武田信玄の墓はどこ?恵林寺・甲府の墓所と火葬塚の謎をたどる

武田信玄の墓がある恵林寺をイメージした苔むした墓塔と静かな参道の歴史イラスト

戦国時代を代表する武将・武田信玄の墓は、いったいどこにあるのでしょうか。
山梨県甲州市の恵林寺がよく知られていますが、甲府市にも「武田信玄公墓所」があり、ほかにも信玄ゆかりの墓所や供養の場所が伝えられています。

信玄は1573年に亡くなりましたが、その死はしばらく伏せられたとされ、埋葬の経緯にもさまざまな伝承が残りました。
この記事では、恵林寺や甲府市の墓所をはじめ、火葬塚や諏訪湖の水中墓伝説、武田勝頼の墓所まで、信玄の最期にまつわる場所と歴史を一緒にたどってみましょう。

武田信玄の墓はどこ?主な墓所を一覧で紹介

武田信玄の墓としてよく知られているのは、山梨県甲州市の恵林寺にある墓所です。

恵林寺は信玄の菩提寺で、境内には山梨県指定史跡「武田晴信の墓」があります。

一方、甲府市岩窪町にも「武田信玄公墓所」があり、こちらは火葬塚とも呼ばれています。

さらに、長野県や愛知県などにも、信玄の最期や供養に関係する場所が残されています。

まずは、主な墓所と伝承地がどこにあるのかを一覧で見てみましょう。

武田信玄の主な墓所と伝承地一覧

墓所・ゆかりの場所所在地特徴
恵林寺山梨県甲州市塩山小屋敷信玄の菩提寺。県指定史跡「武田晴信の墓」がある
武田信玄公墓所(火葬塚)山梨県甲府市岩窪町信玄の遺体の安置・火葬に関する伝承が残り、江戸時代に墓所として整備された場所
長岳寺長野県下伊那郡阿智村信玄の遺骸を安置したという伝承があり、供養塔が残る
福田寺愛知県北設楽郡設楽町信玄の最期に関する伝承が残る寺院
高野山奥之院和歌山県高野町武田家ゆかりの供養塔がある
諏訪湖長野県諏訪地域信玄の遺体や棺を湖に沈めたという水中墓伝説がある

