徳川家康の家臣一覧!徳川四天王と重臣・最強武将や序列を解説

徳川家康には、天下統一を支えた数多くの家臣がいました。
なかでも酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政は「徳川四天王」と呼ばれ、家康を支えた名将として知られています。
しかし、家康の家臣団には、本多正信のように政治面で活躍した重臣や、石川数正のように家康のもとを離れた人物もいました。
では、家康の主要な家臣には誰がいて、どのような序列や役割があったのでしょうか。
この記事では、**徳川家康の家臣一覧を表で紹介し、徳川四天王の功績、最強と呼ばれる武将、重臣の序列、家臣団の特徴**までわかりやすく解説します。
徳川家康の家臣一覧!主要武将と重臣を表で紹介
徳川家康には、三河国(現在の愛知県東部)を本拠地としていた時代から、数多くの家臣が仕えていました。
なかでも酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人は「徳川四天王」と呼ばれ、家康を支えた代表的な武将として知られています。
しかし、家康の天下取りを支えたのは、この4人だけではありません。
本多正信のように政治や外交で活躍した重臣、鳥居元忠のように戦場で忠義を尽くした武将など、さまざまな人物がいました。
徳川家康の家臣団は、戦場で戦う武将と政治・行政を担当する重臣が、それぞれの役割を果たしていたことが特徴です。
徳川家康の主要家臣一覧表
まずは、家康に仕えた代表的な家臣を一覧表で確認しましょう。
| 家臣名 | 主な役割・功績 | 分類 |
|---|---|---|
| 酒井忠次 | 徳川家の宿老として軍事・政治の両面で活躍。長篠の戦いなどで功績を挙げた | 徳川四天王 |
| 本多忠勝 | 数多くの合戦に参加し、勇猛な武将として知られた | 徳川四天王 |
| 榊原康政 | 家康の側近として軍勢を率い、小牧・長久手の戦いなどで活躍した | 徳川四天王 |
| 井伊直政 | 井伊の赤備えを率い、関ヶ原の戦いでも東軍として活躍した | 徳川四天王 |
| 本多正信 | 家康の側近として政治・行政面を支えた | 政治・行政の重臣 |
| 石川数正 | 家康の重臣として外交などを担当。1585年に徳川家を離れて豊臣秀吉に仕えた | 重臣・のち出奔 |
| 大久保忠世 | 三河以来の家臣として各地の合戦に参加し、軍事面で活躍した | 譜代の重臣 |
| 大久保忠隣 | 家康・秀忠に仕え、江戸幕府初期の政治に関わった | 政治・行政の重臣 |
| 鳥居元忠 | 伏見城を守り、1600年の伏見城の戦いで討死した | 譜代の重臣 |
| 服部正成 | 徳川家に仕えた武将。伊賀者との関係でも知られる | 軍事・警護に関わる家臣 |
| 高力清長 | 三河以来の家臣で、軍事や領国支配に関わった | 譜代の重臣 |
| 内藤正成 | 弓の名手として知られ、徳川家の合戦に参加した | 武勇で知られる家臣 |
| 渡辺守綱 | 槍の使い手として知られ、「槍半蔵」の異名を持つ | 武勇で知られる家臣 |
| 平岩親吉 | 家康の古くからの家臣で、徳川家の重要な役職を務めた | 譜代の重臣 |
| 大久保彦左衛門(忠教) | 三河以来の家臣。後年『三河物語』を著した | 譜代の家臣 |
※この表は家康の代表的な家臣をまとめたもので、徳川家臣団の全員を網羅したものではありません。また、分類は役割を理解しやすくするための便宜的なものです。
徳川家康の家臣にはどのような役割があった?
徳川家康の家臣団には、さまざまな役割を持つ武将がいました。
本多忠勝や井伊直政は、戦場で軍勢を率いて活躍したことで知られています。
一方、本多正信は政治的な助言や行政面で家康を支え、石川数正は徳川家を離れる以前、外交交渉などで重要な役割を担いました。
また、鳥居元忠のように城の守備を任された武将や、平岩親吉のように徳川家の一門を支えた家臣もいました。
ただし、戦国時代の家臣の役割は、現在の会社の部署のように明確に分かれていたわけではありません。
一人の武将が合戦の指揮と領国支配、外交などを兼ねることもありました。
家康はそれぞれの家臣の経験や能力を生かし、軍事と政治の両面で勢力を拡大していったと考えられます。
家康の家臣団は三河時代から江戸幕府成立までに拡大した
徳川家康の家臣団は、最初から大規模な組織だったわけではありません。
家康が松平元康と名乗っていた三河時代には、松平家に古くから仕える武士たちが家臣団の中心でした。
その後、家康は三河を統一し、遠江・駿河などへ勢力を広げていきます。
領地が増えるにつれて、新たに家臣となる武将や、領国の政治を担当する人材も増えていきました。
さらに1590年(天正18年)、家康が関東へ移ると、広大な領地を治めるための行政組織も重要になりました。
1600年の関ヶ原の戦いを経て、1603年に江戸幕府が成立すると、家臣団の役割は戦場での活動から幕府の政治・行政へと広がっていきます。
このように徳川家康の家臣団は、三河の戦国大名を支える集団から、全国規模の武家政権を支える組織へと発展していったのです。
徳川四天王とは?4人の名前と功績を解説
徳川四天王とは、徳川家康に仕えた代表的な4人の重臣を指す呼び名です。
その4人とは、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政です。
いずれも家康の勢力拡大を支えた武将で、戦場での活躍や家臣団の統率など、それぞれ異なる功績を残しました。
ただし、徳川四天王という呼び名は、家康が正式に設けた役職や序列を意味するものではありません。
徳川四天王は、家康の天下取りを支えた代表的な4人の武将をまとめた呼称として知られています。

酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政。徳川四天王はそれぞれ異なる強みを持ち、家康を支えました。
酒井忠次|徳川家臣団をまとめた筆頭格の重臣
酒井忠次(1527~1596年)は、徳川家康の父・松平広忠の時代から松平家に仕えた重臣です。
