徳川家康と織田信長の関係は?清洲同盟と築山殿・信康事件を解説!

徳川家康と織田信長は、戦国時代に長く同盟関係を築いた武将として知られています。
しかし、二人はなぜ同盟を結んだのでしょうか。
また、家康は信長の家臣だったのか、それとも対等な立場だったのか、気になるところです。
両者は姉川の戦いや長篠の戦いで協力する一方、家康の妻・築山殿と嫡男・信康をめぐる事件にも直面しました。
この記事では、**徳川家康と織田信長の関係**を中心に、清洲同盟の成立と目的、二人の力関係、築山殿・信康事件の諸説、本能寺の変までの歴史をわかりやすく解説します。
徳川家康と織田信長の関係は?同盟を結んだ二人の立場
徳川家康と織田信長は、戦国時代に長く協力関係を築いた武将です。
二人の関係を一言で説明すると、それぞれの領国を持ちながら、共通の敵に対抗するために結びついた同盟者でした。
ただし、同盟を結んだ当初と、信長が天下統一を進めていた時期とでは、二人の力関係に変化がありました。
信長と家康は別々の領国を治める戦国大名だった
織田信長は尾張国(現在の愛知県西部)を拠点とし、徳川家康は三河国(現在の愛知県東部)を中心に勢力を築きました。
家康は幼いころから今川氏の影響下にありましたが、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、今川氏からの自立を進めていきます。
一方、信長も尾張から勢力を広げようとしており、隣接する三河の松平氏と争い続けることは得策ではありませんでした。
そこで両者は和睦と協力関係を進め、一般に1562年(永禄5年)ごろ成立したとされる清洲同盟へとつながっていきました。
なお、この時期の家康は「松平元康」と名乗っており、徳川姓を使用するのは後のことです。
当初は対等な同盟関係とされるが力関係は変化した
清洲同盟は、信長が家康を家臣として召し抱えたものではなく、独立した勢力同士の協力関係として説明されるのが一般的です。
家康は三河の領国経営を進めながら、信長の軍事行動にも協力しました。
しかし、信長が美濃や近江などへ勢力を拡大し、全国的な影響力を強めるにつれて、両者の立場には差が生まれます。
家康は独自の家臣団と領国を維持していましたが、同盟の後半には信長の意向を強く意識せざるを得ない立場になっていったと考えられます。
つまり、二人の関係は最初から最後まで完全に対等だったわけでも、単純な主君と家臣の関係だったわけでもありません。
こうした関係は、1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が亡くなるまで続きました。
では、そもそも信長と家康はなぜ同盟を結ぶ必要があったのでしょうか。
次の章では、清洲同盟が成立した理由と、当時の尾張・三河を取り巻く情勢を解説します。
徳川家康と織田信長はなぜ同盟を結んだ?清洲同盟の理由
徳川家康と織田信長が同盟を結んだ最大の理由は、互いの領国を安定させ、それぞれの敵との戦いに集中するためでした。
家康は今川氏からの自立を進め、信長は美濃方面への進出を目指していました。
つまり、家康は東へ、信長は西へ勢力を広げるため、互いに背後の安全を確保する必要があったのです。
家康は今川氏から自立するために信長との協力を必要とした
1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、松平元康(後の徳川家康)は岡崎城へ戻り、三河での勢力回復を進めました。
ただし、桶狭間の戦いの直後に今川氏との関係が完全に断たれたわけではありません。
元康はしばらく今川方として行動していましたが、翌1561年ごろには今川氏真と対立し、独立への道を進みます。
当時の三河には今川氏に従う勢力も残っており、領国の統一は容易ではありませんでした。
その状況で西隣の織田氏とも戦い続ければ、家康は東西から敵に挟まれる危険がありました。
そこで、信長との和睦によって西側の安全を確保し、三河の支配を固めることが重要になったのです。
信長は美濃攻略に集中するため三河との争いを避けた
一方、織田信長にとっても、松平元康との協力には大きな利点がありました。
桶狭間の戦いで今川義元を破った信長は、尾張を拠点に勢力拡大を進め、美濃国(現在の岐阜県南部)の斎藤氏との対立を深めていました。
しかし、美濃方面で戦っている間に、東側の三河から攻撃されれば、軍勢を分散させなければなりません。
