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	<title>織田 信長 正室に関する記事一覧 &#8211; 駅と観光と言葉の情報</title>
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	<description>駅やそこからの観光や言葉の意味など発信します</description>
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		<title>織田信長の正室と側室と子供は何人？息子と娘の嫁ぎ先やその後の人生！</title>
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		<dc:creator><![CDATA[ekiblog]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 14 Jul 2021 21:05:41 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[歴史の疑問・由来]]></category>
		<category><![CDATA[織田 信長 側室]]></category>
		<category><![CDATA[織田 信長 子供 名前]]></category>
		<category><![CDATA[織田 信長 子女]]></category>
		<category><![CDATA[織田 信長 正室]]></category>
		<category><![CDATA[織田 信長 長男]]></category>
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					<description><![CDATA[織田信長の正室は濃姫で、側室は最愛の「吉乃」はじめ総勢6名で、長男信忠含め11男11女だと言われています。 わかる範囲で、本能寺後の子供の処遇や人生、...]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>織田信長の<strong>正室</strong>は濃姫で、<strong>側室</strong>は最愛の「吉乃」はじめ総勢6名で、<strong>長男</strong>信忠含め11男11女だと言われています。<br />
わかる範囲で、本能寺後の<strong>子供の処遇</strong>や人生、嫁ぎ先や、その後を調べてみたので紹介します。<br />
ただ、織田の奔流で、大名で通したのは「織田信雄」のみのようです。<br />
戦乱の世を生きた方の、人生は波乱ですね・まさに是非もなし・か！</p>

<p>&nbsp;</p>
<h3 class="style3a">織田信長の正室は濃姫（帰蝶）！子供はいなかった？</h3>
<p>&nbsp;</p>
<p><img fetchpriority="high" decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2696" src="https://www.subvertise.org/wp-content/uploads/2021/07/nouhimezou.jpg" alt="信長と濃姫像" width="640" height="427" /></p>
<p>織田信長公の正室は「<strong>濃姫</strong>」です。<br />
誰でもが知ってる？<br />
かもしれませんね。<br />
「麒麟が来る」<br />
では、川口春奈さんが、その役を行い、好評でしたから。</p>
<p>父は美濃の当主、蝮の道三こと「斎藤道三」で油売りから、一国の城主になった、立志伝中の人物。<br />
母は、斎藤道三の正室の「小見の方」と言われています。</p>
<p><strong>「麒麟が来る」</strong></p>
<p>では、明智光秀とは兄妹のような関係で書かれていますが、実際はどうなのでしょうか？<br />
父と同じイメージで、大変に度胸がいい女性で、印象が作られているような、そんな気がします。</p>
<p>子供はいませんでした。</p>
<p>*一説には娘がいたという説があるようですが、定かではないようです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h3 class="style3a">生駒吉乃（いこま きつの）は信長公が一番愛した女性！</h3>
<p>&nbsp;</p>
<p><img decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2697" src="https://www.subvertise.org/wp-content/uploads/2021/07/nobunagashasin.jpg" alt="信長像の写真" width="250" height="560" /><br />
（wikipediaより引用）</p>
<p>出自は尾張の豪族で「生駒家宗」の娘になります。<br />
夫は、土田弥平次という方ですが、1556年の戦で亡くなっていました。<br />
つまり・・夫を戦で亡くし、知り合った当時は「未亡人」・</p>
<p>その時「織田信長公」は20歳と言います。</p>
