武田信玄と徳川家康の関係は?同盟から敵対した理由とその後の影響

武田信玄と徳川家康は、三方ヶ原の戦いで激突した戦国武将として知られています。
しかし、二人は最初から敵同士だったわけではありません。
かつては今川氏をめぐって協力する関係にあり、その後、領土をめぐる対立から戦うことになりました。
では、なぜ協力関係が崩れ、信玄と家康は敵対するようになったのでしょうか。
この記事では、二人の年齢差や同盟関係、敵対した理由、三方ヶ原の戦いでの勝敗をたどります。
さらに、信玄の死後、家康が武田家の家臣や軍制をどのように取り入れていったのかも見てみましょう。
武田信玄と徳川家康の関係は?最初は協力関係だった
武田信玄と徳川家康といえば、三方ヶ原の戦いで激突した戦国武将として知られています。
しかし、二人は最初から敵対していたわけではありません。
永禄11年(1568年)には、今川氏の領国をめぐって協調する関係にありました。
その後、領土をめぐる利害が対立し、やがて戦場で向き合うことになります。
まずは、二人の関係を大きな流れから見てみましょう。
武田信玄と徳川家康は最初から敵同士ではなかった
武田信玄は甲斐国を本拠とし、信濃国などへ勢力を広げた戦国大名です。
一方の徳川家康は、三河国を中心に勢力を固め、遠江国への進出を目指していました。
二人の間には、駿河国と遠江国を支配していた今川氏という共通の存在がありました。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が命を落とすと、今川氏の支配体制は次第に揺らいでいきます。
この情勢の中で、信玄は駿河国へ、家康は遠江国へと勢力を伸ばそうとしました。
そのため、今川氏の領国をめぐって両者の利害が一時的に一致したのです。
ただし、これは長年にわたる強固な同盟というよりも、当時の情勢に応じた政治的な協調関係として見るのがよさそうです。
協力関係から三方ヶ原の戦いまでの流れ
二人の関係を年代順に並べると、次のようになります。
| 年代 | 主な出来事 | 二人の関係 |
|---|---|---|
| 1560年 | 桶狭間の戦いで今川義元が敗死 | 今川氏を取り巻く情勢が変化 |
| 1568年 | 信玄が駿河へ、家康が遠江へ進出 | 今川氏の領国をめぐって協調 |
| 1569年頃 | 武田軍が遠江方面にも進出し、徳川氏との利害が対立 | 協調関係が崩れ、対立が深まる |
| 1572年 | 信玄が遠江へ侵攻し、三方ヶ原の戦いが起こる | 武田軍と徳川軍が直接対決 |
| 1573年 | 武田信玄が死去 | 家康と武田家の対立はその後も続く |
このように見てみると、信玄と家康の関係は、わずか数年の間に大きく変わったことがわかります。
特に注目したいのは、今川氏の領国をめぐって協力した二人が、その後は領土を争う立場になったという点です。
戦国時代の大名同士の関係は、単純な敵味方だけでは整理できないものだったのでしょう。
では、武田信玄と徳川家康は、年齢や大名としての立場にどれほどの違いがあったのでしょうか。
次の章では、二人の年齢差と当時の勢力を比較してみましょう。
武田信玄と徳川家康の年齢差は?二人の立場を比較
武田信玄と徳川家康は、戦国時代を代表する武将ですが、実は同じ世代の人物ではありません。
信玄が生まれたのは大永元年(1521年)、家康が生まれたのは天文11年(1542年)です。
家康の誕生日は旧暦12月26日で、現在の暦に換算すると1543年1月31日にあたります。
つまり、武田信玄は徳川家康より約21歳年上でした。
旧暦の生年では21年の差があり、実際の年齢差も約21年です。
二人が協力関係にあった1568年頃には、武将としての経験や領国の規模にも大きな違いがありました。
武田信玄と徳川家康の生年・年齢を比較
まずは、二人の基本的な情報を表で比べてみましょう。
| 比較項目 | 武田信玄 | 徳川家康 |
|---|---|---|
| 生年 | 1521年(大永元年) | 1542年(天文11年・旧暦) |
| 没年 | 1573年 | 1616年 |
| 主な本拠地 | 甲斐国・躑躅ヶ崎館 | 三河国・岡崎城、のち遠江国・浜松城 |
| 1568年の満年齢 | 46~47歳 | 25歳 |
| 1572年の満年齢 | 50~51歳 | 29歳 |
| 主な支配地域 | 甲斐・信濃など | 三河・遠江方面 |
なお、家康の誕生日は旧暦の天文11年12月26日で、西暦に換算すると1543年1月31日になります。
そのため、資料によって家康の生年が1542年と1543年のどちらで記されているかが異なります。
