三方ヶ原の戦いをわかりやすく!場所と徳川家康が武田信玄に敗れた理由

三方ヶ原の戦いの舞台をイメージした冬の台地と遠方の軍勢

1572年、徳川家康は武田信玄との「三方ヶ原の戦い」で大敗を喫しました。

戦国時代の名将として知られる家康が、なぜ信玄に敗れたのでしょうか。

三方ヶ原の戦いは現在の静岡県浜松市周辺で起きた合戦で、家康の生涯における大きな試練として知られています。

この記事では、**三方ヶ原の戦いが起きた場所や原因、徳川家康が敗れた理由**をわかりやすく解説します。

さらに、両軍の兵力と布陣、合戦の経過、本多忠勝ら家臣の活躍、家康の脱糞伝説や「しかみ像」の真相まで紹介します。

武田信玄との戦いが、その後の家康に何をもたらしたのかも見ていきましょう。

三方ヶ原の戦いとは?いつ・どこで起きた合戦?

三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、1572年(元亀3年)12月22日に、徳川家康と武田信玄の軍勢が激突した合戦です。
現在の静岡県浜松市にある三方原台地周辺で行われ、武田軍が勝利し、徳川軍が大敗した戦いとして知られています。

当時の徳川家康は浜松城を拠点として遠江国を治めていましたが、甲斐国を本拠とする武田信玄が大軍を率いて侵攻してきました。
家康は織田信長からの援軍とともに武田軍を迎え撃ちましたが、戦いに敗れて浜松城へ撤退しました。

三方ヶ原の戦いは1572年に起きた

三方ヶ原の戦いが起きたのは、1572年(元亀3年)12月22日です。
これは当時の旧暦による日付で、現在の暦に換算すると1573年2月4日に当たります。
このとき徳川家康は数え年31歳、武田信玄は数え年52歳でした。

両者はすでに戦国大名として勢力を広げていましたが、信玄は甲斐・信濃を中心に大きな勢力を築いていました。
一方の家康は、三河・遠江を支配し、織田信長との同盟関係を維持していました。

三方ヶ原の戦いは、武田信玄による遠江侵攻の過程で起きた合戦であり、家康にとって生涯でも特に厳しい敗戦となりました。

三方ヶ原の戦いは、徳川家康の生涯でも特に大きな敗戦として知られています。
家康が経験した合戦や天下統一までの歩みは、徳川家康の生涯年表|誕生から天下統一までの出来事で時系列に沿って紹介しています。

合戦の場所は現在の静岡県浜松市

三方ヶ原の戦いの舞台となったのは、現在の静岡県浜松市中央区から浜名区にかけて広がる三方原台地周辺です。
徳川家康の居城だった浜松城から北方に位置する地域で、現在も合戦に関連する史跡や伝承地が残されています。

ただし、両軍が実際に激突した地点を正確に特定することは難しく、戦場の範囲や位置には諸説があります。

三方原台地周辺には「三方ヶ原古戦場」の碑などがあり、浜松城や犀ヶ崖とともに合戦の歴史を伝えています。

徳川家康と武田信玄の戦いを簡単に解説

三方ヶ原の戦いの基本情報を一覧にすると、次のようになります。

項目内容
合戦名三方ヶ原の戦い
年月日1572年(元亀3年)12月22日(旧暦)
場所現在の静岡県浜松市・三方原台地周辺
徳川方徳川家康・織田信長からの援軍
武田方武田信玄率いる武田軍
勝敗武田軍の勝利・徳川軍の敗北
家康の年齢数え年31歳
主な影響徳川軍が大きな損害を受け、家康は浜松城へ撤退

この戦いでは、武田軍が徳川・織田連合軍を破り、家康は多くの家臣を失いました。
しかし、家康自身は浜松城へ帰還し、その後も武田氏との戦いを続けていきます。

では、なぜ武田信玄は徳川家康の領国へ侵攻し、両軍は三方ヶ原で戦うことになったのでしょうか。
次の章では、合戦が起きた背景と武田信玄の進軍目的を詳しく解説します。

三方ヶ原の戦いはなぜ起きた?武田信玄の進軍目的

三方ヶ原の戦いが起きた背景には、武田信玄による遠江・三河方面への大規模な軍事侵攻がありました。
当時、信玄は甲斐・信濃・駿河を中心に勢力を広げ、徳川家康や織田信長と対立を深めていました。

