武田信玄の妻は何人?正室・側室一覧と子供の母親を紹介

武田信玄と妻たちをイメージした戦国時代の武田家の館のイラスト

戦国時代の名将として知られる武田信玄には、何人の妻がいたのでしょうか。
正室として有名な三条夫人のほか、武田勝頼の母となった諏訪御料人など、信玄の生涯には複数の女性が登場します。

また、信玄には三条夫人より前に迎えた妻もおり、正室と側室の区別や人数の数え方には注意が必要です。

この記事では、武田信玄の妻の人数と名前を一覧で確認し、正室・側室それぞれの人物像や、子供たちとの関係をたどってみます。
武田家の家族関係を通して、信玄の生涯を別の角度から見てみましょう。

武田信玄の妻は何人?正室・側室を一覧で確認

武田信玄には、何人の妻がいたのでしょうか。

武田信玄の妻としては、上杉朝興の娘、三条夫人、諏訪御料人、油川夫人、禰津御寮人の5人がよく知られています。

歴史研究者の黒田基樹氏は、信玄の婚姻関係を正妻・別妻・妾という立場から整理しています。

当時の婚姻関係は現在の「正室と側室」という区分だけでは捉えきれないため、妻の人数や立場については史料に沿って見ていく必要があります。

ただし、戦国時代の婚姻関係は現在とは異なり、正室・側室という区分だけでは整理しきれない部分もあります。

武田信玄の妻の名前と立場一覧

まずは、信玄の妻として知られる女性たちを一覧表で見てみましょう。

名前立場主な関係
上杉朝興の娘(上杉の方)最初の妻扇谷上杉氏との婚姻
三条夫人(三条の方)正室武田義信らの母
諏訪御料人側室・別妻武田勝頼の母
油川夫人側室・別妻仁科盛信らの母とされる
禰津御寮人側室など武田信清の母とされる

※女性たちの呼び名や立場は、史料や研究によって異なる場合があります。

妻は5人と考えてよいのか?

武田信玄の妻については、歴史研究者の黒田基樹氏が著書『武田信玄の妻、三条殿』で、正妻1人・別妻3人・妾1人という構成を取り上げています。

このように、信玄の妻や婚姻関係にあった女性は、5人を基本として紹介されることがあります。

ただし、すべての女性の生涯や婚姻関係が詳しく記録されているわけではありません。

そのため、信玄の妻が生涯で厳密に5人だけだったとまでは言い切れません。

正室と側室の違いは?

