小牧・長久手の戦いはどっちが勝った?なぜ戦ったのか・場所と結果も紹介

1584年、徳川家康と羽柴秀吉が対立した「小牧・長久手の戦い」。
長久手での戦闘では家康方が勝利しましたが、その後、秀吉は天下統一を進めていきます。
では、**小牧・長久手の戦いは結局どちらが勝ったのでしょうか。**
そもそも、なぜ家康と秀吉は戦うことになったのでしょう。
織田信長の次男・信雄が関わった理由や、現在の愛知県に残る戦いの舞台も気になるところです。
今回は、合戦の始まりから戦いの経過、勝敗と和睦、そして家康と秀吉のその後まで、一緒にたどってみましょう。
小牧・長久手の戦いとは?いつ・どこで起きた合戦?
小牧・長久手の戦いは、1584年(天正12年)に徳川家康・織田信雄の連合軍と、羽柴秀吉の軍勢が争った合戦です。
織田信長が本能寺の変で亡くなってから、わずか2年後の出来事でした。
戦いの舞台は、現在の愛知県を中心とした地域です。
小牧山周辺でのにらみ合いや長久手での激しい戦闘など、各地で戦いが繰り広げられました。
では、この合戦はいつ始まり、どこで戦われたのでしょうか。
まずは時期と場所、対立した武将たちを見てみましょう。
小牧・長久手の戦いは1584年に起きた
小牧・長久手の戦いが起きたのは、1584年(天正12年)です。
同年3月に尾張で本格的な戦闘が始まり、その後も各地で戦いが続きました。
特に知られているのが、旧暦4月9日に起きた長久手での戦闘です。
この戦いでは、徳川家康の軍勢が羽柴方の軍勢を破りました。
ただし、長久手での勝利によって戦役全体が終わったわけではありません。
両陣営の対立は続き、同年11月には羽柴秀吉と織田信雄が講和することになります。
このため、長久手での戦闘の勝敗と、小牧・長久手の戦い全体の結末は分けて考える必要があります。
戦いの場所は現在の愛知県小牧市・長久手市周辺
小牧・長久手の戦いという名前には、2つの地名が含まれています。
「小牧」は現在の愛知県小牧市、「長久手」は愛知県長久手市にあたります。
どちらも現在の名古屋市周辺に位置していますが、同じ場所ではありません。
小牧では、徳川家康が小牧山に陣を構え、羽柴軍と対峙しました。
一方、長久手では、三河方面へ進もうとした羽柴方の部隊と徳川軍が激突しています。
また、犬山城や岩崎城なども戦いに関わった重要な場所です。
合戦は小牧と長久手の2か所だけで行われたわけではなく、尾張・三河の各地に広がっていました。
現在も小牧山城跡や長久手古戦場などに、当時の戦いを伝える史跡が残されています。
徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉の対立を簡単に見てみよう
この戦いで対立したのは、徳川家康と織田信雄の連合軍、そして羽柴秀吉の軍勢でした。
織田信雄は、織田信長の次男です。
本能寺の変で信長が亡くなった後、織田家の主導権をめぐる状況は大きく変化していました。
一方、羽柴秀吉は山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いを経て、急速に勢力を拡大していました。
その秀吉と信雄の関係が悪化し、信雄は徳川家康と手を結びます。
こうして、織田信雄・徳川家康と羽柴秀吉の対立が、軍事衝突へと発展していったのです。
では、信長の家臣だった秀吉と、その息子である信雄は、なぜ争うことになったのでしょうか。
そして、家康はなぜ信雄に味方したのでしょう。
この背景については、後の章でたどってみましょう。
小牧・長久手の戦いはどっちが勝った?勝者と結果
小牧・長久手の戦いは、徳川家康と羽柴秀吉のどちらが勝ったのでしょうか。
この疑問は、合戦の結果を調べていると少し複雑に感じるところです。
というのも、長久手での戦闘には家康方が勝利したものの、戦役全体では秀吉が政治的に優位な立場を築いていったからです。
では、戦場での勝敗と、その後の歴史を分けて見てみましょう。
長久手の戦闘では徳川家康方が勝利
1584年(天正12年)旧暦4月9日、現在の愛知県長久手市周辺で、徳川軍と羽柴方の部隊が激突しました。
この戦いでは、徳川家康方が羽柴方の軍勢を破っています。
羽柴方では、池田恒興や森長可といった有力武将が戦死しました。
羽柴方は、家康の本拠地である三河方面を脅かそうとしましたが、その動きを察知した徳川軍が迎え撃つ形となりました。
その結果、長久手の戦闘では徳川家康方が明確な勝利を収めたといえます。