家康がまだ若かったころから家臣団の中心人物として活動し、軍事と政治の両面で重要な役割を担いました。
1560年の桶狭間の戦い以降、家康が三河で勢力を拡大していく過程でも活躍しています。
1575年(天正3年)の長篠の戦いでは、織田・徳川連合軍の一員として参戦しました。
この戦いでは、酒井忠次が別働隊を率いて武田方の鳶ヶ巣山砦などを攻撃したことで知られています。
また、忠次は三河国吉田城を任され、東三河方面の軍事・領国支配にも関わりました。
酒井忠次は四天王のなかでも年長で、家康の古くからの重臣として大きな存在感を持っていました。
そのため、徳川四天王の筆頭格として紹介されることがあります。
ただし、これは4人の間に固定された公式順位があったという意味ではありません。
本多忠勝|戦国最強とも称される勇猛な武将
本多忠勝(1548~1610年)は、徳川家康に仕えた武将のなかでも、特に武勇で知られる人物です。
幼いころから徳川家に仕え、三河一向一揆や姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小牧・長久手の戦いなど、多くの戦いに参加しました。
忠勝は名槍「蜻蛉切(とんぼきり)」を愛用したことで知られています。
また、鹿角をかたどった兜も有名で、徳川軍を代表する勇将として後世に語り継がれました。
本多忠勝については、数多くの合戦に参加しながら一度も傷を負わなかったという逸話があります。
ただし、合戦の参加回数や無傷の伝承については、後世の記録に基づく部分もあるため、すべてを確実な史実として扱うことはできません。
忠勝は関ヶ原の戦いでも東軍に参加し、戦後には伊勢国桑名10万石を与えられました。
本多忠勝は、徳川四天王のなかでも特に武勇を象徴する存在といえるでしょう。
榊原康政|家康の信頼を得た軍事・統率の名将
榊原康政(1548~1606年)は、三河国に生まれ、若いころから徳川家康に仕えた武将です。
本多忠勝とともに家康の側近として活動し、徳川軍の重要な戦力となりました。
康政は1570年の姉川の戦いなどに参加し、家康の勢力拡大を支えています。
特に知られているのが、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いです。
この戦いでは家康側の武将として活動し、豊臣秀吉を批判する檄文を出したという逸話でも知られています。
ただし、檄文の具体的な内容や経緯については、後世の記録を含むため注意が必要です。
1590年(天正18年)、家康が関東へ移ると、康政は上野国館林10万石を与えられました。
1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠の軍勢に加わって中山道を進みました。
しかし、秀忠軍は信濃国の上田城攻めなどで進軍が遅れ、関ヶ原の決戦には間に合いませんでした。
そのため、榊原康政自身も関ヶ原の主戦場で戦ったわけではありません。
康政は軍事面だけでなく、家康や秀忠を支える重臣として活躍した人物です。
井伊直政|赤備えを率いた徳川軍の精鋭武将
井伊直政(1561~1602年)は、遠江国井伊谷にゆかりを持つ井伊氏の出身で、徳川家康に仕えた武将です。
酒井忠次らに比べると若い世代ですが、家康の信頼を得て急速に出世しました。
直政は、甲冑や旗指物を赤色で統一した「井伊の赤備え」を率いたことで有名です。
この赤備えは、武田家の旧臣らを取り込んだ徳川軍の精鋭部隊として知られています。
1584年の小牧・長久手の戦いでは、直政も徳川軍の武将として活躍しました。
1590年に家康が関東へ移ると、上野国箕輪12万石を与えられています。
1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に参加し、戦闘中に負傷したと伝えられています。
戦後には近江国佐和山18万石を与えられ、旧西軍の重要地域を治めることになりました。
井伊直政は1602年に亡くなりましたが、井伊家はその後も徳川幕府の有力譜代大名として続きました。
徳川四天王の4人を一覧表で比較
徳川四天王の特徴を比較すると、次のようになります。
| 武将名 | 生没年 | 主な特徴・功績 |
|---|---|---|
| 酒井忠次 | 1527~1596年 | 家臣団の統率、東三河の軍事・領国支配、長篠の戦い |
| 本多忠勝 | 1548~1610年 | 武勇で知られる名将、蜻蛉切、関ヶ原の戦い |
| 榊原康政 | 1548~1606年 | 軍勢の統率、小牧・長久手の戦い、秀忠軍への参加 |
| 井伊直政 | 1561~1602年 | 井伊の赤備え、関ヶ原の戦い、佐和山への入封 |
4人はそれぞれ得意分野や活躍した時期が異なります。
酒井忠次は古くから家臣団を支え、本多忠勝は武勇、榊原康政は軍勢の統率、井伊直政は精鋭部隊の指揮などで知られています。
徳川四天王の強さは、4人が同じ役割を担ったことではなく、それぞれ異なる能力で家康を支えたことにあったと考えられます。
徳川家康の家臣団とは?三河武士と譜代家臣の特徴
徳川家康の家臣団は、三河国(現在の愛知県東部)を本拠地とした松平家の家臣たちを中心に形成されました。
家康が天下人となるまでには、三河の小さな勢力から、全国を支配する武家政権へと発展していく長い過程がありました。
その間、家康を支え続けたのが、古くから松平家に仕えていた武士たちです。
こうした家臣たちは、一般に「三河武士」と呼ばれ、徳川家の軍事力を支える重要な存在となりました。
ただし、三河武士がすべて徳川家に忠実だったわけではなく、家臣団の内部でも対立や離反が起きています。
三河武士とは?徳川家康を支えた家臣団の中心
三河武士とは、三河国に本拠を持ち、松平家や徳川家に仕えた武士たちを中心に用いられる呼び名です。
徳川家康の祖先にあたる松平氏は、三河国で勢力を拡大しながら、周辺の有力大名との関係を築いてきました。
家康が生まれたころの松平家は、今川氏や織田氏などの大勢力に挟まれ、不安定な立場に置かれていました。
そのため、家臣たちは領地を守るために戦いを重ね、厳しい状況のなかで家康を支えることになりました。
