前田利家の兜・甲冑・槍を解説!本物はどこ?槍の名前や長さも紹介

前田利家の兜や甲冑は、どのような姿をしていたのでしょうか。
利家といえば、独特な形をした金色の兜や、「槍の又左」と呼ばれた槍の名手として知られています。
では、その兜や甲冑の本物は現在も残っているのでしょうか。また、利家が使った槍には名前があり、どれほどの長さだったのでしょうか。
戦国武将の武具には、実際に使われた品だけでなく、後世に伝わった逸話や復元品もあります。
この記事では、前田利家の兜・甲冑・槍の特徴を整理し、実物の所在や槍の名前・長さ、武具にまつわる逸話まで、史料で確認できる範囲をもとにわかりやすく解説します。
前田利家の兜はどんな形?名前と特徴を解説
前田利家の兜といえば、金色に輝く細長い形を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。
利家の兜は「金の鯰尾兜」と呼ばれることがありますが、現存する代表的な甲冑に付属する兜は「金箔押熨斗烏帽子形兜」と呼ばれています。
*読み方:鯰尾兜(なまずおかぶと)
烏帽子とは、かつて男性が頭にかぶっていた帽子の一種です。
その烏帽子を長く伸ばしたような形が、利家の兜の大きな特徴でした。
金色の装飾と上方へ長く伸びる独特な形が、前田利家の兜を印象づけています。

上方へ細長く伸びる熨斗烏帽子形兜の特徴を表現した画像。
前田利家の兜の名前は「金箔押熨斗烏帽子形兜」
前田利家の代表的な兜は、金箔押熨斗烏帽子形兜(きんぱくおしのしえぼしなりかぶと)と呼ばれています。
「金箔押」は表面に金箔を施したこと、「烏帽子形」は烏帽子に似た形を意味します。
この兜は、金色の甲冑と組み合わせた姿で伝わっています。
特徴的なのは、その高さです。
文化庁の国指定文化財等データベースによると、利家所用と伝わる重要文化財「金小札白絲素懸威胴丸具足」の兜の高さは68.5cmあります。
一般的な兜とはかなり印象が異なる、縦に長い形です。
戦国時代には、武将が個性的な形の兜を身につけることがあり、こうした兜は「変わり兜」と呼ばれています。
利家の兜も、戦場でひときわ目を引く変わり兜の一つだったのです。
金色の兜はなぜ目立つ形をしていた?
戦国時代の武将にとって、兜は頭を守る防具であると同時に、自分の存在を示す役割もありました。
特に大将や有力武将は、敵味方から見分けやすいように、甲冑や兜の形に工夫を凝らしました。
金色に輝く利家の兜も、そうした戦国時代の武具の特徴をよく表しています。
遠くからでも目立つ姿は、味方に自分の位置を知らせ、武将としての威厳を示す効果があったと考えられます。
ただし、利家本人がどのような意図でこの形を選んだのか、詳しい理由まではわかっていません。
また、利家の兜は「鯰尾兜」(なまずおかぶと)と紹介されることもあります。
鯰尾兜とは、魚のナマズの尾を思わせる形の兜です。
前田家には鯰尾形の兜が複数伝わっており、利家の兜も広い意味でそのように呼ばれる場合があります。
しかし、現存する代表的な金色の兜については、文化財の名称に従って「熨斗烏帽子形兜」と呼ぶのが正確です。
「金の鯰尾兜」という通称と、文化財としての正式な名称は区別しておきたいところですね。
それにしても、高さ68.5cmという兜を実際に身につけた姿は、どれほど迫力があったのでしょうか。
次の章では、この兜の本物が現在も残っているのか、詳しく紹介します。
前田利家の兜の本物は現存する?