ただし、ここで注意したいのは、長久手で敗れたのは羽柴方の一部の部隊であり、秀吉の全軍が壊滅したわけではないことです。
そのため、長久手で家康が勝ったからといって、秀吉との戦いそのものが終わったわけではありませんでした。
戦役全体ではどちらが勝ったといえるのか
それでは、小牧・長久手の戦い全体では、どちらが勝ったのでしょうか。
実は、この合戦には一方が相手を完全に打ち破って終わったという結末はありません。
長久手で勝利した家康は、その後も小牧山周辺で秀吉方と対峙しました。
一方の秀吉も大軍を維持し、家康を決定的に打ち破ることはできませんでした。
こうした状況のなか、同年11月、秀吉は家康の同盟相手だった織田信雄と講和します。
信雄が秀吉と和睦したことで、家康が戦いを続ける政治的な理由も弱まり、両軍の大規模な対立は収束へ向かいました。
つまり、小牧・長久手の戦いは、次のように整理できそうです。
| 比較する内容 | 結果 |
|---|---|
| 長久手での戦闘 | 徳川家康方の勝利 |
| 戦役全体の軍事的決着 | 決定的な勝者は出なかった |
| 織田信雄との講和 | 羽柴秀吉が成立させた |
| その後の政治情勢 | 秀吉が天下統一へ向けて勢力を拡大 |
こうして見ると、「戦場では家康が勝ち、政治的には秀吉が優位に立った」という整理が、両者の違いを理解しやすいかもしれません。
ただし、家康が直ちに秀吉へ従ったわけではなく、両者の関係が落ち着くまでには、さらに時間が必要でした。
なぜ秀吉がその後の天下統一を進められたのか
長久手で敗れたにもかかわらず、秀吉はその後も勢力を拡大していきました。
その理由を考えるうえで注目したいのが、秀吉の持っていた軍事力と政治的な影響力です。
秀吉はすでに畿内を中心に大きな勢力を築き、多くの武将を従えていました。
長久手で一部の軍勢が敗れても、その基盤が失われたわけではありません。
また、家康と直接戦い続けるだけでなく、同盟相手である織田信雄との講和を成立させたことも重要でした。
信雄が戦いから離れたことで、家康と秀吉の対立は新たな段階に入ります。
秀吉はその後、紀伊・四国・九州などへ勢力を広げ、天下統一への道を進んでいきました。
一方の家康も、長久手での勝利によって軍事的な実力を示し、独自の勢力を保ち続けています。
小牧・長久手の戦いは、家康と秀吉のどちらにとっても、その後の立場を左右する重要な戦いだったと考えられます。
では、そもそも、この二人はなぜ戦うことになったのでしょうか。
次は、織田信長の死後に起きた政治的な変化をたどってみましょう。
小牧・長久手の戦いはなぜ起きた?家康と秀吉が争った理由
1584年(天正12年)、徳川家康と羽柴秀吉は、なぜ戦うことになったのでしょうか。
その背景をたどるには、1582年(天正10年)に起きた本能寺の変までさかのぼる必要があります。
織田信長が亡くなると、織田家の後継者をめぐる問題や、有力武将たちの勢力争いが表面化しました。
そのなかで急速に力を伸ばしたのが羽柴秀吉でした。
一方、信長の次男・織田信雄は秀吉との関係を悪化させ、徳川家康を頼ることになります。
小牧・長久手の戦いは、信長亡き後の織田家をめぐる対立が、大きな合戦へと発展したものだったのです。
本能寺の変後に変化した織田家と羽柴秀吉の関係
1582年6月、織田信長は家臣の明智光秀に襲われ、本能寺で命を落としました。
後継者と目されていた長男・織田信忠も、同じ日に亡くなっています。
その後、羽柴秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破り、織田家の有力武将として存在感を高めました。
同年に開かれた清洲会議では、信忠の子である三法師(後の織田秀信)が織田家の後継者とされます。
しかし、これですべてが落ち着いたわけではありません。
織田家の主導権をめぐり、秀吉と柴田勝家らの対立が深まっていきました。
翌1583年(天正11年)、秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ります。
この勝利によって、秀吉は織田家の旧領や家臣団に対する影響力をさらに強めていきました。
もともとは信長の家臣だった秀吉が、信長の息子たちを上回るほどの力を持つようになったのです。
この変化が、織田信雄との対立につながっていきます。
織田信雄はなぜ秀吉と対立したのか
織田信雄は、織田信長の次男です。
本能寺の変後には秀吉と協力する時期もあり、1583年の賤ヶ岳の戦いでは秀吉方に立っていました。