1572年(元亀3年)、信玄は徳川領への侵攻を本格化させます。
この軍事行動は一般に「西上作戦」と呼ばれ、三方ヶ原の戦いへとつながっていきました。

戦国時代の浜松城の城門付近で出陣の準備をする徳川軍のイメージ

武田軍の動きを受け、浜松城から出陣を決断した徳川家康

武田信玄の西上作戦と徳川領への侵攻

1572年10月、武田信玄は大軍を動員し、遠江・三河方面への侵攻を開始しました。
武田軍は複数の部隊に分かれ、徳川家康の領国へ圧力をかけていきます。

信玄の本隊は駿河方面から遠江へ進み、山県昌景らの別動隊も三河方面から侵攻しました。
この軍事行動によって、徳川方の城や周辺地域は次々と脅かされることになります。

信玄の目的については、京都への上洛を目指していたとする見方が広く知られています。
一方で、徳川領の攻略や織田信長の勢力を牽制することが当面の目的だったとする見解もあり、最終的な狙いを一つに断定することはできません。

武田軍は遠江北部の重要拠点である二俣城を包囲し、1572年12月に攻略しました。
二俣城は天竜川沿いの交通を押さえる要所であり、その陥落は家康にとって大きな打撃となりました。

こうして武田軍は、徳川家康の居城である浜松城に迫ることになったのです。

徳川家康はなぜ浜松城から出陣したのか

二俣城を攻略した武田軍は、天竜川を越えて浜松城の近くまで進軍しました。
しかし、武田信玄は浜松城を直接攻撃せず、三方原台地を通って西へ進む動きを見せました。

当時の徳川家康は、織田信長からの援軍を受けていたものの、兵力では武田軍に劣っていました。
そのため、浜松城に籠もって防戦する選択肢もありました。

ところが家康は、城を出て武田軍を追撃する決断を下します。

その理由としては、三方原を通過する武田軍の背後を攻撃し、戦いを有利に進めようとしたことが挙げられます。
また、武田軍が領内を進軍するのを見過ごせなかったという説明も伝わっています。

ただし、家康が出陣を決断した詳しい事情には諸説があり、若さや怒りだけが原因だったと断定することはできません。

こうして徳川・織田連合軍は浜松城から出陣し、三方原台地へ向かいました。
しかし、武田軍はすでに戦闘態勢を整えており、家康は厳しい戦いを強いられることになります。

では、なぜ徳川家康は武田信玄に大敗したのでしょうか。
次の章では、兵力差や出陣の判断、両軍の戦い方から敗因を詳しく見ていきます。

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徳川家康はなぜ負けた?三方ヶ原の戦いの敗因

三方ヶ原の戦いで徳川家康が敗れた理由は、単純に武田軍の兵力が多かったからだけではありません。
両軍の戦力差に加え、家康が浜松城から出陣した判断や、武田信玄が野戦に備えていたことも大きく影響しました。

特に重要なのは、兵力で劣る徳川軍が、武田軍の得意とする野戦で戦うことになった点です。
ここでは、家康の敗因を3つの視点から見ていきます。

武田軍との兵力差と戦力の違い

三方ヶ原の戦いでは、武田信玄の軍勢が徳川・織田連合軍を大きく上回っていたとされています。

一般的には武田軍が約2万5,000人、徳川軍が織田信長からの援軍を含めて約1万1,000人と説明されます。
ただし、これらは史料や研究によって異なる推定値であり、正確な人数が確定しているわけではありません。

武田信玄は長年にわたって甲斐・信濃などで戦いを重ね、経験豊富な家臣団を率いていました。
一方の家康も三河・遠江で戦いを経験していましたが、兵力に大きな差がある状況で正面から戦うことは不利でした。

