能寺の変後は独自の領国維持を図り、周辺勢力との関係を変えていった。
曽根昌世武田家に仕えた後、徳川家康の家臣となった。
武田家旧臣の一部徳川家に召し抱えられ、軍事や領国支配を支える家臣となった。

なかでも真田昌幸は、信玄の家臣だった真田幸隆の子として知られています。

武田家滅亡後も真田家の領地を守るために活動し、後の真田家の存続につながる道を切り開きました。

また、徳川家康は武田家の旧臣を家臣団に取り込み、その軍事的な経験や地域とのつながりを活用していきました。

武田家で知られた赤備えの伝統も、後に徳川家臣の井伊直政が率いた部隊へと受け継がれたことで有名です。

ただし、井伊の赤備えが武田軍の編成をそのまま引き継いだというわけではなく、武田旧臣の登用や後世の伝承も含めて考える必要があります。

こうして見ると、武田信玄の死後、家臣たちの運命は大きく分かれました。

長篠の戦いで命を落とした武将がいる一方、武田家滅亡後も新たな主君に仕え、生き残った家臣や一族もいました。

武田家という大名家は滅びても、そこで培われた人材や軍事の経験は、次の時代へと受け継がれていったのです。

まとめ|武田信玄の強さを支えた家臣たち

武田信玄の家臣には、山県昌景や馬場信春などの武田四天王をはじめ、多くの優れた武将がいました。

今回の記事で見てきた主なポイントを振り返ってみましょう。

  • 武田四天王は、山県昌景・馬場信春・内藤昌豊・高坂昌信の4人。
  • 武田二十四将は、後世の武将図などで広まった呼び名で、顔ぶれは資料によって異なる。
  • 山本勘助は信玄の軍師として有名だが、史料に登場する山本菅助との関係や軍師としての実像には議論がある。
  • 武田家臣団には一門衆・譜代家臣・国衆などがおり、軍事と領国支配を支えていた。
  • 信玄の死後、長篠の戦いで多くの重臣が命を落とした一方、武田家滅亡後も生き残った家臣や一族がいた。

武田信玄が戦国時代に大きな勢力を築いた背景には、信玄自身の判断だけでなく、家臣たちの働きがありました。

戦場で活躍した武将、各地の城を守った重臣、領国の運営を支えた人々。

それぞれが異なる役割を果たしていたことが、武田家臣団の大きな特徴だったのでしょう。

武田信玄の強さは、優れた家臣たちとともに築き上げたものだったと感じます。

参考資料

※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。

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