正室とは、一般に武家の正式な妻として中心的な立場にあった女性を指します。

一方、側室は正室以外に婚姻関係を結んだ女性を説明する際によく使われる言葉です。

ただし、戦国時代には別妻などの立場もあり、現代の正室・側室という区分がそのまま当てはまるとは限りません。

武田信玄の場合、三条夫人が武田家の正妻として重要な立場にあり、諏訪御料人などの女性たちも武田家の家族関係に深く関わっていました。

それぞれの妻の出自や子供たちとの関係をたどると、武田家が周辺の有力氏族と結んだ関係も見えてきます。

武田信玄の息子や娘については、武田信玄の子供一覧と武田勝頼の生涯で紹介しています。

武田信玄の最初の妻は上杉朝興の娘

武田信玄の妻として最もよく知られているのは三条夫人ですが、実はそれ以前にも結婚していました。

最初の妻は、武蔵国の有力武将だった上杉朝興(うえすぎともおき)の娘です。

1533年に扇谷上杉氏の娘を妻に迎えた

天文2年(1533年)、信玄は数え年13歳のときに、扇谷上杉氏の当主・上杉朝興の娘を妻に迎えました。

この頃の信玄はまだ元服前で、後に名乗る「晴信」という名前になる以前のことです。

上杉朝興は武蔵国の河越城を拠点とし、関東で勢力を広げていた北条氏綱と対立していました。

一方、甲斐国の武田信虎も北条氏との対立を抱えていたため、両家には協力する理由がありました。

この婚姻は、武田氏と扇谷上杉氏の結びつきを強める政略結婚だったと考えられています。

最初の妻は1534年に亡くなった

ところが、この結婚生活は長く続きませんでした。

最初の妻は天文3年(1534年)、出産に関わる時期に亡くなったと伝えられています。

子供も助からなかったとされますが、詳しい経緯については記録が限られています。

当時の記録である『勝山記』にも、河越から迎えた妻が懐妊して亡くなったことが記されています。

一般には出産に伴って母子ともに亡くなったと紹介されることもありますが、記録から詳しい経緯まで明らかになるわけではありません。

信玄はまだ数え年14歳でした。

若くして最初の妻を失うことになったのです。

その後、三条夫人を新たな妻に迎えた

最初の妻との死別後、信玄は天文5年(1536年)に京都の公家・三条公頼の娘を妻に迎えました。

この女性が、後に武田信玄の正室として知られる三条夫人です。

三条夫人との婚姻によって、武田家は京都の公家社会とのつながりを持つことになりました。

最初の妻が関東の有力武将の娘だったのに対し、三条夫人は京都の公家の娘でした。

二つの婚姻を比べると、武田家が関東の武将だけでなく、京都の有力な家とも関係を築こうとしていた様子が見えてきます。

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武田信玄の正室・三条夫人とはどんな女性?

武田信玄の正室として知られる三条夫人は、京都の公家・三条公頼の娘です。

大永元年(1521年)に生まれ、天文5年(1536年)に武田晴信(後の信玄)へ嫁いだとされています。

三条夫人は武田家の正妻として、家族や婚姻関係の中心にいた女性でした。

京都の公家出身の三条夫人が武田信玄に嫁ぐため甲斐へ向かう婚礼の一行のイメージイラスト

三条夫人は京都の公家・三条公頼の娘で、1536年に武田晴信(後の信玄)へ嫁ぎました。(想像図)

三条夫人は京都の公家・三条公頼の娘

三条夫人の父・三条公頼は、京都の公家社会で高い家格を持つ三条家の人物でした。

三条家は清華家と呼ばれる家柄の一つで、公家社会でも重要な位置にありました。

三条夫人と信玄の結婚には、今川義元の仲介があったと伝えられています。

京都の公家出身である三条夫人との婚姻は、武田家と公家社会との関係を考えるうえでも重要な出来事でした。

三条夫人は武田義信ら3男2女の母となった

三条夫人は信玄との間に、3人の息子と2人の娘、合わせて5人の子供をもうけました。

その子供たちを一覧で確認してみましょう。

名前続柄主な出来事
武田義信長男武田家の嫡男となるが、後に廃嫡された
海野信親(龍芳)次男海野氏の名跡を継ぎ、武田家の血筋を後世に伝えた
武田信之三男若くして亡くなった
黄梅院長女北条氏政に嫁いだ
見性院次女穴山信君に嫁いだ

長男の義信は武田家の後継者として期待されましたが、永禄8年(1565年)の事件を経て廃嫡され、永禄10年(1567年)に亡くなりました。

また、長女の黄梅院は北条氏政に嫁ぎましたが、武田氏と北条氏の関係悪化によって婚姻関係が解消され、永禄12年(1569年)に亡くなっています。

三条夫人の子供たちは、武田家の家督継承や周辺大名との婚姻関係に深く関わっていました。

信玄と三条夫人の夫婦仲は悪かったのか?