※一覧には、実際の墓所だけでなく、供養塔や伝承地も含めています。すべてが信玄の埋葬場所として確認されているわけではありません。

信玄の墓として特に知られるのは恵林寺と甲府市の墓所

一覧の中でも、まず押さえておきたいのが恵林寺と甲府市岩窪町の2か所です。

恵林寺では、信玄が亡くなってから約3年後の天正4年(1576年)に葬儀が営まれました。

境内には五輪塔と宝篋印塔からなる墓所があり、現在の石塔は江戸時代に再建されたものとされています。

一方、甲府市岩窪町の墓所には、信玄の死を秘密にしていた期間に遺体を安置したという伝承が残ります。

また、火葬が行われた場所とも伝えられているため、火葬塚の名でも知られています。

恵林寺は葬儀が営まれた菩提寺、岩窪町は遺体の安置や火葬に関係すると伝わる場所という違いがあります。

墓所が各地に残る背景には信玄の死を秘した歴史がある

武田信玄は元亀4年(1573年)4月12日、甲斐へ戻る途中の信濃国駒場で亡くなったとされています。

しかし、その死はすぐには公表されず、約3年間にわたって伏せられたと伝えられています。

当時の武田家にとって、信玄の死が周辺大名に知られることは、領国の安全にも関わる重大な問題でした。

こうした事情もあって、信玄の遺体がどこに安置され、どのように葬られたのかについて、各地に異なる伝承が残りました。

それでは次の章から、それぞれの墓所を詳しくたどってみましょう。

恵林寺にある武田信玄の墓とその歴史

山梨県甲州市塩山小屋敷にある恵林寺は、武田信玄の菩提寺として知られる臨済宗の寺院です。

境内には、山梨県の史跡に指定されている「武田晴信の墓」があります。

信玄が亡くなった後、武田家によって葬儀が営まれた寺院でもあり、現在も多くの歴史好きが訪れる場所です。

まずは、恵林寺と信玄の関係から、墓所が残された経緯を見てみましょう。

1576年に恵林寺で営まれた武田信玄の葬儀をイメージした僧侶と家臣たちの歴史イラスト

1576年、恵林寺で営まれた武田信玄の葬儀。信玄の死から約3年後の供養の様子をイメージしています。

恵林寺は武田信玄の菩提寺として知られる

恵林寺は元徳2年(1330年)、甲斐牧ノ庄の地頭だった二階堂貞藤が夢窓疎石を招き、自邸を禅院として創建した寺院です。

武田信玄の時代には、禅僧の快川紹喜が住職として迎えられ、武田家と深い関係を持つようになりました。

信玄は禅宗を厚く保護し、恵林寺も武田家ゆかりの重要な寺院となっていきます。

快川紹喜は信玄と交流があった僧として知られ、後に武田家が滅亡した際にも恵林寺に残りました。

天正10年(1582年)、織田軍によって恵林寺が焼かれ、快川紹喜らが命を落とした出来事も伝えられています。

その後、徳川家康の時代に寺院の再興が進められました。

恵林寺は、信玄の菩提寺であると同時に、武田家の繁栄と滅亡、その後の歴史を伝える寺院でもあるのです。

信玄の葬儀は1576年に恵林寺で営まれた

武田信玄が亡くなったのは、元亀4年(1573年)4月12日です。

しかし、その死はすぐには公表されず、武田家ではしばらく秘密にされていたと伝えられています。

そして天正4年(1576年)4月16日、恵林寺で信玄の葬儀が営まれました。

信玄の死から約3年後のことです。

葬儀には多くの僧侶が集まり、武田家の当主となった勝頼のもとで、信玄の菩提を弔う儀式が行われました。

信玄の死が秘されていたことと、葬儀が約3年後に営まれたことは、墓所にまつわる伝承を考えるうえでも重要な点です。

現在の墓石は江戸時代に再建されたもの

恵林寺の境内に残る「武田晴信の墓」は、山梨県指定史跡となっています。

墓所には五輪塔と宝篋印塔があり、信玄を供養する場所として大切に守られてきました。

ただし、現在の石塔は信玄が亡くなった当時のものではありません。

寛文12年(1672年)に再建されたものとされています。

武田家が滅亡し、江戸時代になってからも信玄の墓が守られてきたことがわかります。

現在の墓石が江戸時代の再建であることは、恵林寺の墓所を訪ねる際に知っておきたい歴史の一つです。

恵林寺の墓所はいつでも参拝できる?

恵林寺は山梨県甲州市塩山小屋敷にあり、武田信玄ゆかりの寺院として知られています。

境内には信玄の墓のほか、歴史ある建造物や庭園なども残されています。

ただし、信玄の墓所は通常、一般公開されていません。

恵林寺では毎月12日に墓所の特別公開が案内されており、公開日には墓前を訪ねることができます。

公開日や参拝方法は変更される場合があるため、訪問前に恵林寺の公式案内を確認しておくと安心です。

信玄の墓を実際に訪ねたい方は、通常の境内拝観と墓所の公開を区別して予定を立てるとよいでしょう。

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甲府市岩窪町の武田信玄公墓所とは?