酒井忠次・本多忠勝・榊原康政をはじめ、鳥居元忠や大久保忠世なども、三河時代から徳川家に仕えた武将として知られています。
三河武士は、家康が独立した戦国大名として成長する過程を支えた家臣団の中心的な存在でした。
譜代家臣とは?三河武士との違い
徳川家康の家臣団を理解するうえで、もう一つ重要なのが「譜代」という言葉です。
譜代とは、一般に主君の家に代々仕えてきた家臣や、その家柄を指します。
徳川家の場合、松平家の時代から仕えていた家臣の家々が、譜代家臣の中心となりました。
三河武士と譜代家臣は重なる部分が多いものの、意味は同じではありません。
| 区分 | 意味・特徴 |
|---|---|
| 三河武士 | 三河国にゆかりを持つ武士を中心とした呼び名。地域的な背景を表す |
| 譜代家臣 | 主君の家に代々仕えてきた家臣。主従関係の歴史を表す |
| 新たに加わった家臣 | 家康の勢力拡大に伴い、他家から仕えるようになった武将や旧敵方の家臣など |
つまり、三河出身であっても、すべての武士が最初から徳川家の譜代家臣だったわけではありません。
また、徳川家に長く仕えた家臣のなかにも、三河以外に出自を持つ人物がいました。
江戸幕府が成立すると、徳川家との古くからの主従関係を持つ大名は「譜代大名」と呼ばれ、幕府の重要な役職を担うようになります。
三河一向一揆では家康の家臣も敵味方に分かれた
三河武士は忠義に厚いという印象で語られることが多いものの、家康の家臣団が常に一致団結していたわけではありません。
その代表的な出来事が、1563年(永禄6年)から翌年にかけて起きた三河一向一揆です。
この一揆では、本願寺系寺院の門徒や地元の武士たちが家康と対立しました。
徳川家の家臣のなかにも一揆側に加わった者がおり、家臣団は分裂することになります。
本多正信や渡辺守綱なども、一揆側に加わった人物として知られています。
家康は一揆を鎮圧しましたが、その過程では家臣同士が敵味方に分かれて戦う事態となりました。
その後、一揆側に加わった家臣の一部は徳川家に復帰しています。
本多正信も一時期家康のもとを離れましたが、後に帰参し、家康の重要な政治的側近となりました。
三河一向一揆は、家康の家臣団が最初から強固にまとまっていたわけではないことを示す出来事です。
徳川家康の家臣団が強くなった理由とは?
徳川家康の家臣団が強大になった背景には、長年の合戦経験と、領地の拡大に応じた組織の変化がありました。
家康は三河を統一した後、遠江・駿河・甲斐・信濃などへ勢力を広げていきます。
その過程で、もともとの三河武士に加えて、武田家の旧臣なども家臣団に取り込みました。
井伊直政が率いた「井伊の赤備え」は、武田家の旧臣らを組み込んで編成されたことで知られています。
さらに、家康は戦場で活躍する武将だけでなく、外交や領国支配を担当する人材も重用しました。
本多忠勝や榊原康政のような武将が軍事面で力を発揮する一方、本多正信らは政治・行政面で家康を支えました。
1590年(天正18年)の関東移封によって家康の領地が大きく拡大すると、家臣たちには城や領地の支配を任せる必要も生じました。
このように、家康の家臣団は三河以来の主従関係を土台としながら、新たな人材を加えて成長していきました。
徳川家臣団の強さは、三河武士の結束だけでなく、多様な人材を取り込み、軍事と政治の両面で活用したことにもあったと考えられます。
徳川家康の家臣で最強は誰?武勇と功績を比較
徳川家康の家臣のなかで、最強の武将は誰だったのでしょうか。
この問いに対して、最も有力な候補として名前が挙がるのが、徳川四天王の一人である本多忠勝です。
忠勝は数多くの合戦に参加した勇将として知られ、名槍「蜻蛉切」を愛用したことでも有名です。
しかし、井伊直政や榊原康政、酒井忠次も、それぞれ異なる分野で大きな功績を残しました。
個人の武勇なら本多忠勝が代表的ですが、軍勢の指揮や戦略まで含めると、最強を一人に決めることはできません。
本多忠勝が最強と呼ばれる理由
本多忠勝が徳川家臣団の最強武将として語られる理由は、数多くの合戦で活躍した武勇にあります。
忠勝は若いころから家康に仕え、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小牧・長久手の戦いなどに参加しました。
特に1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いでは、武田信玄の軍勢と戦った徳川方の武将として知られています。
また、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉の大軍を前に少数の兵で対峙したという逸話が伝えられています。
忠勝の武勇を象徴するのが、名槍「蜻蛉切」です。
蜻蛉切は天下三名槍の一つに数えられ、本多忠勝を代表する武器として知られています。
さらに、忠勝には生涯で数多くの合戦に参加しながら、一度も傷を負わなかったという伝承もあります。
ただし、合戦の回数や無傷の逸話については、後世の記録に由来する部分があり、すべてを確実な史実として扱うことはできません。
それでも、忠勝が徳川家を代表する勇将として高く評価されてきたことは確かです。
井伊直政は赤備えを率いた精鋭部隊の指揮官
本多忠勝と並んで、徳川家臣団の強さを象徴する武将が井伊直政です。
直政は甲冑や旗指物を赤色で統一した「井伊の赤備え」を率いたことで知られています。
この部隊には武田家の旧臣らも加わり、徳川軍の有力な戦力となりました。
直政は小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いなどで活躍し、戦場での指揮能力を示しました。
1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に参加し、戦闘中に負傷したと伝えられています。
また、直政は軍事面だけでなく、家康の命を受けて諸大名との交渉などにも関わりました。
そのため、井伊直政の強さは個人の武勇だけでなく、精鋭部隊の統率力や政治的な働きにもあったといえます。