三条夫人については、信玄との仲が悪かったという印象を持つ人もいるかもしれません。

しかし、夫婦仲が悪かったと断定できる確かな史料は確認されていません。

三条夫人は武田家の正妻として長く暮らし、5人の子供をもうけました。

後世の小説やドラマでは、夫婦関係が物語として描かれることもありますが、その人物像と史実は分けて考える必要があります。

実際にどのような夫婦関係だったのか、詳しい日常の様子まではわかっていません。

三条夫人の晩年と1570年の死去

三条夫人は元亀元年(1570年)、数え年50歳で亡くなりました。

晩年には、長男義信の死や長女黄梅院の死など、家族に関わる大きな出来事が続きました。

三条夫人の墓所は、現在の山梨県甲府市にある円光院にあります。

葬儀に際しては、武田家と関わりの深かった僧・快川紹喜が追悼の言葉を残したことでも知られています。

三条夫人の生涯を振り返ると、武田信玄の妻という立場だけでなく、武田家の後継者や外交を支える家族の中心にいた女性だったことが見えてきます。

武田信玄の側室・諏訪御料人と武田勝頼の関係

武田信玄の側室として知られる諏訪御料人(すわごりょうにん)は、信濃国の有力武将・諏訪頼重の娘です。

後に武田家の家督を継ぐ武田勝頼の母親としても知られています。

ただし、諏訪御料人という呼び名は通称であり、本人の実名は伝わっていません。

諏訪御料人は諏訪頼重の娘だった

諏訪御料人の父・諏訪頼重は、信濃国の諏訪地方を治めていた武将です。

諏訪氏は諏訪大社とも深い関係を持ち、地域で大きな影響力を持っていました。

もともと武田氏と諏訪氏は婚姻による結びつきがあり、信玄の妹・禰々(ねね)は諏訪頼重に嫁いでいました。

しかし、天文11年(1542年)、武田晴信は諏訪地方へ侵攻します。

諏訪頼重は武田方に降伏した後、甲斐国へ送られ、命を落としました。

その後、諏訪頼重の娘が晴信の側室として迎えられたのです。

この婚姻には、諏訪氏の旧領を支配していく武田家の政治的な事情も関係していたと考えられます。

1546年に武田勝頼を出産した

諏訪御料人は天文15年(1546年)、武田晴信との間に男の子を産みました。

この子が、後に武田家の当主となる武田勝頼です。

勝頼は信玄の四男として生まれ、後に母方の諏訪氏の名跡を継ぐ立場となりました。

諏訪四郎勝頼と名乗り、高遠城を拠点に活動しました。

そのため、諏訪四郎勝頼と名乗り、信濃国の高遠城を拠点として活動するようになります。

当時の武田家では、正室・三条夫人が産んだ長男の武田義信が後継者と考えられていました。

しかし、義信が後に廃嫡されると、勝頼の立場は大きく変わります。

元亀4年(1573年)に信玄が亡くなると、勝頼が武田家を継ぐことになりました。

諏訪御料人と幼い武田勝頼をイメージした戦国時代の母子の情景イラスト

諏訪御料人は武田勝頼の母親として知られています。母子の日常を想像した情景です。(イメージイラスト)