武田信玄の墓として、恵林寺とともに知られているのが、山梨県甲府市岩窪町にある「武田信玄公墓所」です。

甲府市の市街地から北東側に位置する場所で、現在も信玄ゆかりの史跡として大切にされています。

恵林寺とは別の場所にあるため、初めて知る方は少し不思議に感じるかもしれません。

まずは、岩窪町の墓所がどのような場所なのかを見てみましょう。

武田信玄公墓所は甲府市岩窪町にある

武田信玄公墓所があるのは、山梨県甲府市岩窪町です。

甲府駅から見ると北東側に位置し、武田神社がある武田氏館跡からも比較的近い地域にあります。

墓所は住宅地に近い静かな場所にあり、石碑や墓石が残されています。

観光施設のような大きな建物があるわけではなく、信玄をしのぶ史跡として保存されている場所です。

恵林寺が甲州市塩山にあるのに対し、こちらは甲府市内にあるため、武田信玄ゆかりの甲府の史跡を訪ねる際にも立ち寄れる場所です。

岩窪町の墓所には信玄の遺体を安置したという伝承がある

武田信玄は元亀4年(1573年)4月12日、甲斐へ戻る途中に亡くなりました。

しかし、その死はすぐには公表されず、しばらく秘密にされていたと伝えられています。

岩窪町の墓所には、この期間に信玄の遺体が安置されていたという伝承があります。

その後、この場所で火葬が行われたとも伝えられ、火葬塚という呼び名が残りました。

ただし、遺体の安置や火葬の詳しい経緯については、伝承と史料上の事実を区別して考える必要があります。

信玄の死が秘密にされたという歴史とともに、岩窪町の墓所はその最期を伝える場所として知られるようになりました。

また、現地に残る由緒によると、安永8年(1779年)、甲府代官による発掘で信玄の法号と没年月日を記した石棺が見つかったと伝えられています。

その後、武田家旧臣の子孫らによって墓碑が建立され、信玄を供養する場所として整えられました。

恵林寺の墓と岩窪町の墓所は何が違う?

恵林寺と岩窪町の墓所は、どちらも武田信玄に関係する場所ですが、その由来には違いがあります。

恵林寺は信玄の菩提寺であり、天正4年(1576年)に葬儀が営まれた寺院です。

一方、岩窪町の墓所は、信玄の死が秘されていた期間の遺体の安置や火葬に関係する場所と伝えられています。

つまり、恵林寺は信玄の菩提を弔う寺院、岩窪町は埋葬にまつわる伝承が残る史跡という違いがあります。

ただし、両者を単純に本当の墓と偽物の墓に分けることはできません。

それぞれ異なる由来を持ち、現在まで信玄をしのぶ場所として伝えられてきました。

次の章では、岩窪町の墓所が「火葬塚」と呼ばれる理由と、信玄の火葬・埋葬をめぐる伝承をもう少し詳しくたどってみましょう。

武田信玄公火葬塚はどこ?火葬と埋葬の伝承

武田信玄公火葬塚とは、山梨県甲府市岩窪町にある武田信玄公墓所の別称です。

この場所には、信玄の遺体を一時的に安置し、その後、火葬したという伝承が残されています。

岩窪町の墓所は火葬塚とも呼ばれますが、遺体の扱いや火葬の詳しい経緯については、伝承として受け止める必要があります。

ただし、火葬の詳しい経緯がすべて明らかになっているわけではありません。

ここでは、信玄の死が秘された背景と、火葬塚に残る伝承を見てみましょう。

武田信玄の死はなぜ秘密にされたのか?

武田信玄は元亀4年(1573年)4月12日、西上作戦から甲斐へ戻る途中に亡くなりました。

当時の武田家は、徳川家康や織田信長と対立しており、信玄の死が知られることは大きな問題でした。

信玄という有力な当主を失ったことが周囲に伝われば、武田家の領国支配や軍事行動にも影響が及ぶおそれがあったからです。

そこで武田家では、信玄の死をしばらく伏せていたと伝えられています。

後世の記録には、信玄が自分の死を3年間秘密にするよう遺言したという話も残されています。

ただし、この遺言が実際にあったかどうかは慎重に考える必要があります。

信玄の死がすぐに公表されなかったことは、その後の葬儀や墓所の伝承を考えるうえで重要な点です。

火葬塚には信玄の遺体を安置したという伝承がある

甲府市岩窪町の武田信玄公墓所には、信玄の遺体が一時的に安置されていたという伝承があります。

信玄が亡くなった後、その死を秘密にするため、遺体を人目につきにくい場所に安置したと語り継がれてきました。

そして、後にこの場所で火葬が行われたとも伝えられています。

こうした伝承から、岩窪町の墓所は火葬塚という名前でも知られるようになりました。

ただし、遺体が実際にどのような経路で運ばれ、いつ火葬されたのかについては、伝承だけで詳しく確定することはできません。

火葬塚は、信玄の最期と埋葬をめぐる歴史が伝えられてきた場所として見るのがよいでしょう。

甲府市岩窪町の武田信玄公火葬塚をイメージした墓所と歴史散策をする男性のイラスト

甲府市岩窪町に伝わる武田信玄公火葬塚。信玄の遺体の安置や火葬にまつわる伝承が残る場所です。(イメージイラスト)