榊原康政は軍勢を率いる統率力に優れた武将
榊原康政は、本多忠勝とともに家康の側近として活躍した武将です。
姉川の戦いや小牧・長久手の戦いなどに参加し、徳川軍の重要な戦力となりました。
特に小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉を批判する檄文を出したという逸話でも知られています。
ただし、檄文の内容や具体的な経緯については、後世の記録による部分があります。
康政は1590年の関東移封後、上野国館林10万石を与えられました。
関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍勢に加わり、上田城攻めなどを経て西へ向かいましたが、決戦には間に合いませんでした。
それでも、康政は長年にわたって徳川家の軍事を支えた重臣として知られています。
個人の武勇だけでなく、軍勢をまとめて行動させる能力も、武将の強さを考えるうえで重要です。
酒井忠次は戦略と家臣団の統率で活躍した名将
酒井忠次は、徳川四天王のなかでも年長で、家康の古くからの重臣です。
忠次の功績として特に有名なのが、1575年(天正3年)の長篠の戦いです。
この戦いでは、織田・徳川連合軍の別働隊を率い、武田方の鳶ヶ巣山砦などを攻撃したことで知られています。
また、三河国吉田城を拠点として東三河方面の軍事・領国支配を担い、家臣団の統率にも関わりました。
本多忠勝が個人の武勇を象徴する存在であるのに対し、酒井忠次は軍勢の運用や家臣団をまとめる役割で大きな功績を残しました。
そのため、戦略や組織の統率という観点では、酒井忠次も高く評価できる武将です。
徳川家康の家臣で最強は誰?4人の功績を比較
徳川四天王の強さを、武勇・軍勢の指揮・主な功績という観点から比較すると、次のようになります。
| 武将名 | 特に知られる強み | 代表的な功績 |
|---|---|---|
| 本多忠勝 | 個人の武勇・戦場での活躍 | 三方ヶ原の戦い、小牧・長久手の戦いなど |
| 井伊直政 | 精鋭部隊の指揮・軍事と外交 | 井伊の赤備え、関ヶ原の戦い |
| 榊原康政 | 軍勢の統率・家康への補佐 | 小牧・長久手の戦い、秀忠軍への参加 |
| 酒井忠次 | 戦略・軍勢の運用・家臣団の統率 | 長篠の戦い、東三河の軍事・領国支配 |
※この表は各武将の代表的な特徴を整理したもので、公式な強さランキングではありません。
個人の武勇を重視するなら、本多忠勝が最強候補として挙げられます。
一方、軍勢の統率や戦略、政治的な働きまで含めると、井伊直政・榊原康政・酒井忠次にもそれぞれ優れた功績があります。
徳川家康の家臣団が強かったのは、一人の最強武将に頼るのではなく、異なる能力を持つ重臣たちが家康を支えていたからと考えられます。
徳川家康の家臣の序列は?役職と石高から解説
徳川家康の家臣のなかで、最も地位が高かったのは誰なのでしょうか。
徳川四天王では酒井忠次が筆頭格として知られていますが、家臣団全体の序列を一つの順位で表すことはできません。
戦国時代の家臣の立場は、家柄や主君との関係、軍事・政治上の役割、与えられた領地などによって異なりました。
また、家康の勢力が拡大するにつれて、重臣たちの役割や待遇も変化しています。
徳川家康の家臣の序列を理解するには、家臣団内での立場と石高を分けて考えることが重要です。
酒井忠次はなぜ徳川四天王の筆頭格とされる?
酒井忠次は、徳川四天王のなかでも最も年長で、松平家の時代から仕えた古参の重臣です。
家康が三河で勢力を拡大していたころには、東三河方面の軍事・領国支配を任され、家臣団の中心人物として活動しました。
また、長篠の戦いでは別働隊を率いるなど、重要な軍事行動も担当しています。
こうした経歴から、酒井忠次は徳川四天王の筆頭格として紹介されることがあります。
ただし、「徳川四天王の第1位」という正式な順位が定められていたわけではありません。
忠次は1588年(天正16年)に隠居し、1590年の関東移封では息子の酒井家次が下総国臼井3万石を与えられました。
そのため、1590年以降の石高だけを比較して、酒井忠次の家臣団内での地位を判断することはできません。
徳川家康の家臣の序列を決めた要素とは?
徳川家康の家臣団では、さまざまな要素が重臣の立場に影響していました。
主な要素を整理すると、次のようになります。
| 要素 | 内容 |
|---|---|
| 家柄・主従関係 | 松平家の時代から仕えた古参の家臣かどうか |
| 軍事上の役割 | 軍勢の指揮、城の守備、重要な合戦での功績 |
| 政治・外交上の役割 | 家康への助言、他大名との交渉、領国支配への貢献 |
| 領地・石高 | 家康から与えられた領地の規模や重要性 |
| 主君からの信任 | 家康や秀忠から重要な任務を任されていたかどうか |
例えば、本多忠勝は武勇で知られ、井伊直政は軍勢の指揮だけでなく外交でも重要な役割を担いました。
一方、本多正信は大きな軍勢を率いる武将としてではなく、家康の政治的な側近として重用されています。
つまり、領地の石高が多い人物が、必ずしもすべての面で他の家臣より上位だったわけではありません。
1590年の関東移封後における主要家臣の石高一覧
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の命令によって徳川家康は関東へ移りました。
家康は関東の各地に有力家臣を配置し、領地の支配と軍事上の守りを任せました。
このときの主要家臣の石高を比較すると、次のようになります。
| 家臣名 | 主な領地・城 | 石高 |
|---|---|---|
| 井伊直政 | 上野国箕輪 | 12万石 |
| 本多忠勝 | 上総国大多喜 | 10万石 |
| 榊原康政 | 上野国館林 | 10万石 |
| 大久保忠世 | 相模国小田原 | 4万5,000石 |
| 酒井家次 | 下総国臼井 | 3万石 |
| 鳥居元忠 | 下総国矢作 | 4万石 |
※石高は1590年の関東移封後の代表的な数値です。領地の表記や石高には資料による違いがある場合があります。また、酒井家次は酒井忠次の息子です。