前田利家が使ったと伝わる兜は、現在も残されています。
代表的なものが、重要文化財「金小札白糸素懸威胴丸具足(きんこざねしろいとすがけおどしどうまるぐそく)」に付属する金色の兜です。
また、石川県金沢市の尾山神社にも、利家所用と伝わる鯰尾形(なまずおなり)の兜が伝えられています。
ただし、いずれも常設展示されているとは限らず、現地へ行けば必ず見られるわけではありません。
実物を見たい場合は、所蔵先と展示状況を分けて確認することが大切です。
前田育徳会に伝わる重要文化財の金色の兜
前田利家所用と伝わる代表的な甲冑が、重要文化財「金小札白糸素懸威胴丸具足」です。
金色の小札を白い糸で威した華やかな甲冑で、上方へ長く伸びた金箔押熨斗烏帽子形兜を備えています。
文化庁の国指定文化財等データベースによると、兜の高さは68.5cmです。
この甲冑は前田家にゆかりのある品として伝来し、現在は公益財団法人前田育徳会が所有しています。
前田育徳会は、旧加賀藩主前田家に伝わった文化財や歴史資料を保存・研究する団体です。
ただし、所蔵されていることと、常時公開されていることは別です。
実物を見学したい場合は、博物館などで特別公開や企画展示が行われていないか確認する必要があります。
尾山神社にも利家所用と伝わる鯰尾形の兜がある
石川県金沢市の尾山神社にも、前田利家にゆかりのある兜が伝えられています。
尾山神社は前田利家と正室まつを祀る神社で、境内には利家に関する史跡や記念物があります。
尾山神社に祀られている前田利家と正室まつは、戦国時代をともに歩んだ夫婦として知られています。二人の結婚や年齢差、夫婦仲については、前田利家とまつの夫婦仲は?年齢差や結婚・子供と有名な逸話で詳しく紹介しています。
神社の宝物として紹介されているのが、利家所用と伝わる大小の鯰尾形の兜です。
鯰尾形兜とは、ナマズの尾を思わせる独特な形をした兜を指します。
前田育徳会に伝わる金色の熨斗烏帽子形兜とは、名称や伝来を区別して考える必要があります。
また、尾山神社の公式案内では、これらの兜は一般公開されていないとされています。
そのため、神社を参拝すれば必ず本物の兜を見られるというわけではありません。
利家ゆかりの兜が現存することと、観光で実物を見学できることは別の話なのですね。
なお、博物館などで見かける利家の兜には、復元品や複製品もあります。
実物か復元品かを確認する際は、展示解説にある「所用」「伝来」「模造」「復元」などの表記にも注目するとよいでしょう。
前田利家の甲冑はどんな姿?特徴と種類
前田利家の甲冑といえば、金色に輝く豪華な鎧兜が有名です。
その代表が、重要文化財に指定されている「金小札白糸素懸威胴丸具足(きんこざねしろいとすがけおどしどうまるぐそく)」です。
安土桃山時代に作られた甲冑で、前田利家が使用したものと伝えられています。
最大の特徴は、兜だけでなく、胴や腰を守る部分にも金色の装飾が施されていることです。
前田利家の代表的な甲冑は、金色の華やかさと、戦いに用いる鎧としての構造を兼ね備えた具足でした。

金色の小札と白い威糸の組み合わせを表現した甲冑の細部。
金小札白糸素懸威胴丸具足とは?
この甲冑の長い名前には、使われている材料や作り方が表されています。
「小札(こざね)」とは、鎧を構成する小さな板のことです。
「威(おどし)」は、小札などを糸や革紐でつなぎ合わせる技法を指します。
そして「白糸素懸威」は、白い糸を使い、間隔をあけてつなぎ合わせた作りを意味します。
胴の部分には金箔を施した小札が使われ、白い糸との組み合わせによって、華やかな姿に仕上げられています。
一方、「胴丸(どうまる)」は、胴体を包むように守る鎧の形式です。
利家の甲冑は、こうした伝統的な鎧の技法を用いながら、安土桃山時代らしい豪華な装飾を取り入れています。
文化庁の資料によると、この甲冑の胴の高さは前面で35cm、胴回りは87.5cmです。
また、組み合わされた兜の高さは68.5cmあります。
細長い金色の兜と、金箔を施した胴が組み合わさることで、非常に印象的な姿になっているのです。
金色の甲冑は戦場でも使われたのか?
これほど華やかな甲冑を見ると、儀式や飾りのために作られたものではないかと思うかもしれません。
しかし、前田利家の金色の甲冑には
「末森城の戦いで利家が使用したと伝わる」
とする伝来が残されています。
文化庁の国指定文化財等データベースには、甲冑を納めた櫃の由緒書についての説明があります。
それによると、1584年(天正12年)の末森城の戦いで功績を挙げた奥村永福に対し、利家がその日に使用した鎧兜などを褒美として与えたとされています。
その後、甲冑は奥村家から加賀前田家へ献上され、伝えられました。
ただし、これは伝来を記した由緒書に基づくものであり、戦場での着用状況が直接確認されているわけではありません。
それでも、利家の甲冑が単なる装飾品ではなく、合戦に関わる武具として伝えられてきたことは興味深いところです。
金色に輝く甲冑を身につけた利家の姿は、戦場でもひときわ目立ったことでしょう。
次の章では、この甲冑の本物が現在どこに所蔵されているのか、見学できる場所とあわせて紹介します。
前田利家の甲冑の本物はどこにある?