諏訪御料人は1555年に亡くなった

諏訪御料人は弘治元年(1555年)11月6日に亡くなったと伝えられています。

この日付は、禅僧の記録である『鉄山録』から確認されています。

生まれた年ははっきりしておらず、亡くなったときの年齢も確定していません。

また、死因についても詳しいことはわかっていません。

諏訪御料人の墓所は、長野県伊那市高遠町の建福寺に伝わっています。

勝頼は母を弔うため、この寺を菩提寺としたとされています。

諏訪御料人は若くして亡くなりましたが、その子・勝頼が武田家を継いだことで、諏訪氏と武田氏を結ぶ重要な女性として歴史に名を残しました。

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武田信玄の側室には誰がいた?油川夫人などを紹介

武田信玄の側室として知られる女性には、諏訪御料人のほかに油川夫人と禰津御寮人がいます。

いずれも武田家と関係の深い家の出身で、信玄の子供たちの母親としても知られています。

ただし、当時の女性に関する記録は限られており、出自や子供との関係には、後世の系図などをもとに伝えられている部分もあります。

油川夫人は仁科盛信や松姫の母親

油川夫人(あぶらかわふじん)は、甲斐武田氏の一族である油川氏の出身とされる女性です。

油川夫人は甲斐武田氏の一族にあたる油川氏の出身とされますが、父親の比定など詳しい出自については史料の検討が必要です。

油川夫人は、仁科盛信・菊姫・松姫らの母親として知られています。

葛山信貞についても油川夫人の子とする系譜がありますが、子供の母親の記載には資料による違いがあるため、区別して見ていきましょう。

仁科盛信は信玄の五男で、信濃国の仁科氏を継ぎました。

天正10年(1582年)の武田氏滅亡に際しては、高遠城で織田軍を迎え撃ち、命を落としています。

葛山信貞は信玄の六男とされ、駿河国の葛山氏の名跡を継ぎました。

娘の菊姫は、後に上杉景勝の正室となった女性です。

また、松姫は織田信長の嫡男・織田信忠と婚約しましたが、武田氏と織田氏の関係悪化によって婚姻は実現しませんでした。

油川夫人は元亀2年(1571年)に亡くなったとされています。

その子供たちの歩みを見ると、武田家が周辺の有力氏族と結んだ関係も見えてきます。

禰津御寮人は武田信清の母親とされる

禰津御寮人(ねづごりょうにん)は、信濃国小県郡を本拠地とした禰津氏の出身とされる女性です。

禰津氏は信濃国の有力な国衆の一つで、武田氏とも関係を持っていました。

禰津御寮人は、信玄の七男とされる武田信清の母親として知られています。

武田信清は、後に安田氏の名跡を継いだことから、安田信清とも呼ばれます。

天正10年(1582年)に武田氏が滅亡した後も生き延び、後に上杉氏に仕えたと伝えられています。

ただし、禰津御寮人の生涯については記録が少なく、信玄との婚姻時期や詳しい暮らしぶりまでは明らかになっていません。

そのほかにも側室はいたのか?

武田信玄の妻としては、最初の妻である上杉朝興の娘、正室の三条夫人、諏訪御料人、油川夫人、禰津御寮人の5人がよく知られています。

しかし、これらの女性以外にも側室がいた可能性はあります。

信玄の子供のなかには母親が明確でない人物もおり、後世に作られた系図によって記載が異なる場合もあるためです。

また、戦国時代の婚姻関係には、正妻・別妻・妾など、現在の正室と側室だけでは整理しきれない立場がありました。

そのため、名前が知られている5人を紹介することと、信玄の妻が生涯で5人だけだったと断定することは分けて考える必要があります。

次の章では、信玄の息子と娘を一覧にして、それぞれの母親との関係を確認してみましょう。

武田信玄の子供は何人?母親との関係を一覧で紹介

武田信玄には、何人の子供がいたのでしょうか。

武田信玄の子供について、歴史研究者の黒田基樹氏は7男8女の計15人として整理しています。

ただし、子供の名前や母親については史料による違いがあり、すべての人物を同じ確実さで確認できるわけではありません。

ここでは、名前や婚姻関係が比較的よく知られている子供を中心に紹介します。

ただし、子供の名前や母親については、史料によって確認できる範囲に違いがあります。

武田信玄の息子7人と母親の一覧

まず、信玄の息子たちを生まれた順に見てみましょう。

続柄名前母親
長男武田義信三条夫人
次男海野信親(龍芳)三条夫人
三男武田信之三条夫人
四男武田勝頼諏訪御料人
五男仁科盛信油川夫人
六男葛山信貞油川夫人とされる
七男武田信清(安田信清)禰津御寮人とされる