<p>信長公は、「吉乃」にはぞっこんで、周辺に正室に近い存在をまるで、PRするようにしていたそうな。<br />
信長の居城の小牧山城で、若くして「39歳」で亡くなりました。（年齢には諸説あります）<br />
信長公との間に、子供は２男１女の3人。<br />
以下に子の処遇を紹介します。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>吉乃と信長公の子供長男織田信忠のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>織田信忠は、織田信長公の子供の中では、一番の武将としては有能な人物で、1576年織田家の家督を相続。<br />
甲州征伐では、総大将を務めています。<br />
しかし・<br />
1582年：本能寺の変<br />
で、あえなく26歳で早世してしまいました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>吉乃と信長公の子供次男織田信雄のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>次男は「<strong>織田信雄</strong>」です。<br />
この方はいろいろ立ち回りはうまかったと、私は思います。</p>
<p>最初は伊勢の大名で「北畠具房」に養子に入り、北畠家の当主になります。<br />
が‥本能寺の変。<br />
その後、織田姓に復帰したんだな。<br />
この信雄は、その後の織田家の混乱では、「羽柴秀吉」方につきます。<br />
ここが、3男の「信孝」との明暗でした。</p>
<p>大坂夏の陣では今度は「徳川家康」に使えます。<br />
その後、天寿を全うして「73歳」まで生きました。<br />
家康公から功績で</p>
<p>「大和国宇陀郡、上野国甘楽郡などで5万石を与えられる。」</p>
<p>とあり、<strong>江戸時代大名として存続</strong>。<br />
織田家の潮流で、大名として存続したのは「織田信雄」のみです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>吉乃と信長公の長女徳姫のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>長女として徳姫が誕生しています。<br />
驚きましたが徳川家康の長男「松平信康」の側室に入っています。<br />
信康公との間に、二人の女の子が誕生しています。<br />
信康には「築山殿」という正室があって、政略的に婚約させたんですな～～</p>
<p>1579年松平信康は謀反の疑いで自害。<br />
その後、清洲に在住。<br />
徳川政権樹立時に、家康公から２千石の知行を与えられ、晩年は京都で過ごしたとあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>吉乃の菩提寺久昌寺が取り壊しに！630年以上の歴史に幕！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p><img decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-3653" src="https://www.subvertise.org/wp-content/uploads/2021/07/kyuushouji.jpg" alt="久昌寺の写真" width="450" height="300" /><br />
（久昌寺の写真：wikipediaより）</p>
<p>信長公が一番愛した女性「吉乃」の墓がある</p>
<p>「久昌寺」</p>
<p>が、近く取り壊されるというニュースです。<br />
歴史ファンには、ちょっと残念なニュースですね。<br />
今のうちならまだ見れます。<br />
アクセスは以下。</p>
<p><iframe loading="lazy" style="border: 0;" src="https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d3255.8641874230107!2d136.8729124503638!3d35.30935595778815!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x60030ba5bd8ab819%3A0x55d61645ce20d2bb!2z5aup5qGC5bGxIOS5heaYjOWvug!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1630115919929!5m2!1sja!2sjp" width="600" height="450" allowfullscreen="allowfullscreen"></iframe></p>
<p>こういう歴史があります。</p>
<p>至徳元年（1384年）に禅喜寺を創建したのが始まりで、その後寺号を龍徳寺に改称している。生駒氏が大和から移住してきた際に菩提寺となった。織田信長の側室であった生駒吉乃が永禄9年（1566年）に病没した際に、「久庵桂昌大禅定尼」の法名でこの寺にまつったことから、寺号が久昌寺に改められた。<br />
（wikipediaより）</p>