信玄の葬儀が行われたのは死後約3年の1576年

信玄が亡くなったのは1573年ですが、恵林寺で葬儀が営まれたのは天正4年(1576年)4月16日です。

亡くなってから約3年が経過していました。

この葬儀は、武田家を率いるようになった勝頼のもとで行われました。

信玄の死が秘されていた期間と、葬儀が行われるまでの時間の隔たりは、岩窪町の火葬塚を考えるうえでも興味深いところです。

ただし、1576年に葬儀が行われたことと、その時点で遺体が火葬されたことは同じ意味ではありません。

葬儀の時期と火葬の時期を区別して考える必要があります。

信玄の死後に残されたさまざまな伝承は、武田家が当主の死をどのように扱ったのかを考える手がかりにもなっています。

次の章では、恵林寺や岩窪町をはじめ、武田信玄の墓とされる場所が複数残っている理由を整理してみましょう。

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武田信玄の墓が複数あるのはなぜ?

武田信玄の墓を調べると、恵林寺や甲府市岩窪町の墓所だけでなく、長野県や愛知県などにも信玄ゆかりの場所が見つかります。

これほど多くの場所が伝えられているのは、信玄の死がしばらく秘密にされていたことや、各地で供養が行われてきたことと関係しています。

ただし、これらの場所がすべて同じ意味での墓というわけではありません。

まずは、墓所と供養塔、伝承地の違いから見てみましょう。

墓所・火葬塚・供養塔はそれぞれ意味が異なる

武田信玄ゆかりの場所には、墓所と呼ばれるもののほか、火葬塚や供養塔があります。

墓所は一般に遺骨や遺体を納めた場所を指しますが、歴史上の人物の場合、実際の埋葬場所とは別に供養のための墓石が建てられることもあります。

火葬塚は、遺体を火葬した場所や、その出来事に関係すると伝えられる場所です。

また、供養塔は故人の冥福を祈るために建てられるもので、必ずしも遺骨が納められているとは限りません。

そのため、信玄の墓として紹介される場所も、実際の埋葬地なのか、供養の場所なのかを区別することが大切です。

信玄の死が秘密にされたことも墓所の伝承に関係する

武田信玄は元亀4年(1573年)4月12日、甲斐へ戻る途中に亡くなりました。

しかし、その死はすぐに公表されず、しばらく伏せられていたと伝えられています。

当時の武田家は織田信長や徳川家康と対立しており、信玄の死が知られることは大きな不安材料でした。

信玄の遺体がどのように運ばれ、どこに安置されたのかについても、後世にさまざまな話が残されています。

甲府市岩窪町の火葬塚や、長野県の長岳寺に伝わる話も、こうした信玄の最期に関わる伝承の一つです。

死が秘された事情は、墓所をめぐる複数の伝承が生まれた背景の一つと考えられます。

ただし、すべての伝承がこの事情だけから生まれたと断定することはできません。

各地で信玄を供養したことも墓所が多い理由の一つ

武田信玄は甲斐国を中心に勢力を広げ、信濃や駿河などにも大きな影響を与えた戦国大名でした。

そのため、信玄にゆかりのある地域では、死後も供養が行われ、墓石や供養塔が建てられた場所があります。

また、信玄の最期に関係する寺院や、武田家との結びつきが深かった寺院にも、さまざまな伝承が残されました。

こうした場所が後世に「武田信玄の墓」として紹介されることもあります。

複数の墓所が伝わることは、信玄の遺体が複数の場所に埋葬されたという意味ではありません。

それぞれの場所には、埋葬、火葬、供養、最期の伝承といった異なる由来があるのです。

武田信玄の墓を訪ねる際には、どこが本当の墓なのかという疑問だけでなく、その場所がどのような歴史を伝えているのかにも目を向けてみたいものです。

次の章では、信玄の遺体を諏訪湖に沈めたという水中墓伝説と、遺骨の行方についてたどってみましょう。

諏訪湖の水中墓伝説と遺骨の行方

武田信玄の墓にまつわる話の中には、長野県の諏訪湖に遺体や棺を沈めたという水中墓の伝説があります。

山梨県の恵林寺や甲府市岩窪町の墓所とは異なり、湖の底に信玄の墓があるという不思議な話です。

ただし、諏訪湖の湖底に信玄が埋葬されたことを示す確かな史料は確認されていません。

ここでは、水中墓伝説の内容と、信玄の遺骨をめぐる疑問を見てみましょう。

諏訪湖に武田信玄の墓があるという伝説とは?