ところが、秀吉が勢力を拡大するにつれて、両者の関係は次第に悪化していきます。
信雄にしてみれば、かつて父・信長に仕えていた秀吉が、織田家をしのぐほどの実権を握りつつある状況でした。
もっとも、信雄が何を考えていたのか、その心の内を断定することはできません。
ただ、織田家の立場と秀吉の勢力拡大が、両者の対立に深く関わっていたことは確かでしょう。
1584年、信雄は秀吉との内通を疑った家臣の津川義冬・岡田重孝・浅井長時を殺害しました。
この事件によって秀吉との対立は決定的となり、両者は軍事衝突へと進んでいきます。
では、信雄はなぜ徳川家康と手を結んだのでしょうか。
徳川家康が織田信雄に味方した理由
徳川家康は、かつて織田信長と長く同盟を結んでいた武将です。
信長の死後も独自の勢力を保ち、三河・遠江・駿河に加え、甲斐・信濃にも勢力を広げていました。
一方の織田信雄にとって、勢力を拡大する秀吉に対抗するには、有力な協力者が必要だったと考えられます。
そこで頼りになったのが、軍事力を持つ徳川家康でした。
家康にとっても、秀吉の勢力がさらに大きくなることは、自らの立場に影響しかねません。
また、信長以来の織田家との関係もあり、信雄を支援する理由がありました。
ただし、家康が最初から秀吉を倒して天下を取ろうとしていた、と考えるのは早計でしょう。
信雄との協力には、織田家との従来の関係に加え、秀吉の勢力拡大に対抗するという政治的な意味もあったと見られます。
こうして織田信雄と徳川家康は手を結び、羽柴秀吉との戦いに向かいました。
家康と信長の同盟は、長年にわたって続きました。
その関係については、徳川家康と織田信長の関係は?清洲同盟と築山殿・信康事件でもたどっています。
それでは、実際に両軍はどれほどの兵力を集め、どこに陣を構えたのでしょうか。
次は、小牧山城や犬山城を中心とした両軍の配置を見てみましょう。
家康が三河から周辺諸国へ勢力を広げた経過については、徳川家康の石高推移を年表で解説!領地の増え方と関ヶ原後の最大石高でも確認できます。
小牧・長久手の戦いの兵力と布陣!両軍の勢力を比較
小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍が、尾張を中心に対峙しました。
では、両軍はどれほどの兵力を集め、どこに陣を構えたのでしょうか。
この合戦では、秀吉方が全体として兵力で優勢だったと考えられています。
しかし、家康方は小牧山を拠点に守りを固め、秀吉方も容易には攻め込めない状況になりました。
まずは両軍の兵力から見てみましょう。
羽柴軍と徳川・織田軍の兵力はどれくらいだったのか
小牧・長久手の戦いに参加した両軍の兵力は資料によって異なります。
小牧山周辺で対峙した兵力について、羽柴方は約6万~10万人、徳川・織田方は約1万5千~1万7千人とする資料があります。
ただし、これらは推定を含む数字であり、戦役全体の動員数や長久手の決戦に参加した兵力とは区別する必要があります。
また、これらは戦役全体で動員された軍勢を含む概数であり、すべての兵士が一度に同じ場所で戦ったわけではありません。
また、実際の兵力を正確に確定することも難しいため、あくまで参考となる数字です。
| 比較項目 | 羽柴秀吉方 | 徳川家康・織田信雄方 |
|---|---|---|
| 主な指導者 | 羽柴秀吉 | 徳川家康・織田信雄 |
| 兵力の目安 | 約6万~10万人とする説がある | 約1万5千~1万7千人とする説がある |
| 主な拠点 | 犬山城・楽田周辺 | 小牧山城周辺 |
| 戦いの特徴 | 兵力の優位を背景に展開 | 小牧山の防御拠点を活用 |
この数字を比べると、秀吉方の兵力が大きかったことがわかります。
それでも家康方が持ちこたえたのは、兵士の数だけでなく、陣地の位置や守り方も重要だったからでしょう。
小牧山城と犬山城をめぐる両軍の布陣
小牧・長久手の戦いで重要な場所となったのが、小牧山城と犬山城です。
1584年3月、羽柴方についた池田恒興らが犬山城を占拠しました。
これに対し、徳川家康は小牧山に陣を構え、羽柴軍に備えます。
小牧山は周囲の平野を見渡せる独立した丘陵です。
家康方はここに土塁や堀などを設け、防御を固めました。
一方、秀吉方は犬山城や楽田周辺を拠点とし、小牧山に陣取る家康方と対峙します。
小牧山を守る家康方と、兵力で優位に立つ秀吉方が向かい合う構図となったのです。
ただし、両軍の陣地が常に同じ位置にあったわけではありません。
戦いの進行に伴って軍勢は移動し、周辺各地でも戦闘が起きています。