そこで三河の元康と和睦すれば、東側への警戒を軽減し、美濃攻略に力を注ぐことができます。
信長にとっても、家康との協力は西方への勢力拡大を進めるための重要な外交政策だったと考えられます。
両者の利害が一致したことで長期的な同盟につながった
このように、信長と家康は単に親しかったから同盟を結んだわけではありません。
両者には、領国を安定させ、別の方面への進出を進めたいという共通の事情がありました。
また、家康の母・於大の方の兄にあたる水野信元が、両者の和睦を仲介したと伝えられています。
こうした交渉を経て、1561年から1562年ごろにかけて協力関係が成立し、一般に「清洲同盟」と呼ばれるようになりました。
その後、両者は軍事面でも協力を深め、信長が1582年(天正10年)の本能寺の変で亡くなるまで、関係を維持しました。
ただし、同盟が成立した正確な時期や、当初からどの程度の軍事協力を約束していたのかについては、研究上の議論があります。
次の章では、清洲同盟がいつ成立したのか、その内容と歴史的背景を詳しく見ていきます。
清洲同盟はいつ成立した?同盟の内容と歴史的背景
*織田信長と松平元康(後の徳川家康)は、1561年ごろから和睦・協力関係を築きました。
一般に1562年成立とされる清洲同盟ですが、成立時期や清洲城での会見の有無については諸説があります。

清洲同盟の成立には、両家の利害の一致と使者を通じた交渉があったと考えられる(イメージ画像)。
清洲同盟は1562年成立とする説が一般的
従来の説明では、1562年(永禄5年)に松平元康が信長の居城である清洲城を訪れ、両者が同盟を結んだとされています。
江戸時代に編纂された『武徳編年集成』には、同年正月15日に会見したとする記述があります。
一方、織田氏と松平氏の和睦交渉は、それ以前の1561年(永禄4年)ごろから進んでいたと考えられています。
そのため、清洲同盟を特定の一日に成立した出来事として捉えるだけでなく、敵対関係から和睦へ、さらに軍事協力へと発展した過程として理解することも重要です。
清洲同盟の内容は互いの領国の安全を確保すること
清洲同盟の基本的な目的は、織田氏と松平氏が争いを避け、互いの勢力拡大を妨げないことにありました。
信長は美濃の斎藤氏との戦いを進め、家康は三河で今川氏の影響力を排除しながら領国の支配を固めていきました。
両者が協力関係を築けば、信長は東側の三河を、家康は西側の尾張を過度に警戒する必要がなくなります。
その後、両者は姉川の戦いや長篠の戦いなどで軍事的にも協力しました。
ただし、同盟成立当初から、相手が攻撃された場合には必ず援軍を送るという明確な約束が存在したかどうかは、史料から十分に確認できません。
したがって、清洲同盟の内容については、後年の軍事協力の実績と、成立当初の取り決めを区別する必要があります。
清洲城で信長と家康が会見したという話には異説がある
清洲同盟という名称から、信長と家康が清洲城で直接会い、正式に盟約を交わした場面を想像する人も多いでしょう。
実際に、江戸時代の徳川家関係の歴史書には、そのような会見の様子が記されています。
しかし、信長の事績を記した『信長公記』や、徳川家の歴史を伝える『三河物語』などには、1562年の清洲城での会見を明確に裏付ける記述が見られません。
このため、近年の研究では、家康が清洲城へ赴いて正式に同盟を結んだという従来の説明に疑問を示す見解があります。
もっとも、会見の有無と、その後に両者が協力関係を築いたことは別の問題です。
清洲城での会見が確実とはいえなくても、信長と家康が長期的な協力関係を築いたことは歴史上重要な事実です。
次の章では、清洲同盟を結んだ家康が信長の家臣だったのか、それとも独立した同盟者だったのか、二人の力関係を詳しく解説します。
徳川家康は織田信長の家臣だった?二人の力関係
徳川家康は、清洲同盟を結んだ当初から織田信長の直属の家臣だったわけではありません。
家康は三河を中心に独自の領国と家臣団を持ち、信長とは軍事的な協力関係を築いていました。
しかし、信長が天下統一へ向けて勢力を拡大すると、両者の立場は次第に変化していきます。
つまり、当初は独立した大名同士の同盟でしたが、後年には家康が信長に従属する性格を強めていったと考えられています。
家康は独自の領国と家臣団を持つ戦国大名だった
清洲同盟が成立した1562年(永禄5年)ごろ、家康は三河で勢力を拡大している途中でした。