諏訪湖は長野県の諏訪盆地に広がる湖で、武田信玄が勢力を広げた信濃国にあります。

江戸時代に成立した軍学書『甲陽軍鑑』には、信玄が自分の死を3年間隠し、遺体を甲冑とともに諏訪湖へ沈めるよう遺言したという話が記されています。

この話は、信玄の水中墓伝説として後世に広まりました。

信玄の死を敵方に知られないようにするため、埋葬場所も隠したという筋立てです。

昭和61年(1986年)には、諏訪湖の湖底調査で一辺約25メートルの菱形の物体が確認され、信玄の水中墓ではないかと話題になりました。

しかし、その物体が信玄の墓であると証明されたわけではなく、湖底に遺骨が納められているという確かな証拠も確認されていません。

しかし、こうした話は伝説として知られるもので、信玄の墓が実際に湖底に存在すると確認されたわけではありません。

諏訪湖の水中墓は、史実として確定した墓所ではなく、信玄の死にまつわる伝説として受け止めるのが適切でしょう。

水中墓伝説は信玄の死を隠した話と結びついている

武田信玄は元亀4年(1573年)4月12日、甲斐へ戻る途中に亡くなりました。

その死はしばらく秘密にされ、正式な葬儀は約3年後の1576年に恵林寺で営まれました。

信玄の死が伏せられていたという経緯は、埋葬場所についてさまざまな想像や伝承が生まれる背景にもなったと考えられます。

諏訪湖の水中墓伝説も、こうした歴史と結びつけて語られてきたものです。

ただし、信玄の死を秘密にしたことと、遺体を湖に沈めたことは別の話です。

死が秘されたという経緯だけで、水中墓が実在したと判断することはできません。

武田信玄の遺骨は現在どこにあるのか?

