武田信玄の名言20選!意味と由来・本当に残した言葉は?

戦国時代の甲斐国をイメージした書院と巻物を前に語り合う武士たち

戦国時代の名将・武田信玄には、「人は城、人は石垣、人は堀」や「風林火山」など、今もよく知られる言葉があります。

人を大切にする考え方や、戦いに臨む姿勢には、現代にも通じるものを感じます。

一方で、信玄の名言として紹介される言葉の中には、後世の軍記物から広まったものや、別の人物に由来するものもあるようです。

では、信玄は実際にどのような言葉を残したのでしょうか。

よく知られる名言20選を取り上げ、その意味や由来を確かめながら、信玄の人物像をたどってみたいと思います。

武田信玄の名言20選!意味と由来を一覧で紹介

武田信玄の名言には、戦いの勝敗だけでなく、人材の登用や学問、日々の心構えに関する教えも伝わっています。

ここでは、よく知られる言葉に加えて、『甲陽軍鑑』に記された教えを中心に20選をまとめました。

なお、原文を現代語で要約した言葉や、信玄本人の発言と確認できない言葉も含まれています。その違いも、出典・由来の欄で確認してみましょう。

武田信玄の名言20選一覧

番号名言・教え意味出典・由来
1人は城、人は石垣、人は堀人々の信頼と結び付きが国を守る力になる『甲陽軍鑑』に信玄の歌として伝わる
2風林火山状況に応じて行動を変える『孫子』軍争篇に由来
3一生懸命だと知恵が出る真剣に取り組むことで工夫が生まれる信玄への帰属は出典未確認
4六分七分の勝ちは十分の勝ち勝ちすぎることを戒める『甲陽軍鑑』品第三十九の教え
5四十歳以前は勝つように、四十歳からは負けぬように経験に応じて戦い方を変える『甲陽軍鑑』品第三十九の教えを要約
6渋柿は渋柿として使え人それぞれの持ち味を生かす『甲陽軍鑑』品第四十上のたとえを要約
7自分の好みだけで家臣を選ばない似た性格の人ばかりを重用しない『甲陽軍鑑』に伝わる人材登用の教えを要約
8手柄は身分の大小によらず評価する地位より実際の働きを重んじる『甲陽軍鑑』品第三十九の記述を要約
9人をよく見知れ人物の能力や本質を見極める『甲陽軍鑑』品第四十上の教えを短く要約
10分別のもとは遠慮なりよい判断には先を考える慎重さが必要『甲陽軍鑑』品第四十上
11分別は心にてする、才覚は気のきいたる者のわざなり判断力と機転のよさは異なる『甲陽軍鑑』品第四十上
12我したき事せずして、いやと思ふことを仕る自分の好みより果たすべき務めを優先する『甲陽軍鑑』品第四十上
13遠慮の深い者を臆病と見るな慎重な人を弱い人と決めつけない『甲陽軍鑑』品第四十上の教えを現代語にしたもの
14がさつな者を勇士と見るな荒々しさと本当の勇気を混同しない『甲陽軍鑑』品第四十上の教えを現代語にしたもの
15学問は本を読むことだけではない経験や人との交流からも学ぶ『甲陽軍鑑』品第四十上の教えを現代語にしたもの
16一日に一つ学べば、一月には三十の学びになる日々の積み重ねが成長につながる『甲陽軍鑑』品第四十上の教えを現代語にしたもの
17文字を知らなくても知恵ある人はいる学歴や読み書きだけで人の能力は決まらない『甲陽軍鑑』品第四十上の教えを要約
18人の話をよく聞き、善悪を見極める先入観やひいきで人物を評価しない『甲陽軍鑑』品第四十上の家臣の逸話を要約
19無分別の人はおそろしき人考えずに行動する人は周囲を危険に巻き込む『甲陽軍鑑』品第四十上の教えを短く抜粋
20大底還他肌骨好、不塗紅粉自風流本来の持ち味を重んじ、後事を人に託すという解釈がある『甲陽軍鑑』に伝わる遺偈