また、現在見られる小牧山城跡の遺構についても、戦国時代のどの時期に築かれたものなのか、区別して考える必要があります。
小牧・長久手の戦いの地図と勢力図から位置関係を確認
この合戦を考えるとき、小牧山と長久手の位置関係も気になるところです。

小牧・長久手の戦いの主な拠点と三河中入作戦の進軍方向を示した概略図。位置や進路は理解しやすいよう簡略化。
小牧山は現在の愛知県小牧市にあり、犬山城はその北側に位置しています。
一方、長久手は小牧山から南東方向に離れた場所です。
羽柴方は小牧山で家康軍と対峙する一方、別働隊を三河方面へ進ませようとしました。
この動きが、長久手での戦闘につながっていきます。
| 場所 | 現在の所在地 | 合戦での役割 |
|---|---|---|
| 小牧山城 | 愛知県小牧市 | 徳川家康方の主要な陣地 |
| 犬山城 | 愛知県犬山市 | 羽柴方が確保した重要拠点 |
| 楽田周辺 | 愛知県犬山市 | 羽柴秀吉方の陣地 |
| 岩崎城 | 愛知県日進市 | 三河方面へ進む羽柴方の部隊が攻撃した城 |
| 長久手古戦場周辺 | 愛知県長久手市 | 徳川軍と羽柴方の部隊が激突した地域 |
地図で確認すると、小牧山でのにらみ合いと、長久手での決戦は、別の場所で起きた出来事だったことがわかります。
また、長久手だけでなく、途中にある岩崎城も戦いの経過を知るうえで重要な場所です。
では、羽柴方はなぜ小牧山の家康軍を正面から攻めるのではなく、三河方面へ軍勢を進めたのでしょうか。
次は、犬山城の占拠から長久手での決戦まで、戦いの流れをたどってみましょう。
小牧・長久手の戦いの経過!小牧山から長久手へ
小牧・長久手の戦いは、最初から長久手で両軍が激突したわけではありません。
1584年3月、尾張で始まった戦いは、小牧山を中心としたにらみ合いを経て、4月9日の長久手での決戦へと進んでいきました。
その流れを大きく変えたのが、羽柴方による三河中入(みかわなかいり)作戦でした。
なぜ秀吉方は家康の本拠地を狙ったのでしょうか。
犬山城の占拠から長久手の決戦まで、順番にたどってみましょう。
犬山城の占拠と羽黒の戦い
1584年3月、羽柴秀吉方についた池田恒興が、織田信雄方の犬山城を占拠しました。
犬山城は木曽川沿いに位置する重要な城で、尾張北部の軍事拠点でもありました。
これに対して徳川家康は、織田信雄とともに軍勢を進めます。
その後、羽柴方の森長可が羽黒付近に陣を構えましたが、徳川方の酒井忠次らが攻撃し、森軍を敗走させました。
これが羽黒の戦いです。
井伊直政・本多忠勝・酒井忠次ら、家康を支えた武将については、徳川家康の家臣一覧!徳川四天王と重臣・最強武将や序列でも取り上げています。
この勝利によって家康方は、秀吉方の動きを一時的に抑えることができました。
しかし、秀吉方の軍事力は依然として大きく、戦いはこれで終わりませんでした。
小牧山周辺で続いた両軍のにらみ合い
家康は小牧山に陣を構え、周囲に土塁や堀を設けて防御を固めました。
一方、秀吉は大軍を率いて尾張へ進出し、楽田周辺を拠点として家康方と対峙します。
秀吉方は兵力で優勢だったものの、守りを固めた小牧山を正面から攻め落とすのは容易ではありませんでした。
家康方も、大軍を相手に陣地を離れて決戦を挑めば、不利になる可能性があります。
こうして、小牧山周辺では両軍が大きく動けない状態が続きました。
では、このにらみ合いを打開するには、どうすればよかったのでしょうか。
そこで羽柴方が実行したのが、家康の背後に回り込む作戦でした。
三河中入作戦はなぜ行われたのか
羽柴方が考えたのは、家康の本拠地である三河の岡崎方面へ別働隊を進める作戦でした。

羽柴方の別働隊は、徳川家康の本拠地である岡崎方面を目指して進軍した。(イメージ)
家康の主力が小牧山にいる間に、その背後にある岡崎を脅かそうというものです。
この作戦は「三河中入作戦」と呼ばれ、池田恒興が秀吉に進言したと伝えられています。
別働隊には、池田恒興・森長可・堀秀政・三好信吉(後の豊臣秀次)らが加わりました。
兵力は約2万人とする資料もありますが、正確な人数には幅があります。
羽柴方の狙いは、岡崎方面を脅かすことで、家康軍を小牧山から動かすことにあったと考えられます。
ところが、この動きは徳川方に察知されました。
家康は旧暦4月8日夜、小牧山から軍勢を率いて出陣し、小幡城方面を経て羽柴方の別働隊を追います。
小牧山で向かい合っていた両軍の戦いは、こうして長久手方面へ移っていきました。