※母親の記載には、後世の系図などに基づくものも含まれます。

長男の義信は当初、武田家の後継者として期待されていましたが、後に廃嫡されました。

その後、四男の勝頼が信玄の跡を継ぎ、武田家の当主となります。

また、五男の仁科盛信は1582年の高遠城の戦いで命を落とし、七男の信清は武田氏滅亡後も生き延びたと伝えられています。

武田信玄の娘たちと母親の関係

信玄の娘については、黄梅院・見性院・真竜院・菊姫・松姫などが知られています。

娘たちは周辺の大名や有力武将の家に嫁ぎ、武田家の外交にも関わりました。

名前母親主な関係
黄梅院三条夫人北条氏政に嫁いだ
見性院三条夫人穴山信君に嫁いだ
真竜院(真理姫)諸説あり木曾義昌に嫁いだ
菊姫油川夫人上杉景勝に嫁いだ
松姫油川夫人織田信忠と婚約した

※娘については、名前や婚姻関係が比較的よく知られる5人を掲載しています。
信玄の娘を8人とする研究がありますが、この表は8人全員を網羅したものではありません。
また、母親の比定には系譜による違いがあります。

特に黄梅院と菊姫は、武田家と周辺大名との関係を考えるうえで重要な人物です。

黄梅院は北条氏政に嫁ぎ、菊姫は上杉景勝の正室となりました。

一方、松姫は織田信忠と婚約していましたが、両家の関係が悪化したため、結婚には至りませんでした。

父・母・兄弟から妻や子供までの関係は、武田信玄の家系図で確認できます。

子供の母親がはっきりしない場合もある

武田信玄の子供たちについては、名前や母親がすべて明確になっているわけではありません。

特に娘たちは、本人の実名が伝わらず、嫁ぎ先や法名によって知られている場合があります。

また、後世にまとめられた系図では、同じ人物でも母親の記載が異なることがあります。

そのため、子供の人数と母親の関係は、確認できる史料の範囲を意識して見ることが大切です。

信玄の家族を振り返ると、三条夫人の子供だけでなく、諏訪御料人や油川夫人らの子供たちも、武田家の歴史に大きく関わっていたことがわかります。

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武田信玄の妻と子供から見る武田家の家系図

武田信玄の妻と子供たちの関係を見ていくと、武田家の家督継承や周辺大名との結びつきが見えてきます。

戦国大名にとって婚姻は家族の問題だけでなく、ほかの大名や有力氏族との関係を築く重要な手段でもありました。

武田信玄の妻と子供の家族関係

まず、信玄の妻と代表的な子供たちの関係を、家系図に近い形で整理してみましょう。

 

妻の名前主な子供武田家との関係
上杉朝興の娘出産時に子供も亡くなったと伝わる扇谷上杉氏との婚姻
三条夫人義信・信親・信之・黄梅院・見性院嫡男の義信を産んだ正室
諏訪御料人勝頼諏訪氏の血筋を受け継ぐ
油川夫人仁科盛信・葛山信貞・菊姫・松姫など武田一族や他家との関係に関わる
禰津御寮人信清とされる信濃の禰津氏との結びつき