<p>現在の生駒さんは、宗教法人役員をされていて、弟19代生駒家当主として、いらっしゃるんですね。<br />
これは驚きです。</p>
<p>歴史の明かりが、一つ消えるようで、少し寂しいですね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h3 class="style3a">坂氏は三男織田信孝の母！</h3>
<p>&nbsp;</p>
<p><img decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2698" src="https://www.subvertise.org/wp-content/uploads/2021/07/gifujyou1.jpg" alt="清洲城の写真" width="640" height="416" /></p>
<p>出自は不明です。<br />
が・・伊勢の豪族の娘であることはわかっているようです。<br />
信孝が伊勢の神戸氏の養子に入ったことで、明白かと。</p>
<p>1558年に、3男の<br />
「織田信孝」<br />
が、誕生しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>坂氏（さかし）と信長公の三男信孝のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>「本能寺の変」<br />
の後に織田家は柴田勝家と羽柴秀吉側にわかれます。<br />
柴田勝家が「織田信孝」を後継に押すも、戦になり「賤ヶ岳の戦い」で敗れてしまいます。<br />
信孝もこれで、25歳で早世してしまいます。</p>
<p>権力闘争に敗れた、そんなことかと思います。<br />
ちなみにこの時に権力闘争で、羽柴秀吉に跡継ぎに押された織田信忠の長男の<br />
<strong>「三法師」</strong><br />
ですが、豊臣政権下では、1大名として使えています。<br />
しかし天下分け目の関ヶ原の戦では、西軍。<br />
その後改易され、高野山に流罪とされ２６歳で、この世を去りました。</p>

<p>&nbsp;</p>
<h3 class="style3a">養観院の子供は一男一女！</h3>
<p>&nbsp;</p>
<p>出自は不明です。<br />
本能寺の変の後、4男の羽柴秀勝が、丹波亀山城主になると、そこに移り住んだと言われています。<br />
病弱で体が弱かった、羽柴秀勝がなくなると、京都に移り住み名前のような<br />
「養観院」<br />
を名乗り、出家したとあります。</p>
<p>側室で子供は二人です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>養観院と信長公の四男秀勝のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>四男の「織田秀勝」は、羽柴秀吉がこの石松丸秀勝を亡くしたことで、羽柴家の養子に入り<br />
「羽柴秀勝」<br />
を名乗ります。<br />
「本能寺の変」<br />
の後の清洲会議で、丹波亀山城を与えられ、そこの城主となります。<br />
しかし、病気がちなため亀山城で病死したとあります。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>養観院と信長公の娘相応院のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>織田信長公にすれば「次女」になります。<br />
1569年、蒲生氏郷に嫁ぎます。<br />
何と蒲生氏郷はなくなった後に、豊臣秀吉は「相応院」を側室に迎える算段。<br />
しかし、相応院は貞節を守り、出家したため断念。<br />
なぜか、この時期蒲生家は92万石から、18万石に減らされます。</p>
<p>これが原因かもしれませんね。（一部ではそういわれています）</p>
<p>&nbsp;</p>
<h3 class="style3a">お鍋の方の子は二男一女！</h3>
<p>&nbsp;</p>
<p><img decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2699" src="https://www.subvertise.org/wp-content/uploads/2021/07/kiyosujyou1.jpg" alt="清洲城の写真" width="640" height="423" /></p>
<p>出自は近江の国の土豪で、高畑源十郎の娘というのが定説です。<br />
お鍋の方は、六角家の家臣で「小倉実房」に嫁いでいて、そちらにも二人の男児がいます。</p>
<p>夫の小倉氏は、信長に内応した罪で、六角氏に滅ぼされます。<br />
その後、内応先の「織田信長公」を頼り岐阜へ。<br />
側室になったと言われています。</p>
<p>子供は<br />
「織田信高」<br />
「織田信吉」<br />
「於振」<br />
の三人。</p>
<p>晩年は、豊臣秀吉の正室の「ねね」の方の、側近筆頭として仕えたとあります。<br />
これは、初耳でした。<br />
驚きました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>お鍋の方と信長公の七男信高のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>「織田信高」</p>