一般的には、信玄と家康の年齢差は約21歳と考えておけばよいでしょう。
信玄はすでに甲斐・信濃を支配する有力大名だった
1568年頃の武田信玄は、甲斐国を本拠に信濃国へ勢力を広げ、戦国大名として確かな地位を築いていました。
上杉謙信との川中島の戦いを経験し、北条氏や今川氏との同盟関係も利用しながら、領国を拡大してきた人物です。
一方の徳川家康は、桶狭間の戦いをきっかけに今川氏から自立し、三河国の統一を進めていました。
織田信長との同盟を背景に勢力を固めていたものの、信玄と比較すると、まだ発展途上の大名だったといえます。
つまり、二人が協力した当時は、長年の戦いを経験した信玄と、勢力を拡大しつつある若い家康という関係だったのです。
三方ヶ原の戦いでは信玄51歳・家康29歳だった
元亀3年(1572年)12月、武田信玄と徳川家康は三方ヶ原の戦いで激突しました。
このとき信玄は満51歳、家康は満29歳でした。
信玄は長年にわたる領国経営や合戦の経験を持つ武将であり、家康にとっては強大な相手だったのでしょう。
ただし、三方ヶ原の戦いの結果を年齢や経験の差だけで説明することはできません。
両軍の兵力、進軍の状況、戦場での判断なども関係していました。
それでも、二人の年齢と当時の立場を比べることで、なぜ家康にとって信玄が大きな脅威だったのかが見えてきます。
では、このように立場の異なる二人は、なぜ今川氏をめぐって協力するようになったのでしょうか。
次の章では、その背景をたどってみましょう。
武田信玄と徳川家康はなぜ同盟を結んだ?
武田信玄と徳川家康は、のちに三方ヶ原の戦いで敵対しますが、それ以前には今川氏の領国をめぐって協力した時期がありました。
その背景にあったのが、今川義元の死後に変化した東海地方の勢力関係です。
信玄は駿河国へ、家康は遠江国へ勢力を伸ばそうとしていました。
二人の目的が一致したことで、今川氏に対する協調関係が生まれたのです。
その経緯を順番に見てみましょう。

1568年頃、武田信玄と徳川家康は今川氏の領国への進出をめぐって協調しました。(想像図)
桶狭間の戦いで今川氏を取り巻く情勢が変わった
永禄3年(1560年)、今川義元は桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、命を落としました。
今川氏の家督は息子の今川氏真が継ぎましたが、義元の死後、領国内では支配体制が次第に揺らいでいきます。
当時、今川氏は駿河国と遠江国を中心に勢力を持ち、三河国にも影響力を及ぼしていました。
しかし、三河では徳川家康が今川氏から自立し、独自の領国支配を進めるようになります。
一方、甲斐国の武田信玄は、それまで今川氏や北条氏と結んでいた同盟関係を背景に、信濃国などへ勢力を広げていました。
ところが、今川氏を取り巻く情勢が変化する中で、信玄も駿河国への進出を考えるようになります。
こうして、信玄と家康の双方が今川氏の領国に関心を向ける状況が生まれました。
信玄は駿河、家康は遠江への進出を目指した
永禄11年(1568年)、武田信玄は今川氏との同盟を破り、駿河国への侵攻を開始しました。
同じ頃、徳川家康も遠江国へ軍を進めています。
信玄が目指した駿河国は、甲斐国の南に位置し、太平洋に面した地域です。
海に面していない甲斐国を本拠とする武田氏にとって、駿河への進出には大きな意味がありました。
一方、家康にとって遠江国は、三河国の東に隣接する重要な地域でした。
三河を本拠とする家康が領国を広げるうえで、遠江への進出は自然な流れでもあったのでしょう。
このように、信玄は駿河、家康は遠江という異なる地域を目指していたため、両者の利害が一時的に一致したのです。
今川氏の領国をめぐる協調は長く続かなかった
信玄と家康の間には、今川氏の領国への進出をめぐって事前の取り決めがあったとされています。
一般には、駿河を武田氏、遠江を徳川氏がそれぞれ攻略するという協調関係として知られています。
ただし、その取り決めの具体的な内容や成立過程については、史料を踏まえて慎重に見る必要があります。
また、今川氏との同盟を破った信玄の行動は、北条氏との関係にも影響を与えました。
北条氏康は今川氏真を支援し、武田氏と対立するようになります。
信玄にとって駿河国への進出は、単に領土を増やすだけでなく、周辺大名との関係を大きく変える出来事でもあったのです。
そして、今川氏の旧領をめぐる利害や、その後の外交関係の変化によって、信玄と家康の協調関係も次第に崩れていきました。
では、一時は同じ今川氏を相手に協力した二人が、なぜ敵対することになったのでしょうか。
次の章では、その背景をもう少し詳しくたどってみましょう。
武田信玄と徳川家康はなぜ敵対した?