家康には酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政など、徳川家を支える家臣たちがいました。
これらの家臣は基本的に家康に仕えており、信長が直接指揮する織田家の家臣団とは別の組織でした。
また、家康は三河の支配を固めた後、遠江国(現在の静岡県西部)へも勢力を広げていきます。
このように、家康は領国経営や軍事行動を行う独立した戦国大名としての立場を保っていました。
信長の勢力拡大によって同盟の力関係が変化した
一方、信長は1567年(永禄10年)に美濃を攻略し、翌1568年には足利義昭を奉じて上洛しました。
その後も近江や畿内へ勢力を広げ、戦国大名の中でも大きな影響力を持つ存在になります。
家康も三河・遠江へと領国を広げていましたが、織田氏との勢力差は次第に大きくなりました。
そのため、同盟関係を維持しながらも、家康は信長の軍事方針や外交上の意向を無視しにくい立場になっていきます。
特に1570年代以降は、信長を中心とする軍事行動に家康が協力するという、上下関係を伴う同盟へ変化していったとする見解があります。
ただし、両者の関係がいつ明確な主従関係に変わったのかについては、研究者の間でも見解が分かれています。
1582年の甲州征伐では信長の優位な立場が明確になった
1582年(天正10年)、信長と家康は武田勝頼を攻める甲州征伐で協力しました。
この戦いによって武田氏は滅亡し、家康は新たに駿河国を領有することになります。
家康の駿河領有は、信長による武田旧領の処分と深く関わっていました。
その後、家康は信長の居城である安土城を訪れ、手厚い接待を受けています。
こうした出来事からは、家康が独自の領国を持ちながらも、信長の政治的・軍事的な優位を認める立場にあったことがうかがえます。
歴史研究家の谷口克広氏も、著書『信長と家康の軍事同盟』で、同盟関係が後年に従属的な関係へ変化した過程を検討しています。
したがって、家康は当初から信長の家臣だったとはいえないものの、同盟後半には実質的な従属関係に近づいていたと整理できます。
次の章では、こうした同盟関係の中で二人が協力した姉川の戦いと長篠の戦いについて解説します。
徳川家康と織田信長が協力した戦い!姉川・長篠の戦い
徳川家康と織田信長の同盟は、外交上の協力だけでなく、実際の合戦でも大きな役割を果たしました。
特に有名なのが、1570年(元亀元年)の姉川の戦いと、1575年(天正3年)の長篠の戦いです。
どちらも信長と家康が協力して戦った合戦であり、清洲同盟が軍事面でも機能していたことを示す代表的な出来事といえます。
1570年の姉川の戦いでは浅井・朝倉連合軍と戦った
1570年(元亀元年)、織田信長は近江国の浅井長政、越前国の朝倉義景と対立し、徳川家康に援軍を求めました。
家康はこれに応じて軍勢を率い、織田軍とともに浅井・朝倉連合軍と戦います。
戦場となったのは、現在の滋賀県長浜市にある姉川周辺です。
一般に、織田軍は浅井軍と、徳川軍は朝倉軍と対峙したと伝えられています。
激しい戦闘の末、織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍を退けました。
この戦いは、家康が信長の要請に応じて軍事協力を行った代表的な事例です。
ただし、姉川で勝利したからといって、浅井氏や朝倉氏が直ちに滅亡したわけではありません。
信長はその後も両氏との戦いを続け、1573年(天正元年)に浅井氏と朝倉氏を滅ぼしました。
1575年の長篠の戦いでは武田勝頼の軍勢を破った
1575年(天正3年)、武田勝頼は三河国の長篠城を包囲しました。
長篠城は徳川方の奥平貞昌(後の奥平信昌)が守っており、家康にとって救援が必要な重要拠点でした。
家康は信長に援軍を求め、織田・徳川連合軍が武田軍と対決することになります。
同年5月21日、両軍は長篠城の西に位置する設楽原で激突しました。
織田・徳川連合軍は馬防柵や鉄砲を活用した防御陣地を築き、武田軍を迎え撃ちます。
また、徳川家臣の酒井忠次らによる別働隊が鳶ヶ巣山砦などを攻撃し、武田方の陣地を崩す作戦も行われました。
結果は織田・徳川連合軍の勝利となり、武田軍は多くの有力武将を失いました。
この敗北は武田氏に大きな打撃を与え、その後の勢力衰退につながりました。
長篠の戦いの鉄砲三段撃ちは史実なのか?