こうして並べると、武田信玄の名言として伝わる言葉には、勝敗の判断、人を見極める力、日々の学びという三つの特徴が見えてきます。

戦国武将というと、合戦での勇ましい姿が思い浮かびます。しかし、『甲陽軍鑑』に描かれる信玄の教えには、勢いに任せず、周囲の人々や先々の状況をよく考える姿勢も見られます。

『甲陽軍鑑』は信玄の死後に成立した書物です。そのため、ここに挙げた20項目は、すべて信玄本人の発言と確認された言葉ではありません。

それでも、武田氏の軍学や信玄の人物像が、後世にどのように伝えられてきたかを知るうえで、興味深い教えがそろっています。

次の章からは、特に有名な言葉を取り上げ、その意味と由来を詳しく見ていきましょう。

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「人は城、人は石垣、人は堀」の意味と由来

武田信玄の名言のなかでも、特によく知られているのが「人は城、人は石垣、人は堀」です。

城の石垣や堀ではなく、人こそが国を守る力になるという意味で、現代でも人材育成や組織づくりの場面で引用されています。

「人は城、人は石垣、人は堀」の全文と意味

この言葉は、次のような歌として伝わっています。

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」

前半の「人は城、人は石垣、人は堀」は、人々の結び付きや信頼関係が、城の防御施設にも匹敵する力になるという意味です。

後半の「情けは味方、仇は敵なり」には、人に情けをかければ味方となり、恨みを買えば敵をつくるという考え方が込められています。

つまり、単に優秀な家臣を集めるだけでなく、人々の心をつかみ、信頼を得ることが国を守る力になるという教えとして読むことができます。

戦国時代の甲斐国の農村で用水路の補修に協力する村人たち

「人は城、人は石垣、人は堀」に通じる、人々の協力と結び付きを表現した再現画像

『甲陽軍鑑』に伝わる武田信玄の歌

この言葉は、『甲陽軍鑑』品第三十九に、信玄の歌として伝えられています。

ただし、記されているのは、ある人が「信玄公の御歌」として紹介したという内容です。

信玄本人が書き残した歌と確認できるわけではありませんが、武田氏の人を重んじる考え方を象徴する言葉として、長く親しまれてきました。

武田信玄は本当に城を築かなかったのか?

「人は城」という言葉から、武田信玄は城を築かなかったと紹介されることがあります。

しかし、実際の武田氏は、領国を守るために城や館、砦などを活用していました。

信玄の本拠地は甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)で、その背後には要害山城が築かれていました。

また、信濃の川中島地域では、海津城(現在の松代城の前身)も重要な拠点となりました。

そのため、この名言は、城を不要とする意味ではなく、城の守りを固めることと同じくらい、人の結び付きを大切にするという考え方として受け取るとわかりやすいでしょう。

戦国時代の大名にとって、家臣や領民の協力は欠かせないものでした。

そうした時代背景を思い浮かべると、この言葉が長く語り継がれてきた理由も見えてくるように思います。

「風林火山」の意味とは?武田信玄と孫子の関係

武田信玄を象徴する言葉として、「風林火山」もよく知られています。

戦国時代の武田軍を思い浮かべると、この四文字が書かれた旗を連想する方も多いのではないでしょうか。

ただし、「風林火山」という言葉そのものは、信玄が考え出したものではありません。

その由来は、中国の兵法書『孫子』にあります。

「風林火山」の全文と意味

「風林火山」は、『孫子』軍争篇に登場する次の文章をもとにしています。

「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」

読み下すと、次のようになります。

「其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」

それぞれの意味は、次のとおりです。

  • 風:動くときは風のように素早く行動する。
  • 林:動かないときは林のように静かに構える。
  • 火:攻めるときは火のように激しく攻める。
  • 山:守るときは山のように動じない。

つまり、どのような場面でも同じ行動をするのではなく、状況に応じて行動を変えることが大切だという教えです。

なお、『孫子』の文章には、この後に「難知如陰、動如雷震」という言葉も続きます。

「風林火山」は、そのうち最初の四つを取り出した呼び名です。

武田信玄の軍旗「孫子の旗」とは?