この表を見ると、井伊直政が12万石、本多忠勝と榊原康政がそれぞれ10万石を与えられていたことがわかります。
一方、酒井忠次はすでに隠居していたため、四天王の4人を同じ条件で比較することはできません。
関東移封後の石高では井伊直政が有力家臣のなかでも高い待遇を受けていたことがわかります。

1590年の関東移封後、家康は井伊直政や本多忠勝らの重臣を関東各地に配置しました。
関ヶ原の戦い後には家臣の領地や立場も変わった
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに勝利すると、徳川家康は戦功のあった家臣たちに新たな領地を与えました。
井伊直政は近江国佐和山18万石、本多忠勝は伊勢国桑名10万石を与えられています。
また、伏見城の戦いで討死した鳥居元忠の子・鳥居忠政も、父の功績を背景として所領を加増されました。
このように、家臣の領地や待遇は、家康の勢力拡大や合戦の結果によって変化しました。
1603年に江戸幕府が成立すると、家臣たちは譜代大名として領地を治めるだけでなく、幕府の政治や行政を担うようになります。
そのため、徳川家康の家臣の序列を考える場合には、三河時代、関東移封後、江戸幕府成立後という時期の違いにも注意する必要があります。
徳川家臣団では、武勇、家柄、石高、政治的な役割などが重なり合い、それぞれの重臣が異なる立場から家康を支えていたのです。
徳川四天王以外の重臣一覧!本多正信・鳥居元忠らの活躍
徳川家康の天下取りを支えたのは、徳川四天王の4人だけではありません。
家康の家臣団には、政治や外交に優れた人物、城の守備を任された武将、長年にわたって徳川家を支えた古参の家臣などがいました。
なかでも本多正信・鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉・服部正成らは、それぞれ異なる役割で家康に貢献した人物です。
徳川家臣団の特徴は、戦場で活躍する武将だけでなく、政治・外交・領国支配を担う重臣もそろっていたことにあります。
本多正信|徳川家康の政治を支えた知恵袋
本多正信(1538~1616年)は、徳川家康の政治的な側近として知られる重臣です。
正信は三河の出身で、若いころから松平家に仕えていました。
しかし、1563年から翌年にかけて起きた三河一向一揆では、一揆側に加わったとされています。
その後、徳川家を離れましたが、後に家康のもとへ帰参しました。
帰参後の正信は、軍勢を率いて戦う武将というよりも、政治や行政の分野で能力を発揮しました。
家康が関東へ移った後は、幕府成立へ向かう政治体制の整備にも関わっています。
江戸幕府成立後には、家康や二代将軍・徳川秀忠を支える重要な役割を担いました。
本多正信は、武勇で知られる本多忠勝とは異なる人物です。
同じ本多姓ですが、家康を支えた分野には大きな違いがありました。
鳥居元忠|伏見城を守り抜いた忠義の武将
鳥居元忠(1539~1600年)は、徳川家康が幼いころから仕えた古参の家臣です。
元忠は家康の人質時代から近くに仕えた人物として知られ、長年にわたり徳川家を支えました。
その忠義を象徴する出来事が、1600年(慶長5年)の伏見城の戦いです。
関ヶ原の戦いに先立ち、家康が上杉景勝への出兵に向かうと、元忠は伏見城の守備を任されました。
その後、石田三成らが挙兵すると、伏見城は西軍の攻撃を受けます。
元忠は城兵とともに抵抗しましたが、伏見城は落城し、元忠も討死しました。
この戦いは、関ヶ原の戦いに至る過程で重要な出来事となりました。
なお、家康と元忠が出陣前に別れの酒を酌み交わしたという逸話も知られていますが、その具体的な会話については後世の伝承として扱う必要があります。
鳥居元忠は、徳川家康への長年の忠勤と伏見城での最期によって、後世まで語り継がれた武将です。
大久保忠世|三河以来の戦歴を持つ古参の重臣
大久保忠世(1532~1594年)は、徳川家康に仕えた三河以来の重臣です。
大久保氏は松平家に古くから仕えた家柄で、忠世も家康の勢力拡大を支えました。
忠世は三河一向一揆や三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなど、徳川家の重要な戦いに関わった人物として知られています。
特に、武田氏との戦いでは徳川方の武将として活動しました。
1590年(天正18年)、家康が関東へ移ると、忠世は相模国小田原4万5,000石を与えられました。
小田原は、かつて後北条氏が本拠地としていた重要な城下町です。
家康がこの地を忠世に任せたことからも、その信頼の厚さがうかがえます。
忠世は1594年に亡くなったため、1600年の関ヶ原の戦いには参加していません。
しかし、徳川家が関東に進出するまでの軍事的な発展を支えた重要な家臣でした。
平岩親吉|家康と徳川一門を支えた信頼の厚い家臣
平岩親吉(1542~1611年)は、徳川家康と同じ時代を生きた古参の家臣です。
親吉は家康の幼少期から仕えた人物として知られ、長年にわたり徳川家を支えました。
家康の長男・松平信康の傅役を務めたことでも知られています。
その後も徳川家に仕え、領国支配や一門の補佐などで重要な役割を担いました。
1607年(慶長12年)、徳川義直が甲斐から尾張へ移されると、平岩親吉も尾張へ移り、犬山城を拠点に義直を補佐しました。
親吉は尾張徳川家の初期の運営を支えた重臣の一人です。
このように平岩親吉は、戦場での武勇だけでなく、徳川家の一門を支える役割でも家康から信頼されていました。
服部正成|伊賀越えで家康を支えた服部半蔵
服部正成(1542~1596年)は、「服部半蔵」の名で広く知られる徳川家康の家臣です。
服部半蔵という名前から忍者を連想する人も多いかもしれませんが、正成自身は徳川家に仕えた武将でした。
正成の活躍として有名なのが、1582年(天正10年)の本能寺の変の後に起きた「伊賀越え」です。
本能寺の変を知った家康は、滞在していた堺方面から本国の三河へ戻ることを目指しました。
その帰路では伊賀・甲賀方面を通過したとされ、服部正成も家康に同行した人物として知られています。