長篠の戦いといえば、信長が大量の鉄砲を三列に並べ、交代で発射させた「三段撃ち」が有名です。
しかし、近年の歴史研究では、この戦法が実際に行われたかどうかについて疑問が示されています。
『信長公記』には鉄砲を使用した記述がありますが、一般に知られる三千挺の鉄砲による三段撃ちを、そのまま裏付けるものではありません。
また、武田軍が騎馬隊だけで正面突撃を繰り返したという説明についても、慎重な検討が必要です。
現在では、鉄砲の使用に加えて、馬防柵や地形の利用、兵力差、別働隊の行動など、複数の要因が勝敗に影響したと考えられています。
そのため、長篠の戦いは鉄砲だけで勝ったのではなく、織田・徳川両軍の連携が重要だったと理解するのが適切でしょう。
二つの合戦は信長と家康の同盟関係を強めた
姉川の戦いでは家康が信長を支援し、長篠の戦いでは信長が家康を支援しました。
このように、二人の同盟は一方的な援助関係ではなく、それぞれの軍事的な必要に応じて協力する関係でもありました。
ただし、1570年代には信長の勢力が大きく拡大しており、両者の軍事的・政治的な力関係は対等とはいえなくなっていました。
それでも家康にとって、信長との同盟は武田氏などの強敵に対抗するうえで重要な支えとなりました。
ところが、長く続いた両者の協力関係の中で、1579年(天正7年)には家康の妻・築山殿と嫡男・信康をめぐる重大な事件が起こります。
次の章では、築山殿事件の経緯と、徳川家に起きた悲劇について解説します。
築山殿事件とは?家康の妻と信康に起きた悲劇
1579年(天正7年)、徳川家康の正室・築山殿が殺害され、嫡男の松平信康が切腹するという重大な事件が起こりました。
一般に「築山殿事件」や「信康事件」と呼ばれ、徳川家の後継者問題にも大きな影響を与えた出来事です。
この事件には織田信長が関与したという説が古くからありますが、具体的な経緯や原因には不明な点が残されています。
まずは、築山殿と信康がどのような人物だったのか、そして1579年に何が起こったのかを整理します。

1579年、家康の正室・築山殿と嫡男・松平信康が相次いで命を落とした(イメージ画像)。
築山殿は家康の正室で今川氏と関係の深い女性だった
築山殿(つきやまどの)は、徳川家康が今川氏のもとにいた時代に迎えた正室です。
瀬名姫とも呼ばれ、今川氏の一族と深い関係を持つ家柄の出身でした。
家康と築山殿の間には、長男の信康と長女の亀姫が生まれています。
しかし、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、家康が今川氏からの自立を進めると、築山殿を取り巻く政治的な環境も変化しました。
今川氏との関係が深い築山殿にとって、家康が織田信長と同盟を結んだことは、実家につながる勢力との関係が変わることを意味しました。
ただし、この政治的な変化だけを理由に、築山殿と家康の夫婦関係が悪化したと断定することはできません。
松平信康は家康の嫡男で織田信長の娘を妻に迎えていた
松平信康は1559年(永禄2年)に生まれた家康の長男で、徳川家の後継者として期待されていました。
信康は岡崎城を拠点とし、三河の家臣団とともに徳川家の軍事活動にも関わりました。
また、信康は織田信長の娘・徳姫を妻に迎えています。
この婚姻は、徳川家と織田家の結びつきを強めるものであり、両家の同盟関係を象徴する出来事でした。
つまり、信康は徳川家の後継者であると同時に、織田家とも婚姻関係で結ばれた重要な人物だったのです。
その信康が若くして切腹することになったため、事件の原因をめぐって後世までさまざまな説が語られるようになりました。
1579年に築山殿が殺害され信康は切腹した
1579年(天正7年)、徳川家の内部で築山殿と信康をめぐる問題が表面化しました。
同年8月29日、築山殿は遠江国の佐鳴湖周辺で殺害されたと伝えられています。
さらに9月15日には、信康が遠江国の二俣城で切腹しました。
信康は数え年21歳という若さでした。