武田信玄の軍旗として知られるものに、「孫子の旗」があります。

この旗には、「風林火山」という四文字だけではなく、『孫子』の文章が記されています。

山梨県甲州市の雲峰寺には、武田氏ゆかりの旗が伝えられており、山梨県の文化財に指定されています。

また、山梨市にも、武田氏に関係する「孫子の旗」が伝わっています。

これらの旗については、信玄との関係や制作の経緯に伝承も含まれています。

そのため、現在残る旗の存在と、実際に戦場でどのように使用されたのかは、分けて考える必要があります。

それでも、『孫子』の兵法が武田信玄の人物像と強く結び付いて伝えられてきたことを知るうえで、興味深い文化財です。

「風林火山」は現代にも通じる考え方

「風林火山」は、戦場での軍の動かし方を示す言葉ですが、現代でも仕事やスポーツなどで使われています。

素早く決断する場面もあれば、じっくり準備する場面もあります。

また、思い切って行動することが必要なときもあれば、あえて動かない判断が大切なときもあるでしょう。

「風林火山」の四文字には、そうした行動の切り替えを考える手がかりがあります。

信玄の戦い方と結び付けて読み直すと、単に勇ましい言葉というだけではないことが見えてきますね。

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「一生懸命だと知恵が出る」は武田信玄の名言?

武田信玄の名言として、現代でもよく紹介されるのが「一生懸命だと知恵が出る」という言葉です。

仕事や勉強、スポーツなど、さまざまな場面で使われていますが、本当に信玄が残した言葉なのでしょうか。

まずは、広く知られている全文から見てみましょう。

「一生懸命だと知恵が出る」の全文と意味

この言葉は、一般に次のような形で紹介されています。

「一生懸命だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳が出る」

それぞれの意味は、次のように受け取れます。

  • 一生懸命だと知恵が出る:真剣に取り組むことで、新しい工夫や解決策が生まれる。
  • 中途半端だと愚痴が出る:十分に取り組まないと、不満ばかりが目につきやすい。
  • いい加減だと言い訳が出る:責任を持って向き合わないと、失敗の理由を周囲に求めやすい。

三つの言葉が一続きになっているため、仕事への姿勢を振り返る言葉としても印象に残ります。

なお、最初の部分を「真剣だと知恵が出る」とする形も広く知られています。

武田信玄が実際に語った言葉なのか?

この格言は、武田信玄の名言として紹介されることがあります。

しかし、信玄本人の書状や『甲陽軍鑑』などに、この三つの言葉が一続きで記されていることは確認できていません。

また、出典として「正範語録」という名称が挙げられることもありますが、その成立や原典については明らかになっていない部分があります。

そのため、武田信玄の言葉として広まっているものの、本人が残したと確認できる名言ではないという位置付けになります。

ただし、言葉の内容そのものは、現代でも考えさせられるものがあります。

現代の仕事や生活でどう受け取ればよい?