徳川軍には織田信長からの援軍も加わっていたものの、その兵力差を埋めるには至らなかったと考えられます。

徳川家康の出陣判断と戦場の状況

武田信玄は二俣城を攻略した後、徳川家康の居城である浜松城を直接攻撃せず、三方原台地を通って西へ進む動きを見せました。

家康は、この武田軍の背後を攻撃すれば勝機があると考え、浜松城から出陣したと説明されています。

しかし、武田軍はすでに戦闘に備えており、徳川軍は予想していたような有利な攻撃を仕掛けることができませんでした。

家康は、三方原台地を通過する武田軍を追撃し、その背後を攻撃する機会を狙ったと一般に説明されています。
しかし、家康が出陣を決断した詳しい理由や、両軍が戦闘に入った経緯については、史料から確定できない部分があります。

結果として徳川軍は、兵力で勝る武田軍との野戦に臨み、大きな損害を受けました。
そのため、家康の出陣判断は敗因を考えるうえで重要ですが、怒りや慢心だけで説明することはできません。

もっとも、家康が出陣した理由には諸説があります。
自領を通過する武田軍を見過ごせなかったという説明や、武田軍の進軍を妨害する軍事的な必要性があったという見方もあります。

そのため、家康が怒りに任せて無謀な出陣をしたと断定するのは適切ではありません。

武田信玄の戦術と徳川軍の敗走

武田信玄は数多くの合戦を経験した戦国大名であり、三方ヶ原でも徳川軍を迎え撃つ態勢を整えていたと伝えられています。

後世の軍記などには、武田軍が「魚鱗の陣」、徳川軍が「鶴翼の陣」を敷いたという記述があります。
ただし、実際に両軍がどのような陣形を取ったのかについては、史料上の検討が必要です。

合戦が始まると、徳川軍は武田軍の攻撃を受けて次第に崩れ、多くの家臣が戦死しました。
家康自身も危険な状況に追い込まれ、浜松城へ撤退しています。

この戦いの敗因をまとめると、次の3点が挙げられます。

  • 武田軍が徳川・織田連合軍を大きく上回る兵力を持っていたこと。
  • 家康が浜松城から出陣し、不利な条件で野戦に臨んだこと。
  • 武田軍が戦闘態勢を整えており、徳川軍が有利な攻撃を仕掛けられなかったこと。

つまり、三方ヶ原の戦いは、兵力差と戦場での状況が重なって徳川軍が敗れた合戦だったといえるでしょう。

次の章では、両軍の兵力や布陣を比較し、武田信玄と徳川家康がどのような態勢で戦ったのかを詳しく解説します。

三方ヶ原の戦いの兵力と布陣!両軍の戦い方を比較

三方ヶ原の戦いでは、武田信玄の軍勢が徳川家康と織田信長の連合軍を大きく上回っていました。
さらに、両軍が取ったと伝えられる陣形にも違いがあり、戦いの結果を考えるうえで重要なポイントとなっています。

一般に、武田軍は「魚鱗の陣」、徳川軍は「鶴翼の陣」を敷いたと説明されます。
ただし、兵力の正確な人数や実際の布陣には諸説があるため、伝承と史実を区別しながら見ていきましょう。

武田軍と徳川・織田連合軍の兵力

三方ヶ原の戦いに参加した兵力は、一般的に武田軍が約2万5,000人、徳川・織田連合軍が約1万1,000人とされています。

両軍の兵力を比較すると、次のようになります。

比較項目武田軍徳川・織田連合軍
総大将武田信玄徳川家康
推定兵力約25,000人約11,000人
主な武将武田勝頼・山県昌景・馬場信春など本多忠勝・酒井忠次・平手汎秀など
伝えられる陣形魚鱗の陣鶴翼の陣
合戦の結果勝利敗北

この推定値では、武田軍は徳川・織田連合軍の約2.3倍の兵力を持っていたことになります。
徳川軍には織田信長からの援軍も加わっていましたが、兵力差を埋めるには至りませんでした。

ただし、史料によっては武田軍を約2万7,000人とするなど、人数に違いがあります。
表の数字は確定した実数ではなく、一般的に紹介される推定兵力として理解する必要があります。

魚鱗の陣と鶴翼の陣は本当だったのか

三方ヶ原の戦いでは、武田軍が「魚鱗の陣」、徳川軍が「鶴翼の陣」を取ったという説明が広く知られています。

魚鱗の陣とは、部隊を中央に厚く配置し、敵の正面を突破することを意識した陣形です。
魚のうろこを重ねたような形に由来するとされ、前方に戦力を集中させる特徴があります。