この出来事について、江戸時代に編纂された徳川家関係の歴史書などでは、築山殿が武田氏と内通し、信康にも問題行動があったとする説明が見られます。
また、信康の妻である徳姫が父の織田信長に訴え、それが事件につながったという話も知られています。
しかし、これらの説明には後世の記録に依存する部分があり、すべてを確実な史実として扱うことはできません。
築山殿が殺害され、信康が切腹したことと、その原因が何だったのかは区別して考える必要があります。
では、信康の切腹は本当に織田信長の命令によるものだったのでしょうか。
次の章では、信長の命令説と、徳川家内部の対立を重視する見解について詳しく解説します。
信康の切腹は織田信長の命令だった?事件の真相と諸説
徳川家康の嫡男・松平信康が切腹した理由については、織田信長の命令だったという説が広く知られています。
しかし、信長が直接切腹を命じたことを明確に示す同時代の史料は確認されておらず、事件の真相には不明な点が残されています。
近年は、徳川家内部の対立や、家康と信康の政治的な関係に注目する研究もあります。
そのため、信康の切腹を単純に「信長の命令に家康が従った事件」と断定することはできません。
従来の説では信長が信康の切腹を命じたとされる
古くから伝えられてきたのは、信康の妻・徳姫が父の織田信長に訴え、それを受けた信長が信康の処分を求めたという説です。
この説明では、徳姫が信康の粗暴な振る舞いや、築山殿による武田氏との内通などを訴えたとされています。
信長は徳川家の重臣・酒井忠次に事情を確認し、最終的に信康の切腹を認めた、あるいは命じたと伝えられています。
そして家康は、織田家との同盟を守るため、やむなく妻と嫡男を失う決断をしたという筋書きです。
この話は江戸時代に編纂された徳川家関係の歴史書などを通じて広く知られるようになりました。
ただし、徳姫の訴えの具体的な内容や、信長が切腹を命じたという経緯には、後世の記録によって伝えられている部分があります。
したがって、従来の説は事件を理解するうえで重要ですが、そのまま確定した史実とすることには慎重さが必要です。
近年は家康と信康の対立を重視する説もある
一方、近年の研究では、信康の切腹について徳川家内部の事情を重視する見解があります。
信康は岡崎城を拠点とし、三河の家臣団と関わりながら活動していました。
これに対し、家康は浜松城を拠点として遠江方面の支配を進めており、父子の周囲には異なる家臣たちが集まっていました。
こうした状況から、徳川家の内部で政治的な対立が生じ、信康の処分につながった可能性が指摘されています。
また、家康自身が信康の行動を問題視し、処分を決断したのではないかという見解もあります。
ただし、家康と信康の対立が事件の直接的な原因だったと確定できるわけでもありません。
父子の対立説についても、史料の記述をどのように解釈するかによって評価が分かれています。
『信長公記』などの史料から何がわかるのか?
『三河物語』には、織田信長が酒井忠次に信康の問題を問いただし、切腹を求めたとする記述があります。
ただし、同書は事件から数十年後に成立した史料です。
信長の命令説には史料上の根拠があるものの、事件の全容が確定しているわけではありません。
信康事件を考えるうえで重要なのが、当時の出来事に近い時期に成立した史料と、後世に編纂された記録を区別することです。
織田信長の事績を記した『信長公記』には、信康が切腹に至った詳しい事情や、信長による直接の切腹命令を明確に示す記述はありません。
一方、徳川家の歴史を伝える『三河物語』には、信康の処分をめぐる記述があり、事件を考えるうえで重要な史料となっています。
しかし、『三河物語』も事件から数十年後に成立した記録であり、記述内容の検討が必要です。
また、信長と家康の間でどのような交渉が行われたのか、その詳細を明らかにする同時代の記録は限られています。
つまり、信康が1579年に切腹した事実は確認できても、誰が最終的に処分を主導したのかは断定できないのです。
信康事件は信長と家康の同盟関係に何を示しているのか?