何か難しい問題に直面したとき、すぐに諦めるのではなく、もう少し工夫してみる。

そうした姿勢から、新しい方法が見つかることもあります。

一方で、一生懸命に取り組んでも、必ずよい結果が出るとは限りません。
努力だけでは解決できない問題もあるでしょう。

この格言は、結果の良し悪しを決めつける言葉というより、物事に向き合うときの心構えを考える言葉として読むと、身近に感じられます。

信玄本人の言葉かどうかという由来と、言葉に込められた教訓は、分けて味わってみたいですね。

武田信玄の名言に学ぶ戦い方と勝敗の考え方

武田信玄は、戦国時代を代表する武将の一人です。
そのため、名言にも戦いや勝敗に関するものが数多く伝わっています。

ところが、伝えられている教えを見ていくと、ただ勝つことだけを求めていたわけではないようです。

『甲陽軍鑑』には、勝ちすぎることへの戒めや、慎重に判断することの大切さが語られています。

まずは、勝敗についての考え方から見てみましょう。

「六分七分の勝ちは十分の勝ち」に込められた考え方

武田信玄の名言として、次のような言葉が知られています。

「勝ちは六分か七分がよい」

これは、戦いでは圧倒的な勝利だけを追い求めず、その後の状況まで考えることが大切だという教えとして紹介されています。

大勝利を収めれば、誰でも気持ちが大きくなるものです。
しかし、勝利に酔って警戒を緩めれば、次の戦いで思わぬ失敗につながることもあるでしょう。

『甲陽軍鑑』には、勝敗について次のような教えが伝わっています。

「六分七分の勝ちは十分の勝ち」

これは、十のうち六分か七分の勝利を収めれば、それで十分な勝利と考えるという意味です。

『甲陽軍鑑』では、八分の勝ちは危うく、九分や十分の勝ちは、かえって味方の大きな敗北につながるおそれがあるという趣旨も語られています。

大勝利を収めると、人は気持ちが大きくなり、警戒を緩めてしまうことがあります。

そこで大切なのが、勝った後の状況まで見通し、必要以上の勝利を追い求めないことなのでしょう。

この教えには、戦いで勝つことだけでなく、勝利の後も力を保ち続けるという考え方が感じられます。

戦いの後に山間の野営地で地図を囲み軍議を行う戦国時代の武士たち

勝利の後にも慎重な判断を重んじる、武田氏の軍学をイメージした再現画像

「分別」と「才覚」は同じではない

戦いに必要なのは、勇気や勢いだけではありません。

『甲陽軍鑑』品第四十上には、「分別」と「才覚」の違いについて語る部分があります。

そこでは、分別は心で行う判断であり、才覚は機転の利く人の働きであるという趣旨の教えが記されています。

機転が利くことは、もちろん大切な能力です。
しかし、その場の思い付きだけで行動してしまえば、判断を誤ることもあります。

一方、分別とは、物事の前後を考え、結果を見通して判断する力と受け取れます。

「才覚ばかりで分別がないと過ちが多い」という教えも、同じ流れの中に登場します。

戦国時代の合戦では、一度の判断が多くの人々の運命を左右しました。
そのような時代だからこそ、素早い行動と慎重な判断の両方が求められたのでしょう。

勇ましさと本当の強さは違う

『甲陽軍鑑』品第四十上には、人の性格や振る舞いを見極める教えも記されています。

その中には、慎重な人を臆病者と見たり、荒々しい人を優れた武士と見たりしてはいけない、という趣旨の言葉があります。

たしかに、大きな声で威勢よく振る舞う人が、必ずしも優れた判断をするとは限りません。

反対に、すぐに行動しない人でも、周囲の状況をよく観察している場合があります。

戦場で必要な強さとは、目立つ勇ましさだけではなく、危険を見極め、適切な場面で行動する力でもあったのでしょう。

こうして見てみると、『甲陽軍鑑』に伝わる信玄の教えには、勢いに任せず、状況と人をよく見て判断する姿勢が繰り返し登場します。

次の章では、こうした考え方が、人材育成や日々の学びにどのようにつながるのかを見てみましょう。

武田信玄の名言に学ぶ人生と仕事・人材育成

武田信玄の名言として伝わる言葉には、現代の仕事や人間関係にも通じる教えがあります。

特に『甲陽軍鑑』品第四十上には、人の持ち味を生かすことや、学問を重ねること、慎重に判断することなどが語られています。

戦国時代と現代では、暮らしも働き方も大きく異なります。
それでも、人と協力しながら物事を進める難しさには、どこか共通するところがあるように思います。

「渋柿は渋柿として使え」|人の持ち味を生かす

武田信玄の人材育成に関する名言として、よく知られているのが次の言葉です。

「渋柿は渋柿として使え」

これは、人にはそれぞれ異なる性格や能力があり、その持ち味を生かすことが大切だという意味で紹介されています。

『甲陽軍鑑』品第四十上には、渋柿の木を切って別の木を接ぐことをたとえにした話が記されています。

現在よく知られる短い言い回しは、その内容を現代語でまとめた表現です。

仕事でも、細かな作業が得意な人もいれば、人と交渉することが得意な人もいます。
全員に同じ能力を求めるより、それぞれの長所が生きる役割を考える方が、よい結果につながることもあるでしょう。

