長篠の戦いの戦死者は誰?武将一覧と山県昌景・馬場信春らの最期

1575年(天正3年)の長篠の戦いでは、武田勝頼の軍勢が織田信長・徳川家康の連合軍に敗れ、多くの武将が戦死しました。
なかでも山県昌景や馬場信春は、武田信玄の時代から活躍した重臣として知られています。
では、長篠の戦いで戦死した武将には、ほかに誰がいたのでしょうか。
また、山県昌景や馬場信春は、どのような最期を迎えたのでしょう。
この記事では、武田軍の戦死武将を一覧で確認し、それぞれの最期や戦死者数、武田軍が多くの重臣を失った背景をたどってみます。
史料に残る記録と後世の伝承にも目を向けながら、長篠の戦いを振り返ってみましょう。
長篠の戦いの戦死者は誰?武田軍の武将一覧
1575年(天正3年)の長篠の戦いでは、武田勝頼が率いる武田軍が織田・徳川連合軍に敗れ、多くの武将が戦死しました。
とくに大きな損失となったのが、武田信玄の時代から活躍してきた重臣たちの討死です。
では、長篠の戦いで戦死した武将には、どのような人物がいたのでしょうか。
まずは代表的な戦死武将を一覧表で確認してみましょう。

山県昌景は赤備えを率いた武将として知られ、長篠の戦いで戦死した。
長篠の戦いで戦死した主な武田軍の武将一覧
*「主な武将を挙げたもので、すべての戦死者を網羅した一覧ではありません」
| 武将名 | 武田家での立場・特徴 |
|---|---|
| 山県昌景(やまがた まさかげ) | 武田信玄以来の重臣。赤備えで知られる |
| 馬場信春(ばば のぶはる) | 武田家の宿老。撤退戦で勝頼を守ったと伝わる |
| 内藤昌秀(ないとう まさひで) | 武田家の重臣。内藤昌豊とも呼ばれる |
| 土屋昌続(つちや まさつぐ) | 武田信玄・勝頼に仕えた重臣 |
| 真田信綱(さなだ のぶつな) | 真田家の当主。真田昌幸の兄 |
| 真田昌輝(さなだ まさてる) | 真田信綱の弟。真田昌幸の兄 |
| 原昌胤(はら まさたね) | 武田家の重臣。陣立てなどに関わった人物 |
| 三枝昌貞(さえぐさ まささだ) | 武田家の家臣。長篠城周辺の攻防で討死 |
| 武田信実(たけだ のぶざね) | 武田一門の武将 |
| 安中景繁(あんなか かげしげ) | 上野国の国衆。武田軍に従って参戦 |
| 横田康景(よこた やすかげ) | 武田家に仕えた武将 |
この一覧は、長篠の戦いで討死したとされる主な武将をまとめたものです。
戦死した武将の全員を網羅したものではありません。
また、長篠の戦いには設楽原での決戦だけでなく、長篠城周辺の攻防も含まれます。
そのため、武将によって戦死した場所や経緯が異なります。
長篠の戦いが起きた背景や、設楽原での決戦までの経過については、長篠の戦いとは?いつ・どこで誰が戦ったのかで紹介しています。
武田信玄以来の重臣を多く失った
一覧を見ると、山県昌景・馬場信春・内藤昌秀など、武田信玄の時代から武田家を支えてきた武将の名前が並んでいます。
さらに、真田信綱・真田昌輝の兄弟をはじめ、武田家に従っていた国衆や一門の武将にも戦死者が出ました。
長篠の戦いで武田軍が受けた損害は、兵の数だけではありません。
経験豊富な指揮官を一度に失ったことも、武田家にとって大きな打撃となったと考えられます。
では、こうした重臣たちは、実際にどのような最期を迎えたのでしょうか。
次は、赤備えで知られる山県昌景の最期をたどってみましょう。
長篠の戦いで山県昌景はどう死んだ?最期と死因
山県昌景(やまがたまさかげ)は、武田信玄の時代から活躍した重臣で、武田四天王の一人に数えられる武将です。
赤い武具で統一した「赤備え」を率いたことで知られ、徳川家康の軍勢とも戦ってきました。
しかし、1575年(天正3年)の長篠の戦いで、その生涯を終えることになります。
山県昌景は設楽原の決戦で戦死した武将ですが、その最期はどのように伝えられているのでしょうか。