前田利家が使用したと伝わる甲冑の本物は、現在も残されています。
代表的なのが、重要文化財「金小札白糸素懸威胴丸具足(きんこざねしろいとすがけおどしどうまるぐそく)」です。
この甲冑は、東京都目黒区にある公益財団法人前田育徳会が所蔵しています。
前田育徳会は、旧加賀藩主前田家に伝わった歴史資料や美術工芸品を保存・研究する団体です。
利家の甲冑は現存していますが、いつでも自由に見学できる常設展示品ではありません。
実物を見たい場合は、博物館などで開催される特別展の情報を確認する必要があります。
重要文化財の甲冑は東京都の前田育徳会が所蔵
文化庁の国指定文化財等データベースによると、「金小札白糸素懸威胴丸具足」の所有者と保管施設は、公益財団法人前田育徳会です。
所在地は東京都目黒区駒場4丁目3番55号となっています。
この甲冑は安土桃山時代の作品で、1964年(昭和39年)1月28日に重要文化財に指定されました。
前田利家所用と伝わる金色の甲冑で、細長い熨斗烏帽子形の兜を備えています。
ただし、前田育徳会の所在地がわかっていても、一般の博物館のように常時展示されているとは限りません。
「所蔵されている場所」と「実物を公開している場所」は別なので、見学を目的に訪れる際には注意が必要です。
2026年には東京国立博物館の特別展で公開された
前田利家の甲冑は、2026年に東京国立博物館で開催された特別展でも公開されました。
展覧会の名称は、前田育徳会創立百周年記念「百万石!加賀前田家」です。
開催期間は2026年4月14日から6月7日までで、会場は東京国立博物館の平成館でした。
この展覧会では、前田利家所用と伝わる重要文化財「金小札白糸素懸威胴丸具足」が展示されました。
さらに、加賀前田家の歴代当主にゆかりのある甲冑や陣羽織なども紹介されています。
前田家に伝わる武具や文化財は、歴代当主が受け継いできた歴史とも深く関わっています。加賀前田家の家系図や歴代当主、現在につながる子孫については、前田利家の子孫は現在誰?前田家の家系図と末裔・東大赤門との関係で詳しく紹介しています。
金色に輝く利家の甲冑を、ほかの前田家の武具と比較できる貴重な機会だったわけです。
ただし、この展覧会は2026年6月7日に終了しています。
今後の公開予定については、東京国立博物館や前田育徳会などの公式情報を確認する必要があります。
なお、展示会場で見かける甲冑には、実物だけでなく復元品や複製品もあります。
利家の甲冑を見学する際には、展示解説にある「重要文化財」「前田育徳会蔵」「前田利家所用」といった表記を確認するとよいでしょう。
400年以上前の武将の甲冑が、現在まで大切に受け継がれているというのは興味深いですね。
前田利家の槍の名前は?「槍の又左」の由来
前田利家は、槍の名手として「槍の又左(やりのまたざ)」と呼ばれた戦国武将です。
では、利家が愛用した槍には、どのような名前が付いていたのでしょうか。
実は、利家の槍については、刀剣のように広く知られた固有の名前が確認されているわけではありません。
「槍の又左」は武器の名前ではなく、前田利家本人を指す異名です。
利家は若い頃から槍を使った戦いで武功を挙げ、その勇ましい姿が後世まで語り継がれました。
「槍の又左」は前田利家の異名だった
前田利家は、又左衛門(またざえもん)という通称を名乗っていました。
「槍の又左」という異名は、この又左衛門という名前と、槍を使った武勇に由来します。
若い頃の利家は、派手な服装や奇抜な振る舞いを好む「かぶき者」としても知られていました。
その一方で、戦場では勇敢に戦い、織田信長の家臣として武功を重ねていきます。
名古屋市中川区の公式サイトでも、利家は若年の頃から武勇に優れ、「槍の又左」と呼ばれた人物として紹介されています。
また、利家は後に織田信長の赤母衣衆(あかほろしゅう)の筆頭として活躍しました。
「槍の又左」という呼び名には、若き日の利家の勇猛さと、槍の名手としての評判が表れているのです。
加賀百万石の礎を築いた大名としての姿とは、また違った利家の一面が見えてきますね。
前田利家の愛槍には名前があったのか?