この言葉からは、人を一つの物差しだけで評価しないことの大切さが感じられます。

「学問は読書だけではない」|日々の経験から学ぶ

『甲陽軍鑑』品第四十上には、学問についての教えも登場します。

その一つが、次の言葉です。

「学と云ふは物をよむばかりにあらず」

学問とは、本を読むことだけではないという意味です。

同じ部分には、人に学問があることを、木に枝葉があることにたとえた表現も見られます。

木が枝葉を広げるように、人も学ぶことで考え方や見識を育てていく。
そのように読むと、わかりやすいですね。

また、「一日に一様聞けば、一月には三十ヶ条」という趣旨の言葉も伝わっています。

一日に一つでも新しいことを知れば、一か月では三十の学びになるという考え方です。

大きな成果を急ぐのではなく、日々の経験から少しずつ学ぶ。
そんな姿勢は、現代の仕事や暮らしにも通じるように感じます。

戦国時代の甲斐国の禅寺で僧侶の話を聞き学問に励む若い武士たち

『甲陽軍鑑』に伝わる学問の教えをイメージした、戦国時代の寺院での学びの風景

「遠慮」と「分別」|よく考えて判断する

現在の「遠慮」という言葉には、人に気兼ねして控えるという意味があります。

しかし、『甲陽軍鑑』に登場する遠慮は、それだけではありません。

先のことまで考え、軽率な行動を避けるという意味合いで用いられています。

品第四十上には、遠慮と分別を結び付ける教えが記されています。

物事を決めるとき、目の前の利益だけでなく、その先に起こることまで考える。
そのような慎重さが、よい判断につながるのでしょう。

仕事で新しいことを始める場合でも、勢いだけで進めるより、準備や周囲への影響を考えることが大切です。

「遠慮」と「分別」は、ただ消極的になることではなく、先を見通すための姿勢として受け取ることができそうです。

「嫌なことを先にする」|自分を律する教え

もう一つ、『甲陽軍鑑』品第四十上には、自分がしたいことよりも、気の進まないことを行うという趣旨の教えがあります。

現代では、次のように紹介されることがあります。

「自分のしたいことより、嫌なことを先にせよ」

これは、好きなことをすべて我慢するという意味ではなく、果たすべき務めから逃げない姿勢を表していると読めます。

誰でも、面倒な仕事や難しい問題は後回しにしたくなるものです。

しかし、先に取り組んでしまえば、その後の物事が進めやすくなることもあります。

こうした教えを見ていると、武田信玄の名言として伝わる言葉には、戦いに勝つための知恵だけでなく、日々の行動や自分自身の心を整える考え方も含まれていることがわかります。

次の章では、これらの名言がどのような史料に記され、どのように現代まで伝わってきたのかを確認してみましょう。

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武田信玄が本当に残した名言は?史料と伝承を確認

ここまで、武田信玄の名言として知られる言葉を見てきました。
「人は城、人は石垣、人は堀」や「風林火山」など、今も親しまれている言葉には、それぞれ興味深い背景があります。