山県昌景は長篠の戦いで鉄砲に撃たれて戦死したと伝わる
山県昌景は、長篠の戦いで武田軍の一隊を率い、徳川軍と激しく戦いました。
対する徳川軍には、大久保忠世・忠佐の兄弟らがいました。
軍記物の『甲陽軍鑑』には、山県隊と徳川軍が何度も攻防を繰り返し、昌景が鉄砲に撃たれて討死したという記述があります。
新城市の資料でも、昌景が徳川軍と激戦を繰り広げ、連合軍の銃弾によって命を落としたことが紹介されています。
ただし、銃弾が体のどこに当たったのか、何発受けたのかといった細かな状況については、伝承による違いがあります。
山県昌景の死因は鉄砲による負傷と伝えられていますが、最期の瞬間まで詳しく確定できるわけではありません。
山県昌景の首は家臣が持ち帰ったという伝承
山県昌景の最期には、家臣の忠義を伝える逸話も残されています。
『甲陽軍鑑』には、昌景が討死した後、家臣の志村がその首を甲斐国へ持ち帰ったという話が記されています。
現在の設楽原には「山県三郎兵衛昌景之碑」があり、愛知県の史跡案内でも、首は故郷へ運ばれ、胴は現地に埋葬されたという伝承が紹介されています。
もっとも、こうした遺骸の扱いについては、史料や伝承の間に違いも見られます。
家臣が首を持ち帰ったという話は、後世に伝えられた逸話として受け止めるのがよさそうです。
赤備えを率いた山県昌景の戦死が武田軍に与えた影響
山県昌景は、武田信玄の時代から数々の戦いに参加してきた経験豊富な武将でした。
その昌景が長篠の戦いで命を落としたことは、武田軍にとって大きな損失だったと考えられます。
しかも、この戦いで失われたのは山県昌景だけではありません。
馬場信春や内藤昌秀など、武田家を長く支えてきた重臣も相次いで戦死しました。
長篠の戦いは、武田軍が多くの兵を失っただけでなく、信玄以来の重臣たちを一度に失った戦いでもあったのです。
続いて、武田勝頼の退却を助けたと伝えられる馬場信春の最期を見てみましょう。
馬場信春の最期は?長篠の戦いでの討死と伝承
馬場信春(ばばのぶはる)は、武田信虎・信玄・勝頼の三代に仕えた重臣です。
馬場信房(のぶふさ)とも呼ばれ、武田四天王の一人として知られています。
長年にわたって武田家を支えてきた馬場信春でしたが、1575年(天正3年)の長篠の戦いで戦死しました。
その最期は、敗走する武田勝頼を守るために、敵の追撃を食い止めたという話で広く知られています。
では、馬場信春はどのような状況で命を落としたのでしょうか。
史料に伝わる最期をたどってみましょう。
馬場信春は武田勝頼の退却を守って討死した
長篠の戦いでは、設楽原で織田・徳川連合軍と戦った武田軍が、次第に劣勢となりました。
山県昌景や内藤昌秀などの重臣も戦死し、武田軍は退却を余儀なくされます。
このとき、武田勝頼の退却を助けたと伝えられるのが馬場信春です。
馬場信春は殿(しんがり)と呼ばれる、退却する軍勢の最後尾を守る役割を担ったとされています。
追撃してくる敵軍を食い止め、勝頼が戦場を離れる時間を稼いだというのです。
新城市の長篠城址史跡保存館でも、馬場信春が連合軍の追撃を防ぎながら退き、勝頼が川を渡って逃れる姿を見届けたという話が紹介されています。
馬場信春は、こうして主君の退却を助けた後、現在の新城市出沢付近で討死したと伝えられています。
「馬場美濃守である」と名乗った最期の逸話
馬場信春の最期には、後世まで語り継がれてきた逸話があります。
軍記物の『甲陽軍鑑』には、勝頼の退却を見届けた馬場信春が、敵に向かって自ら名乗りを上げ、討ち取られたという話が記されています。
敵に自分の首を取って手柄にするよう促したとも伝えられ、馬場信春の覚悟を象徴する場面として知られています。
ただし、この言葉や最期の具体的な様子まで、史実として確定しているわけではありません。
『甲陽軍鑑』などに伝わる逸話として、史実と区別して受け止めたいところです。
馬場信春が長篠の戦いで戦死したことと、その最期がどのように語り継がれてきたかは、分けて考える必要がありそうです。
