伊達政宗の右目はなぜ失明した?目をくり抜いた説と眼帯の真実

伊達政宗の右目は、なぜ失明したのでしょうか。
「独眼竜」の異名で知られる伊達政宗ですが、幼い頃に病気で右目の視力を失ったと伝えられています。
一方で、自分で目をくり抜いた、家臣の片倉小十郎が取り除いた、さらには目を食べたという驚くような逸話も残っています。
また、眼帯をした姿が有名ですが、実際に眼帯を使用していたのかも気になるところです。
この記事では、伊達政宗の右目が失明した原因や目をくり抜いたという逸話、眼帯の真実、独眼竜と呼ばれた理由まで、史実と伝承を区別しながらわかりやすく解説します。
伊達政宗の目はなぜ失明した?原因は天然痘
伊達政宗が右目を失明した原因は、幼少期にかかった疱瘡(ほうそう)、現在でいう天然痘だったと伝えられています。
政宗は永禄10年(1567年)、出羽国の米沢城に生まれました。
幼名は梵天丸(ぼんてんまる)といい、父は伊達輝宗、母は義姫です。
幼い頃に天然痘を患い、その影響で右目の視力を失ったことが、仙台市博物館の解説にも記されています。

戦国時代の医療や薬草をイメージした再現画像(AI生成)
天然痘とはどのような病気だった?
天然痘は、天然痘ウイルスによって引き起こされる感染症です。
かつては日本でも流行を繰り返し、高熱や発疹などの症状を伴う恐ろしい病気として知られていました。
重症化すると命に関わることもあり、回復しても皮膚に痕が残ったり、目に障害が生じたりする場合がありました。
政宗も天然痘にかかった後、右目が見えなくなったとされています。
ただし、当時の詳しい診療記録が残っているわけではないため、右目にどのような医学的障害が起きたのかまでは断定できません。
伊達政宗は何歳で右目を失明した?
政宗が右目を失明したのは、まだ梵天丸と呼ばれていた幼少期のことです。
5歳頃と紹介されることもありますが、仙台市博物館の解説では、幼少期に天然痘を患ったことが示されており、正確な年齢を確定するのは難しいところです。
政宗はその後、父・輝宗が招いた僧侶の虎哉宗乙(こさいそういつ)から教育を受け、天正5年(1577年)、数え年11歳で元服しました。
右目の視力を失ったことは、少年時代の政宗にとって大きな出来事だったと考えられます。
しかし、成長した政宗は武将として数々の戦いに臨み、やがて伊達家の当主となりました。
右目の失明という特徴が、後世に「独眼竜」と呼ばれる人物像につながっていきます。
伊達政宗が失明したのは右目?左目との違い
伊達政宗が失明したのは、左目ではなく右目です。
幼少期に天然痘を患った影響で右目の視力を失い、左目の視力は残っていたと伝えられています。
そのため、政宗は片目で物を見る生活を送りながら、戦国武将として成長していきました。
伊達政宗の右目はどうなっていた?
政宗の右目については、視力を失っただけでなく、病気の後に眼球の状態が変化していたとする説明もあります。
ただし、当時の医学的な診察記録があるわけではありません。
右目が失明していたことと、眼球そのものが失われていたかどうかは、分けて考える必要があります。
政宗の右目を誰かが取り除いたという話も伝わっていますが、その経緯については史料と逸話を区別することが大切です。
この点は、次の章で詳しく解説します。
肖像画では右目と左目がどう描かれている?