ところで、こうした名言は、どのようにして現代まで伝わってきたのでしょうか。

信玄が生きた時代の史料に残るものもあれば、後世の書物に記されたものもあります。
ここでは、言葉が伝わってきた資料の違いに目を向けてみましょう。

武田信玄本人の書状からわかること

武田信玄が生きた時代の言葉を知るうえで、重要な手がかりになるのが書状です。

信玄は、ほかの大名や家臣、寺社などに宛てて多くの書状を出しており、現在も各地に伝えられています。

こうした書状には、同盟や戦いに関する連絡、領地をめぐる問題、寺社への対応など、当時の具体的な事情が記されています。

もちろん、書状のすべてを信玄が自筆で書いたわけではありません。
家臣などが代筆したものもあり、文面には当時の政治的な立場や目的が反映されています。

それでも、成立した時期や宛先が確かめられる書状は、信玄がその時代に何を伝えようとしていたのかを知る貴重な史料です。

ただし、書状に残る言葉が、そのまま現代の名言集に載っているとは限りません。
実際の書状には、短い格言よりも、相手への依頼や約束、具体的な判断が記されていることが多いからです。

『甲陽軍鑑』に記された名言はどう考えればよい?

武田信玄の名言を調べていると、たびたび登場するのが『甲陽軍鑑』です。

この書物には、武田氏の合戦や家臣団の様子、軍学に関する教えなどが数多く記されています。

信玄の家臣だった高坂昌信(春日虎綱)に関係する書物として伝わっていますが、現在の研究では、成立や編纂の過程について検討が重ねられています。

信玄の死後にまとめられ、伝えられてきた書物であるため、そこに登場する会話や教訓を、すべて本人が口にした言葉として扱うことは難しいところです。

一方で、『甲陽軍鑑』には、武田氏の軍学や人物像がどのように語り継がれてきたかを知る手がかりがあります。

たとえば、勝ちすぎることを戒める教えは、戦国時代の戦い方だけでなく、後世の人々が信玄の知恵をどのように受け止めたかを考えるうえでも興味深いものです。

「『甲陽軍鑑』に記されていること」と「信玄本人が実際に語ったこと」は、少し分けて考える。
そうすることで、言葉の魅力を損なわずに、その背景をたどることができそうです。

後世に広まった名言にも歴史がある

「一生懸命だと知恵が出る」のように、武田信玄の名言として広く知られていながら、本人の発言を示す出典が見つかっていない言葉もあります。

こうした言葉は、名言集や講演、書籍、インターネットなどを通じて広まるなかで、有名な歴史上の人物と結び付いた可能性も考えられます。

また、もともと長い文章だったものが短くまとめられたり、古い言い回しが現代の言葉に置き換えられたりすることもあるでしょう。

ただ、出典が確認できないからといって、その言葉に込められた教訓まで失われるわけではありません。

大切なのは、誰の言葉として伝わっているのか、そして、どこまで由来を確かめられるのかを区別することだと思います。

武田信玄の名言を読むときの三つの手がかり

ここまでの内容を整理すると、名言の由来を考える際には、次の三つが手がかりになりそうです。

  • 同時代の史料:書状など、信玄が生きた時代に成立した記録。
  • 後世の軍記物:『甲陽軍鑑』など、武田氏の言動や教訓を伝える書物。
  • 出典未確認の名言:信玄の言葉として親しまれているものの、古い原典を特定できていない言葉。