馬場信春の墓と戦死の地は現在も残されている
現在の愛知県新城市には、馬場信春ゆかりの史跡が残されています。
長篠城跡の近くには「馬場美濃守信房の墓」があり、馬場信春を供養する場所として知られています。
また、新城市出沢には、馬場信春が討死したと伝わる場所もあります。
ただし、墓所や戦死地の伝承が、そのまま当時の出来事を正確に示しているとは限りません。
現在に残る史跡からは、馬場信春の最期が地域で長く語り継がれてきたことを感じ取れます。
武田勝頼を守ったと伝わる馬場信春の討死は、長篠の戦いを象徴する出来事の一つといえるでしょう。
次は、内藤昌秀や土屋昌続など、長篠の戦いで命を落としたほかの武田重臣たちを見てみましょう。
内藤昌秀・土屋昌続らも戦死!武田重臣の最期
長篠の戦いで戦死した武田軍の武将は、山県昌景や馬場信春だけではありません。
内藤昌秀や土屋昌続、真田信綱・真田昌輝の兄弟など、多くの武将が命を落としました。
とくに注目したいのは、武田信玄の時代から活躍してきた重臣と、各地の有力武将が同じ戦いで失われたことです。
それぞれの人物について、残された記録を見てみましょう。
内藤昌秀(内藤昌豊)|武田四天王の一人
内藤昌秀(ないとうまさひで)は、内藤昌豊(まさとよ)とも呼ばれる武田家の重臣です。
山県昌景や馬場信春とともに、武田四天王の一人として知られています。
武田信玄の時代から軍事や領国支配に関わり、勝頼の代にも重要な立場にありました。
1575年の長篠の戦いでは、設楽原で織田・徳川連合軍と戦い、討死しました。
その最期の具体的な状況については、後世の軍記物などにも記述がありますが、細部まで確定できるわけではありません。
内藤昌秀の戦死は、武田家を長く支えた経験豊富な重臣の喪失という点で、大きな意味を持っていたと考えられます。
土屋昌続|設楽原で討死した武田家の重臣
土屋昌続(つちやまさつぐ)は、武田信玄・勝頼に仕えた武将です。
土屋昌次(まさつぐ)という表記でも知られています。
長篠の戦いでは、設楽原の決戦に参加し、織田・徳川連合軍との戦闘で命を落としました。
新城市に残る大通寺の「盃井戸」には、決戦を前に馬場信春・山県昌景・内藤昌秀・土屋昌続の四人が水杯を交わしたという伝承があります。
これは、戦いに臨む武将たちの覚悟を伝える話として知られていますが、実際に四人が集まって別れを交わしたかどうかは、確実な史実として断定できません。
土屋昌続もまた、長篠の戦いで失われた武田軍の重要な指揮官の一人でした。
真田信綱・真田昌輝|兄弟そろって長篠の戦いで戦死
真田信綱(さなだのぶつな)と真田昌輝(さなだまさてる)は、武田家に仕えた真田一族の兄弟です。
二人は、後に真田家を継ぐ真田昌幸の兄にあたります。
長篠の戦いでは兄弟そろって出陣し、設楽原で討死しました。
現在の愛知県新城市八束穂には、真田兄弟の墓と伝えられる史跡が残っています。
地元の史跡案内では、兄弟が丸山砦付近で佐久間信盛の軍勢と戦い、命を落としたと紹介されています。
真田家では、信綱と昌輝が戦死した後、弟の昌幸が家を継ぐことになります。
長篠の戦いは、武田家だけでなく、家臣の一族の継承にも影響を与えた戦いだったことがわかります。

真田信綱と真田昌輝は長篠の戦いで戦死し、弟の真田昌幸が家督を継いだ。
原昌胤・三枝昌貞らも長篠の戦いで討死した
ほかにも、武田軍では原昌胤(はらまさたね)や三枝昌貞(さえぐさまささだ)などが戦死しました。
原昌胤は武田家の軍事組織を支えた重臣の一人で、長篠の戦いで討死した人物として記録されています。
三枝昌貞は、長篠城周辺の攻防で命を落とした武将です。
長篠の戦いは設楽原での決戦だけでなく、長篠城をめぐる攻防も含むため、武将によって戦死した場所や経緯が異なります。
このほか、武田一門の武田信実や、上野国から参戦した安中景繁なども討死した人物として知られています。