伊達政宗の肖像画には、両目が描かれているものがあります。
そのため、肖像画だけを見ると、右目を失明していた人物には見えないかもしれません。
政宗が自分の姿を両目のある状態で描かせるよう望んだという話も伝わっています。
ただし、肖像画は必ずしも本人の身体的特徴をそのまま記録したものではありません。
肖像画に両目が描かれているからといって、右目の失明がなかったことにはなりません。
実際にどのような姿で描かれているのか、眼帯との関係も含めて後の章で取り上げます。
伊達政宗は右目をくり抜いた?小十郎との逸話
伊達政宗には、失明した右目をくり抜いたという逸話が伝わっています。
しかし、政宗が自分で右目をくり抜いたと断定できるわけではありません。
この話には、政宗自身が取り除いたというものや、家臣の片倉小十郎が取り除いたというものなど、異なる伝え方があります。
片倉小十郎が政宗の右目を取り除いたという伝説
よく知られているのが、政宗の重臣・片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)が、失明した右目を取り除いたという逸話です。
天然痘によって右目の視力を失った政宗は、右目の状態を気にしていたといわれています。
そこで小十郎が、政宗の右目を取り除いたという話が伝えられています。
ただし、取り除いた時期や具体的な方法については、伝承によって説明が異なります。
小十郎が実際に眼球を取り除いたことを、確実な史実として扱うには慎重さが必要です。

伊達政宗と片倉小十郎の右目にまつわる伝承をイメージ(AI生成・史実を再現したものではありません)
伊達政宗が自分で右目をくり抜いたという話は本当?
一方、政宗が自分自身で失明した右目を取り除いたという話も見られます。
こうした逸話は、政宗の強い意志や勇敢さを表すものとして語られてきました。
しかし、自分で右目をくり抜いたという行為を裏付ける確かな史料については、確認が必要です。
そのため、政宗が自分で目をくり抜いたと断定するのではなく、後世に伝わる逸話の一つとして紹介するのが適切でしょう。
右目をくり抜いた逸話は史実なのか?
伊達政宗については、幼少期に天然痘を患い、右目を失明したことが伝えられています。
一方で、右目を誰が、いつ、どのように取り除いたのかについては、さまざまな逸話があります。
歴史上の人物には、その人の性格や勇敢さを強調するために、印象的な話が付け加えられることもあります。
政宗の右目にまつわる逸話も、そうした可能性を考慮して読む必要があります。
つまり、右目の失明と、眼球をくり抜いたという話は同じ確かさの情報ではないということです。
政宗の人物像を理解するうえでは、史料に基づく事実と伝承を分けて考えることが大切です。
伊達政宗が自分の目を食べたという話は本当?
伊達政宗について調べると、「自分の目を食べた」という驚くような話を目にすることがあります。
しかし、政宗が自分の眼球を食べたと確認できる確かな史料は、現時点では確認できていません。
政宗には、失明した右目を自分でくり抜いた、あるいは家臣の片倉小十郎が取り除いたという逸話もあります。
「目を食べた」という話についても、こうした逸話との関係を考えながら、慎重に受け止める必要があります。
伊達政宗が目を食べたという話はどこから来た?
政宗が目を食べたという話については、いつ、誰が記録したものなのかを確認することが重要です。
しかし、この逸話を裏付ける具体的な史料や、話が広まった経緯については、明確に確認できていません。
そのため、右目を取り除いたという伝承から派生した話なのか、後世の創作なのかについても、現段階では断定できません。
出典が明らかでない逸話を、政宗が実際に行ったこととして紹介するのは適切ではないでしょう。
右目を失明したことと食べたという話は別
伊達政宗が幼少期に天然痘を患い、右目の視力を失ったことは、歴史資料でも紹介されています。
一方、失明した眼球を取り除いたかどうか、さらにそれを食べたかどうかは、別々に検討しなければならない問題です。
- 右目の失明:幼少期の天然痘によるものと伝えられる
- 右目を取り除いた話:片倉小十郎などに関する逸話がある
- 右目を食べた話:裏付けとなる史料を確認できていない
つまり、「右目を失明した」という事実と、「自分の目を食べた」という話を混同しないことが大切です。
政宗の人物像を知るうえでは、刺激的な逸話ほど、その出典や信頼性を確かめる必要があります。
伊達政宗は本当に眼帯をしていた?