戦国武将の武器には、刀剣のように特別な名前で呼ばれるものがあります。
しかし、前田利家が使った槍については、特定の固有名を持つ愛槍が確実に伝わっているわけではありません。
利家の槍として有名なのは、長い柄を持ち、朱色に塗られていたとする槍です。
朱色の槍は「朱槍(しゅやり)」と呼ばれますが、これは槍の色や外観を表す言葉であり、利家の槍だけに付けられた固有名ではありません。
また、利家が三間半という長さの槍を使ったとする逸話も伝わっています。
ただし、こうした槍の特徴は伝承による部分があり、利家が使用した槍の現物と照らし合わせて確認できるわけではありません。
「槍の又左」という異名は確かに知られていますが、愛槍の正式な名前まで判明しているわけではないのです。
それでも、槍の名手としての利家の評判は、江戸時代以降の武者絵などにも受け継がれました。
次の章では、利家が使ったと伝わる槍の長さや、三間半の長槍について詳しく紹介します。
前田利家の槍の長さは?三間半の長槍とは
前田利家が使った槍は、三間半(さんげんはん)という非常に長いものだったと伝えられています。
一間を約1.82メートルとして計算すると、三間半は約6.36メートルになります。
つまり、利家は約6メートル30センチもある長槍を使っていたとされるのです。
一般的な住宅の天井の高さが2.4メートル程度であることを考えると、その長さが想像できるのではないでしょうか。
ただし、利家が実際に使用した槍の現物は確認されておらず、三間半という長さも伝承に基づくものです。

利家が使ったと伝わる三間半の長槍。約6.36メートルに相当する長さをイメージした画像。
三間半の槍は約6.36メートルの長さ
戦国時代の槍には、短いものから非常に長いものまで、さまざまな種類がありました。
前田利家の槍として伝わる三間半は、現在の長さに換算すると約6.36メートルです。
長さを比較すると、次のようになります。
| 長さの単位 | 現在の長さの目安 |
|---|---|
| 一間 | 約1.82メートル |
| 二間 | 約3.64メートル |
| 三間 | 約5.45メートル |
| 三間半 | 約6.36メートル |
※一間を約1.818メートルとして換算した目安です。時代や地域によって一間の長さには違いがありました。
二間の槍と比較しても、三間半の槍は約2.7メートルも長くなります。
長い槍には、敵との距離を保ちながら攻撃できる利点がありました。
一方で、長くなるほど取り回しが難しくなり、狭い場所では扱いにくくなります。
約6.36メートルという長さは、個人が自由に振り回すには相当な技量を必要とするものだったでしょう。
若い頃の利家が「槍の又左」と呼ばれた背景には、こうした長槍を使いこなしたとする武勇伝も関係しています。
長い槍を使った戦い方と朱槍の逸話
戦国時代の長槍は、主に敵を突いたり、槍先をそろえて敵の接近を防いだりするために使われました。
長槍を持った兵士たちが集団で戦う場合には、槍の長さを生かして敵との距離を保つことができました。
ただし、利家がどのような構えや技を使って戦っていたのか、具体的な動作まではわかっていません。
また、利家の槍には、柄を朱色に塗っていたという逸話もあります。
朱色の槍は「朱槍(しゅやり)」と呼ばれ、戦場でも目立つ武器でした。
利家は若い頃、派手な服装や振る舞いを好む「かぶき者」としても知られています。
前田家には、利家と同じく「かぶき者」として知られる前田慶次もいました。二人の家系図上の関係や不仲説については、前田利家と前田慶次の関係は?叔父と甥の家系図と不仲説の真相で詳しく紹介しています。
そのため、長くて目立つ朱槍の逸話は、若き日の利家の人物像ともよく重なります。
もっとも、三間半の槍を使ったことや、その柄を朱色に塗っていたことについては、後世に伝えられた逸話として扱う必要があります。
「槍の又左」という異名は広く知られていますが、槍の正確な寸法や戦い方まで確定しているわけではありません。
それでも、長槍を手に戦場を駆けた利家の姿が、後世の人々に強い印象を残したことは間違いないでしょう。
次の章では、前田利家の兜・甲冑・槍にまつわる逸話を、史実との違いに注意しながら紹介します。
前田利家の兜・甲冑・槍にまつわる逸話
前田利家の兜や甲冑、槍には、戦国時代の合戦にまつわる興味深い逸話が残されています。
特に有名なのが、1584年(天正12年)の末森城の戦いに関する甲冑の伝来と、若い頃の朱槍を使った武勇伝です。
これらの話からは、利家が単に豪華な武具を好んだだけでなく、戦場での働きによって名を上げた武将だったことがうかがえます。