同じ「武田信玄の名言」という呼び方でも、言葉によって伝わり方はさまざまです。

名言を読みながら、その言葉がいつ、どのような形で記録されたのかにも目を向けてみると、戦国時代の歴史がもう少し身近に感じられるかもしれません。

次の章では、信玄が生涯の終わりに残したと伝わる「辞世の句」を取り上げ、その読み方と意味を見てみましょう。

武田信玄の辞世の句とは?読み方と意味

武田信玄は1573年(元亀4年)4月12日、甲斐へ戻る途中で生涯を終えました。
享年53歳。西上作戦と呼ばれる遠征の途中での死でした。

その信玄には、最期に残したと伝わる言葉があります。
和歌ではなく、漢文で表された二句の言葉です。

どのような意味が込められているのでしょうか。
『甲陽軍鑑』に記された場面とともに、たどってみましょう。

武田信玄の辞世の句と読み方

武田信玄の辞世として伝わるのは、次の言葉です。

「大底還他肌骨好
不塗紅粉自風流」

読み下しの一例は、次のようになります。

「大底は他の肌骨の好きに還す。
紅粉を塗らざれども、自ら風流」

「大底」は「大抵」と同じ意味で、おおむね、すべてという意味です。

また、「紅粉」は紅やおしろいなどの化粧を指します。

この言葉は、もともとの持ち味を備えた人々に物事を任せれば、無理に手を加えなくてもよいという意味に読むことができます。

『武田信玄漢詩校釈』では、信玄が後事を託せる人々への信頼を表した言葉として解釈されています。

最期まで武田家の行く末を案じたと伝わる信玄の姿を思い浮かべると、家臣たちに後を任せるという読み方も印象深いものがあります。

なお、恵林寺では冒頭を「大抵」と表記していますが、『甲陽軍鑑』に見られる「大底」と意味は変わりません。

信玄の最期の言葉として伝わってきた背景を考えると、家臣たちへの信頼を感じさせる読み方も興味深いですね。

『甲陽軍鑑』に伝わる武田信玄の最期

この辞世の言葉は、『甲陽軍鑑』品第三十九に記されています。

そこでは、病状が悪化した信玄が家臣たちを呼び寄せ、後継者や領国の守り方などについて言い残す場面が描かれています。

信玄は、勝頼に今後の武田家を託し、自分の死をしばらく伏せるように命じたと伝えられています。

そして、いったん目を閉じたあと、再び目を開いて語った言葉として、先ほどの二句が登場します。

興味深いのは、最期まで戦いのことを考えていたように描かれる信玄が、最後には飾らない自然の姿を思わせる言葉を残している点です。

長く戦国の世を生き抜いた武将の最期として読むと、印象に残る場面ではないでしょうか。

辞世の句は本当に信玄が詠んだもの?

この言葉は、武田信玄の菩提寺である恵林寺でも、『甲陽軍鑑』に伝わる遺偈(ゆいげ)として紹介されています。

遺偈とは、禅僧などが亡くなる際に残す、仏教的な意味を持つ詩や言葉のことです。

ただし、この二句には、信玄の辞世として伝わる以前から禅の文献に見られる表現との共通点があります。

そのため、信玄が独自に作った詩なのか、以前から知られていた言葉を最期に用いたという伝承なのかは、分けて考えたいところです。

『甲陽軍鑑』には最期の場面が詳しく描かれていますが、その場で信玄が実際に語ったことを同時代の記録から確かめられるわけではありません。

それでも、信玄の辞世として長く伝えられてきた言葉であることは確かです。

その由来を知ったうえで読み直してみると、言葉の受け取り方も少し変わってくるように思います。

次の章では、武田信玄の名言として紹介されながら、実は別の人物に由来する言葉や、出典がはっきりしない言葉を見てみましょう。

武田信玄の名言と間違えやすい言葉は?

武田信玄の名言を調べていると、別の歴史上の人物にも結び付けられている言葉に出会うことがあります。
なかでも「為せば成る」は、その代表的な例かもしれません。

また、古い言葉が現代風に言い換えられたり、いくつかの教訓が一つにまとめられたりすることもあります。

ここでは、信玄の名言として紹介されることがある言葉の由来を、もう少したどってみましょう。

「為せば成る」は武田信玄と上杉鷹山のどちらの言葉?

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」という言葉は、江戸時代の米沢藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん)の教訓としてよく知られています。

一般に伝わる歌は、次のようなものです。

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」

何事も、まず自分で行動することが大切だという意味ですね。

一方で、武田信玄にも、これとよく似た歌が伝えられています。

「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を、成らぬと捨つる人のはかなさ」

こちらも、できることを最初から諦めてしまう人の姿勢を戒める内容です。

興味深いのは、二つの歌がよく似ていることです。
ただし、信玄の歌については、本人が詠んだことを示す同時代の史料が確認できていません。

一方、現在よく知られる「為せば成る」の歌は、米沢藩主・上杉鷹山が家臣に示した教訓として伝わっています。

そのため、上杉鷹山との結び付きが明確な歌と、信玄に帰される類似の歌を区別すると、由来がわかりやすくなります。

「実力の差は努力の差」は武田信玄の名言?