伊達政宗といえば、右目に黒い眼帯を着けた姿を思い浮かべる方も多いでしょう。
しかし、政宗が生前、現在よく知られるような黒い眼帯を常に着用していたと断定できるわけではありません。
右目を失明していたことは伝えられていますが、実際にどのような方法で右目を覆っていたのかについては、はっきりしない部分があります。
伊達政宗が眼帯をしていたという証拠はある?
政宗の眼帯について考える際に重要なのが、当時の肖像画や記録です。
政宗を描いた肖像画には、黒い眼帯を着けず、両目が描かれているものがあります。
一方で、肖像画は本人の姿を写真のように正確に記録するものではなく、理想化された姿が描かれる場合もあります。
そのため、肖像画に眼帯がないからといって、政宗が生涯一度も眼帯を使わなかったとまではいえません。
少なくとも、黒い眼帯が政宗の日常的な装いだったと裏付けるには、当時の記録をさらに確認する必要があります。
黒い眼帯のイメージはなぜ広まった?
現在の伊達政宗は、右目を覆った勇ましい戦国武将として描かれることが少なくありません。
映画やテレビドラマ、漫画、ゲームなどでも、眼帯は政宗を象徴する特徴として用いられています。
特に「独眼竜」という呼び名と眼帯の姿は結び付きやすく、人物を一目で識別できる表現になっています。
ただし、こうした現代の作品に描かれる姿と、戦国時代の政宗が実際にしていた装いは区別する必要があります。
伊達政宗の眼帯は右目と左目のどちら?
伊達政宗が失明したと伝えられるのは右目です。
したがって、眼帯を着けた姿として描かれる場合も、基本的には右目を覆う形になっています。
左目を失明したという説明は、一般に伝わる政宗の経歴とは異なります。
政宗は右目を失明したと伝えられていますが、黒い眼帯を常用していたかどうかは別問題です。
この違いを知っておくと、肖像画や銅像に眼帯がない理由も理解しやすくなります。
伊達政宗の肖像画や銅像に眼帯がない理由
伊達政宗は右目を失明したことで知られていますが、肖像画や銅像を見ると、眼帯を着けていない姿が多く見られます。
特に仙台城跡の伊達政宗騎馬像には、一般的なイメージとは異なり、黒い眼帯がありません。
これはなぜなのでしょうか。
伊達政宗の肖像画には両目が描かれている
伊達政宗の肖像画として知られる作品には、右目と左目の両方が描かれているものがあります。
政宗は幼少期に天然痘を患い、右目を失明したと伝えられています。
しかし、肖像画では必ずしも、その身体的な特徴がそのまま表現されているわけではありません。
政宗が自分の肖像を描く際、両目を描くよう望んだという話も伝わっています。
ただし、こうした希望が実際にどのような記録に残されているのかについては、慎重に確認する必要があります。
肖像画に両目が描かれていることと、政宗が右目を失明していたことは矛盾しません。

仙台城跡に立つ伊達政宗騎馬像。仙台藩の基礎を築いた戦国武将として知られています。
仙台城跡の伊達政宗騎馬像にも眼帯がない
仙台市の仙台城跡には、馬にまたがった伊達政宗の騎馬像があります。
仙台を代表する観光名所の一つであり、政宗の姿を象徴する銅像として知られています。
この騎馬像をよく見ると、政宗は黒い眼帯を着けていません。
騎馬像は昭和10年(1935年)に建立され、戦時中の金属供出を経て、現在の像は昭和39年(1964年)に再建されたものです。
ただし、眼帯がない理由について、制作者がどのような意図を持っていたのかは、制作資料などによる確認が必要です。
そのため、眼帯がないことを政宗本人の希望だけで説明するのは適切ではないでしょう。
眼帯のない姿と独眼竜のイメージはなぜ違う?