岩崎城の攻防と長久手の決戦
旧暦4月9日の早朝、三河方面へ進んでいた池田恒興の軍勢は、岩崎城付近に差しかかりました。
岩崎城は現在の愛知県日進市にあたり、当時は丹羽氏次の弟・丹羽氏重らが守っていました。
池田軍は岩崎城を攻撃し、城を落とします。
しかし、城兵の抵抗によって、進軍の途中で戦闘が発生することになりました。
一方、羽柴方の後方では、徳川方の先遣隊が三好信吉の部隊を白山林で襲撃しました。
不意を突かれた三好隊は敗走します。
ただし、徳川方が一方的に勝ち進んだわけではありません。
三好隊の敗北を知った堀秀政は引き返し、桧ヶ根付近で徳川方の先遣隊を迎え撃って勝利しました。
このように、長久手周辺では両軍の勝敗が入り交じる戦闘が続いていたのです。
そして、池田恒興や森長可らの軍勢と、家康が率いる徳川方の主力が長久手で激突しました。
激しい戦いの末、池田恒興とその長男・元助、森長可らが戦死し、羽柴方は大きな損害を受けます。
長久手での決戦は、徳川家康方の勝利となりました。
秀吉自身はこの決戦の場にはおらず、敗報を受けて救援に向かいましたが、家康方はすでに撤退へと移っていました。
ここまでの流れを、簡単な年表で振り返ってみましょう。
| 時期(旧暦) | 主な出来事 | 戦いの流れ |
|---|---|---|
| 1584年3月 | 池田恒興が犬山城を占拠 | 尾張で本格的な戦闘が始まる |
| 3月17日 | 羽黒の戦い | 酒井忠次らが森長可軍を破る |
| 3月下旬 | 小牧山周辺で対峙 | 両軍のにらみ合いが続く |
| 4月6日ごろ | 三河中入作戦 | 羽柴方の別働隊が岡崎方面へ進む |
| 4月8日夜 | 家康が追撃に出発 | 小牧山から長久手方面へ移動 |
| 4月9日早朝 | 岩崎城・白山林の戦い | 岩崎城が落城し、三好隊が敗走 |
| 4月9日 | 桧ヶ根の戦い | 堀秀政軍が徳川方の先遣隊を破る |
| 4月9日 | 長久手の決戦 | 家康方が池田・森軍を破る |
こうして見ると、小牧・長久手の戦いは、一度の戦闘で勝敗が決まったわけではなかったことがわかります。
では、なぜ長久手では家康方が勝利できたのでしょうか。
次は、両軍の動きと武将たちの働きに注目してみましょう。
長久手の戦いで家康はなぜ勝てた?秀吉軍の敗因
1584年(天正12年)旧暦4月9日、長久手での戦闘は徳川家康方の勝利に終わりました。
では、なぜ家康は羽柴方の軍勢を破ることができたのでしょうか。
注目したいのは、羽柴方の三河中入作戦を徳川方が察知したこと、そして別働隊が分かれて行動していたことです。
もちろん、勝敗の理由を一つに絞ることはできません。
両軍の動きと武将たちの判断が、長久手での結果を左右したと考えられます。
徳川軍は羽柴軍の動きをどう察知したのか
羽柴方の三河中入作戦は、小牧山に陣取る家康の背後を脅かすものでした。
別働隊が三河の岡崎方面へ進めば、家康は本拠地を守るために動かざるを得なくなる可能性があります。
しかし、羽柴方の軍勢が移動していることは、徳川方に知られることになりました。
家康はその情報を受け、旧暦4月8日の夜に小牧山を出陣します。
そして、翌9日に羽柴方の別働隊を追撃しました。
どのような情報経路で作戦を把握したのかについては、伝承も含めて慎重に考える必要があります。
ただ、徳川方が別働隊の動きを察知し、主力を率いて追撃に向かったことは、長久手の戦いを考えるうえで重要です。
羽柴方にとっては、家康の本拠地を脅かすはずの進軍が、逆に徳川軍との戦闘を招く結果となりました。
池田恒興・森長可らが戦死した理由
三河中入作戦に参加した羽柴方の部隊は、一つの集団として常にまとまっていたわけではありません。
三好信吉、堀秀政、池田恒興、森長可らの軍勢は、進軍の途中でそれぞれ異なる場所で戦うことになりました。
白山林では三好信吉の部隊が徳川方に敗れましたが、その後、桧ヶ根では堀秀政が徳川方の先遣隊を破っています。
このように、羽柴方がすべての戦闘で敗れたわけではありません。
しかし、長久手で家康の主力と戦った池田恒興・森長可らの軍勢は、激しい戦闘の末に敗れました。

長久手の決戦では池田恒興や森長可らが戦死し、羽柴方は大きな損害を受けた。(イメージ)
池田恒興とその長男・元助、森長可はいずれも戦死しています。
敗因として考えられるのは、別働隊の各部隊が離れて行動し、徳川軍に対して十分な連携を取ることが難しかったことです。
また、徳川軍の主力が追撃してきたことで、三河方面への進軍という当初の目的も果たせなくなりました。