武田信玄と徳川家康は、永禄11年(1568年)に今川氏の領国へ進出する際、一時的に協力する関係にありました。
しかし、その関係は長く続きませんでした。
背景には、今川氏の旧領をめぐる利害の対立と、周辺大名との外交関係の変化がありました。
さらに、信玄が遠江国や三河国へ勢力を伸ばそうとしたことで、家康との対立は深まっていきます。
二人が敵対するまでの経緯をたどってみましょう。
今川氏の旧領をめぐって利害が対立した
信玄と家康は、今川氏の領国を攻略する際、駿河国と遠江国をそれぞれの勢力圏とする方向で協調していました。
ところが、今川氏の支配が崩れるにつれ、両者の利害は必ずしも一致しなくなります。
信玄にとって駿河国の確保は重要でしたが、遠江国も東海道に面した戦略上の重要な地域でした。
一方、家康は三河国に続いて遠江国の支配を固めようとしていました。
信玄は駿河国への侵攻で北条氏の抵抗を受ける一方、遠江国にも軍勢を派遣しました。
遠江国の支配を進めていた家康にとって、武田軍の進出は自らの勢力圏を脅かすものでした。
こうして、今川氏を相手に協力していた二人が、今度は互いの領国拡大を警戒する関係へと変わっていきました。
織田信長や北条氏との関係も影響した
信玄と家康の対立には、二人だけではなく、周辺の有力大名との関係も影響していました。
家康は永禄5年(1562年)頃から織田信長と同盟関係を結び、三河国での支配を固めていました。
一方、信玄は駿河国への侵攻によって、それまで同盟関係にあった北条氏と対立することになります。
北条氏は今川氏真を支援し、武田氏に対抗しました。
しかし、その後は武田氏と北条氏の関係も変化し、元亀2年(1571年)には再び同盟が結ばれます。
同じ頃、織田信長は浅井氏や朝倉氏、本願寺など複数の勢力と対立していました。
信玄も織田氏との関係を変化させていき、やがて信長と同盟する家康の領国へ軍を進めることになります。
つまり、信玄と家康の敵対は、東海地方だけでなく戦国大名同士の広い外交関係の中で生まれたものだったのです。
1572年の武田信玄の遠江侵攻で対立が決定的になった
元亀3年(1572年)、武田信玄は大軍を率いて徳川家康の勢力圏へ侵攻しました。
武田軍は複数の方面から遠江国や三河国へ進出し、徳川方の城や拠点を攻めていきます。
この軍事行動は、信玄の晩年に行われた大規模な遠征として知られています。
家康にとって遠江国は、三河国とともに領国を支える重要な地域でした。
そのため、武田軍の侵攻は家康の支配を直接脅かすものとなりました。
信玄は遠江国の二俣城を攻略し、さらに浜松城の近くまで軍を進めます。
こうして、かつて今川氏をめぐって協力した二人は、三方ヶ原の戦いで直接対決することになったのです。
では、武田信玄と徳川家康が戦った三方ヶ原の戦いでは、どちらが勝利したのでしょうか。
次の章では、戦いの経緯と勝敗を見てみましょう。
武田信玄と徳川家康の戦いは?三方ヶ原での勝敗