一方、鶴翼の陣は、鶴が翼を広げたように左右へ部隊を展開する陣形です。
敵を両側から包み込むことを狙う陣形として説明されます。

それぞれの特徴を比較すると、次のようになります。

陣形特徴一般的な狙い
魚鱗の陣中央に兵力を厚く配置する敵の正面突破
鶴翼の陣左右に部隊を広く展開する敵の包囲・挟撃

従来の説明では、武田軍が厚い陣形で攻撃し、徳川軍の横に広がった陣形を崩したとされています。

しかし、実際に両軍がこの陣形を取ったことを、同時代の史料だけで確実に裏付けられるわけではありません。
近年は、魚鱗と鶴翼という伝統的な布陣説明そのものを疑問視する見解もあります。

そのため、三方ヶ原の戦いの勝敗を陣形の違いだけで説明することは避けるべきでしょう。

布陣図から見る三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦いの布陣図では、武田軍と徳川軍が向かい合い、魚鱗の陣と鶴翼の陣を展開する姿がよく描かれています。

しかし、これらの図は史料や伝承をもとに後世に作成されたものが多く、当日の配置を正確に再現した地図とは限りません。

また、三方原台地のどの地点が主戦場だったのかについても諸説があります。
そのため、布陣図を見る際には、軍勢の位置だけでなく、浜松城からの進軍方向や台地の地形にも注目する必要があります。

徳川軍は浜松城から出陣して武田軍を追いましたが、武田軍は迎撃態勢を整えていたと伝えられています。
結果として、兵力で劣る徳川軍は不利な野戦に臨み、大きな損害を受けました。

三方ヶ原の戦いを理解するうえでは、兵力差・地形・進軍経路・両軍の判断を合わせて考えることが重要です。

次の章では、武田軍の進軍から開戦、徳川軍の敗走、浜松城への撤退まで、合戦の経過を時系列で詳しく解説します。

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三方ヶ原の戦いの経過と結果をわかりやすく解説

三方ヶ原の戦いは、武田信玄の遠江侵攻から始まり、徳川家康の出陣、三方原台地での激突、そして徳川軍の敗走という経過をたどりました。
1572年(元亀3年)12月22日の合戦では、武田軍が勝利し、家康は浜松城への撤退を余儀なくされます。

ここでは、武田軍の進軍から合戦の結果までを、時系列に沿ってわかりやすく解説します。

武田軍の進軍から三方ヶ原での開戦まで

1572年10月、武田信玄は遠江・三河方面への侵攻を開始しました。
武田軍は徳川領内の城や拠点を攻撃しながら進み、同年12月には遠江北部の重要拠点だった二俣城を攻略します。

二俣城を失った徳川家康は、浜松城を拠点として武田軍の動向を警戒していました。
しかし、信玄は浜松城を直接攻撃せず、その北方に広がる三方原台地を通って西へ進む動きを見せます。

これを知った家康は、織田信長からの援軍とともに浜松城を出陣しました。
武田軍の背後を攻撃する機会を狙ったと伝えられていますが、出陣を決めた詳しい理由には諸説があります。

そして1572年12月22日、徳川・織田連合軍と武田軍は三方原台地周辺で激突しました。

一般的には、武田軍が約2万5,000人、徳川・織田連合軍が約1万1,000人とされ、家康は兵力で不利な状況にありました。

徳川軍の敗北と浜松城への撤退

三方ヶ原で戦闘が始まると、徳川軍は武田軍の攻撃を受け、次第に戦列を崩していきました。
兵力で勝る武田軍に対し、徳川・織田連合軍は大きな損害を受けます。

この戦いでは、徳川家康の家臣である夏目吉信や鳥居忠広、織田方の平手汎秀らが戦死したと伝えられています。
家康自身も危険な状況に追い込まれましたが、戦場を脱出して浜松城へ戻りました。