ただし、池田恒興や森長可が具体的にどのような判断を誤ったのか、すべてを明確にすることはできません。
長久手での敗北は、一人の武将の失敗というより、作戦の進行と両軍の動きが重なった結果として見た方がよさそうです。
井伊直政・本多忠勝ら徳川家臣団の働き
長久手での勝利を考えるとき、徳川家康を支えた家臣たちの存在も見逃せません。
なかでも井伊直政は、長久手の戦いで活躍した武将として知られています。
直政が率いた部隊は、赤い甲冑や旗指物を用いた「井伊の赤備え」として知られるようになりました。
ただし、後世に語られる個々の武勇伝については、当時の記録でどこまで確認できるのか、区別して考える必要があります。
また、本多忠勝も徳川家康を支えた有力武将の一人です。
小牧・長久手の戦いでは、忠勝が少数の兵を率いて秀吉の大軍に対峙したという逸話が伝わっています。
この逸話は忠勝の勇猛さを示す話として有名ですが、実際の兵数や詳しい状況については、伝承の要素にも注意したいところです。
さらに、酒井忠次は戦いの初期に羽黒で森長可軍を破り、徳川方の戦いを支えました。
こうして見ると、長久手での勝利は家康一人の働きではありません。
徳川家臣団の働きと、家康の軍勢を動かす判断が重なったことが、勝利につながったと考えられます。
もっとも、長久手で勝ったからといって、家康が秀吉の軍事力そのものを失わせたわけではありません。
秀吉は依然として大きな勢力を保っており、両者の対立はその後も続いていきます。
ところで、この戦いを調べると、秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛の名前も出てきます。
官兵衛は小牧・長久手の戦いに、どのように関わっていたのでしょうか。
次は、その点を確かめてみましょう。
黒田官兵衛は小牧・長久手の戦いで何をした?
羽柴秀吉の軍師として知られる黒田官兵衛(黒田孝高)。
小牧・長久手の戦いでは、官兵衛はどのような役割を果たしたのでしょうか。
長久手で羽柴方が敗れたことから、官兵衛が作戦に関わっていれば結果は違ったのではないか、という見方もあります。
しかし、官兵衛が三河中入作戦を立案した、あるいは長久手で直接指揮を執ったと確認できる確かな根拠は見当たりません。
では、1584年当時の官兵衛は、何をしていたのでしょうか。
黒田官兵衛は当時どのような立場にいたのか
黒田官兵衛は、播磨出身の武将で、羽柴秀吉の中国地方での戦いを支えた人物です。
本能寺の変が起きた1582年には、秀吉と毛利氏の和睦にも関わり、その後の山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いでも秀吉方として活動しました。
小牧・長久手の戦いが始まった1584年ごろ、官兵衛は毛利氏との領土をめぐる交渉に関わっていました。
秀吉は織田信長の死後、毛利氏との関係を整理し、中国地方の支配を安定させる必要があったのです。
官兵衛は蜂須賀正勝らとともに、こうした交渉を担ったとされています。
つまり、官兵衛は戦場で軍勢を率いるだけでなく、秀吉の勢力を支える外交面でも重要な役割を果たしていたと考えられます。
なお、官兵衛が1584年4月9日の長久手の決戦時に、具体的にどこにいたのかについては、ここで断定できるだけの資料を確認できません。
秀吉の作戦に官兵衛は関わっていたのか
小牧・長久手の戦いで羽柴方が実行した三河中入作戦は、池田恒興が秀吉に進言したと伝えられています。
家康の主力が小牧山にいる間に、その本拠地である岡崎方面を脅かそうという作戦でした。
この作戦に参加した主な武将としては、池田恒興・森長可・堀秀政・三好信吉らの名前が挙げられます。
一方、官兵衛については、三河中入作戦の立案者や別働隊の指揮官だったと裏付ける資料は確認できません。
もちろん、秀吉の側近だった官兵衛が、戦役全体について何らかの意見を述べた可能性まで否定することはできません。
しかし、可能性があることと、実際に関与したことが確認できることは別です。
そのため、官兵衛が秀吉の作戦を考えたと断定するのは避けたいところです。
軍師として語られる逸話と史料で確認できること
黒田官兵衛といえば、秀吉を支えた名軍師という印象が強い人物です。
そのため、秀吉が長久手で敗れた理由を、官兵衛の不在と結びつけて考えたくなるかもしれません。
しかし、長久手での敗北には、三河中入作戦の進行、別働隊の連携、徳川軍の追撃など、複数の事情が関わっていました。