信康事件は、信長と家康の力関係を考えるうえでも重要です。
もし信長が信康の処分を強く求め、家康がそれに従ったのであれば、当時の信長が家康に対して大きな影響力を持っていたことを示します。
一方、家康が徳川家内部の問題として処分を主導したのであれば、事件の意味は大きく変わります。
ただし、いずれの説を採る場合でも、信康の切腹後に織田家と徳川家の同盟が解消されたわけではありません。
両者はその後も協力関係を維持し、1582年(天正10年)の武田氏攻めでも連携しています。
このことから、信康事件は両家の関係に関わる重大な出来事でありながら、同盟そのものを終わらせる結果にはならなかったといえます。
次の章では、信長と家康の年齢差や、二人の関係を伝える逸話について見ていきます。
徳川家康と織田信長の年齢差は?二人の関係と逸話
徳川家康と織田信長の年齢差は、9歳です。
織田信長は1534年(天文3年)、徳川家康は1542年(天文11年)12月26日に生まれました。
家康の誕生日を西暦に換算すると1543年1月31日となるため、資料によって1542年生まれ、1543年生まれという表記の違いがあります。
二人の年齢差は約8年半で、信長が年上です。
清洲同盟が成立したとされる1562年には、信長が数え年29歳、家康が数え年21歳でした。
二人は戦国時代を生きた同盟者でしたが、その関係には年齢差だけでなく、領国の規模や政治的な立場の違いも影響していました。
信長は1534年生まれ、家康は1543年生まれ
織田信長は1534年に尾張国で生まれ、若くして織田家の家督を継ぎました。
一方、徳川家康は1543年に三河国岡崎城で生まれ、幼少期には織田氏や今川氏のもとで人質として過ごした時期がありました。
二人の年齢を主な出来事とともに整理すると、次のようになります。
| 出来事 | 織田信長 | 徳川家康 |
|---|---|---|
| 1542年(天文11年)・家康誕生 | 数え年9歳 | 数え年1歳 |
| 1560年・桶狭間の戦い | 数え年27歳 | 数え年19歳 |
| 1562年・清洲同盟成立とされる年 | 数え年29歳 | 数え年21歳 |
| 1575年・長篠の戦い | 数え年42歳 | 数え年34歳 |
| 1582年・本能寺の変 | 数え年49歳 | 数え年41歳 |
この表からもわかるように、二人は約20年間の同盟関係を通じて、ともに戦国大名としての地位を高めていきました。
家康は幼少期に織田氏の人質となっていた
家康は幼少期、松平竹千代と名乗っていました。
当時の松平氏は、尾張の織田氏と駿河の今川氏という有力勢力の間に置かれ、難しい立場にありました。
竹千代は今川氏のもとへ送られる途中で織田方に渡され、尾張で人質生活を送ったと伝えられています。
この時期の信長もまだ若く、後に天下統一を目指す大名になる前のことでした。
信長と竹千代が幼少期に直接会ったという話もありますが、二人の交流を具体的に示す確実な史料は限られています。
そのため、幼いころから二人が親友だったという説明は、史実として断定しない方が適切です。
信長と家康は親友だった?二人の関係を伝える逸話
信長と家康については、若いころから互いを認め合っていたという逸話が語られることがあります。
しかし、二人が同盟を結んだ背景には、前述したように尾張と三河の安全を確保するという政治的・軍事的な事情がありました。
また、信長が家康を一方的に従わせていたという印象も、同盟成立当初の関係をそのまま表すものではありません。
信長は家康より年上で、後年には圧倒的な勢力を持つようになりましたが、家康も独自の領国と家臣団を維持していました。
1582年(天正10年)には、家康が安土城を訪問し、信長から盛大な接待を受けたことが知られています。
このとき、明智光秀が接待役を務めたとする記録もあります。
こうした出来事は両者の関係を考える手がかりになりますが、信長と家康の個人的な感情まで正確に知ることはできません。
二人の関係は、親友か主従かという単純な区分ではなく、時代とともに変化した政治的な同盟関係として理解することが大切です。
ところが、長く続いた同盟は1582年の本能寺の変によって突然終わりを迎えます。
次の章では、信長の死によって家康がどのような危機に直面したのか、有名な「伊賀越え」とともに解説します。
本能寺の変で同盟はどうなった?家康の伊賀越え
1582年(天正10年)6月2日、織田信長は家臣の明智光秀に襲撃され、京都の本能寺で命を落としました。
この本能寺の変によって、約20年間続いた織田信長と徳川家康の同盟関係は、突然終わりを迎えます。