<p>は信長公の7男になります。</p>
<p>本能寺の変で「織田信長公」の死後は、美濃大垣城の「氏家行広」に養育されたとあります。<br />
1591年、近江の国に秀吉より知行を与えられています。</p>
<p>しかしながら、享年は27歳という説や、その後の事が確たる情報が、無くて確定しないようですね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>お鍋の方と信長公の八男信吉のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>信長公の八男になります。<br />
委細はわかりませんが、関ケ原の戦いでは西軍に属したようです。<br />
したがって、改易。<br />
京都にて43歳にて没したと、そういった資料があるようです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>お鍋の方と信長公の六女於振（おふり）のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>「於振（おふり）」<br />
の方は、信長公の七女になります。<br />
水野忠胤の正室として嫁ぎます。<br />
しかし、1609年に刀傷沙汰があり、水野藩1万石を改易して他界。</p>
<p>その後、「於振（おふり）」の方は、織田信包の家臣である佐治一成の嫁になったという事です。<br />
佐治一成氏という方は、驚くことに徳川秀忠公の正室の<br />
「江」<br />
の方が、先に嫁いだ方のようです。<br />
佐治氏は、知多半島の大野を中心とする西海岸地域を領する一族であり、そこを追われた際に、「江」とは離縁したといわれているようです。<br />
その後、織田信包氏の支配する、伊勢に身を寄せ家臣になったと。</p>
<p>そして、「於振（おふり）」の方と再婚。</p>
<p>人生ですな～～とは、戦乱の世ですから<br />
「是非もなし！」<br />
ですね。</p>

<p>&nbsp;</p>
<h3 class="style3a">慈徳院の方の子は三の丸殿！</h3>
<p>&nbsp;</p>
<p><img decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2700" src="https://www.subvertise.org/wp-content/uploads/2021/07/kiyosujyou12.jpg" alt="清洲城の写真" width="640" height="428" /></p>
<p>出自は、詳細は分かっていないが、「滝川一益」の親族と言われているようです。<br />
信長公一番のお気に入りの<br />
「吉乃」<br />
の方の、長男「信忠」の乳母を務めていて、信長公の側室になったと。</p>
<p>当時は、乳母が側室になるのは、普通にあり得ることだったといいます。<br />
しかし、逆の立場では、女性の感情としては、どうでしょうか？</p>
<p>さて？？</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>慈徳院の方と信長公の八女　三の丸殿のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>慈徳院の方の子の「三の丸殿」は信長公にすれば「八女」になります。<br />
豊臣秀吉の側室になります。<br />
伏見城の「三の丸」で過ごしたことから、そういわれたようです。</p>
<p>豊臣秀吉の、花見の席での女性の順位（序列）から見ると</p>
<p>正室→淀殿→松の丸→三の丸</p>
<p>で序列4位なんだそうな。<br />
そんなものもあるんですね‥驚きました。</p>
<p>秀吉の死後は、「二条昭実」の継室に入ります。<br />
が・・この「二条昭実」さんという方は、とんでもない方ですね。<br />
豊臣秀吉が、関白になる時の、関白職。<br />
つまりは、豊臣秀吉が「関白」になるために「二条昭実」が関白職を辞したわけです。</p>
<p>二条家は「五摂家」の一つで、関白職を窺う家柄。<br />
その後、秀吉死後の1615年に徳川政権下で、関白職に復帰しています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h3 class="style3a">土方氏の子は九男信貞！</h3>
<p>&nbsp;</p>
<p>信長公の側室で九男の<br />
「信貞」<br />
の母である。<br />
出自は、土方雄久の娘とも青山某の息女と記されている。</p>
<p>土方雄久は、越中布市藩主などを経たが、主に「織田信雄」に仕えたとあります。<br />
父の代からの織田家の家臣。<br />
が・・土方氏単独では、源頼親に始まる大和源氏（宇野氏）の流れを汲む家柄とあります。</p>
<p>残念ながら、最後はわからずじまいです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>土方氏と信長公の九男の信貞のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>「本能寺の変」<br />
の後、信貞は信雄の家臣で、埴原長久（加賀守）に養育されたとあります。<br />