官兵衛がいれば勝てたという話は、実際に起きなかった場合を想像したものであり、史実として確認できることではありません。
また、戦国時代の「軍師」は、現代の物語に登場するような、すべての作戦を一人で考える人物だったとは限りません。
官兵衛の働きも、軍事だけでなく、外交や交渉を含めて見た方が実際の姿に近づけそうです。
小牧・長久手の戦いでは、官兵衛の具体的な戦場での役割を断定するより、当時の外交活動に注目する方が確かな理解につながるのではないでしょうか。
では、長久手で勝利した家康と、敗れた秀吉の対立は、その後どうなったのでしょうか。
次は、織田信雄との講和によって戦いが収束していく経過をたどってみましょう。
小牧・長久手の戦いはなぜ和睦した?織田信雄の決断
長久手での戦闘では、徳川家康方が羽柴方の軍勢を破りました。
しかし、この勝利によって小牧・長久手の戦いが終わったわけではありません。
羽柴秀吉は依然として大きな軍事力を持ち、両陣営の対立はその後も続きました。
そして1584年(天正12年)11月、戦いの行方を大きく変える出来事が起きます。
それが、織田信雄と羽柴秀吉の講和でした。
では、なぜ家康が勝利したにもかかわらず、信雄は秀吉と和睦したのでしょうか。
その背景を見てみましょう。
長久手で勝った家康が秀吉を倒せなかった理由
長久手の戦いで徳川家康方が破ったのは、羽柴方の三河中入作戦に参加した別働隊でした。
池田恒興や森長可らが戦死し、羽柴方は大きな損害を受けましたが、秀吉の主力軍が壊滅したわけではありません。
秀吉は畿内を中心に強い勢力基盤を持ち、多くの武将を従えていました。
一方の家康も、長久手で勝利したからといって、兵力で優勢な秀吉軍に全面的な決戦を挑むことは容易ではなかったでしょう。
さらに、戦いは尾張だけに限られず、伊勢や美濃など周辺地域にも広がっていました。
両陣営は各地で戦いを続けましたが、相手の勢力を完全に屈服させるほどの決定的な勝利は得られませんでした。
長久手での家康の勝利は大きなものでしたが、それだけで秀吉との対立を終わらせることはできなかったのです。
織田信雄はなぜ秀吉と講和したのか
小牧・長久手の戦いで家康とともに秀吉と争っていたのが、織田信長の次男・織田信雄でした。
信雄は秀吉との対立から家康と手を結びましたが、戦いが長引くなかで、その立場は次第に厳しくなっていきます。
特に伊勢方面では羽柴方の攻勢を受け、信雄の領国にも大きな負担がかかっていました。
そのような状況のなか、1584年11月、信雄は秀吉との講和を成立させました。
信雄が講和を選んだ理由には、領国を守る必要や、長期化する戦いへの負担などがあったと考えられます。
ただし、信雄本人が何を最も重視して決断したのか、その心の内まで断定することはできません。
重要なのは、家康とともに戦っていた信雄が、秀吉と個別に和睦したという事実です。
これによって、家康と秀吉の対立を取り巻く状況は大きく変わりました。
信雄の講和によって家康はどうなったのか
徳川家康は、織田信雄を支援する立場で羽柴秀吉と戦っていました。
ところが、その信雄自身が秀吉と和睦したことで、家康が戦いを続ける理由の一つが失われることになります。
家康は長久手で勝利していたものの、信雄が講和した後も秀吉との戦いを続ければ、独自に大きな負担を負うことになりかねません。
こうして、信雄の講和は、小牧・長久手の戦いが収束へ向かう大きな転機となりました。
ただし、ここで家康が秀吉に臣従したわけではありません。
両者の間には依然として緊張が残り、家康が秀吉のもとへ出仕するまでには、さらに約2年の時間が必要でした。
また、秀吉と家康の関係を安定させるためには、軍事力だけでなく、婚姻や人質をめぐる政治的な働きかけも行われていきます。
このように、小牧・長久手の戦いは、戦場で一方が相手を完全に打ち破って終わったわけではありません。
織田信雄と秀吉の講和によって戦いは収束へ向かい、家康と秀吉の関係は新たな段階へ進んでいったのです。
信雄と秀吉の講和後、家康も秀吉との和議に向かいました。
その過程では、家康の次男・於義丸(後の結城秀康)が秀吉のもとへ送られることになります。
つまり、長久手の戦闘では家康が勝利したものの、講和の条件まで家康に有利だったわけではありません。
では、その後、家康はどのようにして秀吉に従うことになったのでしょうか。
次は、朝日姫との婚姻や家康の上洛までをたどってみましょう。
小牧・長久手の戦いのその後!家康と秀吉の関係はどう変わった?