では、武田信玄の遺骨は現在どこにあるのでしょうか。

信玄の墓所としては、菩提寺である恵林寺や、甲府市岩窪町の武田信玄公墓所がよく知られています。

しかし、遺骨が実際にどこへ納められたのかについては、伝承と史料を分けて考える必要があります。

岩窪町には遺体の安置や火葬に関する伝承があり、恵林寺には信玄の墓が残されています。

一方、諏訪湖に遺骨が沈められたことを裏づける確かな証拠は確認されていません。

そのため、現在の遺骨の所在を一か所に断定することは難しいといえます。

信玄の墓をめぐる歴史には、葬儀の記録とともに、後世に伝えられたさまざまな話が重なっているのです。

次の章では、長野県の長岳寺や愛知県の福田寺など、信玄の最期に関係すると伝えられる場所をたどってみましょう。

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長岳寺・福田寺など各地に残る墓所と供養塔

武田信玄の墓や供養塔は、山梨県だけでなく、長野県や愛知県、和歌山県にも残されています。

これらの場所には、信玄が亡くなるまでの道のりに関係する寺院もあれば、後世に供養のための石塔が建てられた場所もあります。

特に長岳寺と福田寺は、信玄の最期にまつわる伝承が残る寺院として知られています。

ここでは、それぞれの場所に伝わる歴史と、墓所や供養塔の違いを見てみましょう。

長岳寺には信玄の遺骸を安置したという伝承が残る

長野県下伊那郡阿智村にある長岳寺は、天台宗の古い寺院です。

阿智村の公式資料によると、武田信玄は甲斐へ帰る途中、現在の阿智村駒場付近で亡くなったと伝えられています。

そして、その遺骸を安置した場所が長岳寺だったという伝承が残されています。

境内には信玄を供養する十三重の供養塔があり、信玄ゆかりの寺院として知られています。

また、信玄の兜に付けられていたと伝わる前立て2種類が、寺宝として所蔵されています。

ただし、遺骸が長岳寺に安置されたという話は、寺に伝わる由緒として紹介されているものです。

長岳寺は信玄の最期と深く結びついた伝承地として、現在もその歴史を伝えています。

福田寺には武田信玄の墓と伝えられる石塔がある

愛知県北設楽郡設楽町田口にある福田寺にも、武田信玄の墓と呼ばれる石塔が残されています。

設楽町の公式観光情報によると、信玄は野田城攻略の後、病を抱えながら甲斐へ戻る途中、この寺で療養したと伝えられています。

さらに、福田寺で病状が重くなり、亡くなったという伝承もあります。

寺の本堂脇には池があり、そのほとりに信玄の墓と呼ばれる小さな石塔が建てられています。

また、武田家の重臣として知られる馬場信房の墓も残されています。

信玄の死没地については、信濃国駒場や根羽、福田寺など、複数の場所が伝えられています。

現在の阿智村にある駒場がよく知られていますが、福田寺にも信玄の最期を伝える由緒が残されています。

そのため、福田寺を信玄の死没地と断定することはできません。

それでも、福田寺は信玄の最期に関する伝承と墓石が残る貴重な場所といえるでしょう。

高野山奥之院には信玄と勝頼の供養塔が並ぶ

和歌山県の高野山奥之院にも、武田信玄ゆかりの墓所があります。

奥之院には多くの戦国武将や大名の墓石、供養塔が残されており、武田家の墓所もその一つです。

ここには信玄と息子・勝頼の五輪塔が並んで建てられています。

この墓所は「武田信玄・武田勝頼墓地」として、和歌山県の史跡に指定されています。

高野山は古くから武将たちの信仰を集めた場所で、武田家も深い関わりを持っていました。

信玄と勝頼の供養塔が並ぶ姿からは、戦国大名としての武田家が滅亡した後も、親子の供養が続けられてきたことがうかがえます。

ただし、高野山の墓所は供養のための場所であり、信玄と勝頼がそこで亡くなったわけではありません。

各地の墓所にはそれぞれ異なる由来がある

長岳寺には遺骸を安置したという伝承があり、福田寺には信玄が亡くなったという伝承と墓石が残されています。

一方、高野山奥之院には信玄と勝頼を供養するための墓所があります。

同じ「武田信玄の墓」と呼ばれる場所でも、その由来はそれぞれ異なっています。

こうした違いを知ると、信玄の最期にまつわる歴史が、甲斐国だけでなく各地に伝えられてきたことがわかります。

墓石そのものを見るだけでなく、その場所にどのような歴史や伝承が残っているのかにも目を向けてみたいものです。

次の章では、信玄の息子・武田勝頼の墓所を取り上げ、父・信玄の墓との違いをたどってみましょう。

武田勝頼の墓はどこ?信玄との違い

武田信玄の息子・武田勝頼の墓は、山梨県甲州市大和町田野にある景徳院で知られています。

勝頼は信玄の死後に武田家を率いましたが、天正10年(1582年)、織田・徳川勢の侵攻によって追い詰められ、甲斐国の田野で最期を迎えました。

景徳院には勝頼と妻、息子の信勝を供養する墓所が残されています。

ここでは、勝頼の墓所と武田家滅亡の歴史、父・信玄の墓との違いを見てみましょう。

山梨県甲州市の景徳院にある武田勝頼と家族の墓所をイメージした秋の歴史イラスト

武田勝頼と家族の墓が残る景徳院。武田家滅亡の歴史を今に伝える場所です。(イメージイラスト)