秀吉より1000石の知行を近江に。<br />
関ケ原では西軍に、しかし戦後に改易。<br />
しかし、恩赦で家康公にお召し抱えに。<br />
最後は徳川家の家臣として没：享年51歳。</p>
<p>・・・・・・・・・・・<br />
同じく徳川家康公の、正室や側室や子供の人数や、その後の処遇などをまとめてみました。</p>
<p><a href="https://www.subvertise.org/ieyasukodomo/">徳川家康の子供の数は何人？母親(側室)の名前と明治維新まで続いた？</a></p>
<p>伊達政宗の正室や、側室やその後の子供の処遇などをまとめてみました。</p>
<p><a href="https://www.subvertise.org/datemasamunekodomo/">伊達政宗の正妻と側室と子供は何人？名前とその後の処遇はどうだ？</a></p>
<p>とても興味深かったですね～～地元なので。</p>
<p>・・・・・・・・・・・・</p>

<p>&nbsp;</p>
<h3 class="style3a">側室不明での子供はほかに四男七女！名前と処遇のまとめ！</h3>
<p>&nbsp;</p>
<p><img decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2701" src="https://www.subvertise.org/wp-content/uploads/2021/07/kiyosujyou13.jpg" alt="岐阜城の写真" width="640" height="430" /></p>
<p>他に、側室の誰かがわかっていない方が、四男七女いるようです。<br />
もしかしたら、側室の方がもっといたのか、それとも同じ側室の方の子だったのかもしれません。</p>
<p>いずれ、不明なので、不明のままにしておきました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>母不明の信長公の五男の勝長のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>信長公の五男「織田勝長」の母は、不明です。<br />
正確な名は<br />
「織田源三郎信房」<br />
と言います。<br />
幼少で、養子に出されます。<br />
その先は美濃 岩村城の遠山氏。</p>
<p>武田に支配されたために、武田信玄の人質として7年、甲斐で暮らす。<br />
その後、織田家に返還。</p>
<p>本能寺の変の時に「織田信忠」に同行していて、明智軍との交戦で討ち死にしたと記録されています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>母不明の信長公の六男の信秀のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>母は不明です。<br />
驚くことに、信長公の父の「信秀」と同じ名前。<br />
これっていいの？<br />
そうも思うのですが、もしかしたらよほど、期待していたのかもしれません。</p>
<p>本能寺の変では「仏照寺」に逃れていたことが記されています。<br />
秀吉に仕えて、近江の国栗田郡に所領をいただいていたようですね。</p>
<p>文禄の役で兵300率いて参陣とあります。<br />
没年不詳です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>母不明の信長公の十男の信好のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>母は不明です。<br />
他の兄弟同様に、近江の国に知行が与えられていたようで、秀吉に仕えていたようです。<br />
委細は不明です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>母不明の信長公の十一男の長次のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>母親は不明です。<br />
関ヶ原の戦で、兄の「信吉」とともに、西軍として参戦。<br />
あえなく戦死したとあります。</p>
<p>父親が偉大であることを考えると、なんとも悲しいものだと思います。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>母不明の信長公の三女の永姫（えいひめ）のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>母親は不明です。<br />
しかし、この「永姫（えいひめ）」は運がいいというか、出世でしたね。<br />
前田利家の嫡男の「利長」の正室に嫁ぎます。<br />
本能寺の変時には、利長は上洛途中でしたが、永姫（えいひめ）を旧前田領に（尾張内）避難させたとあります。</p>
<p>関ケ原の時点では、徳川家康公にさんざんコケにされてましたが、もともとはかなり優秀だったのかもしれません。<br />
晩年は出家して「玉泉院」と称して、金沢で過ごしたようですね。</p>
<p>子はなかったようです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>母不明の信長公の四女の報恩院のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>信長公の四女「報恩院」の嫁ぎ先は<br />