1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いは織田信雄と羽柴秀吉の講和をきっかけに収束へ向かいました。
しかし、徳川家康と秀吉の対立が、これですべて解消されたわけではありません。
長久手で勝利した家康は独自の勢力を保ち、一方の秀吉は天下統一へ向けて勢力を広げていきます。
では、戦場で争った二人は、その後どのように関係を変えていったのでしょうか。
戦いの終結から家康の臣従までには、約2年の時間が必要でした。
戦いの後も続いた徳川家康と羽柴秀吉の駆け引き
小牧・長久手の戦いが終わった後も、徳川家康はすぐに秀吉の家臣となったわけではありません。
家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃を中心とする勢力を維持し、秀吉から一定の独立性を保っていました。
一方の秀吉は、1585年(天正13年)に紀伊や四国へ軍勢を進め、支配地域を広げていきます。
さらに同年、秀吉は関白に就任しました。
武力だけでなく、朝廷の権威も利用して全国の大名を従えようとしていたのです。
こうした状況のなかで、家康も秀吉との関係をどうするか、判断を迫られることになります。
ただし、家康がいつ、どの段階で臣従を決意したのか、その心の内まで正確に知ることはできません。
確かなのは、秀吉の勢力拡大によって、家康を取り巻く政治情勢が変化していったということです。
家康と秀吉の関係は、小牧・長久手の戦いだけでは終わりませんでした。
二人の関係の変化については、徳川家康と豊臣秀吉の関係は?織田信長との関係や戦い・主従関係でもたどっています。
秀吉の妹・朝日姫と家康の婚姻
1586年(天正14年)、秀吉は徳川家康との関係を安定させるため、妹の朝日姫を家康に嫁がせました。
朝日姫は、家康の継室として迎えられます。
この婚姻によって、秀吉と家康は義理の兄弟という関係になりました。
戦場で争っていた二人が、今度は婚姻によって結びついたのです。
もっとも、戦国時代の有力武将同士の婚姻には、政治的な意味がありました。
今回の婚姻も、両者の関係を安定させるための働きかけだったと考えられます。
しかし、朝日姫との婚姻だけで、家康が直ちに秀吉のもとへ出仕したわけではありません。
秀吉はさらに、家康の上洛を促すための行動を取ることになります。
朝日姫をはじめ、家康の正室・継室・側室については、徳川家康の妻は何人?正室・継室・側室一覧!名前と子供も解説でも見ていきましょう。
家康はなぜ秀吉への臣従を決めたのか
1586年、秀吉は母の大政所を家康のいる岡崎へ送りました。
これは、家康に対して安全を保証する意味を持つ行動だったと考えられています。
大政所が事実上の人質だったとする見方もありますが、その位置づけについては慎重に考える必要があります。
1586年(天正14年)10月、家康は大坂へ赴き、秀吉と対面しました。
そして諸大名の前で臣従の姿勢を示し、両者の関係は大きく変わることになります。
家康がこの決断に至った背景には、秀吉が関白となり、全国の大名に対する政治的な影響力を強めていたこともあったでしょう。
また、朝日姫との婚姻や大政所の岡崎訪問によって、両者の間で信頼を築くための働きかけが重ねられていました。
家康は長久手で勝利した軍事力を保ちながらも、政治的には秀吉の政権に加わる道を選んだのです。
ただし、秀吉への臣従によって、家康が持っていた領国や軍事力が直ちに失われたわけではありません。
家康はその後も有力大名として大きな勢力を維持し、秀吉の天下統一事業にも関わっていきます。
こうして振り返ると、小牧・長久手の戦いは、家康と秀吉の関係を考えるうえで大きな転機だったことがわかります。
では、この合戦の勝敗と歴史的な意味を、最後にもう一度整理してみましょう。
まとめ|小牧・長久手の戦いの勝敗と歴史的な意味
1584年(天正12年)に起きた小牧・長久手の戦いは、徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉が争った合戦でした。
今回たどってきた内容を、最後に振り返ってみましょう。
- 小牧・長久手の戦いは、1584年に現在の愛知県を中心に起きた。
- 戦いの背景には、織田信長の死後に生じた信雄と秀吉の対立があった。
- 長久手の決戦では、徳川家康方が池田恒興・森長可らの軍勢を破った。
- 戦役全体では決定的な軍事的勝者が出ず、信雄と秀吉の講和によって収束へ向かった。
- 家康はその後も独立した勢力を保ち、1586年に秀吉へ臣従した。
つまり、長久手の戦闘では家康が勝利しましたが、戦役全体を家康の完全勝利とすることはできません。
一方の秀吉も、家康を戦場で屈服させたわけではありませんでした。
それでも信雄との講和を成立させ、その後は天下統一へ向けて勢力を広げていきます。
こうして見ると、小牧・長久手の戦いは、家康の軍事力と秀吉の政治力がそれぞれ表れた合戦だったとも考えられます。
戦場での勝敗だけでなく、その後の二人の歩みまでたどると、この戦いの持つ意味がより興味深く感じられますね。
参考資料
この記事の作成にあたっては、次の資料を参考にしました。
※合戦の兵力や作戦の経緯、武将の逸話については、史料や研究によって見解が異なる場合があります。
※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。