こうして見ると、長篠の戦いで失われたのは、武田家の宿老だけではありません。
一門の武将や各地から従軍した国衆にも、戦死者が広がっていたことがわかります。
では、武田軍全体ではどれほどの兵が命を落としたのでしょうか。
次は、長篠の戦いの戦死者数について、伝えられる数字と史料上の注意点を確認してみましょう。
長篠の戦いの戦死者数は何人?武田軍の損害
長篠の戦いでは、山県昌景や馬場信春をはじめ、多くの武田軍の武将が戦死しました。
では、武田軍全体では何人ほどが命を落としたのでしょうか。
長篠の戦いの戦死者数については、武田軍がおよそ1万人を失ったという数字がよく知られています。
ただし、この数字を正確な実数として受け止めるには注意が必要です。
武田軍の戦死者は約1万人と伝えられる
織田信長の家臣・太田牛一が記した『信長公記』には、長篠の戦いで武田軍の有力武将や兵士など、合わせておよそ1万人が討死したという記述があります。
現在の新城市にある長篠城址史跡保存館の展示解説でも、武田軍の戦死者は1万人、織田・徳川連合軍は6千人と伝えられていることが紹介されています。
主な記録を整理すると、次のようになります。
| 軍勢 | 伝えられる損害 | 注意点 |
|---|---|---|
| 武田軍 | 戦死者約1万人 | 史料や伝承に見られる数字で、正確な人数は不明 |
| 織田・徳川連合軍 | 死傷者約6千人という伝承 | 戦死者と負傷者を合わせた数字として紹介する資料がある |
なお、新城市の長篠城址史跡保存館では、両軍の戦死者を武田軍1万人、織田・徳川連合軍6千人と紹介しています。
一方、新城市観光協会の資料では、連合軍の6千人を死傷者としており、記述に違いがあります。
そのため、両軍合わせて1万6千人が戦死したと断定することはできません。
長篠の戦いで大きな損害が出たことは確かですが、正確な戦死者数は不明です。
この数字を見ると、両軍に非常に大きな損害が出たことになります。
しかし、当時の戦死者を一人ずつ正確に数えた記録が残っているわけではありません。
そのため、これらは史料や伝承に見られる数字として理解する必要があります。
戦死者数には史料による違いがある
『信長公記』は長篠の戦いを考えるうえで重要な史料ですが、織田方の立場から記されたものです。
戦国時代の合戦記録では、敵を何人討ち取ったかという数字が、勝利の大きさを示すために用いられることもありました。
また、長篠の戦いでは設楽原の決戦だけでなく、長篠城周辺の攻防や敗走する武田軍への追撃も行われています。
どこまでの戦闘を含めるかによっても、損害の数え方は変わってきます。
したがって、武田軍の戦死者は正確に1万人だったと断定することはできません。
「約1万人と伝えられるものの、実数は不明」とするのが慎重な表現でしょう。
兵士の損失だけでなく重臣の戦死が大きな打撃となった
長篠の戦いで注目したいのは、戦死者数の多さだけではありません。
山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、土屋昌続、真田信綱・昌輝兄弟など、武田家を支えてきた武将が相次いで命を落としました。
こうした武将たちは、軍勢を率いるだけでなく、領国の統治や家臣団の運営にも関わっていました。
そのため、長篠の戦いの敗北は、単に兵力が減ったという問題にとどまりません。
長年の経験を持つ指揮官を一度に失ったことも、武田家にとって深刻な損失だったと考えられます。
もっとも、武田家はこの戦いの直後に滅亡したわけではなく、その後も軍事行動を続けています。
馬場信春の墓や、現在も残る武将たちの戦死地については、長篠の戦いの場所は現在どこ?古戦場跡を地図で紹介で確認できます。
では、なぜ長篠の戦いでは、これほど多くの武田軍の重臣が戦死することになったのでしょうか。
次は、設楽原での戦闘と武田軍の敗北の背景を見てみましょう。
なぜ長篠の戦いで武田軍の重臣が多数戦死した?