三方ヶ原の戦いの結果は武田軍の勝利であり、徳川家康にとって大きな敗戦となりました。

ただし、武田軍はこの勝利によって浜松城を直ちに攻略したわけではありません。
家康は居城を維持し、その後も徳川家の勢力を保つことになります。

三方ヶ原での敗北は、家康の生涯における重要な転機の一つとして語り継がれています。

三方ヶ原の戦いで徳川軍が敗走した後をイメージした冬の街道と落ちた槍

三方ヶ原で敗れた徳川軍は、浜松城へと撤退した

空城の計と犀ヶ崖の夜襲伝説

三方ヶ原の戦いには、徳川家康の浜松城帰還後についても有名な逸話が残されています。

その一つが「空城の計」と呼ばれる話です。
敗走した家康が浜松城の門を開け放ち、かがり火を焚いて武田軍を迎えるように見せたところ、武田軍が伏兵を警戒して城への攻撃を控えたと伝えられています。

しかし、この話は後世の軍記などで広まった逸話であり、実際に家康がこのような策を用いたと確定できるわけではありません。

もう一つの有名な伝承が、浜松城の北西にある犀ヶ崖(さいががけ)にまつわる夜襲です。

伝承によると、徳川方は夜間に武田軍を襲撃し、崖の近くで混乱した武田兵が転落したとされています。
また、崖に白い布を張って橋のように見せかけたという話も伝わっています。

ただし、これらの細かな経緯についても、史実として確実に裏付けられているわけではありません。

犀ヶ崖には現在も合戦に関係する史跡や伝承が残されており、三方ヶ原の戦いを伝える場所の一つとなっています。

このように、三方ヶ原の戦いには実際の合戦経過だけでなく、後世に語り継がれた数多くの逸話があります。
史実と伝承を区別することが、合戦の実像を理解するうえで重要です。

三方ヶ原の戦いで活躍した武将と戦死者

三方ヶ原の戦いでは、徳川家康を支える多くの家臣が武田軍と戦いました。
そのなかには、後に徳川四天王の一人として知られる本多忠勝もいました。

一方、徳川軍は大きな損害を受け、夏目吉信や鳥居忠広、織田信長から派遣された平手汎秀らが命を落としたと伝えられています。

ここでは、三方ヶ原の戦いで活躍した武将と討死した人物を中心に、両軍の被害についても解説します。

本多忠勝ら徳川家臣の働き

本多忠勝は、徳川家康の若い頃から仕えた重臣で、数多くの合戦に参加した武将です。
三方ヶ原の戦いでも徳川軍の一員として戦い、家康を支えました。

忠勝は武勇に優れた人物として知られ、後世には「生涯で数多くの戦場に立ちながら、一度も傷を負わなかった」という逸話も伝えられています。

三方ヶ原の戦いに関連しては、武田軍の追撃を受ける徳川方を支えたという話があります。
ただし、忠勝の具体的な戦闘行動については後世の記録による部分もあり、すべてを確実な史実として扱うことはできません。

また、酒井忠次や大久保忠世らも、この時期の徳川家を支えた重要な家臣でした。

徳川家康が敗戦後も勢力を維持できた背景には、こうした家臣団の存在がありました。

三方ヶ原の戦いでは、本多忠勝をはじめとする徳川家臣団も重要な役割を果たしました。
徳川四天王や家康を支えた主な武将については、徳川家康の家臣一覧|徳川四天王と主要な重臣たちで詳しく紹介しています。

夏目吉信・鳥居忠広らの戦死

三方ヶ原の戦いでは、徳川方の武将が多数戦死したと伝えられています。
なかでも有名なのが、夏目吉信、鳥居忠広、そして織田方の平手汎秀です。

夏目吉信は徳川家康の家臣で、敗走する家康を逃がすために奮戦し、討死したという逸話で知られています。

後世の伝承では、吉信が家康の身代わりとなるように敵軍へ向かい、追撃を引き受けたとされています。
ただし、身代わりになった際の具体的な行動や会話には、後世の脚色が含まれている可能性があります。

鳥居忠広も徳川方の武将で、三方ヶ原の戦いで討死した人物として知られています。

また、平手汎秀は織田信長の家臣で、徳川家康への援軍として参加し、この合戦で戦死したと伝えられています。

主な戦死者を一覧にすると、次のようになります。

武将名所属三方ヶ原の戦いでの最期
夏目吉信(正吉)徳川軍家康の退却を助け、討死したと伝わる
本多忠真徳川軍退却する味方を守るために戦い、討死したと伝わる
鳥居忠広徳川軍武田軍との戦闘で討死したと伝わる
成瀬正義徳川軍家康の撤退を助けた後、討死したと伝わる
平手汎秀織田軍織田方の援軍として参戦し、敗走中に戦死したと伝わる