武田信玄と徳川家康が直接対決した代表的な合戦が、元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いです。
この戦いでは、武田信玄が率いる武田軍が勝利し、徳川家康の軍勢は大きな損害を受けました。
家康にとっては、生涯でも特に厳しい敗戦の一つとして知られています。
では、どのような経緯で両軍は戦うことになったのでしょうか。
三方ヶ原の戦いは1572年に遠江国で起こった
三方ヶ原の戦いが起こったのは、元亀3年12月22日(旧暦)です。
戦場となった三方ヶ原は、現在の静岡県浜松市に広がる台地の一帯にあたります。
当時、徳川家康は浜松城を本拠として遠江国の支配を進めていました。
一方、武田信玄は甲斐国や信濃国を中心とする勢力を背景に、遠江国へ軍を進めていました。
武田軍は徳川方の二俣城を攻略した後、浜松城の北方を通って進軍します。
家康は浜松城から出陣し、三方ヶ原で武田軍と戦うことになりました。
このとき、武田軍は徳川軍を上回る兵力を擁していたと伝えられています。
ただし、両軍の具体的な兵数については史料によって違いがあります。

1572年の三方ヶ原の戦いでは武田軍が勝利し、徳川家康は浜松城へ退却しました。(想像図)
三方ヶ原の戦いの勝敗は武田信玄の勝利
三方ヶ原で両軍が衝突すると、徳川軍は武田軍の攻撃を受けて敗れました。
徳川方では多くの将兵が命を落とし、家康自身も浜松城へ退却することになります。
この戦いでは、本多忠真や夏目吉信、成瀬正義ら徳川方の家臣が命を落としたと伝えられています。
また、家康の身代わりとなった家臣の逸話なども残されています。
ただし、こうした逸話には後世の軍記物語などによって広まったものもあり、戦いの経過と分けて見る必要があります。
結果として、三方ヶ原の戦いは武田信玄の勝利、徳川家康の敗北に終わりました。
勝利した信玄はなぜ浜松城を攻めなかった?
三方ヶ原の戦いに勝利した武田信玄ですが、その勢いのまま浜松城を攻略したわけではありません。
家康は浜松城へ退却し、武田軍も城を包囲して攻め落とすことなく、その後の軍事行動を続けています。
浜松城を攻めなかった理由については、武田軍の進軍目的や城攻めに必要な時間、周辺の軍事情勢などが関係していたと考えられます。
一方、家康が城門を開けて敵を誘い込もうとしたという「空城の計」の逸話も知られています。
ただし、この話を当時の出来事として確実に裏付ける史料があるわけではありません。
三方ヶ原の戦いで勝利した信玄は、翌年にかけて三河方面へ軍事行動を続けました。
しかし、元亀4年(1573年)4月、信玄は遠征の途中で亡くなります。
そのため、信玄と家康が再び大規模な合戦で直接対決することはありませんでした。
では、徳川家康はなぜ三方ヶ原の戦いで敗れたのでしょうか。
次の章では、兵力差や戦場での判断などから、その背景を見てみましょう。
徳川家康は三方ヶ原でなぜ負けた?