長篠の戦いでは、山県昌景・馬場信春・内藤昌秀・土屋昌続など、武田信玄の時代から活躍してきた重臣が相次いで戦死しました。
では、なぜこれほど多くの武将が、同じ戦いで命を落としたのでしょうか。
その背景には、織田・徳川連合軍が築いた防御陣地、両軍の兵力差、そして武田軍の退却時の戦闘などがあったと考えられます。
設楽原での戦いの様子をたどりながら、重臣たちが戦死した背景を見てみましょう。
織田・徳川連合軍の馬防柵と鉄砲による防御
織田信長と徳川家康の連合軍は、設楽原の連吾川沿いに陣を構え、馬防柵を設けて武田軍を迎え撃ちました。
連吾川の周辺には起伏や湿地状の土地があり、攻め寄せる武田軍にとって、必ずしも動きやすい地形ではありませんでした。
新城市の資料では、武田軍が川や水田を越えて馬防柵に近づくと、連合軍の鉄砲による攻撃を受けた様子が紹介されています。
武田軍の武将たちは、この防御陣地を突破しようと戦いましたが、攻撃を重ねるなかで死傷者が増えていったと伝えられています。
つまり、地形を利用した防御陣地と鉄砲などによる攻撃が、武田軍を苦しめた要因の一つだったと考えられます。
武田軍の兵力差と設楽原での激しい戦闘
長篠の戦いでは、武田軍に対して織田・徳川連合軍が兵力で優勢だったと考えられています。
ただし、両軍の具体的な兵数には史料による違いがあり、正確な人数を確定することは難しいところです。
武田軍は、設楽原で連合軍の防御線に攻撃を加えました。
山県昌景や内藤昌秀などの重臣も、それぞれの部隊を率いて戦ったと伝えられています。
しかし、連合軍の防御を崩すことはできず、武田軍は次第に劣勢となりました。
この戦いでは、単に鉄砲の威力だけで勝敗が決まったのではなく、兵力、地形、防御陣地、部隊の運用などが重なったと見る必要がありそうです。
また、設楽原での決戦と並行して、長篠城周辺でも重要な戦闘が行われました。
徳川家康の重臣・酒井忠次らが鳶ヶ巣山砦を攻撃し、長篠城を包囲していた武田軍の部隊にも損害を与えたのです。
武田軍の敗北を考える際には、設楽原の正面での戦闘だけでなく、長篠城周辺での攻防にも目を向ける必要があります。
武田軍の退却と追撃戦でも重臣が命を落とした
設楽原での戦闘が不利になると、武田勝頼は軍勢を退却させることになります。
しかし、戦場からの退却は簡単ではありません。
敵の追撃を受けながら軍勢をまとめ、主君を安全な場所まで逃がす必要があったためです。
このとき、武田勝頼の退却を守ったと伝えられるのが馬場信春です。
馬場信春は、最後尾で敵の追撃を食い止める殿(しんがり)を務め、長篠城に近い寒狭川付近で討死したとされています。
一方、山県昌景や内藤昌秀らは、設楽原での戦闘中に命を落としました。
このように、武田軍の重臣たちは、決戦の最中だけでなく退却をめぐる戦闘でも失われたのです。
「鉄砲の三段撃ちだけが敗因」という説明には注意が必要
長篠の戦いというと、織田軍が三千挺の鉄砲を三段に並べ、武田軍の騎馬隊を撃破したという話がよく知られています。
しかし、近年の歴史研究では、この説明についてさまざまな疑問が示されています。
とくに、鉄砲を三列に並べて交代しながら一斉射撃したという戦法については、史料上の裏付けが十分ではないと指摘されています。
また、武田軍が騎馬武者だけで編成された軍勢だったわけでもありません。
そのため、長篠の戦いを「鉄砲の三段撃ちによって武田騎馬隊が壊滅した戦い」とだけ説明するのは、現在の研究状況を考えると慎重であるべきでしょう。
武田軍の重臣が多数戦死した背景には、連合軍の防御陣地への攻撃、戦場の地形、兵力差、そして敗走時の追撃など、複数の要因があったと考えられます。
武田勝頼が決戦に臨んだ背景や、重臣たちが反対したという逸話については、長篠の戦いで武田勝頼はなぜ負けた?敗因と決戦の真相で詳しく取り上げています。
では、武田軍を率いた武田勝頼自身は、この戦いの後どうなったのでしょうか。
次は、勝頼の退却と、生き残った武将たちのその後をたどってみましょう。
武田勝頼は生き残った?敗走した武将とその後
1575年(天正3年)の長篠の戦いでは、武田軍の多くの重臣が戦死しました。
しかし、総大将の武田勝頼(たけだかつより)は、この戦いで命を落としたわけではありません。
勝頼は設楽原での敗北後、戦場を離れて甲斐国へ帰還しました。
武田勝頼は長篠の戦いを生き延び、その後も武田家の当主として活動を続けたのです。
では、勝頼はどのように退却し、生き残った武将たちはその後どうなったのでしょうか。