これらの武将の死は、徳川家康にとって大きな損失でした。
特に夏目吉信の逸話は、家康と家臣との主従関係を象徴する物語として後世まで語り継がれています。

両軍の死傷者数と被害

三方ヶ原の戦いでは、敗れた徳川・織田連合軍が多数の死傷者を出しました。

徳川方の戦死者については、約1,000人とする説明が見られる一方、さらに多い数字を伝える記録もあります。
ただし、当時の兵力や損害を正確に把握できる史料は限られており、人数を確定することは困難です。

武田軍にも損害はあったと考えられますが、正確な死傷者数は明らかではありません。

三方ヶ原の戦いの被害を整理すると、次のようになります。

軍勢被害の概要
徳川・織田連合軍多数の戦死者を出し、夏目吉信・鳥居忠広・平手汎秀らを失った
武田軍勝利したものの、正確な死傷者数は不明

徳川軍は大敗しましたが、家康自身は浜松城へ帰還し、徳川家が滅亡する事態は避けられました。

三方ヶ原の戦いは、多くの家臣を失いながらも家康が生き残った合戦として、その後の徳川家の歴史を考えるうえでも重要です。

そして、この敗戦には家康の脱糞伝説や「しかみ像」と呼ばれる肖像画など、有名な逸話も残されています。

*浜松市史では、武田信玄が朝倉義景に宛てた書状に、徳川・織田方の戦死者が約1,000人と記されていることを紹介しています。
一方、穴山信君の書状には2,000余という数字も見られ、記録によって被害の規模には違いがあります。
これらは武田方の報告であり、集計対象も同一とは限らないため、正確な戦死者数は確定できません。

真田昌幸は参戦した?武田信玄の軍師は誰だったのか

三方ヶ原の戦いには、後に徳川家康を苦しめることになる真田昌幸も、武田軍の一員として参加したとされています。
当時の昌幸は「武藤喜兵衛」と名乗り、武田信玄に仕えていました。

若い頃から武田家で経験を積んだ昌幸は、後に上田城を拠点として徳川軍と戦うことになります。
三方ヶ原では武田方に属していた昌幸が、後年には徳川軍を苦しめる知将となったという点は、歴史の興味深いつながりです。

ただし、三方ヶ原で昌幸が具体的にどのような働きをしたのかは明確ではありません。
作戦を立案したり、家康を直接追い詰めたりしたと断定できる史料は確認されていません。

また、武田信玄の軍師といえば山本勘助が有名ですが、勘助は1561年の川中島の戦いで戦死したとされ、三方ヶ原には参加していません。

武田軍には馬場信春や山県昌景などの有力武将がいましたが、三方ヶ原の作戦を誰が立案したのかは確定していません。
そのため、武田信玄の指揮のもとで家臣団が戦ったと理解するのが適切でしょう。

次の章では、これらの話、他ががどこまで史実として確認できるのかを詳しく見ていきます。

徳川家康の脱糞伝説としかみ像は本当?

三方ヶ原の戦いには、徳川家康が敗走中に恐怖のあまり脱糞したという有名な逸話があります。
また、敗戦を忘れないために、自分の情けない姿を描かせたという「しかみ像」の話も広く知られています。