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いで、徳川家康は武田信玄に敗れました。
では、なぜ家康は敗北したのでしょうか。
その理由として注目されるのが、両軍の兵力差、家康が浜松城から出陣した判断、そして武田軍の戦闘経験です。
ただし、当日の詳しい戦闘経過には不明な部分もあり、敗因を一つだけに絞ることはできません。
それぞれの要因を見てみましょう。
武田軍と徳川軍には大きな兵力差があった
三方ヶ原の戦いでは、武田信玄の軍勢が徳川家康の軍勢を兵力で上回っていたと伝えられています。
一般的には、武田軍が約2万5千~3万人、徳川・織田連合軍が約1万1千人という数字が紹介されることがあります。
ただし、これらは軍記物などに基づく推定を含み、実際の人数が正確に確認されているわけではありません。
それでも、武田軍が兵力面で優位に立っていたことは、戦いの結果を考えるうえで重要な点です。
徳川軍には織田信長からの援軍も加わっていましたが、信玄の大軍と正面から戦うには厳しい状況だったと考えられます。
家康はなぜ浜松城から出陣したのか
三方ヶ原の戦いで注目されるのが、徳川家康が浜松城にとどまらず、武田軍を追うように出陣したことです。
武田軍は二俣城を攻略した後、浜松城の近くを通って進軍しました。
家康は浜松城から軍を出し、三方ヶ原で武田軍と戦うことになります。
後世の軍記物語などでは、信玄が浜松城を素通りしたため、家康が挑発されたように出陣したという話も伝わっています。
しかし、家康の出陣を単なる怒りや意地だけで説明するのは難しいところです。
武田軍の進軍を放置すれば、遠江国の支配や周辺の城に影響が及ぶ可能性もありました。
そのため、家康には武田軍の動きを阻止したいという軍事的な事情もあったと考えられます。
結果として、兵力で劣る徳川軍が野戦で武田軍と戦うことになった点は、敗北につながる大きな要因でした。
武田軍の戦い方と信玄の経験も影響した
武田信玄は、長年にわたって信濃国などで合戦を重ね、上杉謙信との川中島の戦いも経験していました。
武田軍には、山県昌景や馬場信春など、各地の戦いを経験してきた家臣たちがいました。
三方ヶ原の戦いでも、こうした武田軍の軍事力が発揮されたと考えられます。
この合戦では、武田軍が魚鱗の陣、徳川軍が鶴翼の陣を敷いたという説明がよく知られています。
魚鱗の陣は中央を厚くした陣形、鶴翼の陣は左右に軍勢を広げた陣形です。
ただし、これらの陣形が実際に当日の戦場で使われたかどうかは、同時代の史料から十分に確認できるわけではありません。
そのため、陣形の違いだけで武田軍の勝利を説明するのは避けたいところです。
むしろ、兵力の優位に加え、信玄が率いる武田軍の組織力や戦場での対応が、勝敗に影響した可能性を考える方が自然でしょう。
こうして見てみると、家康の敗北には複数の要因が重なっていたことがわかります。
一方、この敗戦にまつわる家康の姿は、後世さまざまな逸話として語り継がれてきました。
次の章では、三方ヶ原の戦いに関連する有名な伝説について見てみましょう。
三方ヶ原の戦いで家康が脱糞した伝説は本当?
三方ヶ原の戦いには、徳川家康が敗走中に恐怖のあまり脱糞したという有名な逸話があります。
武田信玄に敗れた家康の姿を伝える話として、現在でもよく紹介されています。
しかし、家康が実際に脱糞したことを裏付ける確かな同時代史料は確認されていません。
この話は、三方ヶ原の敗戦をめぐって後世に広まった逸話として見る必要があります。
では、どのような内容が伝えられているのでしょうか。
家康が敗走中に脱糞したという逸話
三方ヶ原の戦いで武田軍に敗れた家康は、浜松城へ退却しました。
この敗走の際、家康が恐怖のあまり馬上で脱糞してしまったという話が伝わっています。
さらに、家臣からそのことを指摘されると、家康は「これは味噌だ」と言い返したという逸話も知られています。
なお、江戸時代に成立した『三河後風土記』には、家康の脱糞に関する類似の逸話が見られますが、そこでは三方ヶ原ではなく一言坂の戦いに結び付けられています。
そのため、三方ヶ原からの敗走中に脱糞したという有名な話を、そのまま史実として扱うことはできません。
三方ヶ原の戦いで徳川軍が敗北し、家康が浜松城へ退却したことと、脱糞の逸話は分けて考えたいところです。
脱糞したという話そのものを史実として断定することはできません。
有名な「しかみ像」は敗戦直後に描かれたもの?