現在の伊達政宗は、黒い眼帯を着けた戦国武将として描かれることがあります。
一方、歴史的な肖像画や仙台城跡の騎馬像には、眼帯のない姿が見られます。
この違いには、肖像画や銅像が制作された時代と、現代の映像作品などで作られる人物像の違いが関係していると考えられます。
歴史的な肖像画は、人物の威厳や家格を示す目的で制作されることがあります。
一方、ドラマやゲームなどでは、眼帯が「独眼竜」をわかりやすく表現する特徴として用いられています。
眼帯のない肖像画や銅像も、眼帯を着けた現代の政宗像も、それぞれの時代の表現であることを理解しておきたいところです。
伊達政宗はなぜ独眼竜と呼ばれた?
伊達政宗が「独眼竜(どくがんりゅう)」と呼ばれるのは、幼少期に右目を失明したことと、戦国武将としての活躍が結び付けられたためです。
「独眼」は片目を意味し、「竜」は優れた人物や英雄を象徴する表現として使われています。
ただし、政宗が生きていた当時から「独眼竜」と呼ばれていたのかについては、注意が必要です。
独眼竜という呼び名にはどんな意味がある?
「独眼竜」という言葉は、もともと中国の歴史上の人物に関連して使われた表現として知られています。
中国の唐末から五代十国時代にかけて活躍した李克用(りこくよう)は、片目に特徴があったと伝えられ、「独眼竜」と呼ばれました。
伊達政宗も右目を失明していたことから、この呼び名と結び付けられるようになったと考えられています。
もっとも、政宗と李克用が同じように呼ばれるようになった具体的な経緯については、史料を確認する必要があります。
伊達政宗は生前から独眼竜と呼ばれていた?
現在では「独眼竜政宗」という呼び名が広く知られています。
しかし、政宗が生前からこの異名で呼ばれていたと断定することはできません。
後世の歴史書や文学作品などを通じて、片目の戦国武将という特徴と英雄的な人物像が結び付いていったと考えられます。
昭和62年(1987年)には、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』が放送され、この呼び名が全国的に広く親しまれるきっかけの一つとなりました。
独眼竜と呼ばれたのは右目の失明だけが理由?
伊達政宗が独眼竜として知られる理由は、右目の失明という身体的な特徴だけではありません。
政宗は若くして伊達家の当主となり、奥州で勢力を拡大しました。
その後は豊臣秀吉や徳川家康の時代を生き抜き、仙台藩の基礎を築いています。
こうした武将としての経歴も、後世に形成された独眼竜のイメージに影響したと考えられます。
「独眼竜」は右目の特徴と、政宗の武将としての人物像を象徴する呼び名といえるでしょう。
ただし、呼び名がいつ、誰によって使われ始めたのかは、別途詳しく検証する必要があります。
まとめ|伊達政宗の右目と眼帯の謎を振り返る
伊達政宗が右目を失明した原因は、幼少期に患った天然痘だったと伝えられています。
しかし、失明した右目を自分でくり抜いたという話や、片倉小十郎が取り除いたという逸話については、史実として断定できない部分があります。
今回の内容を振り返ると、次のようになります。
- 失明した目:左目ではなく右目
- 失明の原因:幼少期に患った天然痘と伝えられる
- 目をくり抜いた逸話:政宗本人や片倉小十郎に関する伝承があるが、確実な史実とは断定できない
- 目を食べたという話:裏付けとなる確かな史料は確認できていない
- 眼帯の真実:黒い眼帯を日常的に着けていたかどうかは不明
- 独眼竜の由来:右目の失明と、武将としての人物像が結び付いた呼び名
伊達政宗の肖像画や仙台城跡の騎馬像には、眼帯のない姿も見られます。
現在よく知られている眼帯姿と、歴史資料に残る政宗の姿には違いがあるのです。
伊達政宗の右目については、確認できる歴史的事実と、後世に伝わった逸話を区別することが大切です。
独眼竜として知られる政宗の生涯を知るうえでも、こうした違いに目を向けると、歴史をより深く理解できるでしょう。
参考資料
※記事内の人物画像はAIで生成したイメージです。実在の人物とは関係ありません。


