しかし、これらは歴史上の事実として確定しているわけではありません。
脱糞伝説としかみ像には、それぞれ異なる成立の経緯があり、後世の解釈が含まれています。

家康は三方ヶ原の戦いで脱糞したのか

三方ヶ原の戦いで徳川軍が大敗した際、家康は武田軍の追撃を逃れ、浜松城へ退却しました。

この敗走に関連して、家康が恐怖のあまり馬上で脱糞してしまったという逸話が伝えられています。

さらに、家臣から衣服の汚れを指摘された家康が、脱糞ではなく味噌だったと言い訳したという話も有名です。

しかし、家康が実際に脱糞したことを確実に裏付ける同時代の史料は確認されていません。
そのため、この話を史実として断定することはできません。

家康の敗戦を印象的に伝える逸話として知られていますが、歴史記事では「脱糞したと伝えられる」と表現するのが適切でしょう。

徳川家康のしかみ像と敗戦の逸話

三方ヶ原の戦いとともによく紹介されるのが、「しかみ像」と呼ばれる徳川家康の肖像画です。

この肖像画は、家康が片膝を立て、険しい表情で座っている姿を描いたもので、一般に「徳川家康三方ヶ原戦役画像」として知られています。

従来は、三方ヶ原の戦いで大敗した家康が、自らの慢心を戒めるために描かせた肖像画だと説明されてきました。

しかし、近年の研究では、この肖像画を三方ヶ原の敗戦直後に描かれたものとする根拠は十分ではないと指摘されています。

また、現在伝わる作品についても、家康の生前に制作された肖像画と断定できるわけではありません。

つまり、「敗戦した家康が反省のために描かせた」という話は有名ですが、確実な史実として紹介することは避ける必要があります。

*徳川美術館によると、現在伝わる「徳川家康画像(しかみ像)」は、江戸時代の17世紀に制作された作品です。
家康が三方ヶ原の敗戦直後に描かせたという伝承には史料的な根拠がなく、近年は家康を武神として祀るための礼拝像だったと考えられています。

したがって、しかみ像は家康の敗戦を直接記録した肖像画ではなく、後世に制作された家康像として理解するのが適切です。

史実と後世の伝承をどう区別するか

三方ヶ原の戦いでは、徳川家康が武田信玄に敗れ、浜松城へ撤退したことは歴史上の事実です。

一方、脱糞伝説やしかみ像の由来については、後世の軍記や解釈によって広まった部分があります。

両者を整理すると、次のようになります。

内容史実としての扱い
家康が三方ヶ原で敗北した史実として確認できる
家康が浜松城へ撤退した史実として確認できる
家康が敗走中に脱糞した確実な裏付けがない伝承
家康が味噌だと言い訳した後世に伝わる逸話
家康が敗戦直後にしかみ像を描かせた従来の通説だが根拠に疑問がある

脱糞伝説やしかみ像の話は、家康が若い頃に経験した大敗を印象づけるものとして広まりました。

しかし、有名な逸話であることと、歴史的事実として確認できることは別です。

三方ヶ原の戦いを正しく理解するには、合戦そのものの記録と、後世に生まれた物語を分けて考えることが大切です。

では、この大敗の後、武田信玄と徳川家康はどうなったのでしょうか。
次の章では、信玄の死と家康の再起、そして長篠の戦いへと続く歴史を解説します。

三方ヶ原の戦いのその後!武田信玄と徳川家康の運命

三方ヶ原の戦いは武田信玄の勝利に終わりましたが、この敗戦によって徳川家康が滅亡したわけではありません。
家康は浜松城を維持し、武田軍の脅威に備えながら勢力の立て直しを図りました。

一方、勝利した武田信玄は翌1573年(元亀4年)に亡くなり、武田家の当主は武田勝頼へと引き継がれます。

その後、家康と武田氏の対立は続き、1575年(天正3年)の長篠・設楽原の戦いへとつながっていきました。

武田信玄の進軍と翌年の死

1572年12月、三方ヶ原の戦いで徳川家康を破った武田信玄は、遠江・三河方面での軍事行動を続けました。

翌1573年には三河方面へ進み、徳川方の重要拠点だった野田城を攻略したとされています。

しかし、その後、信玄は病気などによって進軍を続けられなくなり、甲斐への帰還を目指す途中で亡くなりました。

武田信玄が亡くなったのは、1573年(元亀4年)4月12日です。
享年は数え年53歳でした。

信玄の死因については病死と考えられていますが、具体的な病名は確定していません。
野田城攻めの際に銃撃を受けたという説も知られていますが、確実な史実とはいえません。

信玄の死後、武田家の実権は息子の武田勝頼に引き継がれました。
これにより、徳川家康と対峙する武田軍の指導者も変わることになります。

徳川家康の再起と長篠の戦い

武田信玄の死によって徳川家康への軍事的圧力は一時的に変化しましたが、武田氏との対立が終わったわけではありません。
信玄の後を継いだ武田勝頼も遠江・三河方面への攻勢を続け、徳川家康は織田信長との同盟を維持しながら戦いを重ねました。