三方ヶ原の戦いに関連して、もう一つよく知られているのが「徳川家康三方ヶ原戦役画像」、通称「しかみ像」です。
家康が片膝を立て、険しい表情を浮かべて座る姿が描かれています。
この絵については、三方ヶ原の敗戦を忘れないように、家康が自らの惨めな姿を描かせたという話が広く知られています。
しかし、この画像が三方ヶ原の敗戦直後に描かれたという伝承には、確かな裏付けがありません。
現在では、制作年代や描かれた人物の解釈も含め、従来の説明を見直す研究が進んでいます。
そのため、「しかみ像」を家康が敗戦の反省のために描かせた肖像画として紹介する場合には注意が必要です。
三方ヶ原の敗戦は家康に何を残したのか
脱糞伝説や「しかみ像」の由来には不確かな部分がありますが、三方ヶ原の戦いが家康にとって大きな敗北だったことは確かです。
武田軍の侵攻によって遠江国の支配が脅かされ、家康は多くの家臣を失いました。
一方、武田信玄はこの戦いで勝利したものの、翌1573年に亡くなります。
その後も徳川氏と武田氏の対立は続き、天正3年(1575年)には長篠の戦いが起こりました。
家康は武田氏との戦いを重ねながら勢力を維持し、やがて天下統一へと進んでいきます。
三方ヶ原の敗戦を家康がどのように受け止めたのか、その心の内を詳しく知ることはできません。
それでも、武田信玄との戦いが家康の生涯における重要な出来事だったことは間違いないでしょう。
では、信玄の死後、家康と武田家の関係はどう変わったのでしょうか。
次の章では、武田勝頼との戦いから武田家滅亡後までをたどってみましょう。
武田信玄の死後、徳川家康と武田家はどうなった?
元亀4年(1573年)4月、武田信玄は遠征の途中で亡くなりました。
三方ヶ原の戦いで徳川家康を破ってから、わずか数か月後のことです。
しかし、信玄が亡くなったからといって、徳川氏と武田氏の戦いが終わったわけではありません。
武田家は息子の武田勝頼が継ぎ、家康との対立はその後も続きました。
さらに、武田家が滅亡した後には、旧武田家臣が徳川家に仕えるという新しい関係も生まれます。
その流れを見てみましょう。
武田信玄の死後は武田勝頼が家督を継いだ
武田信玄の死後、武田家の実権を握ったのは息子の武田勝頼でした。
勝頼は信玄が築いた領国と軍事力を引き継ぎ、引き続き徳川氏や織田氏と対立します。
天正2年(1574年)には、徳川方の重要な拠点だった遠江国の高天神城を攻略しました。
高天神城は遠江国の支配に関わる重要な城であり、その落城は家康にとって大きな痛手となりました。
つまり、信玄の死後も武田家は強い軍事力を維持し、徳川領への圧力をかけ続けていたのです。
家康にとって、信玄に代わって武田勝頼が新たな脅威となったことがわかります。
長篠の戦いで徳川・織田連合軍が武田勝頼に勝利
天正3年(1575年)、武田勝頼は三河国へ侵攻し、長篠城を攻めました。
長篠城を救援するため、徳川家康と織田信長は連合軍を編成し、武田軍と戦うことになります。
これが長篠の戦いです。
戦いの結果、徳川・織田連合軍が勝利し、武田軍は大きな損害を受けました。
武田方では山県昌景や馬場信春、内藤昌秀など、信玄の時代から活躍した有力家臣が命を落としています。
三方ヶ原の戦いでは信玄に敗れた家康でしたが、長篠の戦いでは勝頼の軍勢に勝利する側となりました。
ただし、この敗戦だけで武田家が直ちに滅亡したわけではありません。
勝頼はその後も領国の維持を図り、徳川氏との戦いを続けました。
1582年に武田家が滅亡し、旧武田家臣が徳川家へ
天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康は武田領への攻勢を強めました。
織田軍を中心とする侵攻によって武田氏の支配体制は崩れ、武田勝頼は天目山付近で最期を迎えます。
これにより、戦国大名としての武田家は滅亡しました。
その後、同じ年に本能寺の変が起こり、織田信長が命を落とします。
旧武田領では支配をめぐる争いが起こり、家康も甲斐国や信濃国へ勢力を広げていきました。
この過程で、家康は武田家に仕えていた家臣たちを召し抱えています。
特に知られているのが、井伊直政の配下に組み込まれた旧武田家臣たちです。
天正10年(1582年)、家康は武田家の旧臣を井伊直政に付属させ、直政を侍大将に取り立てました。
こうした旧臣の登用は、徳川家の軍事力を整えるうえでも重要な役割を果たしました。
また、武田家の旧臣を中心とする部隊の編成なども進められました。
こうして、かつて敵対していた武田家の人材や軍事的な伝統の一部が、徳川家に受け継がれていったのです。

武田家滅亡後、徳川家康は旧武田家臣を登用し、自らの家臣団に組み入れていきました。(想像図)
家康は武田家の軍制や人材をどう生かした?