正成が伊賀者らとのつながりを生かして帰還を助けたという話も伝わっています。
ただし、伊賀越えの具体的な経路や各人物の役割には諸説があり、後世の伝承も含まれています。
そのため、服部正成が忍者集団を率いて家康を救出したという物語を、そのまま確実な史実とすることはできません。
服部正成は、徳川家康の危機的な時期に行動をともにした家臣として知られる人物です。
その他の主要家臣|高力清長・大久保忠隣・渡辺守綱
徳川家康には、このほかにも多くの重臣が仕えていました。
代表的な人物をまとめると、次のようになります。
| 家臣名 | 主な役割・功績 |
|---|---|
| 高力清長 | 三河以来の家臣。軍事や領国支配などで家康を支えた |
| 大久保忠隣 | 大久保忠世の子。家康・秀忠に仕え、江戸幕府初期の政治に関わった |
| 渡辺守綱 | 槍の名手として知られ、「槍半蔵」の異名を持つ武将 |
| 内藤正成 | 弓の名手として知られ、徳川家の合戦に参加した |
| 大久保忠教 | 「大久保彦左衛門」として知られ、後年『三河物語』を著した |
これらの人物は、徳川四天王ほど広く知られていない場合もありますが、徳川家の軍事や政治を支えた重要な家臣たちです。
家康は長年仕えた三河以来の家臣を重用する一方、新たな人材も取り込みながら勢力を拡大していきました。
徳川家康の天下取りは、四天王の活躍だけでなく、多くの重臣や家臣たちの働きによって実現したといえるでしょう。
徳川家康を裏切った家臣は?石川数正が出奔した理由
徳川家康の家臣のなかには、長年仕えながらも途中で徳川家を離れた人物がいました。
その代表的な人物が、石川数正(いしかわかずまさ)です。
石川数正は家康の古くからの重臣でしたが、1585年(天正13年)に徳川家を離れ、豊臣秀吉のもとへ移りました。
この出来事は、一般に「石川数正の出奔」と呼ばれています。
石川数正が徳川家を離れて豊臣秀吉に仕えたことは事実ですが、その理由については複数の説があり、真相は明らかになっていません。

1585年、石川数正は徳川家を離れて豊臣秀吉に仕えました。出奔の理由については諸説があります。
石川数正とは?徳川家康を支えた古参の重臣
石川数正(生年不詳~1593年)は、松平家の時代から徳川家康に仕えた重臣です。
家康が今川氏のもとで人質生活を送っていた時代にも関わりがあったとされ、若いころから家康を支えた人物として知られています。
1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いの後、家康が今川氏から独立していく過程でも重要な役割を担いました。
また、織田信長との同盟関係や、豊臣秀吉との外交交渉にも関わっています。
特に1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いの前後には、徳川家と豊臣家の関係をめぐる交渉が重要な問題となっていました。
数正は豊臣方との交渉に関わる立場にあり、徳川家の外交を支える人物の一人でした。
そのような重臣が突然徳川家を離れたことは、家康にとって大きな出来事だったと考えられます。
石川数正は1585年になぜ徳川家を離れた?
石川数正が徳川家を離れたのは、1585年(天正13年)のことです。
数正は家康のもとを去り、豊臣秀吉に仕えるようになりました。
当時、家康と秀吉は小牧・長久手の戦いを経て、互いの関係を調整している時期でした。
このような政治情勢のなかで、数正の出奔が起きたのです。
では、なぜ数正は長年仕えた家康のもとを離れたのでしょうか。
主な説として、次のようなものが挙げられています。
| 説 | 主な内容 |
|---|---|
| 豊臣秀吉との関係を重視した説 | 豊臣方との交渉を重ねるなかで、秀吉に仕える道を選んだとする考え方 |
| 徳川家中での対立説 | 豊臣家への対応をめぐり、徳川家臣団の内部で意見の対立があったとする説 |
| 秀吉による厚遇説 | 秀吉からの待遇や将来の立場が、出奔の判断に影響したとする説 |
| 家康との密約説 | 家康の意向を受けて豊臣方へ移ったとする見方。ただし確かな裏付けはない |
これらはいずれも、出奔の理由を説明しようとする説です。
数正自身が出奔の理由を明確に記した、決定的な史料が確認されているわけではありません。
そのため、特定の説を唯一の真相として断定することはできません。
石川数正の出奔で徳川家康は困ったのか?
石川数正は、徳川家の軍事や外交に関わってきた古参の重臣でした。
そのため、数正が豊臣秀吉のもとへ移ったことは、徳川家にとって無視できない出来事だったと考えられます。
特に、数正は徳川家の内部事情や軍事体制を知る立場にありました。
数正の出奔をきっかけに、家康が軍制の見直しを進めたという話も伝わっています。
なかでも、武田氏の軍制を参考にして徳川軍を再編したという説明が知られています。
ただし、軍制改革が数正の出奔だけを原因として行われたのかについては、慎重に考える必要があります。
徳川家は以前から武田氏の旧臣を取り込み、軍事組織の整備を進めていたためです。
石川数正の出奔は徳川家にとって重要な事件でしたが、その影響をすべて一つの原因に結びつけることはできません。
豊臣秀吉に仕えた石川数正のその後
徳川家を離れた石川数正は、豊臣秀吉の家臣として活動しました。
秀吉から所領を与えられ、豊臣政権のもとで大名としての地位を得ています。
1590年(天正18年)の小田原征伐後には、信濃国松本8万石を与えられました。
数正は松本城の整備にも関わった人物として知られています。
ただし、現在の松本城の建物や城郭整備については、数正の時代だけでなく、後を継いだ石川康長の時代の事業も含めて考える必要があります。
石川数正は文禄年間の初めに亡くなりました。
没年については1592年と1593年の記載があり、資料によって違いが見られます。
そのため、1600年の関ヶ原の戦いには参加していません。
長年徳川家康に仕えた数正でしたが、晩年は豊臣秀吉の家臣として生涯を終えたのです。
石川数正は本当に裏切り者だったのか?