「丹羽長重」<br />
です。<br />
1580年に、縁組が成立。<br />
父は丹羽長秀です。<br />
関ケ原では西軍に加担したので、いったんは改易になります。<br />
その後、復活。<br />
江戸時代初期に、白河10万700石を賜り、大名として最後まで全うした。<br />
没年：1637年<br />
「報恩院」はその後、16年生き80歳で死去したとあります。<br />
天寿を全うしましたね。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>母不明の信長公の五女の秀子（ひでこ）のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>母不明。<br />
信長の六女になります。</p>
<p>秀子は「筒井定次」に嫁いでいます。<br />
筒井定次は、伊賀の国の筒井順慶に子がなかったことから、一族から養子に入り、筒井家を継承。<br />
1578年輿入れとあります。<br />
関ケ原では、徳川方について戦ったようです。<br />
その後、伊賀の国の所領を安堵されて、伊賀の守に任じられましたが、重心のチクリによって、改易。<br />
残念な結末でした。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>母不明の信長公の七女の源光院のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>母は不明です。</p>
<p>嫁ぎ先は万里小路充房の継室です。<br />
秀吉のあっせんによると言われています。</p>
<blockquote><p>万里小路 充房（までのこうじ あつふさ）は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての公卿。官位は従二位・権大納言。万里小路家13代当主。<br />
（wikipediaより引用）</p></blockquote>
<p>こういう方に嫁いだんですね。<br />
しかし、万里小路充房さんは、最後は詰め腹を切らされる形で、丹波国篠山に流罪になったようです。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>母不明の信長公の九女の鶴姫（つるひめ）のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>母不明。</p>
<p>中川秀政の正室です。<br />
う～～ん・・この中川秀政氏という方、まずい最後だったな～～<br />
播磨国三木13万石まで行ったのですが、文禄の役で「鷹狩」の最中に、敵の待ち伏せにあって、あえなく戦死。<br />
25歳。<br />
これはお取りつぶしの沙汰もやむなしですが、恩情によりお家は継続。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>母不明の信長公の十女の月明院（げつみょういん）のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>母不明、信長公の十一女です。<br />
嫁ぎ先は公家の<br />
「徳大寺実久」<br />
の正室です。</p>
<blockquote><p>徳大寺公維の外孫に当たるため、公維の養子に入って徳大寺家の名跡を継いだ。天正14年（1586年）従五位上に叙爵。<br />
（wikipediaより引用）</p></blockquote>
<p>こういう方です。<br />
が・・この方は早世でした・・34歳。<br />
最終の資格は「権中納言」です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>母不明の信長公の十一女の慈眼院（じげんいん）のその後！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>母は不明です。<br />
1580年に、織田と北条の友好のしるしとして、北条氏直との縁組が成立したのですが「本能寺の変」で振り出しに。<br />
なかなか謎のある方です。</p>
<p>その後の人生は全く、履歴がないんだな～<br />
しかし、没年は1641年とあります。<br />
しかも<br />
法名は慈眼院華渓宗春大姉。墓所は神奈川県小田原市足柄下郡の香林寺とあるのですが、現在の香林寺には、墓も位牌もないそうな・・？？？</p>

<p>&nbsp;</p>
<h3 class="style3a">織田信長公の正室と側室と子供の名前のまとめ！</h3>
<p>&nbsp;</p>
<p><img decoding="async" class="alignnone size-full wp-image-2702" src="https://www.subvertise.org/wp-content/uploads/2021/07/adutijyouisidan.jpg" alt="安土城の石段後" width="480" height="640" /></p>
<p>以下のように名前と子供を関連付けて表にしてみました。<br />