徳川家康は、武田家滅亡後に旧武田家臣を登用し、自らの軍事力や領国支配に役立てました。
その代表的な例として知られるのが、武田家ゆかりの赤備えです。
赤備えとは、甲冑や武具を赤色で統一した部隊のことで、武田家では飯富虎昌や山県昌景らの部隊が知られています。
徳川家では、井伊直政が赤備えを率いるようになりました。
井伊の赤備えには、旧武田家臣も組み込まれたとされています。
ただし、井伊の赤備えが武田家の部隊をそのまま引き継いだというわけではなく、徳川家の軍制の中で新たに編成されたものです。
それでも、かつて信玄と家康が敵対したことを考えると、興味深い変化ではないでしょうか。
武田信玄との戦いを経験した徳川家康は、後に武田家の旧臣を自らの家臣団に迎え入れたのです。
このように、信玄と家康の関係は、協力から敵対へ、さらに信玄の死後には旧武田家臣の登用へとつながっていきました。
戦国時代の大名同士の関係が、単純な勝敗だけでは終わらなかったことを感じさせる歴史です。
武田信玄は徳川家康をどう評価していた?
武田信玄は、徳川家康をどのような武将だと考えていたのでしょうか。
二人は今川氏の領国をめぐって協力した時期があり、その後は三方ヶ原の戦いで敵対しました。
ただし、信玄が家康の能力や人物像を具体的にどう評価していたのかについては、直接確認できる記録が限られています。
そこで、信玄の行動や二人の関係から考えてみましょう。
信玄は家康を今川氏攻略の協力相手とした
永禄11年(1568年)、武田信玄と徳川家康は今川氏の領国への進出をめぐって協調しました。
信玄は駿河国、家康は遠江国を目指して軍事行動を進めています。
当時の家康は、三河国の支配を固め、織田信長とも同盟を結んでいました。
信玄にとって家康は、今川氏を攻めるうえで利害が一致する相手だったと考えられます。
もっとも、協力したことが、そのまま家康の武将としての能力を高く評価していた証拠になるわけではありません。
戦国大名同士の協力関係には、領土や外交上の利益が大きく関わっていたからです。
三方ヶ原の戦いでは家康を軍事的な敵として攻めた
その後、信玄と家康の関係は悪化し、元亀3年(1572年)には武田軍が徳川領へ侵攻しました。
信玄は遠江国の二俣城を攻略し、三方ヶ原の戦いで家康の軍勢を破っています。
この戦いは、家康の支配する遠江国に大きな脅威を与えました。
信玄の軍事行動からは、家康の領国を攻略対象として重視していたことがうかがえます。
一方で、家康を特別に恐れていた、あるいは高く評価していたといった心情までは、この戦いの結果だけではわかりません。
信玄が家康を称賛したという話は本当?
戦国武将には、敵将の勇気や能力を称賛したという逸話が数多く残されています。
武田信玄と徳川家康についても、後世の物語などでは互いを意識する武将として描かれることがあります。
しかし、信玄が家康をどのような言葉で評価したのかについて、広く知られる逸話をそのまま本人の発言として扱うことには注意が必要です。
信玄が家康をどう思っていたのかを考える際には、後世の人物評よりも、協力から敵対へと変化した実際の関係に目を向けたいところです。
信玄にとって家康は、状況によって協力相手にも敵にもなる、東海地方の重要な戦国大名だったのでしょう。
徳川家康は武田信玄を尊敬していた?