石川数正は徳川家を離れて豊臣秀吉に仕えたため、後世には「家康を裏切った家臣」として語られることがあります。
しかし、戦国時代には武将が主君を替えることもあり、現代の価値観だけでその行動を判断することはできません。
また、数正が出奔した理由は明らかになっておらず、家康との関係がどのような状態だったのかも断定できません。
豊臣秀吉の勢力が拡大するなかで、数正が政治的な判断によって新たな主君を選んだ可能性も考えられます。
一方、徳川家中での立場や人間関係が影響したという見方もあります。
重要なのは、出奔という事実と、その動機についての推測を区別することです。
石川数正は徳川家康を離れて豊臣秀吉に仕えた重臣ですが、単純に裏切り者と決めつけることはできない人物といえるでしょう。
徳川十六神将とは?徳川四天王との違い
徳川家康の家臣を調べていると、「徳川四天王」のほかに「徳川十六神将」という名前を目にすることがあります。
徳川十六神将とは、家康を支えた代表的な16人の家臣を、後世にたたえてまとめた呼び名です。
徳川四天王の4人も含まれていますが、十六神将にはそれ以外の古参の重臣や武勇で知られる家臣たちも登場します。
徳川十六神将は、家康が正式に任命した16人の役職ではなく、後世の顕彰や絵画などを通じて広まった呼称です。
徳川十六神将とは?家康を支えた16人の家臣
徳川十六神将は、家康に仕えた有力な家臣たちを顕彰するために用いられた呼び名です。
江戸時代には、家康とその家臣たちを描いた「徳川十六神将図」などが制作されました。
こうした作品では、家康を支えた武将たちが一堂に会する姿が描かれています。
ただし、十六神将の顔ぶれは、すべての資料や作品で完全に統一されているわけではありません。
代表的な構成の一例を挙げると、次の16人です。
| 家臣名 | 主な特徴・功績 |
|---|---|
| 酒井忠次 | 徳川四天王。家臣団の統率や長篠の戦いで活躍 |
| 本多忠勝 | 徳川四天王。蜻蛉切を愛用した勇将 |
| 榊原康政 | 徳川四天王。小牧・長久手の戦いなどで活躍 |
| 井伊直政 | 徳川四天王。井伊の赤備えを率いた武将 |
| 松平康忠 | 松平一門の武将として徳川家に仕えた |
| 大久保忠世 | 三河以来の重臣。各地の合戦で活躍 |
| 大久保忠佐 | 大久保忠世の弟。徳川家の軍事を支えた |
| 平岩親吉 | 家康の古参家臣。徳川一門の補佐に尽力 |
| 鳥居元忠 | 伏見城の戦いで討死した重臣 |
| 鳥居忠広 | 鳥居氏の武将。三河時代の合戦で活躍 |
| 内藤正成 | 弓の名手として知られる家臣 |
| 高木清秀 | 徳川家に仕えた武将。武勇で知られる |
| 渡辺守綱 | 「槍半蔵」と呼ばれた武将 |
| 服部正成 | 服部半蔵として知られる徳川家臣 |
| 米津常春 | 松平家以来の家臣として知られる武将 |
| 蜂屋貞次 | 三河時代に家康に仕えた武将 |
※この一覧は、名古屋刀剣博物館が紹介する徳川十六神将の顔ぶれに基づいています。十六神将は家康が正式に任命した役職ではなく、作品や資料によって人物の異同があります。
このように、十六神将には徳川四天王だけでなく、家康の三河時代から活躍した家臣たちも含まれています。
徳川四天王と徳川十六神将の違い
徳川四天王と徳川十六神将は、どちらも家康を支えた重臣をたたえる呼び名ですが、人数や性格に違いがあります。
| 比較項目 | 徳川四天王 | 徳川十六神将 |
|---|---|---|
| 人数 | 4人 | 16人 |
| 代表的な人物 | 酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政 | 四天王を含む家康の代表的な家臣たち |
| 特徴 | 家康の重臣のなかでも特に有名な4人 | 家康を支えた武将たちを後世に顕彰する呼称 |
| 顔ぶれ | 一般に4人が定まっている | 絵画や資料によって異同がある |
| 正式な役職か | 正式な役職ではない | 正式な役職ではない |
徳川四天王は、家康の天下取りを支えた代表的な4人として広く知られています。
一方、徳川十六神将は、より多くの家臣を取り上げ、徳川家の歴史や家臣たちの功績を伝える性格が強い呼び名です。
四天王は特に有名な4人、十六神将は後世に顕彰された16人の家臣たち、と理解すると違いがわかりやすいでしょう。
徳川十六神将はいつから呼ばれるようになった?
徳川十六神将という呼び名は、江戸時代に広まった家康と家臣たちの顕彰文化と深い関係があります。
家康は1616年(元和2年)に亡くなり、その後、東照大権現としてまつられるようになりました。
江戸時代には、家康の功績を伝える書物や絵画が制作され、家康を支えた武将たちも顕彰の対象となりました。
徳川十六神将を描いた作品も、こうした流れのなかで制作されたものです。
そのため、十六神将を家康の生前から存在した正式な家臣組織として説明することは適切ではありません。
また、十六神将のなかには、江戸幕府の成立以前に亡くなった人物も含まれています。
このことからも、十六神将が特定の時期に同じ役職を務めた16人ではないことがわかります。
徳川十六神将は、家康を支えた家臣たちの功績を後世に伝えるための呼称として理解するのがよいでしょう。
徳川家康の家臣たちは江戸幕府成立後どうなった?