ただし、武具に残る由緒と、後世に語られた武勇伝では、史実として確認できる範囲が異なります。
ここでは、その違いにも注意しながら紹介します。
末森城の戦いで奥村永福に甲冑を与えたという伝来
前田利家の金色の甲冑には、末森城の戦いにまつわる由緒が残されています。
1584年(天正12年)、前田利家と佐々成政は、北陸地方で対立していました。
佐々成政の軍勢が能登の末森城を攻撃すると、城を守っていた奥村永福(おくむらながとみ)らは籠城して抵抗しました。
利家は救援に向かい、末森城を守ることに成功します。
この戦いは、前田家と佐々家の争いを語るうえで重要な出来事です。
文化庁の国指定文化財等データベースには、金小札白糸素懸威胴丸具足を納めた櫃の由緒書について記載されています。
それによると、利家は末森城を守った奥村永福の功績をたたえ、その日に使用したとされる鎧兜や武具を褒美として与えたと伝わっています。
その後、甲冑は奥村家から前田家へ献上され、現在まで伝えられました。
利家の金色の甲冑には、家臣の働きを評価したという前田家の歴史も重なっているのです。
ただし、この話は具足櫃の由緒書に基づく伝来です。利家が実際にその甲冑を着用して戦ったことまで、独立した史料によって確定しているわけではありません。
朱槍を手に戦った若き日の「槍の又左」
前田利家の武勇伝には、若い頃に朱色の長槍を使って戦ったという話もあります。
利家は織田信長に仕え、まだ若いうちから合戦に参加していました。
若い頃は「槍の又左」と呼ばれた前田利家ですが、その後は織田信長の重臣となり、加賀百万石の礎を築きました。前田利家はどんな人?何をした人か性格・生涯・年表でわかりやすく解説では、利家の人物像と功績を年表とともに紹介しています。
1552年(天文21年)の萱津の戦いでは、朱色に塗った長槍を持って戦い、武功を挙げたと伝えられています。
また、1556年(弘治2年)の稲生の戦いでは、顔に矢を受けながらも戦い続け、敵将を討ち取ったという勇猛な逸話があります。
こうした話は、若い頃の利家が恐れを知らない武者として語り継がれてきたことを示しています。
一方で、戦場での細かな会話や行動まで、すべてを確実な史実として扱うことはできません。
利家の姿は、江戸時代以降の武者絵にも描かれました。
例えば、歌川国綱による「佐枝犬千代合戦之図」には、馬に乗り、槍を手に戦う若き日の利家が表現されています。
ただし、こうした武者絵は後世の作品であり、利家が実際に使った槍の形や色を正確に再現したものとは限りません。
「槍の又左」の勇ましい姿は、史実に伝承や後世の創作が重なりながら、現在まで語り継がれてきたと考えるのが適切でしょう。
金色の甲冑をまとった大名としての姿と、朱槍を手に戦う若武者としての姿。
この二つを比べると、前田利家という人物の魅力が、いっそう伝わってくるように思います。
まとめ|前田利家の兜・甲冑・槍の特徴
前田利家の兜・甲冑・槍について、特徴や現存する武具、伝えられている逸話を紹介しました。
今回の内容をまとめると、次のようになります。
- 前田利家の代表的な兜には、金色の熨斗烏帽子形兜がある。
- 利家所用と伝わる重要文化財の甲冑は、前田育徳会が所蔵している。
- 尾山神社にも、利家所用と伝わる鯰尾形兜が残されている。
- 「槍の又左」は槍の名前ではなく、利家本人の異名である。
- 利家は三間半、現在の長さで約6.36メートルに相当する槍を使ったと伝えられている。
前田利家といえば、加賀百万石の礎を築いた大名として知られています。
しかし、若い頃は「槍の又左」と呼ばれるほど武勇に優れ、織田信長のもとで数々の合戦を経験した武将でもありました。
金色の甲冑は大名としての華やかさを、長槍の逸話は若き日の勇猛さを象徴しているようにも感じられます。
ただし、現存する武具にも伝来による部分があり、後世に語られた逸話と確実な史実は区別する必要があります。
前田利家の武具を知ることは、戦国武将としての生涯を理解するうえでも、興味深い入り口になるのではないでしょうか。
参考資料
- 文化庁「国指定文化財等データベース|金小札白絲素懸威胴丸具足」
- 文化遺産オンライン「金小札白絲素懸威胴丸具足」
- 東京国立博物館「前田育徳会創立百周年記念 特別展『百万石!加賀前田家』」
- 尾山神社公式サイト「尾山神社について・宝物紹介」
- 名古屋刀剣博物館「槍が描かれた浮世絵」
※記事内の人物画像はAIで生成したイメージです。実在の人物とは関係ありません。


