武田勝頼の墓は山梨県甲州市の景徳院にある

景徳院は、山梨県甲州市大和町田野にある曹洞宗の寺院です。

勝頼が最期を迎えた天正10年(1582年)、徳川家康は勝頼らの菩提を弔うため、田野の地に寺院を建立するよう武田家の旧臣に命じました。

当初は田野寺と呼ばれ、後に勝頼の法号にちなみ景徳院となりました。

境内には勝頼の墓のほか、妻の北条夫人、息子の武田信勝の墓も残されています。

また、勝頼らが最期を迎えた場所に関係する史跡もあり、武田家滅亡の歴史を今に伝えています。

景徳院は、勝頼とその家族の最期を弔うために建てられた寺院として知られているのです。

景徳院にある武田勝頼の墓は、山梨県の史跡にも指定されています。

勝頼は1582年に天目山近くの田野で最期を迎えた

天正10年(1582年)、織田信長の軍勢は徳川家康らとともに武田領へ侵攻しました。

武田家の家臣の離反も相次ぎ、勝頼は本拠地の新府城を離れて退却することになります。

勝頼は小山田信茂を頼って郡内方面へ向かおうとしましたが、その道を断たれ、天目山方面へ追い詰められました。

そして3月11日、甲斐国田野で妻の北条夫人、息子の信勝らとともに命を落としました。

この出来事によって、戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡しました。

勝頼の最期は一般に「天目山の戦い」や「天目山での最期」として知られていますが、実際に最期を迎えた場所は田野です。

現在の景徳院は、武田家滅亡の舞台となった田野の歴史を伝える場所でもあります。

信玄の墓と勝頼の墓は何が違う?

武田信玄と勝頼は親子ですが、墓所が伝えられてきた経緯には違いがあります。

信玄は1573年に亡くなり、その死はしばらく秘密にされていたと伝えられています。

そのため、恵林寺の墓や甲府市岩窪町の火葬塚など、埋葬にまつわる複数の伝承が残されました。

一方、勝頼は1582年に田野で最期を迎え、その場所に近い景徳院で供養されています。

また、高野山奥之院には信玄と勝頼の供養塔が並んで建てられています。

父と息子の墓所を比べると、それぞれが生きた時代の終わり方や、死後の供養の歴史にも違いが見えてきます。

比較項目武田信玄武田勝頼
没年1573年4月12日1582年3月11日
主な墓所恵林寺(甲州市)景徳院(甲州市)
関連する史跡甲府市岩窪町の火葬塚田野の最期の地
死後の経緯死が秘され、約3年後に葬儀武田家滅亡後に供養
高野山の墓所奥之院に供養塔奥之院に供養塔

信玄の墓はその死をめぐる秘密や伝承と結びつき、勝頼の墓は武田家滅亡の歴史と深く結びついています。

親子の墓所をたどることで、武田家が繁栄した時代から滅亡に至るまでの歴史を、また違った角度から見ることができるのではないでしょうか。

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まとめ|武田信玄の墓は恵林寺を中心に各地に伝わる

武田信玄の墓としてよく知られているのは、山梨県甲州市にある恵林寺です。

恵林寺は信玄の菩提寺であり、1576年には信玄の葬儀が営まれました。

一方、甲府市岩窪町には武田信玄公墓所があり、遺体の安置や火葬に関する伝承とともに、江戸時代に墓所が整備された歴史が残されています。

今回たどってきた主な場所を整理すると、次のようになります。

  • 恵林寺:信玄の菩提寺で、山梨県指定史跡の墓が残る。
  • 甲府市岩窪町:武田信玄公墓所。火葬塚とも呼ばれる。
  • 長岳寺・福田寺:信玄の最期や遺体の安置に関する伝承が残る。
  • 高野山奥之院:信玄と勝頼の供養塔が並ぶ。
  • 諏訪湖:水中墓の伝説が語られるが、実在が確認された墓所ではない。

信玄は1573年に亡くなりましたが、その死はしばらく秘密にされていたと伝えられています。

こうした経緯もあり、埋葬や供養をめぐって各地にさまざまな伝承が残りました。

ただし、墓所や供養塔が複数あるからといって、すべてが実際の埋葬地というわけではありません。

それぞれの場所には、信玄の最期を伝える歴史や、後世の人々が供養を続けてきた歩みがあります。

武田信玄の墓を訪ねることは、戦国大名としての生涯だけでなく、その死後に残された歴史をたどることでもあるのでしょう。

参考資料

  • 山梨県教育委員会・山梨県文化財情報「武田晴信の墓」
  • 甲州市公式ホームページ・文化財関連資料(恵林寺・景徳院)
  • 甲府市公式ホームページ・文化財関連資料(武田信玄公墓所)
  • 恵林寺公式ホームページ(寺院の歴史・武田信玄の墓)
  • 長野県阿智村公式ホームページ「長岳寺」
  • 愛知県公式ホームページ「福田寺と武田信玄の墓」
  • 和歌山県文化遺産課「武田信玄・武田勝頼墓地」

※墓所の公開日や拝観方法などは変更される場合があります。訪問前に各寺院や自治体の最新案内をご確認ください。

※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。

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