もう一つ、信玄の名言として紹介されるのが「実力の差は努力の差」という言葉です。

この言葉には、次のような続きもあります。

  • 実績の差は責任感の差
  • 人格の差は苦労の差
  • 判断力の差は情報の差

短い言葉の中に、努力や責任感の大切さが込められているように感じます。

これらの言葉は、4章で紹介した「一生懸命だと知恵が出る」とともに、格言集などで紹介されることがあります。ただし、もともと一つの文章として成立したものなのか、その原典までは確認できていません。

出典として「正範語録」という名前が挙げられることもありますが、その原典は確認できていません。

したがって、信玄の言葉として親しまれているものの、本人が残したとまでは確かめられていない言葉として紹介するのが自然と思います。

現代風に伝わる言葉と、古い史料の言葉の違い

名言は、時代を超えて伝わるうちに、言い回しが変わることがあります。

たとえば「勝ちは六分か七分がよい」という言葉は、前章で見たように、『甲陽軍鑑』に関連する考え方が伝わっています。

一方で、「一生懸命だと知恵が出る」や「実力の差は努力の差」は、現代の仕事や自己啓発の場面でも使いやすい表現です。

言葉がわかりやすいことと、古い史料にそのまま記されていることは、必ずしも同じではありません。

だからこそ、名言の意味を楽しみながら、どのような資料に残されているのかにも目を向けてみたいですね。

武田信玄の名言として今に伝わる言葉には、戦国時代の武将の教えだけでなく、後世の人々が信玄に重ねてきた理想の姿も映し出されているのかもしれません。

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まとめ|武田信玄の名言から見えてくる人物像

武田信玄の名言20選を取り上げ、その意味や由来をたどってきました。

「人は城、人は石垣、人は堀」には人との信頼を大切にする考え方があり、「風林火山」には状況を見極めて行動する兵法の知恵が込められています。

また、勝ちすぎることを戒める教えや、人それぞれの持ち味を生かす言葉にも、考えさせられるものがありました。

今回の内容を振り返ると、次のようになります。

  • 「人は城」は、人の結び付きを重んじる言葉として伝わっている。
  • 「風林火山」は、中国の兵法書『孫子』に由来する。
  • 勝敗に関する教えには、『甲陽軍鑑』などに記されたものがある。
  • 「一生懸命だと知恵が出る」など、本人の発言と確認できていない言葉もある。

武田信玄の名言として知られる言葉には、本人が残した記録だけでなく、後世の軍記物や人々の間で語り継がれてきたものも含まれています。

その違いを知ると、名言の意味だけでなく、信玄という武将がどのように受け止められてきたのかも見えてくるように思います。

言葉が生まれた背景をたどりながら、そこに込められた考え方にも目を向けてみる。
そんな読み方も、歴史の楽しみ方の一つではないでしょうか。

参考資料

  • 『甲陽軍鑑』品第三十九・品第四十一(武田信玄の勝敗観や最期の場面など)
  • 『孫子』軍争篇(「風林火山」の原典)
  • 山梨県「孫子の旗」(県指定有形文化財)
  • 山梨市「孫子の旗」(市指定文化財)
  • 乾徳山恵林寺 公式サイト(武田信玄の生涯と遺偈に関する記述)
  • 国立国会図書館 レファレンス協同データベース(「為せば成る」の由来に関する調査事例)
  • 国立国会図書館 レファレンス協同データベース(『孫子』軍争篇に関する調査事例)

※『甲陽軍鑑』は武田氏の軍学や逸話を伝える軍記物であり、記された言葉のすべてが信玄本人の発言と確認されているわけではありません。本文では、史料に残る言葉と後世に広まった名言を区別して紹介しています。

※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。

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