武田勝頼は長篠の戦いから退却して甲斐へ戻った
長篠の戦いで武田軍が劣勢になると、勝頼は戦場から退却しました。
このとき、馬場信春が殿(しんがり)を務め、追撃してくる織田・徳川連合軍を食い止めたと伝えられています。
勝頼は長篠城周辺から三河・信濃方面へ退き、最終的に本拠地の甲斐国へ戻りました。
退却の具体的な経路や途中の出来事には、史料や伝承による違いがあります。
ただし、勝頼自身が長篠の戦いで戦死しなかったことは、その後の活動からも確認できます。
一方で、山県昌景や馬場信春、内藤昌秀らが戦死したため、勝頼は経験豊富な重臣を多く失うことになりました。

武田勝頼は長篠の戦いを生き延び、甲斐へ帰還した。その後も武田家は1582年まで存続した。
真田昌幸ら生き残った武将は武田家を支え続けた
長篠の戦いでは真田信綱・真田昌輝の兄弟が戦死しましたが、弟の真田昌幸(さなだまさゆき)は生き残りました。
昌幸は武田信玄・勝頼に仕えた武将で、兄たちの死後、真田家の家督を継ぎました。
その後も武田勝頼に仕え、武田家の勢力を支える立場となります。
また、武田家には長篠の戦いを生き延びた家臣も数多くいました。
武田軍の主力が大きな損害を受けたとはいえ、すべての武将が戦死したわけではありません。
長篠の敗北後も、生き残った武将たちは武田家の軍事や領国支配を担い続けたのです。
武田家の滅亡は長篠の戦いから7年後だった
長篠の戦いで大敗した武田勝頼でしたが、武田家はその直後に滅亡したわけではありません。
勝頼はその後も領国の維持や勢力の回復を図り、軍事行動を続けました。
しかし、1582年(天正10年)、織田信長と徳川家康らによる武田領への侵攻を受け、武田家は急速に追い詰められます。
勝頼は甲斐国の天目山周辺へ逃れましたが、最終的に妻子らとともに自害し、武田宗家は滅亡しました。
つまり、武田家が滅亡したのは、長篠の戦いから7年後のことです。
長篠の敗北は武田家に大きな打撃を与えましたが、その後の外交関係や領国情勢なども、滅亡へ至る過程に関わっていました。
長篠の戦いだけで武田家の運命がすべて決まったと考えるのではなく、その後の7年間にも目を向けたいところです。
鉄砲や馬防柵が武田軍の敗北にどう関わったのかについては、長篠の戦いで織田信長はなぜ勝った?三段撃ちの真実で確認しています。
まとめ|長篠の戦いで失われた武田軍の重臣たち
1575年(天正3年)の長篠の戦いでは、武田勝頼の軍勢が織田・徳川連合軍に敗れ、多くの武将が戦死しました。
なかでも山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、土屋昌続らは、武田信玄の時代から武田家を支えてきた重臣です。
今回確認した内容を整理すると、次のようになります。
- 山県昌景は設楽原で戦い、鉄砲によって戦死したと伝わる。
- 馬場信春は武田勝頼の退却を守り、殿を務めて討死したとされる。
- 内藤昌秀や土屋昌続、真田信綱・昌輝兄弟らも戦死した。
- 武田軍の戦死者は約1万人と伝わるが、正確な人数は不明。
- 武田勝頼は生き延び、武田家は1582年まで存続した。
長篠の戦いは、鉄砲と馬防柵を使った戦いとしてよく知られています。
しかし、武田家を長く支えた重臣たちが、一度に失われた戦いでもありました。
また、武将たちの最期には『甲陽軍鑑』などの軍記物や、現地に残る伝承によって語り継がれてきた話もあります。
史実として確認できることと、後世に伝わった逸話を分けて見ていくことも大切でしょう。
武田勝頼は長篠の戦いを生き延び、その後も武田家の当主として戦い続けました。
その一方で、経験豊かな重臣を失った影響は小さくなかったと考えられます。
長篠の戦いで命を落とした武将たちの名前をたどると、この敗北が武田家に残したものの大きさが見えてくるように思います。
参考資料
- 太田牛一『信長公記』
- 『甲陽軍鑑』
- 東京大学史料編纂所編『大日本史料』
- 新城市「長篠城址史跡保存館展示解説」
新城市公式サイト - 新城市「長篠城址史跡保存館」
新城市公式サイト - 愛知県東三河県庁「東三河検定・長篠設楽原の戦い」
穂っとネット東三河
※武将の最期や戦死者数には、史料や伝承によって異なる記述があります。本文では、確実に確認できる事実と後世に伝わる逸話を区別して記載しています。
※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。
