徳川家康は、三方ヶ原の戦いで自分を破った武田信玄を尊敬していたのでしょうか。
この話題でよく取り上げられるのが、武田家滅亡後に家康が旧武田家臣を召し抱えたことです。
また、徳川家では武田家ゆかりの赤備えも取り入れられました。
こうした行動から、家康が武田家の人材や軍事的な伝統を評価していたことがうかがえます。
ただし、それが信玄個人への尊敬を直接示すものなのか、順番に見てみましょう。
家康は武田家の旧臣を積極的に登用した
天正10年(1582年)、武田勝頼が滅び、戦国大名としての武田家は終わりを迎えました。
その後、本能寺の変によって織田信長が亡くなると、旧武田領をめぐる争いが起こります。
徳川家康も甲斐国や信濃国へ勢力を伸ばし、その過程で旧武田家臣を召し抱えました。
かつて武田軍と戦った家康が、今度は武田家に仕えていた人々を自らの家臣団に迎えたのです。
これは領国を安定させ、軍事力を充実させるためにも意味のある政策でした。
家康が敵対していた家の人材を活用したことは、戦国大名としての現実的な判断だったと考えられます。
井伊直政の赤備えには武田家の伝統が見られる
家康が武田家の軍事的な伝統を取り入れた例として知られるのが、井伊直政の赤備えです。
武田家では、飯富虎昌や山県昌景らが赤い甲冑や武具を用いた部隊を率いたことで知られています。
武田家滅亡後、徳川家に仕えた井伊直政も赤備えを編成しました。
井伊の部隊には旧武田家臣も加わり、後に「井伊の赤備え」として知られるようになります。
もちろん、井伊の赤備えは武田家の部隊をそのまま移したものではありません。
それでも、武田家で培われた軍事的な伝統が徳川家の中で生かされたことは興味深いところです。
かつて信玄に敗れた家康が、その後に武田家ゆかりの人材を活用したという点に、歴史の面白さを感じます。
家康が信玄を尊敬していたという説をどう見る?
徳川家康が武田信玄を尊敬していたという話は、歴史に関心のある人なら一度は耳にしたことがあるかもしれません。
三方ヶ原で大敗した相手の家臣や軍事的な伝統を取り入れたことから、家康が信玄の力量を認めていたと考える見方があります。
実際、武田家の旧臣を登用したことは、家康がその人材を有用だと判断していたことを示しています。
しかし、それだけで信玄個人を尊敬していたとまでは言い切れません。
家康が信玄をどのような言葉で評価し、どのような感情を抱いていたのかについては、慎重に考える必要があります。
それでも、かつての敵であっても優れた人材や役立つ仕組みを取り入れたという家康の行動は注目したいところです。
信玄と家康の関係は、三方ヶ原の勝敗だけで終わらず、武田家滅亡後の徳川家にもつながっていたのです。
まとめ|武田信玄と徳川家康の関係を振り返る
武田信玄と徳川家康は、三方ヶ原の戦いで激突したことで知られています。
しかし、二人は最初から敵対していたわけではありません。
今川氏の領国をめぐって協力した時期があり、その後、領土や外交関係の変化によって敵対するようになりました。
今回の内容を振り返ってみましょう。
- 武田信玄は徳川家康より約21歳年上だった。
- 1568年には今川氏の領国への進出をめぐって協調した。
- 領土をめぐる利害や外交関係の変化から敵対した。
- 1572年の三方ヶ原の戦いでは武田信玄が勝利した。
- 信玄の死後も、家康と武田勝頼の戦いは続いた。
- 武田家滅亡後、家康は旧武田家臣を登用した。
特に興味深いのは、家康がかつて敵対した武田家の人材や軍事的な伝統を、後に取り入れたことです。
家康が信玄をどこまで尊敬していたのかはわかりませんが、武田家の人材を評価していたことは、その行動からうかがえます。
協力から敵対へ、そして武田家滅亡後の新たなつながりへ。
信玄と家康の関係は、戦国時代の複雑な人間関係や勢力争いを映し出しているように感じます。
二人の歴史をたどると、三方ヶ原の勝敗だけでは見えてこない戦国時代の面白さが伝わってきます。
参考資料
- 太田牛一『信長公記』
- 大久保彦左衛門『三河物語』
- 『甲陽軍鑑』
- 平山優『武田信玄』吉川弘文館
- 平山優『武田勝頼』戎光祥出版
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』平凡社
- 国立公文書館デジタルアーカイブ
- 徳川美術館の所蔵品・研究情報
※軍記物語や後世の編纂史料に残る逸話については、史実として確認できる出来事と区別して紹介しています。
※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。


