子供を優先です。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>織田信長公の正室と側室の一覧！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>以下のようです。</p>
<p>正室：濃姫（帰蝶）：美濃　斎藤道三の娘</p>
<p>側室</p>
<ul>
<li>1：生駒吉乃（いこま きつの）：生駒家宗の娘<br />
2：坂氏（さかし）：出自不詳：伊勢の豪族の娘<br />
3：養観院：出自不詳<br />
4：お鍋の方：高畑源十郎の娘<br />
5：慈徳院：出自不詳：滝川一益の親族かも・<br />
6：土方氏：土方雄久の娘（諸説あり）</li>
</ul>
<p>側室の一覧は上の通りです。<br />
以外にも、歴史的にわかっていない方もいるかもしれません。<br />
母がわからない子が、以下に示すくらい存在するのですから。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h4>織田信長公の正室と側室の子供のその後の処遇の一覧！</h4>
<p>&nbsp;</p>
<p>以下のようにまとめてみました。</p>
<p>男子</p>
<ul>
<li>長男：信忠：吉乃：本能寺で戦死<br />
次男：信雄：吉乃：5万石で存続<br />
三男：信孝：坂氏：賤ヶ岳の戦いで早世<br />
四男：秀勝：養観院：亀山城で病死<br />
五男：勝長：不明：本能寺で戦死<br />
六男：信秀：不明：文禄の役の記載あるも没年不詳<br />
七男：信高：お鍋の方：享年27歳<br />
八男：信吉：お鍋の方：関ケ原で西軍その後49歳で没<br />
九男：信貞：土方氏：徳川家の家臣として没：享年51歳。<br />
十男：信好：不明：委細不明<br />
十一男：長次：不明：関ケ原で西軍での戦死</li>
</ul>
<p>女子</p>
<ul>
<li>長女：徳姫：吉乃：松平信康<br />
次女：相応院：養観院：蒲生氏郷<br />
三女：永姫：不明：前田利長<br />
四女：報恩院：不明：丹羽長重<br />
五女：秀子：不明：万里小路充房<br />
六女：於振：お鍋の方：水野忠胤<br />
七女：源光院：不明：万里小路充房<br />
八女：三の丸殿：慈徳院：秀吉の側室から二条昭実の継室<br />
九女：鶴姫：不明：中川秀政<br />
十女：月明院：不明：徳大寺実久<br />
十一女：慈眼院：不明：北条氏なと婚約も解消後は不明</li>
</ul>
<p>上の一覧で、左から</p>
<p>順番→子の名前：側室（母）→その後（嫁ぎ先や処遇）</p>
<p>です。<br />
*調べていて、なかなかわからない部分が多かったです。<br />
不明な個所もあると思いますが、ほぼこんなところという事で。<br />
自分で調べて書いていて、緒度信長という方は、とてもバイタリティーがあって、とても惜しい人だったな～～と思います。</p>
<p>天下布武は目前で無念・・是非もなし！</p>
<p>＊この時代背景を整理して理解したい方には、<br />
図解でまとめられた書籍も参考になります。</p>
<p><a href="https://hb.afl.rakuten.co.jp/ichiba/0976fab7.b4c03314.0976fab8.38597618/?pc=https%3A%2F%2Fitem.rakuten.co.jp%2Fbook%2F18269443%2F&#038;link_type=text&#038;ut=eyJwYWdlIjoiaXRlbSIsInR5cGUiOiJ0ZXh0Iiwic2l6ZSI6IjI0MHgyNDAiLCJuYW0iOjEsIm5hbXAiOiJyaWdodCIsImNvbSI6MSwiY29tcCI6ImRvd24iLCJwcmljZSI6MSwiYm9yIjoxLCJjb2wiOjEsImJidG4iOjEsInByb2QiOjAsImFtcCI6ZmFsc2V9" target="_blank" rel="nofollow sponsored noopener" style="word-wrap:break-word;">『地図でスッと頭に入る 豊臣一族の戦国時代』（楽天） （書籍） [ 小和田 哲男 ]</a></p>
<p>・・・・・・・・・・・・・<br />
戦国時代の石高ランキングです。<br />
関ケ原以前と後で分けてランキングにしてみました。</p>
<p><a href="https://www.subvertise.org/sengokukokudaka/">戦国時代の石高ランキング上位ベスト10は？石高に見る兵動員数！</a></p>
<p>徳川家康公の石高の増え方の推移です。</p>
<p><a href="https://www.subvertise.org/tokugawakokudaka/">徳川家康の石高の推移と増え方を歴史の年表で！幕府開始時は幾ら？</a></p>
<p>半端ない増え方です。<br />
さすが天下人ですね～～真の将軍かと。</p>
<p>*歴史的に明白なこともあれば。不確定なことも多くありました。<br />
諸説ある事案も。<br />
参考程度に見ていただけると、よろしいかと。<br />
ヘッダーの写真は、私が撮影した地元宮城県の英雄「伊達政宗」公の、仙台城址公園の銅像です。</p>
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