1575年(天正3年)には、長篠・設楽原の戦いで織田・徳川連合軍が武田勝頼の軍勢に勝利します。
さらに徳川方は同年、武田氏が支配していた二俣城を奪還しました。

三方ヶ原の戦いで大敗した徳川家康でしたが、浜松城を失うことなく、徳川家の勢力を維持しました。

武田信玄の死後も武田氏との対立は続きましたが、家康は織田信長との同盟関係を保ちながら反撃の機会をうかがいます。

1575年(天正3年)、武田勝頼は三河の長篠城を包囲しました。
これに対し、徳川家康は織田信長とともに援軍を送り、武田軍と対決します。

同年5月21日、長篠・設楽原の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍に勝利しました。

この戦いでは、山県昌景や馬場信春など、武田家を支えてきた有力武将が多数戦死しました。

三方ヶ原で武田信玄に敗れた家康は、約2年半後の長篠・設楽原で武田勝頼の軍勢に勝利したことになります。

ただし、長篠の勝利は織田・徳川連合軍の戦力や防御態勢など、さまざまな条件によるものです。
三方ヶ原の敗戦から直接得た教訓だけで勝利したと断定することはできません。

三方ヶ原の敗戦後に徳川家康が再起を目指す様子を象徴した戦国時代の城の風景

三方ヶ原の敗北を経て、家康は武田氏との戦いを続けた

三方ヶ原の敗北が家康に残した教訓

三方ヶ原の戦いは、徳川家康の生涯における代表的な敗戦の一つとして知られています。

家康は武田信玄の大軍に野戦を挑み、多くの家臣を失いました。
それでも浜松城へ帰還し、領国を維持できたことは、その後の徳川家にとって重要でした。

この経験から、家康が戦力差や出陣の判断を慎重に考えるようになったという説明もあります。

しかし、三方ヶ原の敗戦によって家康の性格や戦術が具体的にどう変化したのかを、同時代の史料から明確に確認することは困難です。

後世には、家康が敗戦を忘れず、慎重さと忍耐を身につけたという教訓的な物語として語られるようになりました。

歴史上の事実として重要なのは、三方ヶ原で敗れた家康が徳川家を存続させ、その後も織田信長との同盟を維持しながら武田氏と戦い続けたことです。

三方ヶ原の敗戦、武田信玄の死、長篠・設楽原の戦いという一連の出来事は、徳川家康が勢力を拡大していく過程を理解するうえで欠かせません。

三方ヶ原の敗北は、徳川家康の人物像を考えるうえでも興味深い出来事です。
家康の慎重さや忍耐強さ、後世に伝わる逸話については、徳川家康の性格は?人物像と逸話から解説で詳しく紹介しています。

まとめ|三方ヶ原の戦いで家康が敗れた理由と歴史的意義

三方ヶ原の戦いは、1572年(元亀3年)12月22日に、現在の静岡県浜松市にある三方原台地周辺で起きた合戦です。
徳川家康は織田信長からの援軍とともに武田信玄を迎え撃ちましたが、大敗を喫しました。

今回の内容をまとめると、次のようになります。

  • 三方ヶ原の戦いは、武田信玄による遠江侵攻の過程で起きた。
  • 徳川・織田連合軍は武田軍より兵力で劣っていたとされる。
  • 家康は浜松城から出陣し、武田軍との野戦で敗北した。
  • 夏目吉信や鳥居忠広、平手汎秀らが戦死したと伝わる。
  • 家康の脱糞伝説やしかみ像の由来には、史実として確認できない部分がある。
  • 家康は浜松城を維持し、その後も武田氏との戦いを続けた。

徳川家康が敗れた理由は、兵力差に加え、出陣の判断や戦場での状況が重なったことにあると考えられます。

一方、武田信玄は翌1573年に亡くなり、武田家の実権は武田勝頼へと引き継がれました。
その後、家康は織田信長とともに1575年の長篠・設楽原の戦いで武田軍に勝利します。

三方ヶ原の戦いは、家康が大敗しながらも徳川家を存続させた重要な合戦でした。
その後の家康の歩みを理解するうえでも、欠かすことのできない出来事といえるでしょう。

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参考資料

※記事内の人物・他の画像はAIで生成したイメージです。実在の人物・他とは関係ありません。

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