当時、家康は少数の供を連れて畿内を訪れており、信長の死を知ると、自らの領国へ戻るため危険な道を進むことになりました。
この脱出行が、徳川家康の「伊賀越え」と呼ばれる出来事です。
本能寺の変が起きたとき家康は堺を訪れていた
1582年、織田信長と徳川家康は協力して武田勝頼を攻め、武田氏を滅ぼしました。
その後、家康は信長から駿河国の領有を認められ、謝礼のため安土城を訪問しています。
信長は家康を手厚くもてなし、その後、家康は京都や堺などを見物するため畿内に滞在していました。
本能寺の変が起こった6月2日、家康は堺から京都方面へ移動する途中、和泉国の堺近辺にいたとする説明が一般的です。
ただし、変の知らせを受けた正確な場所については、史料によって記述に違いがあります。
信長が討たれたことで、家康は後ろ盾となっていた有力な同盟者を失いました。
さらに、明智光秀の軍勢や各地の武装勢力に襲われる危険もあり、急いで三河へ帰国する必要が生じたのです。

本能寺の変で信長を失った家康は、伊賀を経由して三河への帰還を目指した(イメージ画像)。
家康は伊賀・伊勢を通って三河へ脱出した
*家康は甲賀・伊賀の人々などの協力を受けながら危険な道を進み、6月4日には三河の岡崎城へ帰還したとされています。
家康は本能寺の変を知ると、京都方面への移動を断念し、三河への帰還を目指しました。
その際に選んだとされるのが、山城・近江方面から伊賀を通り、伊勢へ抜ける経路です。
伊賀の山間部は道が険しく、当時の家康にとって安全が保証された地域ではありませんでした。
家康に同行した人物としては、本多忠勝、酒井忠次、石川数正、井伊直政、服部半蔵などの名が伝えられています。
ただし、同行者の人数や全員の顔ぶれ、実際に通った細かな道筋には諸説があります。
一行は伊賀を越えて伊勢へ向かい、伊勢湾を船で渡って三河へ帰還したとされています。
伊賀越えは、信長の死によって敵地に取り残された家康が、少数の供とともに領国へ帰還した危険な脱出行でした。
服部半蔵や伊賀の人々が家康を助けたという伝承
家康の伊賀越えでは、服部半蔵が活躍したという話が有名です。
服部半蔵正成は徳川家に仕えた武将で、伊賀とのつながりを持つ人物として知られています。
後世には、半蔵が伊賀の人々に協力を求め、家康一行を安全に通過させたという逸話が広まりました。
また、伊賀や甲賀の人々が道案内や警護に協力したという伝承もあります。
ただし、こうした逸話の具体的な内容には、後世に脚色された可能性があるため注意が必要です。
伊賀越えそのものは家康の生涯における重要な出来事ですが、服部半蔵がどのような役割を果たしたのかについては、史実と伝承を区別して考える必要があります。
信長の死は家康の勢力拡大につながる転機となった
家康が三河へ帰還した後、織田信長の死によって各地の政治情勢は大きく変化しました。
特に、同年に滅亡した武田氏の旧領である甲斐・信濃・上野では、支配体制が不安定になります。
家康はこの機会に甲斐・信濃方面への進出を図り、北条氏直らと対立しました。
この一連の争いは「天正壬午の乱」と呼ばれています。
その後、家康は北条氏との和睦などを経て、甲斐・信濃にも勢力を広げ、三河・遠江・駿河と合わせて五か国を支配する大名へと成長しました。
信長の死は家康にとって大きな危機でしたが、結果的には自らの勢力を拡大する契機にもなったのです。
こうして、清洲同盟から本能寺の変まで続いた信長と家康の関係は幕を閉じ、家康は新たな政治情勢の中で独自の道を歩み始めました。
次の章では、二人の関係を主な出来事とともに年表で振り返ります。
徳川家康と織田信長の関係を年表で整理
徳川家康と織田信長の関係は、1560年(永禄3年)の桶狭間の戦いをきっかけに大きく変化しました。
それまで敵対する勢力に属していた二人は、清洲同盟を通じて協力関係を築き、姉川の戦いや長篠の戦いなどでともに戦います。
しかし、信長の勢力が拡大するにつれて、両者の力関係にも変化が生じました。
ここでは、約20年間続いた織田信長と徳川家康の同盟関係を、主な出来事とともに年表で振り返ります。
織田信長と徳川家康の関係年表【1560年~1582年】
| 年代 | 主な出来事 | 信長と家康の関係 |
|---|---|---|
| 1560年(永禄3年) | 桶狭間の戦いで今川義元が討たれる | 今川方にいた松平元康が岡崎城へ戻り、自立への道を歩み始める |
| 1561年(永禄4年)ごろ | 織田氏と松平氏の和睦が進む | 敵対関係から協力関係へと変化し始める |