※子供の母親については、後世の系図などに基づく伝承を含みます。

このように、信玄の子供たちは武田家にとどまるだけでなく、諏訪氏・仁科氏・葛山氏などの名跡を継いだり、周辺大名の家へ嫁いだりしました。

妻と子供たちの関係は、武田家の勢力を支える人脈にもつながっていたのです。

正室の長男・武田義信が後継者だった

武田信玄の後継者として、当初期待されていたのは長男の武田義信でした。

義信は正室・三条夫人の子として生まれ、武田家の嫡男という立場にありました。

また、義信は今川義元の娘を妻に迎えており、武田氏と今川氏の同盟関係にも関わっていました。

ところが永禄8年(1565年)、義信の周辺で信玄に対する謀反の計画があったとされる事件が起こります。

義信はその後、家督を継ぐ立場を失い、永禄10年(1567年)に亡くなりました。

この出来事によって、武田家の後継者をめぐる状況は大きく変わることになりました。

諏訪御料人の子・武田勝頼が家督を継いだ

義信が後継者の立場を失った後、武田家を継ぐことになったのが四男の武田勝頼です。

勝頼の母は諏訪御料人で、信濃国の諏訪氏につながる血筋を持っていました。

勝頼はもともと諏訪氏の名跡を継ぐ立場にあり、諏訪四郎勝頼と名乗っていました。

そのため、最初から武田家の後継者として育てられた義信とは、置かれていた立場が異なります。

元亀4年(1573年)に信玄が亡くなると、勝頼が武田家の領国経営と軍事を担うことになりました。

勝頼の家督継承の具体的な位置づけには研究上の議論もありますが、信玄の死後に武田家を率いた中心人物が勝頼だったことは確かです。

ただし、勝頼の家督継承の形式については研究上の議論があり、信玄の死後ただちに正式な家督相続が行われたと単純に整理できない面もあります。

それでも、義信に代わって勝頼が武田家を率いることになったのは確かです。

武田信玄の娘たちの婚姻をイメージした戦国時代の武家屋敷での婚礼準備のイラスト

武田信玄の娘たちは、北条氏や上杉氏などとの婚姻を通じて、大名同士の関係にも深く関わりました。(イメージイラスト)

娘たちの婚姻も武田家の外交に関わっていた

信玄の娘たちも、周辺大名との関係を築くうえで重要な役割を果たしました。

三条夫人の娘・黄梅院は北条氏政に嫁ぎ、武田氏と北条氏の関係を結ぶ存在となりました。

また、見性院は武田一族の穴山信君に嫁いでいます。

油川夫人の娘とされる菊姫は、信玄の死後、上杉景勝の正室となりました。

松姫は織田信忠と婚約しましたが、武田氏と織田氏の関係悪化によって結婚には至りませんでした。

こうして家族関係をたどると、武田信玄の妻や子供たちは、戦国時代の大名同士の関係にも深く結びついていたことがわかります。

武田信玄と妻たちの関係にまつわる逸話

武田信玄の妻たちは、歴史小説やテレビドラマにもたびたび登場します。

なかでも三条夫人と諏訪御料人は、信玄の生涯を描く作品では重要な女性として取り上げられてきました。

ただし、物語で描かれる夫婦関係や人物像が、そのまま史実とは限りません。

三条夫人と武田信玄は不仲だったのか?

武田信玄の正室・三条夫人については、信玄との仲が悪かったという話が知られています。

しかし、二人が不仲だったと断定できる確かな史料はありません。

三条夫人は京都の公家出身で、信玄との間に3男2女をもうけました。

長男の武田義信をはじめ、子供たちは武田家の後継者問題や周辺大名との婚姻に深く関わっています。

また、三条夫人が亡くなった際には、僧の快川紹喜が追悼の言葉を残しています。

こうした記録から、三条夫人が武田家のなかで重要な立場にあったことがうかがえます。

夫婦の日常生活について詳しい記録は残されていませんが、不仲説だけで三条夫人の人物像を決めてしまうのは避けたいところです。

諏訪御料人の「湖衣姫」「由布姫」は本名ではない

武田勝頼の母である諏訪御料人は、歴史小説などで「湖衣姫」や「由布姫」という名前でも知られています。

しかし、湖衣姫と由布姫は、史料で確認できる本人の実名ではありません。

湖衣姫は新田次郎の小説『武田信玄』で用いられた名前で、由布姫は井上靖の小説『風林火山』に登場する名前です。

諏訪御料人という呼び名も、本人の実名を示すものではなく、出自や立場に基づく呼称です。

実際にどのような名前で呼ばれていたのかは、現在のところ明らかになっていません。

小説やドラマでは、信玄との出会いや夫婦関係が印象的に描かれますが、そうした場面には作者による創作も含まれています。

ドラマに登場する側室の里美や八重は実在したのか?