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍となり、江戸幕府を開きました。
これによって、家康を支えてきた家臣たちの役割も大きく変化していきます。
戦国時代には合戦や領地の拡大が重要でしたが、江戸幕府成立後は、領国の統治や幕府の政治を支えることが求められるようになりました。
徳川四天王をはじめとする有力家臣の家々は、各地の大名として領地を治め、徳川政権を支える存在となりました。
徳川家康の家臣団は、戦国大名を支える軍事集団から、江戸幕府の政治と全国支配を支える組織へと変化していったのです。
徳川四天王のその後と子孫たち
徳川四天王の4人は、江戸幕府の成立前後にそれぞれ異なる道を歩みました。
酒井忠次は1596年に亡くなっており、江戸幕府の成立を見ることはありませんでした。
しかし、息子の酒井家次は徳川家に仕え続け、酒井家はその後も譜代大名として存続しました。
本多忠勝は関ヶ原の戦い後、伊勢国桑名10万石を与えられ、1610年に亡くなりました。
榊原康政は上野国館林の領主として徳川政権を支え、1606年に亡くなっています。
井伊直政は関ヶ原の戦い後、近江国佐和山18万石を与えられましたが、1602年に亡くなりました。
その後、井伊家は近江国彦根を拠点とする有力な譜代大名となり、江戸幕府の政治で重要な役割を担うことになります。
| 徳川四天王 | 本人のその後 | 家のその後 |
|---|---|---|
| 酒井忠次 | 1596年に死去 | 酒井家は譜代大名として存続 |
| 本多忠勝 | 桑名10万石を領し、1610年に死去 | 本多家は譜代大名として存続 |
| 榊原康政 | 館林を領し、1606年に死去 | 榊原家は譜代大名として存続 |
| 井伊直政 | 佐和山18万石を与えられ、1602年に死去 | 井伊家は彦根藩主として存続 |
このように、四天王本人が江戸幕府の成立前後に亡くなった後も、その家々は徳川政権を支える重要な存在となりました。
譜代大名は江戸幕府の政治を支える存在になった
江戸幕府では、徳川家と古くから主従関係を持つ大名を「譜代大名」と呼びました。
譜代大名は、将軍を補佐する幕府の重要な役職を担うことが多く、江戸時代の政治を支える中心的な存在となりました。
例えば、幕府の老中は政治全般を担当する重要な役職で、主として譜代大名から選ばれました。
また、幕府の大目付や町奉行などには、主に旗本が任じられるなど、徳川家の家臣たちは身分や役職に応じてさまざまな行政を担いました。
ただし、江戸幕府成立直後から、後の時代と同じ役職制度がすべて整っていたわけではありません。
幕府の政治制度は、家康・秀忠・家光の時代を通じて徐々に整備されていきました。
三河時代から続く徳川家と家臣たちの主従関係は、江戸幕府の政治体制を支える重要な基盤となったのです。
本多正信ら政治を担う家臣の役割も大きくなった
江戸幕府の成立後は、戦場での武勇だけでなく、政治や行政に優れた家臣の役割も重要になりました。
その代表的な人物が本多正信です。
正信は家康の側近として政治的な助言を行い、幕府成立後も徳川政権の運営に関わりました。
また、二代将軍・徳川秀忠を補佐する立場でも活動しています。
正信の息子である本多正純も幕府の政治に関わり、徳川政権の重臣となりました。
一方、家康の古参家臣であっても、その家が常に安定した地位を保てたわけではありません。
大久保忠世の子・大久保忠隣は幕府の重臣となりましたが、1614年(慶長19年)に改易されています。
このように、江戸幕府成立後の家臣たちは、政治的な功績や将軍との関係によって、その立場が変わることもありました。
徳川家臣団は260年以上続く江戸幕府の基盤となった
徳川家康が築いた江戸幕府は、1603年から1867年まで続きました。
その長い歴史を支えたのは、将軍家だけではありません。
各地に配置された譜代大名や、幕府の行政を担当した旗本・御家人など、多くの家臣たちが政権を支えました。
徳川四天王の家々も、江戸時代を通じて有力な譜代大名として存続しています。
特に井伊家からは、幕末に大老を務めた井伊直弼が出るなど、後の時代にも幕府政治で重要な役割を果たしました。
ただし、江戸幕府が長く続いた理由は、家臣団の結束だけではありません。
幕府の法制度や大名統制、経済・社会の変化など、さまざまな要因が関係しています。
それでも、家康が戦国時代に築いた家臣団と、その後の譜代大名・旗本を中心とする仕組みが、幕府を支える重要な基盤となったことは確かです。
徳川家康の家臣たちの活躍は、天下取りだけで終わらず、江戸時代の政治にも大きな影響を与えたのです。
まとめ|徳川家康の天下取りを支えた家臣たち
徳川家康が天下統一への道を歩み、江戸幕府を開くことができた背景には、多くの家臣たちの活躍がありました。
なかでも酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人は「徳川四天王」と呼ばれ、家康を支えた代表的な武将として知られています。
今回の記事のポイントをまとめると、次のようになります。
- 徳川四天王は、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人。
- 最強武将の有力候補は武勇で知られる本多忠勝。ただし公式な強さの順位はない。
- 家臣の序列は、家柄・役職・功績・石高などによって異なり、時代によっても変化した。
- 本多正信や鳥居元忠など、四天王以外にも多くの重臣が家康を支えた。
- 石川数正は1585年に徳川家を離れ、豊臣秀吉に仕えたが、出奔の理由には諸説がある。
- 徳川家臣団は三河武士を中心に発展し、江戸幕府成立後は譜代大名や幕臣として政権を支えた。
徳川家康の家臣団は、武勇に優れた武将だけでなく、政治や外交、領国支配を担当する重臣たちによって成り立っていました。
それぞれの家臣が異なる役割を果たしたことが、徳川家の勢力拡大と江戸幕府成立を支える大きな力になったといえるでしょう。
家康の生涯を振り返る際には、こうした家臣たちの働きにも注目すると、徳川家の歴史をより深く理解できます。
参考資料
- 『徳川実紀』(江戸幕府編纂の徳川将軍家の歴史記録)
- 『三河物語』大久保忠教著
- 『寛政重修諸家譜』(江戸幕府編纂の大名・旗本などの系譜集)
- 平野明夫編『徳川権力の形成と発展』岩田書院
- 国立公文書館 デジタルアーカイブ
- 国立国会図書館デジタルコレクション
- 彦根城博物館 井伊家・井伊直政に関する展示・研究資料
- 名古屋刀剣博物館「書画とは」(徳川十六神将の構成)
- 山梨県「甲府城年表」(平岩親吉の動向)
- 小田原城公式「小田原城の歴史年表」(大久保氏の石高・改易)
- 国土交通省「松本藩の6つの藩主家」(石川数正と松本城)
※徳川家康の家臣に関する逸話や人物評価には、後世に成立した史料に基づくものもあります。本記事では、確認できる歴史上の出来事と、伝承・諸説を区別して紹介しています。
※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。


