| 1562年(永禄5年)ごろ | 清洲同盟が成立したとされる | 信長と元康が同盟関係を築く |
| 1563年(永禄6年) | 元康が家康と改名する | 家康は三河の支配を固めながら信長との協力を維持する |
| 1567年(永禄10年) | 信康と信長の娘・徳姫が婚姻する | 婚姻関係によって両家の結びつきが強まる |
| 1570年(元亀元年) | 姉川の戦い | 織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍と戦う |
| 1572年(元亀3年) | 三方ヶ原の戦い | 家康が武田信玄に敗れる。織田方の援軍も参加していた |
| 1575年(天正3年) | 長篠の戦い | 織田・徳川連合軍が武田勝頼の軍勢を破る |
| 1579年(天正7年) | 築山殿の殺害と松平信康の切腹 | 事件への信長の関与については諸説がある |
| 1582年(天正10年)3月 | 甲州征伐で武田氏が滅亡 | 信長と家康が協力し、家康は駿河国を領有する |
| 1582年(天正10年)5月 | 家康が安土城を訪問 | 信長が家康を手厚く接待する |
| 1582年(天正10年)6月2日 | 本能寺の変 | 信長が明智光秀に襲撃されて死去。同盟関係が終わる |
| 1582年(天正10年)6月 | 家康の伊賀越え | 家康が畿内から三河へ帰還し、信長亡き後の情勢に対応する |
約20年間の同盟は家康の勢力拡大を支えた
年表を見ると、信長と家康の関係が単なる一時的な協力ではなかったことがわかります。
信長は美濃や畿内へ進出し、家康は三河・遠江・駿河へと領国を広げました。
その間、二人は共通の敵と戦い、婚姻によって両家の関係を強めています。
一方で、信長の勢力拡大に伴い、当初の同盟関係には政治的・軍事的な力の差が生じました。
また、1579年の信康事件のように、両家の関係を考えるうえで解釈の分かれる出来事もありました。
それでも、織田・徳川の協力関係は1582年の本能寺の変まで維持されました。
信長の死後、家康は独自の勢力拡大を進め、やがて豊臣秀吉との対立や協調を経て、江戸幕府を開くことになります。
このように、清洲同盟から本能寺の変までの歩みは、家康が戦国大名から天下人へと成長する過程を考えるうえでも重要な歴史といえるでしょう。
まとめ|徳川家康と織田信長の関係は約20年間続いた同盟だった
徳川家康と織田信長は、戦国時代に約20年間にわたって協力関係を築いた大名同士でした。
1562年ごろに成立したとされる清洲同盟によって、信長は美濃方面への進出を進め、家康は三河の支配を固めることができました。
二人の関係を振り返ると、次の点が重要です。
- 信長と家康は、もともと独立した戦国大名同士の同盟者だった。
- 清洲同盟は1562年ごろに成立したとされるが、正確な成立時期には議論がある。
- 姉川の戦いや長篠の戦いでは、織田・徳川両軍が協力して戦った。
- 1579年の築山殿・信康事件については、信長の命令説など複数の見解がある。
- 信長は家康より8歳半年上で、後年には政治的・軍事的な力の差が大きくなった。
- 1582年の本能寺の変によって、両者の同盟関係は終わりを迎えた。
特に重要なのは、家康が最初から信長の家臣だったわけではないという点です。
当初は互いの利益を守るための同盟でしたが、信長の勢力拡大に伴い、家康の立場は次第に従属的な性格を強めていきました。
それでも両者は協力関係を維持し、武田氏との戦いなどで成果を上げています。
清洲同盟は、家康が戦国大名として勢力を拡大するうえで重要な役割を果たした同盟だったといえるでしょう。
そして信長の死後、家康は新たな政治情勢の中で勢力を広げ、やがて天下統一へと歩みを進めることになります。
参考資料・参考文献
この記事は、以下の歴史史料・研究書などを参考に、徳川家康と織田信長の関係、清洲同盟、信康事件について整理したものです。
- 太田牛一『信長公記』
- 大久保彦左衛門『三河物語』
- 『徳川実紀』(『東照宮御実紀』など)
- 『武徳編年集成』
- 谷口克広『信長と家康の軍事同盟―利害と戦略の二十一年』吉川弘文館
- 谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで』中央公論新社
- 平山優『徳川家康と武田信玄』KADOKAWA
なお、清洲同盟の成立時期や信康事件の原因については、史料の解釈によって研究者の見解が分かれています。
本文では、史実として確認できる出来事と、後世に伝わる逸話・諸説を区別して紹介しています。


