武田信玄の側室について調べると、「里美」や「八重」という名前を見かけることがあります。

この二人は、1988年に放送されたNHK大河ドラマ『武田信玄』に登場する女性です。

ドラマでは里美が信玄の側室として描かれ、八重も物語の重要な場面に登場します。

しかし、ドラマに登場する名前が、そのまま歴史上の実名とは限りません。

武田信玄の妻については、三条夫人や諏訪御料人、油川夫人などの存在が知られていますが、里美や八重という名前の女性を、史料上の側室として確認することはできていません。

歴史ドラマには、実在した人物をもとにした設定や、物語のために創作された人物像が含まれることがあります。

里美と八重についても、ドラマの登場人物としての設定と、歴史上の武田家の女性たちを区別して見ることが大切です。

妻たちの生涯から見える武田信玄の家族関係

武田信玄の妻たちは、それぞれ異なる家の出身でした。

三条夫人は京都の公家、諏訪御料人は信濃の諏訪氏、油川夫人は甲斐武田氏の一族につながる女性とされています。

こうした婚姻には、武田家と周辺の有力な家との関係も深く結びついていました。

また、妻たちが産んだ子供は、武田家の後継者となったり、ほかの家の名跡を継いだり、周辺大名へ嫁いだりしています。

信玄の生涯というと合戦や領国拡大に目が向きますが、妻と子供たちの関係からも、戦国大名としての武田信玄の姿が見えてきます。

史実と後世の物語を区別しながら、妻たち一人ひとりの生涯をたどってみるのも興味深いところです。

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まとめ|武田信玄の妻と子供から見える武田家の歴史

武田信玄の妻について、正室・側室の名前や子供たちとの関係をたどってきました。

武田信玄の妻としてよく知られているのは、上杉朝興の娘、三条夫人、諏訪御料人、油川夫人、禰津御寮人の5人です。

ただし、当時の婚姻関係には正妻・別妻・妾といった立場の違いがあり、単純に正室1人と側室4人に分けられるものではありません。

ただし、当時の婚姻関係は複雑で、生涯に妻が5人だけだったと断定できるわけではありません。

今回の記事のポイントを振り返ってみましょう。

    • 最初の妻は扇谷上杉氏の上杉朝興の娘だった。
    • 正室の三条夫人は、武田義信ら3男2女の母となった。
    • 諏訪御料人は、信玄の跡を継いだ武田勝頼の母親だった。
    • 油川夫人は仁科盛信や菊姫、松姫らの母として知られる。
    • 禰津御寮人は、武田信清の母親とされている。
    • 信玄の子供は7男8女の計15人とする研究上の整理がある。
    • 甲斐市立図書館「黄梅院について」
    • 丸島和洋「武田勝頼の家督相続と宿老たち」山梨県立博物館『特別展 武田勝頼』展示図録、2025年

武田家では、当初は正室の長男・義信が後継者と考えられていました。

しかし、義信がその立場を失ったことで、諏訪御料人の子・勝頼が武田家を率いることになります。

また、娘たちの婚姻からは、北条氏や上杉氏など周辺大名との関係も見えてきます。

武田信玄の妻と子供たちの歴史は、武田家の家督継承や外交の歴史とも深く結びついていました。

合戦で知られる信玄ですが、その家族関係に目を向けてみると、また違った戦国時代の姿が見えてきます。

武田信玄の家族だけでなく、生涯や合戦、家臣団などをまとめて知りたい方は、武田信玄の生涯と人物像の総まとめもご覧ください。

参考資料

  • 黒田基樹『武田信玄の妻、三条殿』東京堂出版
  • 柴辻俊六『武田信玄合戦録』角川書店
  • 平山優『武田信玄』吉川弘文館
  • 山梨県立博物館「武田信玄」に関する展示・研究資料
  • 山梨県立図書館「武田氏・武田信玄」に関する郷土資料
  • 『甲陽軍鑑』

※武田信玄の妻や子供の人数、母親の比定には、史料や研究によって違いがあります。本文では確認できる範囲をもとに整理しています。

※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。

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